第五話

 同じ小姓の一人が、生意気な左吉に激怒したのだ。きっかけは、とるに足らない些細なことだった気がする。しかし、それで十分だった。


 一人が動けば、小姓全員の行動となる。左吉は巧みに罠に誘い込まれ、そして襲われた。


 小姓達が棒きれを持って叩き合っている。一見すれば、互いに切磋琢磨しているようにしか見えない。しかしこれは、そんな生易しいものではなかった。


 左吉は身体中に切り傷を作り、口端に青痣を拵えた。それでも小姓達は許そうとはせずに、尚も棒きれで左吉の身体を打った。


 口の中に満ちる、鉄錆の臭い。左吉は学問では優れていたのだが、武道はからきしであった。加えて左吉の味方は、誰もいない。


 こんな場所で、おれは死ぬのか。左吉が諦めかけた、正にその時だった。高く振り上げられた棒きれは、何時までたっても左吉を叩くことをしない。何か、おかしい。左吉は亀のようにうずくまった姿勢から、恐る恐る顔を上げた。霞む視界に入ったのは、誰かが左吉に振り下ろされる筈だった棒きれを、なんと素手で、しかも片手で掴んでいる姿であった。



 ――たった一人を大勢で殴るとは。お前達、男として恥ずかしいと思わんのか!?


 明らかな怒気を孕んだ、凛々しい声。それは、左吉が知らない少年であった。肌の色は白く、風に靡く髪は艶やかな黒髪。顔はよく見えないが、背は高く左吉よりも年上のようだ。そして、小姓達の誰もが、彼を知らなかった。


 ――なっ、誰だお前!?


 ――構わんっ、やっちまえ!!


 それからは、一瞬であった。小姓達は狙いを左吉から少年に変え、次々と棒きれを構え、振り上げた。少年は掴んだ棒きれをそのまま奪い取り、静かに中段に構えた。


 左吉が唖然と見守る中、見知った小姓達はあっと言う間に地面に倒れ込む事となった。ある者は腹を押さえてうずくまり、またある者は足を押さえて悶えている。突然現れて、しかも己達をいとも簡単に退けた少年に、小姓達は恐怖の悲鳴を上げて逃げるしかなかった。


 ――大丈夫か? 成る程、お前が左吉だな。


 少年は棒きれを捨て、楽しそうに笑いながら左吉の目の前まで歩み寄り、そしてしゃがみこんだ。そこまでされれば、左吉でさえ少年の顔を見ることが出来た。


 涼しげな目元に影をつくる長い睫毛。黒漆の瞳は左吉の無様な顔を水面のように映し出していて、何だか恥ずかしくなって目を逸らした。それでも、染みも黒子も見当たらない顔は、男の左吉でも思わず見惚れてしまいそうな程に美しい。


 ――わしは紀之助。大谷村の紀之助じゃ。お前に頼みがあって来た。宜しくな、左吉。


 馴れ馴れしい。それが彼の最初の印象。だが、不思議と嫌な感じはせず、寧ろ気持ちが良い。しかし元来の性格から、左吉は紀之助の顔ではなく、地面に転がっている石を見つめていた。


 おれに出来ることなんて、何もない。ただちょっと頭が良いだけで、知らない少年に助けられた恩を返すことなんて出来ない。そう卑屈に思っていれば、紀之助は左吉の前で手をついた。


 唐突のことで、左吉には理解出来なかった。それを知ってか知らずか、紀之助はその綺麗な額を地面にこすりつけて、こう叫んだ。


 この紀之助を秀吉様に仕えさせてくれ、と。


 三成の口元が、笑みで綻ぶ。


「あいつは、変なやつだったな……」


 まるで風のように現れて、三成を救ってくれた美しい少年紀之助。それが、今の大谷吉継であった。吉継は初対面にも関わらず殴られる三成を助け、三成に己を秀吉に推薦してくれるように頼み込んだのだ。その瞬間から、二人の絆が繋がった。


 親しい人間がいなかった三成の友となり、兄にもなってくれた。それが、三成には言葉では表せないほど嬉しくて。そして、才に溢れた彼を蝕む病が悔しくて。しかし彼を労る言葉など持っていなかったから、吉継と“普通”に接することしか出来なかった。あの茶会の席で、彼を庇う言葉が見つからず、膿が垂れたとかいう茶を飲み干すことしか思いつかなかった。



 どれだけ病が重くなろうとも、醜く吉継の顔が崩れても、三成は全く気にしなかった。それが、彼に出来る恩返し。この戦いが終わったら、どうやって礼をしようかとずっと考えていた。



 だが、今はもう何処にも居ない。今までの感謝の気持ちを、伝えることなど二度と出来ない。



 ――左吉よ。


 何時の間にか、吉継は三成が最後に見た仮面姿で、三成の目の前にいた。だがその姿はおぼろげで、三成が手を伸ばしても彼には届かなかった。


 ――お前は、お前の信じる道を行け。わしは、お前を信じておるから。



「紀之助!!」


 三成は手をいっぱいに伸ばし、友を呼んだ。だが、そこに吉継の姿は無い。代わりにあるのは、闇だ。


「おれの……信じる道……」


 一つ一つの言葉を噛み締めるかのように、三成が言った。己の信じる道、三成のやるべきこと。


 そんなことは、初めから決まっている。秀吉の思いを受け継ぎ、己を信じて散ってくれた友の命を背負い、再び立ち上がるのだ。


「行かなければ……こんな場所で、負けるわけにはいかない……」


 三成は足に力を入れ、再び立ち上がった。痛みを訴える身体に叱咤し、再び歩み始める。


 この先に村があった筈だ。そこで暫く匿って貰い、再び時を待ち、必ず家康を討つ。その思いが、今の三成の糧になっていた。


「見ていろ左近、紀之助……必ずおれが」


 ――秀吉様。この左吉が、必ず貴方が望んだ泰平の世を――


「――おれが、何なのですか?」


 それは空耳でも、夢でも無かった。三成の隠れていた洞窟の前には、爽やかな風と眩しい朝日が待っていた。いつの間にか、一晩をこの湿った洞窟で過ごしてしまったらしい。


 そして、まず始めに三成を迎えたのは、彼を待つ死だった。刀を構えた十人ほどの兵達は、皆東軍の者だ。


「石田三成、家康様がお待ちです。我々に同行していただきましょう」


 朝日を跳ね返す刀が、三成の身体を裂かんと睨む。刀も、具足も無い三成には、抵抗の余地は無かった。背中を蹴られ、誰かが己の背後に回り、両手を縄で戒めるのを、三成はどこか遠いものでも見ているかのように、ぼうっと見つめていた。


 ――だが、三成の中では未だに消えてはいなかった。禍々しく燃える闘志の炎は――

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