Nameless Song

 全宇宙を満たす小さな粒子の発見が、一時期世界を賑わした。それなしでは世界には「重さ」が存在しないことになり、「重さ」が存在しないということはそのまま「モノ」が「在る」ことが失われることを意味する、らしい。

 詳しいことは専門家じゃないから分からない。そもそも専門家でさえよく分からなかったのだから、今こうして世界を騒がしているのだろう(理論が先にあって、実際に粒子の存在が確認できたから騒いでるんだぞ、っていうツッコミが入りそうだ)。

 どうしてそんな話をしてるかって、僕も体験的に世界を満たすあるモノの存在性を実感したからである。ソレの存在性は大それた発見というわけでもなく、それこそ昔から人間の周りにあって当然なものだっただろう。時に安息を、時に危険を……人間たちはソレらを利用して生活や人生を豊かなものにしていったことはまぎれもない事実だと思う。

 世界は”音”で隙間なく満たされている。僕は”音”を失いかけて初めてそれに気付けた。



 二つの異変は冬将軍とともにやってきた。一つ目の異変は冬休みに入る頃から。どうも咳込むことが多くなり、鼻歌も日常会話も困難な日々が続いた。風邪だと思ってマスクをしたり手洗いうがいを徹底したりしながら過ごしていたけれど、一向に改善する気配がない。ついには講義を休んで寝込む始末だ。

 ピピピ、という電子音の合図で布団からごそりと起き上がり、体温計の数値を見る。

(微熱か……。咳が一番辛いけど、体の節々も痛む……)

 一週間の様子見した結果、観念して病院に行くことにした。

「気管支炎ですね」

「はあ……ゴホ」

「とりあえずお薬を1ヶ月分出しておきますので、また1週間後くらいに来てください」

 ぺこりと一礼して部屋を出る。会話をするのもやっとなのが歯がゆかった。

(しばらくは治療に専念か)

 携帯を開き、メールの新規作成を選択する。

『気管支炎のため音楽活動を休止します。咳込むため連絡手段はメールで』

 心配させるのも悪いし、と少し文面でおどけてみせる。返信は程なくしてきた。

『近くにいるとうつるかな?』

『急に起きたタイプは大体ウイルスが原因だからうつりやすいって言われた』

『そうなんだ』

 メールは文字を打ってる時間が惜しいからと彼女とのやり取りはほとんど電話だったので、メールで会話をするのは久しぶりだ。

(なんか情報量が全然違うなあ)

 物寂しさにため息をついた。それが彼女に会えないからなのか病気で体が弱っているからなのかは判然としなかった。

 二つ目の異変は、薬を処方された翌日に現れた。シャワーを浴びた後、冷凍しておいたご飯を温めながらドライヤーで髪を乾かす、いたっていつもの朝だ。

 強い風に揺れる前髪。ブオオオ、と唸りを上げて働くドライヤー。

(……?)

 なんだろう、この違和感は。

 首をかしげながら髪を乾かし終えると、計ったように電子レンジがチンと鳴った。

(げっ……)

 違和感は確信へと近づいていく。手に持っていたドライヤーを置く音、レンジに近づく自分の足音、扉を開ける音。

「あっつ!」

 独り言までも。

(半音……いやそこまでじゃないな)

 すべての音が、ほんの少しだけ低い。

 思い当たることは一つあった。調べてみればやはりビンゴで、処方された薬の副作用が原因だった。確かに思い出せばちゃんと説明を受けていたはずなのに、よく聞いていなかったのだろう。でももしその副作用のことを知っていたとしても、実際体験すればやっぱり驚いていたんだと思う。

 いつ治るんだろう。薬を変えることはできるのだろうか。不安はたちまちに膨れ上がる。

 彼女に会うことは愚か、こんな調子では音に触れることもままならない。音階も持たないと思っていた音たちが総出で僕に襲いかかっているように感じる。

 治るまでの辛抱とはいえ、音の歪んだ世界は僕にとって地獄だった。



 冬の太陽は呑気にも南半球でバカンスを楽しんでいて、日本の空はどこもどんよりと重い灰色だ。街中に流れる音楽はクリスマスのような神聖さも、ハロウィンのような陽気さもない。半音下がった世界でも、バレンタインの持つ独特の甘い響きは肌で感じ取れた。

