嘆き方を学ぶ

台上ありん

嘆き方を学ぶ

 通夜における主役とは誰だろうか。○○セレモニー会館という葬儀会場の「星霜の間」という一室で、所在なさをごまかすために私はぼんやりそんなことを考えていた。これまでに、告別式には何度か出席した経験はあるのだが、通夜というやつに出席したのは初めてだ。

 叔父の死体の前に神妙に正座をした坊主は、先ほどから何やら怪しげな呪文を唱えている。私ははじめのうちは好奇心からその坊主の挙動を観察していたのだが、十五分も経過すると早くも飽きた。坊主が叩くたびにドッジボールくらいの大きさの木魚は畳の上で軽く跳ね、間抜けな音を立てる。私は坊主が叩いた反動で木魚がひっくり返ったりはしないかと、つまらぬ期待を持ってその運動を眺めていた。

 坊主のすぐ後ろに正座しているのが喪主の宏一兄さんだ。と言っても私の兄ではなく、故人の長男で私の従兄に当たる。私がほんの子供のころは、彼のことを「コウちゃん」などと呼んでいたが、いつのまにか宏一兄さんと呼ぶようになった。宏一兄さんは私より六つ年上なので、今年でちょうど四十のはずだ。

 宏一兄さんの左隣には次郎兄さんが居る。次郎兄さんは足を崩して胡坐をかいている。今どき古風な名前のこの男は、宏一兄さんの弟で、私よりふたつ年上だったはずだ。当然彼も私の従兄になる。喪主の右隣に座っている中年の女性は、おそらく宏一兄さんの配偶者。彼女のすぐ後ろに付き従っている女の子は、宏一兄さんの子供で、故人の孫ということになるのだろう。

 次郎兄さんの後ろに座っているのが私の父で、父は故人の弟になる。私は父の横に座っている。私の背後には、ほかにも約十数人ほど人間が座布団の上に尻を乗せているが、実を言うと私は彼ら彼女らのことは、ほとんど知らない。親戚宅で数回顔を合わせたことがあるという程度か、なかにはまったく憶えのない人もいる。そのほとんどが私よりもはるかに年上の人たちだ。

 私は故人の甥ということになるので、この通夜という場所に居ることがそれほどおかしなことではないはずなのだが、なんとも言えない居心地の悪さを感じていた。

 死んだ叔父に最後に会ったのはいつだろうか。病院で息を引き取る一週間ほど前に、ベッドの上で眉間にしわを寄せて寝込んでいる叔父に一度だけ会ったことは会ったが、その前となると、おそらく十年以上の開きがある。

 焼香の香炉が、父のところに回ってきた。坊主は相変わらずへんな呪文を唱え続けている。気のせいか、さっきよりも坊主の木魚を叩く手に力がより込められてきたかのように私には思えた。そろそろ私は、その音が不快になってきた。今生の際にこうやかましくされたのではたまったものではなかろう。おれの死んだときは、意地でも生き返ってみせて、やかましい坊主の頭をしばいて黙らせてやる。などとしょうもないことを考えた。

 とりあえず、少なくとも通夜の主役が私ということはあるまい。

 ふりかけのような茶色い粉を指先でつまんで父は焼香をした。香炉から蛇のような白い煙が登った。

 叔父の死とはすなわち私の父にとっては実兄の死であるから、私と違って内部になにがしかの感情が渦巻いているのであろうと、私は遠慮がちに上目遣いで父の表情を覗き見たら、焼香を終えた父は私よりもはるかに退屈でめんどくさそうな顔をしていた。胡坐をかいて、靴下の生地が禿げてメッシュ状になっている踵の部分を、指先でいじっていた。

 私のほうはというと、叔父というそう遠くない親戚の鬼籍入りなのだが、それほど悲しむべき理由はない。十年ろくに会わなかった人間が永遠に会えなくなったからと言って、私は何かを失ったのだろうか。どちらかといえばと私にとっては、ちょくちょく内緒で小遣いをくれた叔父の配偶者のほうが思い入れが強かった。ちなみに叔父の配偶者は、かなり前に事故で他界している。

 だが、私の居心地の悪さは、あるひとつの理由によって大きく強化されている。私は無職だ。親戚と顔を合わせるたびに私はまるで犬をしつけるごとく説教された。特に故人たる叔父は、もっとも苛烈に私の怠惰を打擲した。

「国立大学を卒業したにも関わらず、無業者とはいったいどういう了見か。国立大学というのは国費が投入されているから授業料が安いのだろう。つまり直接的ではないしにしても、税金で勉強させてもらってるようなもんだ。なのに、仕事もせんと一円も納税しないというのは罰当たりとは思わんか。学歴が泣いとるぞ」というようなことを繰り返し私に言った。

 しかしいかに罵られたところで、羞恥心への耐性のみは人一倍頑強にできている私はにわかの痛痒も得ることなく、変わらず無職に留まるのだった。

 香炉がすべての参列者の前を回り、坊主のそばに回帰してきたところで、坊主は経文を書いてある経帳を右手に持つと、まるで特撮ヒーローが変身でもするようにそれを左右に振って何やら言った。私はもはやその変身ポーズにどういう意味があるのか考えるのもおっくうになっていた。坊主は茶色い袈裟を着ていたが、遠目に見るかぎりそれは化学繊維っぽい安いつくりをしている。

 坊主は畳の上に両のこぶしをつき、腰を浮かせてこちら側に向き直った。そして袈裟のすそを軽く引っ張り居住まいを正して、大きな咳払いをした。坊主の顔つきは神妙さとめんどくささが同居したビジネスマンのようだ。

「えー、通夜のお経をあげさせていただきました」と言って坊主は一度合掌した。それにあわせて、参列者一同、御座なりに頭を下げた。坊主は引き続きしゃべる。

「仏教では、人間の目標というのは、悟りを開く、仏になるということされています。仏になるということは、すべての煩悩から開放されて、真のしあわせな状態に至るということ、でございます。本来ならば、生きているうちに悟りを開いて仏になるというのが理想ではございますが、なかなかそうは参りません。この世に生きている以上、煩悩から離れるというのは、非常に難しゅうございます。ですので、阿弥陀様のお力をお借りして、浄土に至るというのが私どもの教えでございます。阿弥陀様のお力をお借りすると言いましても、特に厳しい修行などの苦行は必要ございません。ただ、手を合わせて、南無阿弥陀仏と唱えればよいのでございます。ですので皆様、ぜひこんにちより、日々手を合わせて、お亡くなりになられた方のしあわせをお願いになってくださいませ」

 そう言い終わると、坊主はまるで後ろめいたことでもあるかのようにいそいそと木魚その他の荷物を風呂敷にまとめて帰っていった。

 私は基本的に、死後の世界というのを信じている非科学的な人間なのだが、坊主の言うことには誤りが多数含まれていると感じた。しかし具体的にどこがまちがっているかと言われれば、いちいち指摘するのはかなり難しい。

 坊主と入れ違いになるように、葬儀屋の従業員が入ってきた。胸に顔写真入りの大きな名札をしている。名札には大きな文字で「○○セレモニー会館 宮本」と書いてあった。宮本はたたみの上に正座をして、一度深々とお辞儀をした。

「それでは続きまして、お食事のほうを運ばせていただきます。えー、こちらのほうに机をふたつ並べさせていただいたのでよろしいでしょうか?」

「あ、はい。お願いします」と喪主である宏一兄さんが代表してそれに答えた。

 宮本と後からもうひとり部屋に入ってきた従業員とふたりでテキパキとテーブルを並べて、手際よくオードブルや寿司などが運ばれてきた。その間、部屋の出入り口近くで、「いえ、食事だけでもしていってください」「いえいえ、もう今日は帰らせていただきますわい。また明日、来させてもらいます」「それならせめて、家まで送らせてもらいます」「喪主が留守にしてはいけません。お父さんのおそばにいておあげなさい」などという、謙譲の押し付け合いのような会話が聞こえてきた。


