第六話
秋の風は爽やかに、三成の頬を撫でる。今年の秋は気持ちがいいと、三成はぼうっと考えていた。背中で縛られた腕の痛みを、針でつつかれ続けているかのような胸の痛みを、どこか遠い何処で感じながら。
「無様だな、三成よ」
何者かが、座る三成の頭上で言った。鼓膜に触れるだけでも三成にとっては忌々しく感じる、その男は名を、
「内府殿の考えも分からぬ阿呆が……滑稽だな」
三成と正則、二人は同じ秀吉の子飼いの一人であった。当時から二人の仲は良くなく、目が合うだけで言い争いを始める、そんな仲だった。
「秀吉様の義を足蹴にした屑に言われたくない」
「ふんっ、馬鹿馬鹿しい。何が義だ。……吉継もこんな阿呆につくなんて、顔面だけでなく頭の中まで腐っていたか」
正則のその言葉に、三成の中で何かが弾けた。それは無意識に蓋をされていた、灼熱より熱い憤怒の炎。
三成は顔を上げ、高い場所にある正則の目を見据える。磨かれた槍のような視線に、正則の背筋が凍る。
「おれの武運が拙かったのは認めよう。だが、紀之助を愚弄することは許さん。この身が消えたとしても、貴様のことは絶対に忘れん。……覚悟していろ」
決して、三成は叫んでいるわけではない。だが正則は、顔を青くさせるだけで、何も言い返せなかった。
だが三成の中の灼熱はもう、止め処なく溢れ出ていた。己が今まで信じた義を、命を賭けてくれた友を馬鹿にされて黙っているほど、三成は愚かではない。
正則とのやりとりにより、辺りはしん、と静かになっていた。だが、周りが止める声を押しのけ、三成の目の前にその姿を表した男がいた。
「三成……殿……」
男の姿を見た瞬間、三成の怒りは頂点に達した。まだ二十にも満たない青年の表情はまだ幼く、滑稽なまでに青ざめている。この頭を下げた青年こそが、東軍に勝利をもたらした
「も、申し訳ありません! 裏切る気持ちなど、欠片も御座いませんでした。ですが、家康殿から鉄砲で脅され――」
「…………い」
秀秋の言葉を打ち消したのは、至極小さな声だった。だがその声には、言い得ない怒気が含まれている。
「……もういい、貴様の戯言など聞きたくはない」
「信じて下さい三成殿!! 私は、本当に――」
「黙れ!!」
浴びせられた怒号に、秀秋は思わず顔を上げる。三成の恨みの眼に、秀秋の呼吸が止まる。
「愚かなことに、おれは貴様の醜悪な考えに気がつかなかった。だが、約束を違え、義を捨て、人を欺き裏切ったお前は武士の恥だ。思う存分末代まで語り継ぎ、そして存分に笑うがいい!!」
「そっ、そんな――」
「だがな金吾、貴様はこのまま生かしてはおかない。死んだおれは怨霊となり、貴様の魂をその身体から引きちぎり、地獄の業火で炙ってやる。友の命を奪った貴様を、この世が消えるまで一瞬たりとも忘れるものか!!」
秀秋は目に涙を溜め、何も言わずにそこから逃げ出した。この瞬間、秀秋の運命が大きく歪んだのを、誰も知る由も無かった。
そして、ついにその日が来た。運命という道の最果ては、案外寒風が吹き荒れる閑散とした場所なのかもしれない。
三成は小西行長、安国寺恵瓊と共に京都の六条河原にいた。他の二人は、迫り来る死の影に震えているのに対し、三成は悠然としていた。彼は決して、敗北に屈することはしない。
三成は眼光鋭く、辺りを見渡した。あまりの覇気に、竦む者さえ居るほどだ。
「本当に阿呆だなあいつは。今から死ぬと言うのに」
誰かが微かに呟く。それは確かに三成の鼓膜を震わせた。だが彼は、もう憤り噛み付くことはしなかった。
「では、そろそろ……」
暫くして、糊の効いた法衣を身にまとう老齢な僧侶が現れた。嗄れた耳障りな声で、読経をはじめようとした。
だが三成が、それを止めた。訝しむ僧侶に、三成の眼力が降り注ぐ。
「おれは法華宗だ。念仏などいらん」
辺りがざわめく。それを無視して、さらに三成は続ける。
「それに、おれは確かに戦には負けた。だが、決して天下に恥じるものではないはずだ。だから、あの世での成仏を願う経など、必要ない」
彼は、どこまでも抗い続けたのだ。己を見下し続ける氷の瞳に。身体を押し潰さんとする、海よりも深い思念に。
「……最後に、何か言いたいことはあるか?」
最後――その言葉が、河のせせらぎに溶けて消えた。暫くの沈黙の後、三成は静かに漆黒の瞳で見据えた。その先にいるのは、数々の策を用いて、西軍に敗北の沼に沈めた張本人である男。
後に二百年余の世に君臨せし、最初の統治者。内大臣、
「おれはまだ、諦めてなんかいない」
「…………」
家康は何も言わない。その表情には、様々な色が入り混じっていて、彼が何を考えているか分からない。
「おれは必ず紀之助や左近と共に、すぐに転生してやる。……そして、今度こそお前の首を頂く。必ずだ!!」
三成の味方は、いない。無情にも三成の身体に、激しい痛みが走る。だが、それも一瞬だった。
倒れる身体は、もう立ち上がらない。熱が冷める指先は、もう二度と采配を握ることはない。その瞼が再び上がることは、もう無い。
三成の意識が、白い世界に溶けて行く。何もない世界、だがそこにはあった。
無に支配された、安息の世界が。手を伸ばして、精一杯伸ばした指先に、漸く触れられたものが。
――左吉よ、地獄で会おう。
泣きそうになるくらい懐かしい声が、聞こえた気がした。病で崩れかけた顔の、満面の笑みが見えた気がした。
一六〇〇年 十月一日。
後の世に、“天下分け目の決戦”と呼ばれるようになる関ヶ原の合戦は、徳川家康率いる東軍の勝利という形で、幕を閉じた。
この戦いと共に、戦国と呼ばれる時代が、終止符をうった。そんな凄絶な時代の終わりと共に、二人の武士が戦場に散った。
西軍の大将石田三成。享年四十一歳。そして三成の友、大谷吉継。享年四十二歳。
友のために己の命をかけ、病に軋む身体を引きずり戦場で采配をふるった吉継。そして、友や亡き主君の思いを受け継ぎ、最後まで敵に牙を向けた三成。二人の姿は、私利私欲に染まった戦国という時代には、あまりにも貴く、そして眩かった。
彼らが掲げたものは、綺麗事かもしれない。現実という場所には、無力なものなのかもしれない。
だが、彼らは守ったのだ。大一大万大吉という言葉を、“義”の心を。
もし彼らが率いる西軍が勝っていたら、その後の世は一体どうなっていたのか。
その答えは、果たして――
義武士 風嵐むげん @m_kazarashi
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