 服も食品もなんでも揃う隣町のショッピングモールに足を伸ばしていた。年が変わってからなかなか時間が取れなかったが、普段行かないところまで赴くのは悪くない。自分の耳では受け入れられない鼻歌も、人々の賑わいに紛れさせればそこまで気にならない。

 店内でも一際賑わっていたのが、有名なチョコブランドが一同に集まった特設のバレンタインコーナーだった。季節柄仕方ないし毎年恒例の光景なのだろうが、やっぱり異様だ。同様のイベントのはずなのにホワイトデーは全く盛り上がらないのだからその異様さは明らかだ。勤め人と思しき女性の団体がまとめ買いをしていたり、まだ児童と呼ばれる年齢であろう少女が母親と一緒に包装のデザインを選んでいる。バレンタインと一口に言っても、近年はお歳暮やお中元のような意味合いが強くなりつつあるのかもしれない。

「お待たせしましたァ」

 白い小さな紙袋を手に、店員が客を呼ぶ。チョコレート色の制服と対峙するのは見覚えのある深緑のコート。緑は彼女が一番好きな色だ。

「ありがとうございましたァ」

 安心したような、満足そうな彼女の表情。チョコのブランド名が大きく描かれた紙袋を肩にかけていたカバンにしまい、何事もなかったかのように特設コーナーから抜け出していく。ブランド名は僕でも知っている、高級で有名なものだった。

 見つめ続けるのも何となく悪い気がして、僕は彼女に気付かれないようにその場から反対方向へとそそくさと立ち去った。



 二月十二日。大学で設定されている試験期間の最終日だ。道行く人々の中にはスポーツで一汗かいたような爽やかな表情もちらほら見える。しかし数多の神々を恨むほどに苦悶の表情を浮かべる人も、いないことはない。

「今年も終わったね」

「気管支炎にレポートに試験。本当に大変だった」

「なんで一年の感想を促してるのにそんな感想しか出てこないのよ」

 なんでもない話、なんでもない時間。普段より半々音ほど低い彼女の声。ノリを合わせたり無理に笑顔を作る必要がない彼女との時間はやはり居心地がいい。

「試験続きの日々が終わったんだから、しょうがないじゃないか」

 どうしてもそれを失うことを考えられない。

「つまんないんだから……つまりこの季節ってわけ」

 サクサクと雪を踏んでいた足を止め、先日見たあのショルダーバッグをおもむろに開け始める彼女。例の白い紙袋が脳裏をよぎる。これから披露されるマジックの種を既に知っているような、頬のあたりがくすぐったい感じだ。

「今年度はとてもお世話になりました。はい、どーぞ」

 手渡されたのは、予想を裏切る青い紙袋。口は太めのマスキングテープでしっかり止められている。

「……え?」

「もらえないと思った? さすがにこれだけお世話になったんだもん、それなりの気持ちを伝えるよ」

 ……ああ、はい。

 僕は全てを理解した。

「なんか嬉しくなさそう」

「そんなわけ。ありがとう、美味しくいただくよ」

 これは”お歳暮”だ。

 そりゃあわざわざ高いお金を払って僕なんかに”お歳暮じゃない"チョコをくれるわけがないのだ。そういうのは本命の役得で、女の子はちゃんと区別ができている。青い紙袋には特段ロゴが書かれているわけでもなく、明らかに安っぽかった。バレンタインデーというのは、幻想的な響きを持ちながら、どのイベントよりも現実的だ。

「久しぶりにそっち行きたいんだけど、今からどう?」

「まだ耳が変だから、曲は作れないけど」

「ああ……早く良くなるといいのにね」

 現実的な分、思い知らされる。僕らはただの趣味が合う"友達"なのだと。




 二人分の紅茶を用意して、ちゃぶ台に届ける。この彼女の一連の動作にさらに無駄がなくなった。ここは誰の部屋なんだろうと、自分の部屋ながら思うこともたまにある。

 文化祭が終わってからしばらくお互いに、いわゆる"燃え尽き症候群"に陥った時期が続いた。それが過ぎゆきそろそろ曲が作れるかなと思った矢先に気管支炎と試験期間が僕を急襲して、なんだかんだで今に至る。