 ビールの栓が抜かれ準備が整うと、こういう場にも上座下座というのがあるのかどうか知らないが、喪主の宏一兄さんが叔父の遺体にいちばん近いところに座って、その向かいに私の父が座った。私は父の隣に、次郎兄さんは宏一兄さんの隣に座ったので、私は次郎兄さんと向かい合うことになった。

「豪勢だなあ。なかなか思い切ったもんだ」父が目の前の料理を眺めながら言った。

「仕出し屋のいちばん安いプランだと、めちゃくちゃショボいんですよ。サンドイッチとカラアゲだけみたいな。喪主なんかそう何度もやるモンじゃないし、少し奮発しました」宏一兄さんは立ち上がって、「みなさん、召し上がってください。余らせてもどうにもならんので。ビールのほうは足りなかったら、セレモニー会館の人が追加で用意してくださいますから、遠慮せず注文してくださいね」と一同に言った。

 食い物の効用かどうかはわからないが、さっきまでの辛気臭い雰囲気は去り、にわかに部屋はにぎやかになった。父はサーモンの寿司をつかんで、「はよ食わんと線香臭くなって、燻製みたいな寿司になってしまうぞ」としょうゆを付けて口に放り込んだ。

 私は正面の次郎兄さんと視線が合った。次郎兄さんはすぐに視線を逸らせた。私と次郎兄さんは、いつの間にやら反りが合わなくなった。心当たりはあるのだが、それがあまりにもしょうもないことなので、私としても対処に困っている。二十年近く前になるのだが、受験生だった私は某大学に合格した。そのあたりから次郎兄さんはたまに親戚中で顔を合わせても私にはいっさい話しかけなくなった。それ以前も、それほど仲が良かったというわけではないのだが、無視されるということはなかった。私はだいぶ後になってから、次郎兄さんが現役の受験生だったころに、私の合格した大学を受験して落ちていたということを知った。

 今となっては無業者の私は、社会的な身分はせいぜい「家のある路上生活者」と言ったところで、一方の次郎兄さんはといえば、某上場企業の主任という立派な働きをしており、しかも将来の出世が約束されたような花形部署に所属している。手を伸ばせば届く距離に重役の肩書きもあるらしく、運さえ味方に付けば社長も夢ではならしい。もはや私との差は天と地ほどの開きがあるのだが、依然次郎兄さんは私を避けようとしている。

 もうひとつ、これは宏一兄さんが私に耳打ちするように教えてくれたのだが、学歴や職業はともかく、私にはさっぱり理解できない奇怪な理由があるらしい。私が理系の学部で、次郎兄さんが国文学科であることをコンプレックスに感じているというのだ。学問に、実用的か否かの違いは仮にあったとしても、その間に優劣はないはずで、国文学を修めた者が素粒子をいじくりまわしている者に引け目を感じるべきではない。

 極論を言えば、人間も素粒子のカタマリであるから、人間が生み出してきた古典文学と素粒子のふるまいについて研究することには共通点の多くあるはずで、両者に私はそれほど大きな差異を認めない。

 かようなことを私は宏一兄さんに訴えたのだが、宏一兄さんは、「その『ふるまい』という理系の人間がよく使う言葉も弟は気に障るようだよ」などと私をたしなめた。

「叔父さん、ヤスは?」と次郎兄さんは私の父に問うた。

「仕事で来れんて。急いだら明日の夕方くらいには帰れるって言うてきたけど、それじゃ間に合わんじゃろ」と父が答えた。

 ヤスというのは私の兄の通称で、兄は今九州で働いているため、通夜にも告別式にも出られない。私は、故人と兄の精神的な距離がどのようなものであったのか計りかねているのだが、おそらく私とほぼ変わらぬか、私よりは少し近いといった程度だろう。きちんと就職しているぶん、私よりも兄のほうがまだ叔父に対するマイナスの感情は少ないかもしれない。

 私はあまり腹が減っていなかったから、料理には手を付けなかった。

「呑むのも、供養」と言いながら父はビール瓶を手酌でグラスに注ぎ、ものすごい勢いで空にしていった。

「叔父さん。もしアレだったら、日本酒も注文できますけど、熱燗のほうがいいですか?」と宏一兄さんが気を利かせて父に言った。

「いや、ヒヤでいい」

 父は車でこのセレモニー会館までやって来ているのだが、どうやら今夜は帰らずにここに泊まる予定らしい。セレモニー会館には、通夜を過ごすための寝具なども用意してあるようだ。まさに夜通しで故人の逝去を悔やむことになるようだった。私は家に帰って寝たいという願望があったが、こうなっては仕方ない。

「それじゃ、俺もヒヤちょうだい」と次郎兄さんが父の無遠慮に乗っかった。

「マアサ」と宏一兄さんは、大きな声を出した。

「はあい」と出入り口付近に母親に並んで座っていた女の子が返事をする。

「ジュース、いる?」

「いらない」とそのマアサと呼ばれた女の子は答えた。

 私はこのとき初めて、宏一兄さんの子供の名前がマアサということを知った。マアサちゃんを見てみると、宏一兄さんにはあまり似ておらず、どちらかというと宏一兄さんの配偶者のほうに似ている。マアサちゃんの母親のほうをちらりと見ると、携帯電話を耳に当てて何やら小声で通話している。

 故人にとってマアサちゃんは孫ということになる。私自身、祖父も祖母も早くのうちに他界したので、その葬儀がいかなるものであったか、ほとんど記憶にない。祖父の葬式のときに、祖父宅の狭い和室に人がぎゅうぎゅうに詰まって、息苦しいほどに蒸し暑かったことだけ、かろうじて憶えている。

「なあ、宏一。まあいろいろあるじゃろうが、ようやく片付いたのう。兄貴もようやっと、嫁さんのところに行けて満足じゃろう」と父が、叔父の亡骸のほうをあごでしゃくりながら言った。

 父ににわかに酔ったときの調子が出ていた。

「いやあ、本当に。あのまんまゾンビのように生き続けられたら、こっちもたまったもんじゃなかったです。正直言うと、ギリギリと言ったとこでした」

 父と宏一兄さんは、叔父と甥という屈託ない関係らしかった。「関係性」という面でいうと、私と故人も同じく叔父と甥なのだが、ずいぶん様相が違うように感じられた。やはりこれが職を得て結婚し子供を持ったものの堂々たる姿なのだろうか。

 父と宏一兄さんの会話には少し説明を要する。故人たる叔父は、五年ほど前より闘病生活に入っていた。がんというありきたりな病なのだが、世間一般においてはありきたりであっても負う本人にとっては初体験でおそらく一度きりのものなのだろうから、始末が悪い。

「余命一年」と医者から聞かされて、なお五年も生きたのだから、これは僥倖とするべきなのか、否か。

「がん保険には、入っとらんかったんじゃろ?」と父が言った。

「入ってましたよ」宏一兄さんは即座に答えた。

「それじゃ、金銭的には楽やったんじゃない?」

「いや」宏一兄さんは少し口ごもった。「オヤジはあのとおりの、よく言えば堅実。悪く言えば臆病な正確でしたからね。きちんと保険には入ってたんです。でも、がん保険って、最初の六十日ぶんしか入院保険が出ないものだったんですよ。僕もね、そんな馬鹿な、そんな保険に意味があるのかと思いましたけど、約款を見るとノミが潰れたような小さな文字で、たしかにそう書いてあるんです」

「んんん?」父はビールの残ったグラスを軽く揺すって、泡を立てた。「そんなこと、あるんかいな。肺炎や骨折じゃあるまいし、六十日入院して治るもんならそれでええんじゃろうが、がんでたったの六十日しか出んっていうこと、あるんかいな」

