第四話

 三成は走っていた。武具はとうに脱ぎ捨てて、薄汚れた布を身体に巻き付けただけのような、みすぼらしい姿で山中の土を蹴り走る。


「はっ、はぁ……くそ……」


 疲労した足を、草は悪戯に捕まえる。崩れ落ちそうになる身体をなんとか持ち直し、再び走り出す。行き先は、無い。己を待つ部下も友も、もういない。



 ――お伝えします! 刑部様自刃! 大谷軍、全滅です!!



「嘘だ……」


 三成の目に、もう何度も繰り返された光景が再び映し出される。まだ若い伝令の青年が、馬から落ちるように己の目の前に駆け寄り、泣き声のような震える声でそう叫んだのだ。彼は敗走ではなく、“全滅”と言ったのだ。


「嘘だ……何故……」


 ついに三成の足が止まる。傍の木に片手をつき、荒い呼吸を鎮めることに徹する。どうして、こんなことになった。何故、三成の周りから皆が居なくなった。


 勝てる戦だった筈だ。西軍には有能な三成の側近である嶋左近や小西行長、そして吉継など信頼出来る者が三成の傍にいた筈なのだ。


 だが負けた。数々の裏切りにより西軍は壊滅し、三成は今伊吹山の山麓にいた。そう、三成はただ走っていたのではない。逃げているのだ。


「許さんぞ……金吾……内府……」


 三成は拳を木の幹に叩き付け、崩れ落ちそうな己を鼓舞する。だがどうしても、身体は既に限界を訴えていた。


「どこか……休める場所は……」


 再び歩き出した足取りは重い。だがしかし、確実に敵との距離を稼いで行く。己に牙をむいた三成を、家康が放っておくわけがない。


 暫くして、ふらつく三成が見つけたのは、洞窟だった。自然の産物なのであろうそこは、人の手が加わった形跡は無く、足元には大きな岩が転がっている。三成はそこへ身を隠すことにした。洞窟にひしめく闇は、静かに三成を迎えた。


「はぁ……」


 三成の呼吸の音が、吸い込まれるかのように闇に消える。洞窟は深く、奥には何もない空間が広がっていた。壁に背を預け、ずるずると座り込む三成の傍には、誰も居ない。


 三成は、独りになっていた。


「皆……本当に死んだ、のか?」


 答えは、無い。三成は瞼を閉じ、長く息を吐く。目の前に広がる闇に、久しぶりの安堵を覚えた。


 ――殿、あの狸に目にもの見せてやりましょう。


「左近……?」


 呼び掛けても、返事は無い。嶋左近勝猛は、三成の側近を務める男であり、有能な補佐役であった。それは周りから三成には過ぎたる代物として揶揄される程であったが、左近は常に三成の傍らにいて、その才を存分に奮っていた。


 関ヶ原において、左近は一軍を率いて西軍の第一線にいた。彼の安否は不明だが、恐らく三成の考えで間違いないだろう。


「大一、大万……大吉」


 三成の声が、そう紡ぐ。今まで掲げてきた信念を口にした刹那、酷く懐かしい声が彼の鼓膜を震わせた。


 ――のう、左吉ぃ! 大一大万大吉って知っとるかぁ?


「秀吉、様……」


 訛りの強い、嗄れ声。秀吉は最後のその時まで、三成のことを幼少時代の名で彼を呼び、可愛がった。そして、まるで童子の落書きのような字――秀吉は農民の生まれだった故、読み書きが下手だった――で三成に教えた。大一大万大吉という言葉を。


 一人は皆のため、皆は一人のため。殺伐としたこの戦国の世に、泰平を願う秀吉の思いに、三成は涙を流すほどに感動した。だから、三成は秀吉の思いを受け継いだ。大一大万大吉を、その広くはない背中に背負った。


「おれは……間違ってなど……」


 己は間違いなど犯していない。家康に刃を向けたのは、過ちではない筈だ。それなのに、どうして負けたのか。正義が負けることなど、あるのだろうか。三成の思考は、徐々に泥沼へとはまって行く。



 意識は微睡み、三成は自然と眠りについた。そして、もう二度と会えない筈の友と、酷く懐かしい姿で再会した。それはまだ、彼が病を患っていなかったあの小姓時代。


 ある日、三成がまだ左吉と呼ばれていた頃。左吉は頭は良かったが、今と変わらない性格であった為に、自然と周りから煙たがれる存在であった。特に、同じ小姓の面々からは、事ある毎にその都度言い争いになっていた。


 しかし、左吉はただ己を拾って育ててくれた秀吉の為に日々を邁進していた。そんな日々の中で、ついにそれは起こった。


 ――秀吉に気に入られているからって、調子に乗るな。

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