"一年が過ぎ去った"。彼女は臆することなくその事実を口にしてしまう。

「本とかモノは積もれば積もるほど空間を埋めていくけど、音楽は形がなくて便利だね」

 意味深長な物言いだ。形が無いことを"便利"と形容したことは無いけれど、そういう認識はあってもいいのかもしれない。

「音楽だってCDとかいう媒体で管理されてるけどね。本だって、全部諳んじれるなら部屋に置く必要無いし」

 物理的であろうがそうでなかろうが、残ることは"強さ"だと思う。時の流れに逆らう強さ、人の記憶に残る強さ、価値を与えられる強さ。そういう点で人間はやっぱり儚いし弱い。だから人間は遺産に執着するのかな。今は見えない後世に願いを託して、モノや記憶に思いを寄せて、人は残すことに価値を見出す。

「……あのさ」

 強気な発言を繰り返す彼女にしては珍しい、落ち着いた声色。

「あと何曲、私はあなたの曲を歌えるかな」

 それはいつかの夏の日、燃え尽きたステージが回収されるのを二人で眺めていたときにも聞いた声色だ。

「……可能な限り、努力するつもりだよ」

「不可能な時って、どんなとき?」

「今みたいに、音の感覚がこのまま一生狂い続けてたら無理だ」

 彼女のために曲が作れなくなる日、それは僕が一番考えることを恐れていた瞬間だ。このご時世、離れていたってやり取りはできる。でも不可能になる可能性なんていくらでも挙げられる。

「同様に、僕が死んだらお終いだね」

「そんな当たり前なこと聞いてない」

 言葉尻にも表情にも苛立ちを隠しきれていない。どうしてそんなムキになる?

「じゃあ……僕の曲が君にとって必要なくなったらじゃない?」

 怖いのは、求めてもらえなくなること。僕自身が命や作曲の術を失うのと同じくらい、君の耳にも声にも心にも響かない曲に、僕は価値を見出せないだろう。

「そんなことあるわけないでしょ。他には?」

「……あるわけないなんて、言い切れないじゃないか」

 あからさまに不機嫌な顔をされた。なぜ君が怒るんだ。

「だって、『曲や歌詞を忘れそうになっても、その曲が君のためにあったことを忘れないでほしい』って言ったじゃん」

 テーブルの表面をゆっくりと辿って、彼女の指が僕の指に触れる。すがるような、必死な表情が胸に痛い。

「あの言葉、私には」

 それらはそれが自然であるかのように、ゆっくりと繋がれる。

「告白に聞こえた」

 彼女の言葉は既に用意されていたように、ずっと彼女の中で発せられていたかのように、滑らかに走った。だめだと頭ではわかっていても、今は手のぬくもりの引力に逆らえない。

「今までの時間を、これからも求めちゃダメなの?」

 彼女を寂しがらせる全てのものから、彼女の心を揺らがせる全てのものから、そして何より自分の欲望から、彼女を守りたいと心から思っていた。

「僕は君の恋人じゃない。君の恋人の代わりでもない」

 それは信念にも近いものだと、自分でも信じていたのに。

「寂しさから守ってあげたかった。でも、ダメだったね」

 美しい雫が彼女の右目から左目から落ちていくのを、見ないようにしながら僕は言った。

「両方を失う前に、僕から離れて」

 好きな人を太陽に例える表現が世の中には存在するけれど、彼女は決して僕の太陽なんかじゃない。例えるならば暗い闇に溶け込みそうな、僕にも分からない僕の心に光を差し込んでくる月だ。夜空に輝くそれのように一定の距離を保って、遠くから綺麗な姿だけを見つめ続けるだけだと思っていた。

 彼女の開きかけた小さな唇はぐっと締められ、繋がれていた柔らかい温もりから僕の右手は解放される。冬の冷気だろうか、離れた瞬間ヒヤリと風がそこを撫でた。

 彼女を守りたい気持ちも、彼女を奪いたい気持ちも、どちらも同じ愛だというのか? だとしたら愛なんて、この世の何よりも冷たくて悲しいものだ。

 窓の外はもううす暗い。ベッドに体を倒しながら、彼女の帰路を照らす月が明るいことを願った。




 試験の疲れも相まって、いつの間にか深い眠りについていたらしい。彼女を帰した後の記憶はスポンと抜けていて、時計の針は夕飯時を大きく過ぎていた。空腹感はあるが、今からちゃんと作るのは億劫だ。