「何のためにこんな保険にカネ払ってきたんじゃろ、って親父も言うてましたよ」次郎兄さんが手を伸ばして父のグラスにビールを注ぎ足した。「手術して、一回仕事に復帰しとったんですけど、通院しながら働いて、検査して入院してを繰り返してたんですけどね。六十日の保障なんか、あっという間に使い切ってしまいました。仕事休んだ日は国の健康保険から、何とか休業手当、というやつが出たんですけど、こっちは一年半ももらえたんですよ。『やっぱり最後に頼りになるんは国じゃ。外国の保険屋なんぞ信用したらいかん』と親父はうなされるように言うてましたね」

「あんだけテレビのワイドショーとかを見ながら、役人の税金の無駄使いがどうのこうの言うてた親父が、病気をきっかけに愛国心に目覚めてネット右翼みたいな言動を始めたときは、そろそろやばいんかなと心配になりました」と宏一兄さんが次郎兄さんの言に付け足した。

「ワシ、兄貴のことがあってから遅まきながらがん保険に入ってみたんじゃが、帰って給付のこと調べとかんといかんの。変な制限が付いとるんやったら、保険止めんといかんか」

「いや、でも」と取り繕うに宏一兄さんが付け足す。「その民間の保険でも、ないよりはマシでしたからね。入ってて損だったってわけじゃないです」

「日本人ががんになる確率は、五十パーセントらしいですよ」と次郎兄さんが宏一兄さんに賛成した。「だからがん保険も、保険給付をより充実したものに乗り換えるならともかく、止める必要はないでしょうね。僕も特約付きのを入ってますから」口調はまるで、昼ドラのコマーシャルのようだ。

 五十パーセントと言えば文字通り、塀の上を歩いていて右に落ちるか左に落ちるかのようなものだ。しかし、どちらに落ちたところで結局人間の辿り着くところは同じで、塀を渡りきるなどということもない。

 それにしても、がんに罹患するという現象を、確率で捉えるということは可能なのだろうか。単純に、がんに罹患した人を全人口で割れば計算できるのだが、時間発展や、あるいは観測できない部分なども含めると、ずいぶん杜撰な測定の仕方のように思える。

 私自身は、がん保険はもちろん、生命保険にも入っていない。理由は単純に保険料を払うカネがないだけなのだが、私は私にどこか人生に冷めたところがあるのを自覚していた。がんになれば、死ねばいい。妻も子供もおらず私に寄りかかって生活している人間はひとりもいないため、死後の私には一円のカネも要しない。まさか地獄の閻魔様も、生前の資産の多寡で人を裁くということもあるまいし、賄賂など贈っても無駄だろう。まあ仮に、実際に効力のある免罪符がどこかに売っていたとしても、あくせく働いてそれを求めるなどということを私はしない。

 先ほどの坊主にも一縷の神聖も感じられなかったが、寺や教会などに熱心に奉公する人の気持ちも私には理解しかねた。学生時代私は、四国の某牛丼屋チェーンにてアルバイトをしていたのだが、そこはちょうど、四国お遍路の通り道になっていることもあって、白装束を着てお遍路参りをしている人がよく客として立ち寄った。寺巡りをしている最中に、牛丼という肉食も極まったものを口に入れる彼ら彼女らが、仏様や弘法大師様にいったい何を望んでいるのか一度聞いてみたい気はしたが、店員の立場でそれはできなかった。

 ようするに祈りとは、たんなるファッションなのだろう。ということは、今日のこの通夜も、たんなるポーズなのだろうか。

「兄貴は結局、何年くらい病気やっとったんかの」と父が宏一兄さんにたずねた。

「だいたい、五年くらいですかね。五年前に手術して、放射線治療して、再発してもう一回手術して、あとは薬と放射線やって」

「そうか。一時はずいぶん元気そうになっとったんじゃけど。やっぱり人間には寿命というのがあって、それを使い切ってしもた後も無理に生きようとしたら、辛いばっかりになるんじゃの。ほな、兄貴の遺産なんか、ほとんど残ってないんか?」

 私は軽く父を睨んだ。いくらなんでも通夜の席に相続のことなど口にするべきではなかろう。せめて納骨が終わってからにするべきではないか。

 しかし宏一兄さんも次郎兄さんも気にしていない様子だ。眉ひとつ動かさない。

「遺産なんか、とんでもない。家は残ってますがほかのものは何にも残ってませんよ」

「へえ。それじゃ、残るんは生命保険くらいか?」

「それも残ってないです。リビングニーズというので、余命半年を宣告されたら保険金が下りる特約で、全部生前に受け取ってますからね」

「え?」父はさらに疑問を深めたという顔をしている。「それ、もう使ってしもうたんか? 百万や二百万じゃなかろう」

「自由診療で、使ってしまったんですよ」

「自由診療?」

「保険が使えない治療法や、未承認薬です」次郎兄さんが父に説明する。「放射線治療や、最先端の薬を試せる代わりに、保険が利かないから治療費がべらぼうに高くなるんですよ」

「じゃ、それで全部使ってしまったんか?」

 次郎兄さんは無言でうなずいた。

 リビングニーズ特約の保険金が下りたとき、叔父はいかなる心境だったのだろう。

 私のような貧乏人にとってはまとまったカネというのは不気味なものだが、自分が死んだ場合に出るはずのカネを死ぬ前に受け取り、それを兵糧として生きるための闘病を継続するというのは、想像するだに何ともおぞましいもののように私は感じた。

「全部使ったどころか、僕たち夫婦の家計からだいぶ持ち出ししてます。ウチもそんなに貯金があるわけじゃないから、本当にギリギリだったんです。もしあと三ヶ月も生きられるようだったら、完全にアウトで、次郎か叔父さんに頼るしかないと嫁と相談してたところだったんですよ」

 それを聞いて父はさすがにまぶしそうな、気まずい顔をした。そして、

「楽には死ねんもんじゃ。いろんな意味で。なんぞ困ったことがあったら、ワシにも頼ってくれよ」と言った。

 ここで私はこの豪華な葬式の費用がどこから支払われているのか気になった。目の前のオードブルや寿司は、そこそこ豪華なもので、一人前あたり五千円は下らぬであろう。ここの○○セレモニー会館も、市内でもかなり上等のほうの葬儀屋のはずだ。明日の告別式や、あの坊主に取られるお布施なんかも考慮すると、安く見積もっても三百万円は下らぬ出費になる。

 私はなお居心地が悪くなった。

「喪主様、少し失礼いたします」いつのまにやら、葬儀屋の従業員の宮本が宏一兄さんのそばにやって来ていた。宮本は宏一兄さんの後ろで膝を折って座った。

「はあ、なんでしょう」宏一兄さんは口のなかに入れていた食べ物を急いで飲み込んだ。

「えーと、あの、明日の告別式では、参列者様のご香典や献花などに関しましては、基本的にお断りするということで承っておりますが、よろしいでしょうか」

「ええ、それでお願いします」

 宮本は手に持っているA4のコピー用紙に、胸ポケットから取り出したボールペンで丸を付けた。

「そういうことでしたら、会場の前に、こういう看板を提示させていただきます」

 宮本は宏一兄さんに一枚の紙を手渡した。宏一兄さんはそれを凝視する。

「ワシにも、ちょっと見せて」と父が手を出した。

 父の手に渡ったその紙を横目で私も覗いてみた。「故人の意向によりご香典、献花、その他の贈答品などはお断りいたしております」という立て看板の、小さな写真が白黒で印刷してある。

「まことに慎み深いことやな。兄貴、こんなに遠慮する人間じゃったか」と父は故人と喪主を茶化すように言った。

「死ぬ一ヶ月ほど前に、『葬式はいらん、どうしてもやらんといかんのやったら、できるだけ質素にして身内だけでひっそりやってくれ』と親父が言ってましたから。来てもらうだけでも申し訳ないのに、香典なんか一切もらうな、っていうのが遺言みたいなもんなんですよ」と次郎兄さんが言った。

