第二話
夜、吉継は寝床で胡座をかき、一人思いに耽っていた。冷ややかな風が心地良く、昼の熱は何処にもない。寝間着の袖から覗く朽ちた肌を、そして彼自身の陰鬱な気持ちも、部屋に注ぐ青白い月明かりが静かに照らす。
「大一、大万……大吉か……」
呟きは、線香の白煙と共に夜風に流れゆく。家康につくべきなのは、疑う余地もない。それが証拠に、既に各地で動きが見える。
対して三成はどうだ。家康のことばかり気にしていて、周りが全く見えていない。彼自身は切れ者なのだが、横柄な性格からか人を束ねる才に関してはからきしだ。これでは、今の時点で勝敗は決まっているも同然。
しかし、三成の志はどこまでも己に真っ直ぐだ。だから、迷うのだ。今、三成につけば己は死ぬ。しかし、家康について三成を見殺しにすることなど、吉継には身を引き裂かれるより耐え難い。
「……どうしたものか」
吉継は、布越しに朽ちた頬を掻く。その時ふと、とある記憶が脳内に蘇った。それはまだ、吉継が素顔を晒し、光もまだ易々と見えていた頃。秀吉が、まだ天下統一を成し遂げていなかった時だ。
もっとも、その頃には既に吉継は今の病を患っていた。顔中にきつく布を巻き、可能な限り人との関わりを絶っていた時期が彼にはあった。己の崩れ行く病に周りの人間は恐れていたが、一番恐れていたのは吉継自身だったのである。
だが吉継には、とある茶の席に嫌々ながらに参上したことがあった。それは秀吉が直々に開いたものであり、ぞんざいに扱うことが出来なかったのだ。
姿を晒した時の、秀吉の哀れむような視線は今でも忘れられない。誰がその場にいたのかはよく覚えていないが、避けられたり嘲笑っていたのは確かに記憶に刻まれている。
そう言えば、三成もいた。相変わらずの仏頂面だったのを吉継は、未だに鮮明に思い出せた。
この茶会は一つの茶碗に茶を煎れ、それを一人一人に回し飲みするものだった。その時は最初に秀吉が口を付け、そして近くの者から茶碗が回されたのだ。
勿論、例外なく吉継のもとにも茶碗は回って来た。吉継も礼儀を守り、茶碗に口を付け、隣りの者に回そうとした、まさにその時だった。
――今、茶碗に膿が垂れたのではないか?
何者かが小声で、だが確かにそう囁いた。何者が誰かは分からない。しかしその一言が、場の雰囲気を一変させた。
皆の視線が、吉継に冷たく刺さる。彼の後の者が、口を付けるふりをして茶を飲んでいないのも明らかだ。
吉継は思わず湧き上がる怒りを叫ぼうともしたが、出来なかった。得体の知れない奇妙な病が、茶を通じて感染しないと誰が証明出来るだろうか。
いや、誰にも証明することなど出来ない。
次第に吉継の中に様々な感情が蠢いた。怒り、悲しみ、悔しさ、後悔。彼は拳を堅く握り締め、その場の空気に耐えることしか出来なかった。
だが、その場の空気を一変させた男が一人だけいた。男は己のもとに茶碗が回って来ると、残っていた茶を喉を鳴らして飲み、そのまま一滴残らず飲み干してしまったのだ。
それが、三成だった。彼は奇異の視線を向ける皆に向かって、秀吉の目の前であったにも関わらず、頓狂な声で言い放ったのだ。
――悪い、喉が渇いて死にそうだったのでな。全部飲んでしまった。
「……そうだ、そうだった」
吉継は思い出した。あの時の三成を。あの時に胸を満たした、熱い気持ちを。
「嗚呼……何故だ、わしは馬鹿か……」
迷うことなど、最初から何も無かったのだ。答えはあの茶会の席で、とうに決まっていたのだ。
三成は吉継の病について、“何も”思っていなかったのだ。気味悪がることもなければ、蔑むこともしなかった。だから、吉継から回ってきた茶を飲み干すことが出来た。石田三成という男は、病が感染する、奇異の目で見られる、そんな些細なことを気にするくだらない男では無かった。三成に、感謝の涙を零したのは誰だったか。当時の己は、三成に対して何を思ったのか。
そして己は、己の生き方はただ座敷の奥に座っているだけのつまらない物なのだろうか。病に負けて、このままこんな辛気臭い床で余生を過ごすのだろうか。吉継の思考が徐々に熱を帯び始める。
そう、己はただ朽ちるために今を生きているわけではない。
「……本当に馬鹿だったのは、わしの方だったようじゃのう」
吉継は寝床から抜け出し、力強い足取りで縁側に続く襖に手をかけた。
ひやりと、夜風が彼の肌を撫でる。病に侵され、肌は感覚の殆どを無くしている。だがしかし、確かに感じ取れた。頭巾の奥の瞳は、力を失ってもう長い。だがそれは、確かに強い意志を持って先を見据えていた。
――くすぶっていた僅かな火種がこの瞬間、再び吉継の中で赤々と燃え上がり始めたのだ――
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