太古の人間

ウミユーリン

自発的協力か逮捕か

 「ご同行願います。ダイアー教授。」

「合衆国政府からの要請です。」

 1937年11月の寒い夜、ほの暗い電球に照らされた寝室で、非常に整ったスーツを着た二人の男たちは、つい先ほどまで熟睡していた老学者に向けてそう言い放った。

この老学者ウィリアム・ダイアーは一瞬自問した。彼の今までの生涯において、彼は政府職員に無礼な訪問を受けるに値するような悪事をしただろうか。以前に生物学科の今は故人となった友人とともに、研究と称して飲料用のアルコールを作り、それを楽しんだことはあるが、修正18条は数年前に廃止されているし、密造酒で私服を肥やすような犯罪者集団とも関係を持ったわけではない。それらの思考に中断せんとするかのように、スーツの男たちの片方が口を開いた。

「既に、旅支度はこちらで済ませてあります。我々の指示に従ってください。」

「待ってくれ、一体君たちは何者なんだ。」

 訪問者たちは互いに目配せしてから、一人が答えた。

「我々は合衆国陸軍の情報部門のものです。それ以上はお答えできません。速く着替ることをお勧めします。寝間着姿での旅路というのは、あなたにはきついでしょうから。」

「こんな時間に屈強な男たちが我が家に侵入し、住人をたたき起こして、ついて来いという。紳士のなすべきことではない。認められんね。今すぐ我が家から立ち去りたまえ。」

「これは失敬。」

 そう言うと、スーツの男たちの内、上司とおぼしき年配の方が自身のスーツの内側に手を伸ばした。ダイアーは一瞬、銃を出すつもりではないかと身構えたが、取り出されたものが書類であるとわかると、それは杞憂に終わった。

「これをどうぞ、合衆国大統領から、あなたの政府に対する協力を要請する書類です。」

 ダイアーは手渡された書類を一読した。政府からの使者は続けた。

「それは自発的協力を求めるものですが、拒絶なさった場合は、あなたを逮捕するに値する証拠がアーカムの市警察に送られることになるでしょう。」

 選択肢は無かった。石をいじるしかできない一市民と法で認められた権力を持つ公僕とでは、勝ち目は初めから決まっていた。まあいいだろう。裁判抜きで処刑されるとか、投獄されるとかではなく、仕事を手伝えというのだから、悪いようには扱われないだろう。あの南極探検以上の難事が人類社会にあるとも思えない。ウィリアム・ダイアーが束の間、公権力に抗ってみせたのは、単純に二人の侵入者の無礼への怒りのためであった。彼は覚悟を決めて口を開いた。

「着替える時間をくれ、それとパイプ煙草も持っていく。」


 着替え終えると、彼は目隠しをされて、玄関前で待っていた車の後部座席に、スーツの二人組に左右を挟まれた順で乗り込まされた。硬いソファの上で揺られながらダイアーは自問した。一体、いつ、どこで、道を踏み間違えたのだろうか。彼の専門分野たる地質学で大きな足跡を残したい、それ以外の望みはなかった。1931年の南極探検、あれに参加して死んだ者、精神に異常をきたしたもの、不幸にも起こさされたもの、そして彼自身、みんな人生を狂わされてしまった。彼の話を小説にしてくれた英国風紳士もこの世を去ってしまった。漠然とした不安を感じざるをえない。自身のいる世界がどこか異常であるという不安だ。この仕事を終えたら、歩む方向をもとに戻さなければならない、理性と正常さの世界へ。それができるかどうかは彼を含めた誰にも分らなかった。


 

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