 宮本が作り笑顔で首肯しながら、

「参列者のなかにはお断り申し上げましても、どうしてもご香典を受け取ってくれという方が必ずいらっしゃいまして、そういう方は弊社のスタッフを通して、喪主様のほうにお渡ししてくださいということがございます。そういう場合は、大変失礼ながら弊社では受け取りを拒否いたしました上で喪主様のほうにその旨をご連絡するということで、よろしいでしょうか」と言った。

「ええ。それでお願いします」と宏一兄さんが事務的に言った。

 宮本は丁寧に頭を下げると、退出した。

 できるだけ質素に、という叔父の遺言にも関わらず、ずいぶん立派な通夜だ。しかも先ほどの宏一兄さんの話では、故人の資産はもはや治療費で食い潰され、宏一兄さんの貯金も底を付く直前だったということだが、ではここの葬儀屋に払うカネはどこから出てきているのだろう。

「今日明日の葬式代も、うちの嫁さんの実家に借りることになってるんですよ。まことにお恥ずかしながら」 私の疑問に気付いたわけではあるまいが、宏一兄さんが小声で父に言った。

 父はさすがに少し顔を青くした。私は宏一兄さんの配偶者のほうを見てみたら、携帯電話を耳に当てて、また何やら通話をしているようだった。横でマアサちゃんがあくびをしている。

「そんなこと、いかん。葬式代、ワシにもせめて半分くらい持たせてくれ。いちおうワシだってアニキの弟なんじゃから」父は宏一兄さんに訴えたが、宏一兄さんは、

「いやいや」と手のひらを左右に振ってから、「本家の土地家屋は、僕が相続することになりますからね。家のほうはともかく、土地はまだ、葬式代を払ってもお釣りが来るくらいの価値はありますから。もちろん、売りませんけど。あの家があるおかげで、よけいな住宅ローンは背負わんでもいい身分にしてもらってますから、これ以上叔父さんに何かしてもらうと罰が当たります」と言った。

「そうか? 困ったことがあったら、遠慮せずに言うてくれよ」父はコップに残ったヒヤ酒を一気に呑んだ。「ワシももう長いことはないから、今のうちに自分の葬式代くらいは貯めとかんといかんの。馬でしっかり稼がんといかん」

「競馬止めたほうが貯まるんじゃないですか」と次郎兄さんが苦笑いをしていた。

「しかし嫁さんの実家も、よう貸してくれたな。葬式代なんぞという、罰当たりを承知で言ってみりゃ、何の資本にもならんのようなカネやのに」

「いや、それが」宏一兄さんはめずらしく眉間にしわを寄せて険しい表情をした。そして声をひそめた。「僕はかまわないって言ったんですが、義父のほうが無理に貸してやるって言ってきたんですよ。最初は親父の遺言のとおりに、家で身内だけの質素な葬式しようと次郎と相談してたんですが、義父が、『粗末な葬式を出したら、鼎の軽重が問われる。家の格を疑われる』と口をはさんできたんです。葬式を出すカネがないと言ったら、全部出してやると言ってきましてね」

「は……? そんなことあったの?」次郎兄さんも初耳のようだった。

「うん。それで、仕方なしにこの○○セレモニー会館に見積もりをお願いしたら、分割の支払いでもかまわないということだから、義父からカネ出してもらうのはよして、僕の給料からローンの支払いをすることにしたんですが、無理にでも出すと言ってきかないもので。嫁もちょっと呆れ気味でした。……まあそういう経緯で、カネを誰が出すか葬式をどうするかで一悶着起こりそうだったんですが、『葬式も満足に出せんところに娘を嫁がせたなんぞと言われたら、ワシがご先祖様に顔向けできんわ』と一喝されて、嫁も『父がああいうふうに言い出したらテコでも動かない』ということだから、仕方なしに、とりあえず葬式代を義父から借りておいて、ボーナスが出たときに返済するということで妥協が成立したんです」

 私も今から十数年ほど前の宏一兄さんの結婚式に出席したので、その義父というのを見たことあるはずだが、さっぱり記憶にない。ずいぶんめんどくさいところのお嬢さんをお嫁にもらったものだ。

 宏一兄さんからの又聞きでしかないのに、私は記憶にないその義父とやらが、すでに嫌いになってしまった。私も無業者とはいえそれなりに長く生きたので、いかに努力を費やしても理解しあえない人間がこの世にいることを承知している。彼の言う「家の格」とはいったい何なのだろう。どうやら、富の多さではなさそうだ。矩を超える葬式をする家が上等で、つつましく弔う家族は下賤とでもいうのだろうか。そういう物差しは私は持っていない。

「ほしたら、お寺のお布施だけでも、半分ワシに持たせてくれ。少しくらいはなんかしとかんと、兄貴に化けて出られるかもしれん。ワシの寝付きをよくするためにも、そうさせてくれんか。お布施、たしか三十万円じゃったな。十五万だけでも出す」父はさらに宏一兄さんに詰め寄った。

「ええ……」承認とも戸惑いとも受け取れる、うめき声のようなものが宏一兄さんの口から漏れた。そして、宏一兄さんと次郎兄さんは、気まずそうに目を見合わせている。

「それが、三十万のはずだったんですけど……。お寺のほうへの依頼は、僕のほうからしたんですが、インターネットで相場をざっと調べてみたら、それくらいが平均だそうで」切り出したのは次郎兄さんだった。「だから、そういうことでお寺さんにお願いに行ったら、坊さんが『ふざけるな、常識というもの知らんのか』と言い出しまして」

「はあ。それ、どういうこと?」父がぽかんと口を開けた。

「ようするに、お布施が少ない、ということらしいです」

「それ、さっきの坊さんが言うたのか?」

「はい」

「それで、結局いくら払った?」

「向こうから金額を指定してきたんですよ。五十五万円って。坊さんが言うには、『息子がふたり居るんだったら、二で割っても安いだろう』って」

 ずいぶんと生臭な坊主もあったものだ。五十五万という金額が妥当かどうかはひとまずおくとして、二人兄弟で割るのならば、せめて二で割り切れる数を要求すれば良いではないか。私が神仏なら、あの坊主をこそ地獄の底に突き落とすだろう。価格交渉をするのは決して否定されるべきものではないだろうが、神仏の威光を着てカネを要求するなど、外道にもほどがある。

 父も私に同意見のようで、酔眼で憤慨していた。

「ほかの参列者には、このことは言わないでくださいね」宏一兄さんは小声で言った。

「ほしたら、坊さんが上乗せしてきた二十五万円ぶんだけ、ウチが出す。宏一くんは最初の予定通り三十万だけ負担したんでええ。あの坊さん、そんなにあつかましいやつじゃったんか。一言、言うてやればよかった」

 葬儀とはまさに、人間社会そのものの縮図ではないかと私には思えてきた。それは故人を弔ってより大きなものへの帰依に至る聖なる儀式などではないし、生きているものが自分たちの気持ちにけじめをつけるための区切りなどでもなく、カネと人間関係と個人個人の捻じ曲がった思い込みとがむき出しになって腐臭を放つ下卑たふるまいだ。

 おおげさに世をはかなむといったほどではないが、これなら人間の死体なぞ何も執着などすることなく生ゴミにでも捨てればよいではないか。そのほうがきっと世界は平和に違いない。

 宏一兄さんの配偶者が、宏一兄さんのすぐ後ろまで歩いてきて、そっと膝をついて正座した。そして耳打ちするように、

「おとうさんが、今から来るって。電話があって、さっき駅に着いたみたい」と言った。

「お義父さんが? 明日じゃなくて、もうこっちに来てるってこと?」

「そう。タクシーに乗って、今からここに来るって」

 宏一兄さんの背筋がピンと伸びた。

「そんな……。なんで来るんだよ。来るのは明日じゃなかったのかよ」

「なんか、仕事がけっこう早く上がれたみたいだから、来ることにしたって」

「今から来るっていっても、坊さんも帰っちゃったし、形式的なことはもう終わった後なのに。まあ、とりあえず、誰かまだ酒呑んでない人に駅まで迎えに行ってもらおう。タクシーなんか乗ることないよ。おい次郎……、ってお前はもうだいぶ呑んでるか」宏一兄さんは立ち上がった。