「チョコ、食べるか」

 安かろうが高かろうが、日本製のチョコならなんでもうまいのだ。半ば投げやりにそう言い聞かせて紙袋を閉じていたテープを剥がす。

「あ……」

 紙袋同様透明なビニール製の包みも安っぽくて、包み方がいびつだった。袋の底にココアパウダーがたまって、透明な包みから覗くチョコレートはお世辞にも球形とは言えなかった。

「手作り……」

 箱の底にはメッセージカードらしきものも入っている。開いてみると、そこには詩が書いてあった。




"すべてを終わりにしよう"

誰かが言ったその言葉に

流れ落ちる涙の音は

誰にも聞こえない


君はもう知っているね

どんなに愛し合っても

二つの世界は一つにならない

でも人は簡単に叫ぶよね

"愛は世界を救う"って


信じたいよ、だって僕には何も出来ないから

君が見つめる視線の先に僕が映りこんだら

宇宙が歪み始めてしまうから


余るほどの思い出が掌から溢れる

それらは彼との時間を語るものたち

一つを拾って神様は笑った

"どうしてこんなものが大切なの?"って


信じたいよ、だって君は何でも出来るから

君が見つめる視線の先に僕が映りこんだら

宇宙が歪み始めてしまうから


愛を歌うその歌は誰の愛を歌っているの

他人の愛と偽って自分の愛を歌う姿は

本当に本当に奇妙に見える


僕は本当の愛を知らないけれど

君の声を拾ってあげられる

誰にもその叫びが届かなくても

僕にはちゃんと聞こえている




 詩のほかに文面はなかった。僕は読みながら、さっきの彼女の涙を思い出していた。やっぱり僕は彼女にはかなわないのだと改めて知る。手が自然と携帯に伸び、迷わず彼女の番号に電話をかけた。コールに少し待たされたが、彼女はちゃんと出てくれた。

『もしもし』

「チョコも詩も、ありがとう」

『あ……うん』

 誰が悪いわけでもないのに、苦しんだ。それはきっと彼女も同じだったのだろうと願いながら、息を一つ吐く。

「言い忘れてたんだ」

『え?』

「君が好きだ」

 気取った言葉なんて言えない。そういうのは、作詞するときにでも考えればいい。

「君が好きだった。一緒に歌を作るときよりも前から」

 冷気に白く染まる彼女の吐息に、恋を見出したことを思い出す。

「歌う君はもっと好きだった。ずっと……」

 “ずっと”。僕が今まで避け続けてきた言葉を、自身が口にしていた。それに気づいて少し言葉に詰まったけれど、唾を飲み込んで怖気を追い払った。

「ずっと、そばで聞いていたいと思いながら曲を作ってきた」

 いつしか彼女の急な押しかけや断れない要求が、構ってほしいという寂しそうな素振りに映っていた。

「君のそばに、他の誰かじゃなくて自分が、居てあげたいと思ってた」

 そうやって甘えてもらえてることに、僕自身甘えてたのかもしれない。

「今から会いに行っても、いいかな」

 嗚咽しか聞こえなくなっても、僕も彼女も通話を切ることはしなかった。きっと今までで一番長い通話になっていると思う。

『遅いよ』

「え?」

『すぐ来てよ。遅いよ、バーカ』

「はは……うん、わかった。家で待ってて」

 電話を切って、準備をする。コートにマフラーに手袋。まだ口をつけていないチョコと彼女の手書きの詩が書かれたメッセージカード。さらにはノートパソコン、ヘッドホン、キーボードを大きめのリュックサックに詰め込んで、足早に部屋を飛び出した。



 家に向かう途中で彼女に出くわす。待ってろと言ってちゃんと待っていられないのがこの人だと、いつも困らされていたのに忘れていた。

「よかった、すれ違わなくて……」

「こんなときに寄り道なんかしないでしょ」

 手も繋げない、お互いがお互いを見る目がぎこちない。まだ僕たちの間では何も変わっちゃいないような気がして不安になる。

 二人並んで雪道を踏みしめ始める。話題を探すように思考を巡らせ、そういえば、と僕は恐る恐る聞いてみた。

「いくつか聞きたいことがあるんだけど、いい?」

「うん」

 冷たい夜風に当てられて、彼女の頬と鼻の頭はうっすら赤く染まっていた。早く暖かいところへ連れて行ってあげたいけれど、早足になって彼女を置いていくわけにもいかない。女の子と歩く時、そこが少しもどかしい。

