第三話

 ――九月 関ヶ原。



 木々に繁る葉は色鮮やかに染まり、そして地面を彩る秋。しかし此処、関ヶ原の地には四季の美しさなど何処にも見当たらない。


 地面を彩るのはどす黒い紅、飾り立てるのは冷たい屍。折れた刀は何を表すのか、砕けた具足は何を意味するのか、それは童子にも理解出来る程に単純にして明快。



「小早川、東軍に寝返り!!」


 伝令の声が、兵の動揺を買った。己を見失ったかのように、慌てふためく彼らを制したのは、仮面越しに発せられた怒号だった。


「静まれえぇ!!」


 ぴたりと、一瞬にして辺りに静寂が広がる。兵達は声の主を、我らの主君に注目する。彼は紅の面具で顔面を覆い、采配を振り上げ、光り無き瞳で、だがしかし確かに揺れる兵達を見据えていた。


「戦場では平静を欠いた者が死ぬ。絶対に隊列を崩すでないぞ!」


 吉継は輿に乗り、采配を高々と振りかざす。視力を失い、馬に跨る力すらもはや持たずに、それでも最前線で指揮を奮う彼の雄々しい姿に兵達は奮起した。己を取り戻した兵の志気を朽ちた肌で感じ取り、吉継は安堵する。


 同時に怒り、そして焦りを覚えた。小早川軍の裏切りにより、吉継が布いた策に亀裂が入ったのだ。関ヶ原の地形を利用した、石田三成率いる西軍のたった一つにして最大の必勝策。まるで鶴がその両翼を広げたかのように、敵を誘い込み包囲出来るように布かれた陣。“鶴翼の陣”だ。


 西軍では、三成が七千の兵を従えて笹尾山に本営を構えている。続いて天満山には小西行長の六千と宇喜多秀家の兵一万七千。宇喜多軍の南側にあたる中山道には吉継、戸田重政、平塚為広の千五百、。松岡山麓には脇坂安治の九百九十、朽木元綱の六百、小川祐忠の二千百、赤座直保の六百。


 そして、小早川の大軍は、吉継の軍に程近い松尾山に布陣していた。一万六千の兵が寝返ったのは痛いが、まだ負けを認めるわけにはいかない。吉継は己の兵と共に、自身の闘志も奮い立たせる。


 二カ月前、徳川家康に反旗を翻した。最善の判断では決してない。だが、吉継は決めたのだ。三成にこの関ヶ原の地で、恩を返すことを。


 思い出したのだ。己が武士であることを、三成がたった一杯の茶で己を救ってくれたことを。



 ――お前、本当におれに力を貸してくれるのか?



 二ヶ月前、吉継は三成に言った。己の命をくれてやる、と。


 ――この病、千の血を浴びると治癒すると言うからのう。


 ――……阿呆だな、お前も。そんな戯言、微塵も信じてなどいないくせに。



「わしは、良き友を持てて幸せだな」


 ふっ、と仮面の下で吉継は小さく笑う。本当なら己も武士らしく、馬に跨り刀を振り回したいのだが、どうしてもそれは無理だった。しかし、戦場にいられるだけでも、吉継は何度三成に感謝したか分からない。戦場こそが、武士の居場所なのだから。身体は病に侵されたが、魂は誰にも汚された覚えはない。


 必ず三成に勝利をくれてやろう、吉継はそう思っていた。



「小早川の方は鉄砲で応戦せよ。忘れるな、自分たちの旗の字を。“大一大万大吉”の心を」


 西軍が掲げる旗印。一人は皆のため、皆は一人のため。三成が秀吉から受け継いだ、泰平の世への思い。己を育ててくれた亡き主に捧げる決意の証、それが“大一大万大吉”だ。


「殿! 小早川軍の第三陣を打ち破りました!!」


 吉継の軍に歓喜の波が寄る。敗北の文字がちらつく暗黒の中に、僅かな光が輝く。


「絶対に引くな!! このまま憎き裏切り者の首を斬るのだ!!」


 兵の志気が、今や最高潮まで奮起した。焦り動揺を見せるのは、今では小早川軍の方だった。裏切りの兵達の屍が関ヶ原を、天下分け目の決戦を盛大に飾り立てて行く。その景色は、不思議と吉継にも見えていた。



 だが、此処までだった。



「脇坂、朽木、赤座、小川。東軍に寝返り!!」

「なっ……」

「藤堂、織田、京極の三軍も我らに攻撃してきました!!」


 濃厚な鉄錆の臭いと共に、再び伝令の声が吉継の耳に届く。悔しくも、小早川軍の裏切りにより、更なる裏切りを西軍を襲った。もはや力の差は歴然。



 ――勝利という微かな灯火は、敗北という名の冷たい暗黒にかき消されたのだ――



「此処まで……か……」



 吉継は、その手に握る采配を、静かに下ろした。それを見た大谷軍は、それでも一人もその場から逃げ出すことはなかった。吉継はそれほどまでに、兵達に慕われていたのだ。


 彼らは己のやれることだけをやっているのだ。吉継も、やらなければならない。まだ諦めたくはない。しかし、このまま戦い続けるわけにもいかない。本当に、苦渋の決断である。


 しかし敵に渡すわけにはいかない。己の、首を――


「すまぬ……三成……」


 吉継は従者を伴い、山奥へと隠れた。戦場の喧騒から遠いこの場所を、吉継はやけに静かだと感じた。秋の冷たい風が、木々の葉を不気味にざわつかせる。


「五助」

「はっ!」


 吉継は自らの足で輿から降り、従者の一人を呼んだ。彼に呼ばれた湯浅五助、他に諸角余市、土屋守四郎、五助の従者である三浦喜太夫ら四人が、黙って吉継の姿を見守っている。


「介錯を頼む。その後、すぐにこの首を何処かに隠せ。今まで本当によくやってくれた。後はお主らの好きにせい」

「それは……出来ませぬ、殿」


 五助はぼろぼろと涙を流し、震える声で言った。吉継は見えない目を五助に向け、あえて悠然として見せる。


「泣くな。五助よ、わしはもう充分に生きた。このような人離れした姿で、戦場で死ねることを喜んでおる」

「っく……です、が……」

「わしの最後の願い、聞いてくれんかの? この崩れた顔、晒されるのはちとつらいのだ」


 五助は拳で涙を拭い、力強く頷いてみせた。他の三人も、目尻に涙をいっぱいに溜めている。見えなくても、感じることは吉継にも出来る。


「……ありがとう。そして、さらばじゃ」


 吉継は空気を肺一杯に吸い込むと脇差しを握り締め、それを己の腹に突き立てた。一文字に腹を切り、勢いのままに縦を裂く。一瞬の痛み。そして、無に溶け行く感覚に静かに身を委ねる。



 ――左吉よ、地獄で会おう。



 五助は流れ落ちる涙をそのままに、煌めく刀を振り上げた。

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