「たぶんもう、タクシー乗っちゃってるよ。あと十分もしないうちに、ここに来るよ」

 宏一兄さんは不服そうに座りなおした。

「カネ出してくれた義父さんの登場かい。まさか帰れというわけにもいかないだろう。女房の父親ってのは、いくら時間が経っても慣れんもんだが、カネまで借りてしもたらそれも一入だろう」父が少しニヤニヤしながら冷やかした。

 宏一兄さんはそれの応えず、

「お義父さん、どこに泊まってもらうんだ? ウチ、何も準備も片付けもしてないし、まさかここに泊まるわけにもいかないだろう」と配偶者に言う。

「それなら心配ないって。駅の近くのホテルの予約取ったからって」

 とにもかくにも、この葬儀というイベントの金主である喪主の義父がこれからやってくるらしい。父が呑んでいるその酒も、宏一兄さんの義父のカネがあってこそだ。金主からしてみれば、私の立場は娘の婿の従弟という、限りなく他人に近い縁戚、あるいは限りなく縁戚に近い他人という存在になるだろう。先の、宏一兄さんの独白により私はこの金主に対しよい感情を持つきっかけを失っているが、宏一兄さんのためにも偽悪的にふるまうことだけはするまいと決めた。

 しかし相手が私を無業者であるがゆえに無価値の人間と決めてかかるようならば、矛を納めるつもりはないが。

「マアサは?」と宏一兄さん。

「おとなしくしてるけど、なんか退屈そう。あの子、知らない人ばかりのところじゃ、借りてきた猫みたいになるから」

「そう。もし眠たそうにしてたら、遠慮せず連れて帰ってくれ。通夜なんてつまらないものに、子供が長く付き合う必要もないだろう」

「そうは言っても、マアサにとってもおじいちゃんと最期のお別れだからねえ。まあ、気を付けておく」

 このとき、私と父のあいだに、ひとりの老人が割って入ってきた。おそらく七十は過ぎた男性で、白髪頭はすでにだいぶ薄くなっており、膨らんだまぶたが目を細くしている。

「タモツさん、どう。呑んどるで?」と白髪は父に言った。手にビール瓶を持ったその様子はまるで忘年会などでよく見かける、すっかり出来上がった迷惑オヤジそのものだった。

「ああ、はい。日本酒もろうてますよ」と父は白髪に返事をする。

 ふたりは知り合いのようだが、私はこの白髪に見覚えはない。遠い親戚か何かなのだろうか。

「お兄さん亡くなっても、気を落とされんぞ。しっかりせんと」

「だいじょうぶですよ。そんなに惜しいほど、良くしてくれた兄でもなかったからね」

「お兄さん、いくつやったかのう。たしか俺よりもみっつくらい下やったはずやけど」

「六十三」

「そうか、そんなに若かったんか。昔うちに遊びに来たときに、セミ取ってよう遊んどったんじゃけど」白髪は抑揚のない口調でしゃべる。「ということは、タモツさんは今いくつで?」

「六十一。兄貴とワシとで二才違いじゃ」

「そうか、そうか。まだ若いのう。タモツさんは、どうなんで。ひとりで寂しくないんか。もう一回くらい、結婚してみたらどうじゃ」

 私の父は、私がかなり小さいころに母と離婚をしている。離婚に至る経緯について私は詳しく知らないのだが、どうやら母の浪費が主たる要因だったようだ。父の給料を毎月使い果たすだけでは足りず、いつのまにやら作った父名義のクレジットカードで、小瓶ひとつで何万円もする化粧品や、ちょっとした柄の付いたへんな形のバッグをいくつも買ったらしい。

 いくら男女同権の世になったとはいっても、男にとっては化粧品やハンドバッグなどの価値は理解しがたい。男の持つ育毛剤に対する畏怖の念が、女に永久に理解し得ないというのと似ている。ということで、私と兄は当時まだめずらしい父子家庭というので育ったのだが、他人に家族構成を説明する際、多少煩わしい思いをするということ以外には、特に不便ということはなかった。ただ、母が私と兄のこづかいになるぶんの原資まで先食いで使い果たしてしまっていたので、決して裕福というわけではなかったが。

「恋人でもおらんのかい、タモツさん。まだ若いし、ええ男じゃのに、もったいない」と白髪は繰り返した。

「いやいや。兄貴が死ぬような歳になってしもとるのに、今さら嫁に来てくれる人がおるかいな。おったとしても、もうお断りやねえ」

「お兄さんこそどうなんで。結局、一回も結婚せずかい?」

「なーんで、俺のところに嫁が来ることあるかいな。そういうのはカネ払ってプロにまかせるしかできんわいな。タモツさんは俺と違うて男前じゃけん、今からでも若い嫁さんもろて、老後の世話してもろたらええが。タモツさんの遺産ちらつかせりゃ、なんぼでも若い娘、釣れるじゃろ」

 私の父も決して品の良い人間ではないが、この白髪酔っているということを免罪符にするにしても、いささか目に余る。

「遺産になるもんなんか、なんぼもあるかいな。日に米三合たくあん二切れで精いっぱいじゃ」

 父がヒヤ酒の入ったグラスを空にすると、白髪はそこにビールを注いだ。そして宏一兄さんに向かって、聞かれもしないのに、

「呑むんも供養じゃろが。ワシ、お前のお父さんとはな、実の兄弟以上の仲やったんぞ」と怒鳴るように言った。

「兄ちゃん、これ誰だよ」と次郎兄さんが囁いた。

「親父の従兄弟っていうことらしいが、俺もよく知らないんだよ。前に一度、正月に会ったことあるけど、お前は憶えてないか?」

 次郎兄さんは眉毛を動かしながら小さく首を左右に振った。

「とにかく、タダ酒が呑みたくて来ただけの人間みたいだから、さっさと飽きるまで呑ませて、タクシー代だけ渡して帰そう。どうせ明日の告別式には来んだろう」

「なんだよ、それ。そんなことなら、今すぐ追い出そうぜ」

 宏一兄さんは、唇の前に人差し指を持って行って、「シーッ!」と言い、

「祝儀不祝儀の席で、揉め事を起こすわけにもいかんだろうが。しかも俺は喪主でお前は喪主の弟って立場だ。さっきの話じゃあるまいが、そんなことしたらそれこそ本気で家の格ってものが問われることになるぞ。だいたい、通夜ってモンは、こういう呑み食いだけが目当てのねずみが一人は現われるもんだ。残飯処理を先回りしてやってもらってると思って、放置しとけばいいんだよ。胃袋が満ちたらそれで終わりなんだから。ほら、叔父さんを見てみろ。うまいこと、話聞いてるふりをしながらスルーしてるだろうが」

 宏一兄さんと次郎兄さんがそんな密談をしているうちに、白髪は席を立ってどこかに行った。おそらくトイレにでも行ったのだろう。

 私はなぜかひどく疲れてしまい、席を離れ壁を背にしてもたれかかった。長く同じ姿勢で座っていたせいか、腰が少し痛かった。

 ふと右側を見ていると、安置されたまま一寸も動いていない叔父の亡骸が目に入った。私が座っているところからは叔父の横顔しか見れないが、私はその死に顔が何かに似ていると思った。

 お地蔵さんに似ている。

 闘病の痛みに苦しむほかは何もなし得ず、死んでいるのとほぼ変わらないような生活を長らく続けていた叔父は今、生きているのと変わらないような表情で死んでいる。ずいぶん滑稽だと思った。叔父がもし生き返って、この通夜の様子を見たならば、決して愉快になることはないだろう。逆に、叔父が決して生き返らないから、参列者はこうして通夜の席で好き勝手できるのかもしれない。

 私は昔、ある文豪が自分の実体験をもとに書いた、第二次大戦中に米軍の捕虜になったという内容の小説が好きだった。短い小説ではないのだが、おそらく十回以上は繰り返し読んだ。戦死した人間と捕虜になって戦後を生き永らえた人間とのあいだに、いかほどの径庭があるのか。私はそれを何度も繰り返し考えた。