「じゃあまず……この間隣町でチョコを買ってるところを見たんだけど、あれは誰へのチョコ?」

「ああ、あれ? バイト先の人たちに女子全員で買おうってことになって、代表で私が買いに行ったの」

「ほんまもんの義理チョコか……」

「もしかしてチョコ渡した時にあんまり嬉しそうじゃなかったのって、それ?」

 黙って頷くと、しばらくの間会話が成り立たないほど笑われた。

「じゃ次は……彼氏は?」

「文化祭が終わった後に別れたよ」

 嗚呼。僕の願いは一体……。

(ここで「別れて欲しくなかったんだ」なんて言ったら混乱するんだろうなあ)

 当時の僕の思いは追々説明するとして、聞きたいことは全部聞いてしまおう。

「じゃあ、どうしてさっき家に来た時にそれを言ってくれなかったの」

「だって」

 彼女は申し訳なさそうに、でもいたずらっぽく微笑みながら答えた。

「『僕は君の恋人じゃない。君の恋人の代わりでもない』っていう言葉で初めて、あなたが彼氏の存在を既に知っていることを知ったの。そして、口で説明するよりカードを読んでもらった方があなたには確実に伝わると思った。もしチョコごと捨てられちゃったりしたら、それまでかなって」

 試したみたいになっちゃったね、と彼女は小さく頭を下げた。

「あれ、日本語になってた?」

 少し恥ずかしそうに聞いてくる。そのくすぐったさは僕もよくわかる。

「すごくいい詩だと思う」

「よかった、嬉しい。だけど、すごく時間かかったの。よくあんなにモコモコ曲を書くなぁって、また尊敬しちゃったよ」

「いやあ、あはは」

 彼女の素直な物言いは、僕を褒めるには十分すぎる効果を発揮する。

「どう? 歌ってみる気は」

「歌う気しかないよ。絶対書いてくれると思ってた」

 ……やれやれ、本当にこの人は。

 話しているうちに彼女のアパートに到着する。いつの間にかほぐれていた緊張が再び僕の心臓を無駄に躍動させる。おじゃまします、と呟いて入った部屋は想像通り、緑が基調のさわやかな雰囲気だった。

「ん? じゃあなんで泣いたの」

 コートを脱ぐと、彼女がハンガーを手渡してくれる。そのタイミングの良さに顔が緩みそうになる。

「もう、聞きすぎだよ!」

 そんな空気の和らぎも許すまじと彼女の否定が入った。う、と僕はうなだれる。確かにさっきから僕は質問しっぱなしだ。

「そんな風に想ってもらえてるなんて、知らなかったから……う、嬉しかったの!」

 顔を真っ赤にしながら、目をつぶってやけくそに彼女は答えてくれた。そんな姿に何故か、いびつなチョコレートが重なった。

「じゃ、今からこの詩で作るよ」

「え、耳は……」

「僕は音符を作るだけ。良いかどうかは君の判断に委ねる」

 ヘッドホンを持ってくるよう指示すると、彼女は戸惑いと期待が混ざった表情で立ち上がった。僕は僕で、機材を準備しながら自分の世界に入る。

 目だけの情報で作曲しようだなんて無謀だ。でもなんだかできるような気がして、出来たら絶対大切な曲になると確信して提案してみた。ある程度の音感は既に持っている。使いたいフレーズも既に幾つかがこのパソコンに入っている。それらの音を拾って音楽にしていく役目を、今日は彼女に任せてみよう。

「準備できたよ。私は何をすれば良い?」

 右手にはヘッドフォン。僕と色違いの、ピンクのラインが入った黒いヘッドフォンだ。

「まずはこのファイルを一通り聞いてもらえるかな……」

 スタジオは小さな僕たちの部屋。ステージもマイクもない君と僕のリサイタルは、これからも続くみたいだ。



【「君と僕のリサイタル」完】

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君と僕のリサイタル 灯火野 @hibino_create

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