 昭和二十年八月十四日に戦死した人間と、八月十五日まで戦死しなかった人間に何か大きな違いがあるとは思えない。ほんのわずか、生まれ持った運の量が違うだけだ。しかしそのミリ単位の運の差が、両者の人生を大きく違うものにした。

 壁にもたれてつまらぬことを考えている私の前に、マアサちゃんと呼ばれていた宏一兄さんの娘がやってきて、私のほうをじっと眺めた。マアサちゃんはまだ小さい子供で、まだ小学生にもなってないくらいだった。私は最初、マアサちゃんを無視していたが、あまりに私のほうを熱心に見てくるため、私はその挙動が少しおもしろく感じた。子供にとっては、無業者であるということは嫌悪や忌避の対象にはならないらしい。それはそうだろう。子供も私と同じ無業者だ。私は同志を見つけた。

「おじいちゃん亡くなって、悲しい?」と私はマアサちゃんに聞いてみた。

 マアサちゃんを首を横にかしげた。

 死という概念を人類がいつ発明したのかは定かではないが、葬儀を発明したのはおそらく五万年ほど前のことだと言われている。原始人の骨の化石に、複数の季節の花粉が付いているのが、その根拠だ。人類初の葬儀がどのような形で開かれたのか私には知る由もないが、案外今私の目の前で行われていることとあまり変わらないのではないかと思えてくる。

「プリキュアで、誰がいちばん好き?」私は戯れにこんな質問を子供にしてみた。すると、

「とまっちゃん」と元気よく返事が帰ってきた。

 部屋のふすまが開いた。目をやると、そこにはひとりの男性が立っている。私の父と同じくらいの年齢で、きっちりと喪服を着込んで黒いネクタイを締めている。彼の姿を見て、マアサちゃんが、

「じいじ」と言いながらその男性のほうへ駆け寄った。

 つまりこの男が、宏一兄さんの義父で、今回の葬儀の金主ということになる。私はもっと、いかつい格好をした、糞真面目なジジイの姿を想像していたのだが、さっぱりとしたひょろいつまらなそうなおっさんだった。

 金主は畳の上に正座すると、

「皆様、おじゃまさせていただきます。娘が日ごろ、たいへんお世話になっております。宏一くんの嫁の父親でございます。この度は、まことにお悔やみを申し上げます」格の高い家の人間らしく、丁寧に頭を下げた。

 私はそれを見てひどく白けた。礼儀作法のマナー本にでも載ってそうな、形式どおりの挨拶ではないか。買い物に行って、店員にマニュアルどおりの対応をされたら、何かつまらなさを感じるが、あの感情に似たものが私のなかに涌いた。

 この金主はいったい何をしに来たのだろう。しかし、カネを出しているからには、出席する権利はある。すくなくとも、私よりはこの場にふさわしい人間なのかもしれない。

 マアサちゃんは金主に繰り返し、「じいじ、じいじ」と言っている。知らない人に囲まれたこの空間のなかで、じいじが現れたことがうれしかったようだ。宏一兄さんは金主のところに駆け寄った。

「ようこそおいでくださいました。連絡くださいましたら、お迎えに上がりましたのに」

「宏一くん、君は喪主だから、留守にするわけには参らんだろう。いいんだよ、タクシー代くらいは」

「そうよ、お父さん。来るなら来るって早く言ってくださいよ」と宏一兄さんの配偶者が言った。

「すでにお寺さんの読経は終わりまして、食事をしているところなんですが、お義父さんもぜひ召し上がって行ってください。もうあんまり残っていませんが、追加で寿司でも頼みますから……」

「いやいや、いいんだ。私のほうが勝手に押しかけたようなもんだから。ホテルのディナーを予約してあるから。それより、線香の一本も上げさせてもらおうか」

「どうぞ、父もたいへん喜びます」

 宏一兄さんのこのへりくだり具合は、私には過剰なように思えた。まるで召使のようだ。義父でしかもカネを借りているとなれば、ここまで気を使わねばならんものだろうか。私は精神的に他人に対して負い目を感じるべき人間だが、金銭という極めて具体的な形での借りというのはどこにもない。「虫が好かない」という素敵な日本語があるが、私にとってこの金主はまさにそれに該当する。

 金主が部屋の奥のほうまで入ってきた。金主は次郎兄さんの顔を見つけると、

「これは、おひさしぶりでございます。いつもお世話になっております」と言って頭を下げた。

「いえ、こちらこそ。お無沙汰して大変申し訳ございません」次郎兄さんは、宏一兄さんよりも緊張しているようで、額に脂汗が浮いているのか、みょうにてかっている。

「次郎さんは、まだ独身ですか?」と金主が言った。

「ええ、お恥ずかしながら。仕事が忙しいもので、なかなか、その……、アレです」などと口ごもる。

「次郎さんは、○○○株式会社にお勤めでしたね。社内でも重責を担う立場にお成りになって、さぞ充実していることでしょう」

「いえ、そんな。ヒラ社員に毛が生えたようなものです」

「仕事もけっこうですが、早く家庭をお持ちなさい。何でしたら、私のほうで仲人役を引き受けてもかまいませんよ」

「やめてよ、お父さん。おっせかいがすぎますよ」宏一兄さんの配偶者が、金主のスーツの袖を引っ張った。

「どうも、宏一の叔父でございます。故人の弟で、タモツと申します」父が金主に頭を下げた。

「まことにお世話になっております」

 型どおりの礼の交し合いが続いた。が、そのとき父の懐で、携帯電話が着信音を鳴らし始めた。父は通話ボタンを押して、しゃべり始めた。

「はい、はい。おう」と父の声が響く。「今、坊さんが帰ったとこで、メシを食いよる。うん。明日……いや、それじゃ遅いじゃろ。告別式が朝十時からで、たぶんそのころにはほとんど終わってしもうとるわい。おう。……四十九日があるから、そのときにしたほうがええかもしれん。まあ、また後で相談しよう。それじゃ」父は電話を切った。

「ヤスシ?」と宏一兄さんが父に聞いた。

「うん。明日の告別式、急いだら夕方の五時くらいには帰って来れるかもしれんけど間に合うか、みたいなことを言うてきんじゃが。間に合わんから、無理に帰って来んでもええって言うとったわい」

「交通費だけでも、けっこうなものでしょう。今度、夏休みにでも帰ってきたときに、墓参りでもしてもらったら、それで十分ですよ」と宏一兄さんが言った。

「息子さんですか?」と金主が父に問うた。

「はい。まことに不孝な息子でして、仕事の都合で、今回の告別式には参列できそうにないようです。故人にはかなり世話になったはずですが」父も金主には遠慮がちな口調になっている。

「息子さんは今どちらにお住まいで?」

「九州です」

「はああ、そうですか。それは遠いところに居られますねえ。いやいや。本家の人間ならともかく、分家の息子さんなら、仕事をほっぽり出して帰ってくるまでもありますまい。たいしたことではございませんよ」

 私はその金主の発言の意味が、最初はわからなかった。しばらく考えてから、ようやく理解できた。ようするに「本家」というのは家の跡を継ぐべき長男のことで、祖父の長男は今回亡くなった叔父で、父は次男だから、次男の家の子である私の兄は、「本家」の人間ではないということだ。金主曰く、「本家」の人間でないなら、仕事を休んでまで無理に葬儀に出なくていい、ということなのだろう。

 このおっさんの行動規範は、いったいいつの時代のものなのだろう。そもそもなぜこの金主が、誰が葬儀に参列するべきで誰は仕事を優先するべきなどという極めてセンシティブなことに容喙するのだろうか。もはや土地と腐りかけの古い家しか資産の残っていない本家とやらに、いかほどの実態があろう。

「長男は無条件にえらい。なぜなら長男だからだ」とアプリオリに思ってそうな人間だ。金主にとっては、次男の家の次男である私など、おからのおかずの食べ残し程度のものなのかもしれない。私はさきほどあれほど鬱陶しく今はどこかに行ってしまった下品な白髪のほうが、まだこの金主よりは現代社会の道徳に適った所作を為しているのではないかとすら思えてきた。

 ともかく、この金主がこの場にとってかなりやっかいな異分子だということは確定したようだ。父と次郎兄さんが、気まずそうに顔を見合わせた。

「お義父さん、どうぞお線香を上げてやってください」と宏一兄さんが金主を促した。

 金主は故人の亡骸の前に座って、線香を一本手に取って、ろうそくで火を点けた。そして数珠を持った手を合わせて目を閉じた。

「婿さんをご立派に育ててくださいまして、まことにありがとうございました。安らかにお眠りください」芝居がかった様子で金主はそう言った。

 まことに、興を削ぐ人間というのは、どこまでも極まったものだと私はむしろ感心した。そしてここまで来てしまえば、この金主を徹底的に観察してやろうという気持ちになった。どこまで行っても私には理解し得ぬ人物だが、それがいったいどの程度なのか知りたくなった。いちおう日本語らしきものはしゃべっているため、少なくとも宇宙人よりは分かり合えそうではある。

 次郎兄さんと私の父が、金主の背中を見ながら、やはり小声でしゃべっている。

「いったい、あれは何者ぞ?」と父が言った。

「何者って、兄の嫁さんの父親ですよ」

「それはわかっとる。さっきから言動が逐一トゲがあるが、そんなにえらい人なんか?」

「いえ、ただの木っ端役人ですよ。もう定年退職してるはずですけど。僕もあんまり言わないようにしてるんですが、あの人ちょっと苦手なんですよ。何て言うか、その、役人独特の、民間に勤務している人間を見下すようなところが、端々に出てましてね。『次郎君、まだ若いんだから会社なんか辞めて公務員試験を受けてみたらどうだ』なんて言われたのも、一度や二度ではないんですよ」

「次郎でそんな嫌味を言われるようじゃ、高卒で工場勤務のワシなんか、鼻糞みたいなもんじゃろうか」

「さあ。いずれにしても、役人にあらずんば人にあらず。どんな優良企業でもいつかは倒産するが、国家が倒産することはない。もし国家が倒産するときがあるならば、民間企業はみんな潰れている、なんて平気で言いますからね。正直、神経疑いますよ」

「しかし、あの時代の役人っていうのは、民間企業に就職できんかったような阿呆が仕方なしに行くようなところで、ワシが若いころなんか、公務員には嫁の来てがないって言われるくらいだったんじゃがの。何やら、時代が変わった感じがするわな」

 金主はようやく合わせていた手を離した。そして、すぐ後ろに従者のように座っていた宏一兄さんのほうに向き直って、

「宏一くん、明日の告別式は、隣の大部屋でやることになってるのかな?」と言った。

「ええ、そうです」

「もう準備は出来てるんだろうか。ちょっと会場を見せてもらいたんだが、いいかな?」

「だいじょうぶだと思いますが、行ってみますか?」

 ふたりは立ち上がった。

「ちょっと、告別式会場を見てきますね」と宏一兄さんが父に言ったので、

「それじゃ、ワシもちょっとだけ見させてもらおうか」と父が同行することになった。

 私も、野次馬根性を発揮して着いて行くことにした。もちろん、金主が度し難い発言をすると期待も伴ってのことだが。

 告別式会場は、葬儀屋の出入り口の真正面に、ふたつ並んである。そのうちの右側を、明日の叔父の告別式で使うことになっている。

 会場の、少し分厚い横開きのドアを開けると、そこにはかなり広い空間がひろがっていた。六畳間が8つ以上は入りそうな広さだった。正面には白木で造られた大きな祭壇があって、中央には叔父の写真がかざってある。映画館のような椅子が、中央の通り道の左右に配置されている。入り口近くには、キリスト教徒の葬式にも対応できるように、小さなオルガンも置いてあり鍵盤には布をかぶせてあった。

 金主はその会場を見て、「ふむ」と意味有り気につぶやいた。

 私はいくらなんでも叔父にこれはもったいないだろうと思った。この会場だけでも、一日借りようと思えば数十万はするに違いない。父も、

「ワシが死んだら、ここまで豪勢にしてくれんでも、墓に酒の一本でも持ってきてくれりゃ」などと言っていた。

「こんなものだろう。この会場、何人くらい入れるようになってるのかな?」と金主が言った。

「セレモニー会館の人が言うには、二百人で満員ということらしいですよ。右半分の席が親族席で、左半分が来賓になるようです」宏一兄さんが即答した。

「ということは、出席者は二百人以上にはならないということなのかな?」

「ええ。たぶんその半分も来ないでしょうね。親父の学生のころからの友人が数人と、昔勤めていた会社の関係者が、何人か。あと、ご近所の方も何名かいらっしゃるそうです」

「そうか。ずいぶんと寂しい式になるのだな。すぐ隣の部屋も、告別式会場になっているようだが、あっちは明日使うことになってるのだろうか」

「看板出てないみたいですから、たぶん空きでしょう」

「そうか。それなら、静かにできるなあ。お寺さんは?」

「頼んであります」

「そんなことはわかっている。どこの宗派だと聞いているんだ」金主の宏一兄さんに対する話しぶりが、だんだんえらそうなものになってきた。これがこの人の本性ということになるのだろう。おそらく、ふたりだけのときは、もっと高慢な態度を顕してるに違いない。役人らしいと思った。

「浄土宗です。先祖の墓も、そこの寺の敷地内にありますので」

「浄土宗かね。法然さんだね。うちは臨済宗だが」

「はあ」

 仏教に、多数の宗派があるのは誰もが知るところだろうが、それらにいったいどのような差異があるのか省みたことのある人間は少数派だろう。私もそうだ。こういうところにこだわりを持つと変にやっかいなことに巻き込まれかねない。

「お布施はいくら包んだんだ?」

「えっと……、五十五万円です」宏一兄さんは一瞬口ごもった。

「安いな。それじゃ、院号はいただけないだろうね。まあ仕方ないだろう。私だってそのうち、戒名をもらわないといけない身になるだろうが、そのときはぜひ院号をいただきたいものだな。二百万ほどお布施をすれば、だいじょうぶか」

「院号って、何々院、何々居士っていう、あれのことですね」と父が、宏一兄さんと金主の会話に割って入った。「あれにこだわりますか。何か、よさそうな漢字が並んでるというのは、わかりますが」

「こだわるに決まっているでしょう。何を言ってるんだ、あなたは」金主が父に対しても態度を変えてきた。「戒名というのは、死後に使う名前だ。少しでも良いのが欲しいというのが、人間として当たり前じゃないか」

「ちょっと、トイレに行ってきます」父は場を去ることを選らんだようだ。父は私の横を通りすぎるときに、「煩悩丸出しじゃねえか。どいつもこいつも」と吐き捨てるように言った。

「浄土宗の教えについては、知ってるか?」金主は去った父には一瞥もくれず、宏一兄さんを攻めた。

「いえ、あまり……。阿弥陀如来が重要ってことは、むかしテレビで見て知ってますが」

 金主は、ふんと鼻先で笑った。

「悟りを開くというのは、本来とても大変なものなんだ。学問を修めて、厳しい修行をして、ようやくその境地に至れるものなんだ。でも、それでは学もなく徳を積むこともできない人たちは、未来永劫、苦しむということになってしまう。そこで登場したのが、法然なんだ。彼の教えはつまり、難しいことをや苦行などをわざわざしなくても、南無阿弥陀仏と唱えてさえおけば、阿弥陀如来の力によって極楽浄土に至ることができるということなんだよ」

「はあ」

「つまり、バカでも怠け者でも、うまいこといくよと言って信者を集めた宗派なんだ。他力本願といういやな言葉があるだろう。これは本来、浄土宗の教えから来ているんだ。何にもしなくても、人の力で豊かになろうという思想だな。君にはぴったりかもしれない」

 仮に宏一兄さんが婿養子であったとしても、ここまで言われなければならんということはないだろう。しかし宏一兄さんは眉ひとつ動かさずに平然としていた。慣れているな、と私は思った。私はこの時代錯誤の嫌味じじいに天誅を下してやろうかと思ったが、さっき宏一兄さんが言ったとおり、祝儀不祝儀の席で騒ぐと、それこそ金主の思う壺のような気がして、耐えることにした。

「なんだ、これは」金主が何かを指差しながら言った。それは、「ご香典、献花はお断りします」の看板だった。

「この会館の人に出してもらったんです」

「違う。なんでこんなものがここにあるんだということを聞いてるんだ。香典を、受け取り拒否するつもりなのか?」

「ええ。親父の遺言で、葬式はなるべく簡単にすませて、香典なんかも持ってきてもらったら申し訳ないということだったから、そうするつもりです」

「馬鹿者」金主は怒りの表情を見せた。「宏一くん、君はその歳になってまだ、香典にどういう意味があるのか知らんのか。情けない。香典は死んだ人に持って来るものじゃなくて、喪主である君に持って来るものなんだ。故人の意志など関係ないんだ」

「しかし……」宏一兄さんは何かを言おうとしたが、金主は口を挟ませない。

「香典をもらい、香典返しをし、また今度こちら側が葬儀に参加するときには香典をお渡ししてという循環があってこそ、人と人の関係というのはうまくいくということが、君にはわからんのか。だからいまだに民間人の安月給なんだ。告別式がかように質素に執り行われるのは仕方ないにしても、これは、いかん。この看板はすぐに下げさせなさい」

「しかし、すでに明日参列してくださる方には、くれぐれも香典は持ってこないようにとすでに伝えてしまってますから、今さら変更するわけには……」

「ちっ」と金主は行儀悪く舌打ちした。「まったく、世話の焼ける。君はこれから、本家の当主になるんだろう。その自覚はあるのか。当主になるということが、どういうことかちゃんと理解してるのかね」

「ええ、まあいちおう」

「だいたい、次の子供はいつ作るんだ。マアサはかわいいが、しょせんは女の子。君の次に家を継ぐ者にはなれん。嫁に出した娘が、跡継ぎも産めないなどと言われれば、私の肩身がせまくなるんだ。わかってるのか」

「たいへん、申し訳ございません」

「君もいちおう、武士の家の出なのだろう。きちんとしなさい」

 あれ? と私は思った。私の先祖は、つまり宏一兄さんの先祖でもあるのだが、武士などではない。せいぜい中の上の農民と言ったところだ。

 宏一兄さんは床のほうに視線を合わせたまま、眉をぴくりと動かした。私は感得した。おそらく宏一兄さんは結婚する際に、この義父になるべき人物に、血筋を偽ったのだろう。そこそこ豪快な性格のはずの宏一兄さんが、この義父の前では小さくなって大人しくしているのは、嘘をついたことに対する負い目があるからに違いない。

 もしバレたら一体どういう事態が生じるのか妄想してみた。この金主ならばきっと、詐欺だ離婚だ、身分の低い家の男が娘をたぶらかしたなどと大騒ぎするに違いない。もちろん私が事実をチクるなどいうことはしないが、宏一兄さんがこの尊大な金主を上手にだましているということは、ある意味で最大の勝利なのかもしれない。私は一転して愉快になった。


 午前二時になった。通夜の部屋は、わずかな鼻息以外は何も聞こえない。叔父の弟である私の父と、叔父のふたりの息子が、このセレモニー会館で貸し出ししている薄っぺらい布団のなかで眠っている。

 宏一兄さんの配偶者とマアサちゃんは家に帰って明日の朝早くにまたやってくるということだった。金主は予約していたホテルに行った。その他の親族はいつのまにか、一人減り二人減り、最後には誰もいなくなった。

 私の兄から父に対して、あれからもう一度電話があった。父が言うには、兄は葬儀に出られないことを相当悔やんでいるらしい。私は兄の性格を、即物的で現世利益にしか価値を見出さない人間だと思っていたので、そんな態度を示す兄を意外だと思った。おそらく、叔父と兄との間には、私の知らない紐帯があったのだろう。

 変に目が冴えて眠れそうにない私は、父や宏一兄さんの足などを踏まないように気をつけながら部屋から出た。明日、叔父の告別式が行われる会場からは、例の看板は取り除かれていた。外はすでに真っ暗で、車のヘッドライトひとつも通っていない。

 私はセレモニー会館の広い建物の中を少し歩いて探索してみた。「事務室」という表札のついた扉には、「午後十一時~午前八時のあいだは、御用の方は奥の従業員控え室のほうにおいでいただくようお願い申し上げます」と書いた札が架けてあった。この時間でもまだ職員が常駐しているらしい。きっと、二十四時間対応できるようになっているのだろう。

 事務室の右手は「鳳凰の間」という部屋になっており、こちらも通夜を執り行う部屋になっている。ここには誰もいる様子はないのだが、「西島家通夜会場」という看板が立っていた。奥の従業員控え室からは複数人の話し声が漏れて聞こえて来た。

 鳳凰の間の手前にはジュースの自動販売機があって、すぐ近くにソファと灰皿があって小さな休憩室のような空間になっている。私はソファに座った。ほとんど何もしていないはずなのに、全身を疲れが駆け巡っていた。私でさえこうなのだから、叔父を看取りながら葬儀屋の手配をし喪主を務める宏一兄さんは、その精神の消耗はいかほどだろう。

 葬儀というのは、参列しなければならぬものなのかもしれないが、出来得るならば今後は避けたい。葬儀の際に嬉々としてあれやこれやと口を出す人間は、きっと金主のような変人だけだ。もし私が今、全知全能を手に入れることができれば、すべての人間に死ぬことを許さぬという暴力を行使する。

 不意に、会館出入り口の自動ドアが開いた。白衣を着た人が、病院で使うような滑車付き移動式のベッドを運んで来て、「鳳凰の間」のほうへ行った。移動式ベッドの上に寝かされていた人は、顔を白い布で覆われていて、それが死体であることは一目瞭然だった。きっとあの人が、鳳凰の間に寝かされることになる西島某さんなのだろう。西島某さんは、縦に水色のストライプが入った、絵に描いたような病院パジャマを着ていた。顔を覆った布からはみ出た髪の毛は白く、小さな身体をしていたので、おそらく老齢の女性だ。

 すでに日付は変わっているので、正確に今夜が西島家の通夜になるのだろう。とすると、今から十数時間後に、「鳳凰の間」でまた、「星霜の間」で起こったような、誰も得をしない不毛な消耗戦が始まるのだろうか。

「ドライアイス、お願いー」という大きな声がどこかから聞こえてきた。

 事務室の扉が開いて、中から男ふたりの話し声が聞こえてきた。

「鳳凰の間の客、祭壇はCセットで花はなし。家族葬で、折りや仕出しは明日の朝に連絡が来るようになってるけど、どうかな」

「どうですかね。専務の話だと、あんまりカネ持ってなさそうな感じとか言ってましたけど」

「どうも、そうみたいだな。詳しくは来てもらってから詰めるしかないけど、ひょっとしたら分割支払いになるかもしれないぞ。互助会も無しだそうだから」

「Cセットで分割ですか。ケチくさいなあ。そんなにケチるんなら、何にもせずにさっさと燃やしてしまえばいいのにねえ」

「本当だよ。だいたいさ、お前もし明日死んだら、葬式どうして欲しい?」

「いちおうこの会社でお世話になろうってくらいの愛社精神はあるつもりですが、退職した後だったら……、どうでもいいや」

「だろ?」

 従業員は、まるで私の存在に気づいていないようだった。ずいぶんとおもしろい話が聞けそうだ。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

嘆き方を学ぶ 台上ありん @daijoarin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