十三分(せつな)

 時間がない、と心から感じたことなんて過去に何度あっただろうか。

 日々の生活や試験や、幾つか経験して来た受験でさえも、思い返せば僕はそこまで焦りを感じずになんとなく通過して今日までを生きてきた。でもどうしてか彼女との時間はどんなに一緒に過ごしても足りなくて、彼女が隣にいない時間が刻々と過ぎていくだけで胸が焼き付くように痛むこともある。

「うー、暑い」

 お手洗いから戻って来た彼女の足が触れたのを察して、僕はさりげなく足を離す。しばらくすると今度は、胡座をかきなおした僕の足が彼女の膝に軽く当たったのに対して彼女が膝を一センチほどずらして僕から離れる。そんな物理的な”付かず離れず”が続く。

「はー……」

 長めのため息を一つ、ぐらっとする眩暈も肩の重さもなかった。

「進み悪い」

「……わかる?」

「手が全然動いてないから」

 先日作って彼女に聞かせた曲の調整をしていた。その名も『U.G.』――万有引力。それはあまりに壮大なテーマで、どうしても納得のいくアレンジができない。

「なんて言えばいいんだろう。イメージはぼんやりとあるのにそれが形になるに至らないんだよね」

「『ここまで出かかってるんだけど……』みたいなやつ?」

 彼女は自分の喉に手刀を当てて、言い淀むときによく使うセリフで例えてくれた。

「そうそう、そんな感じ」

「よくわかんないけど」

 僕の手元に目をやった彼女がさっと立ち上がる。僕の部屋の勝手を知ってきた彼女は、尽きそうな僕のコーヒーカップにおかわりを注いでくれた。ありがとう、と僕は小さく頭を垂れる。

「……あと二週間」

 デスクの下のゴミ箱に視線を向けて、彼女がぽつりと呟いた。写真やイラストがふんだんに使われ、色鮮やかに仕上げられたパンフレット。エネルギーに満ちあふれたその紙切れはあまりに眩しすぎて捨てることさえ一瞬躊躇った。ゴミ箱の縁で踊る『学園祭』のポップな文字。それが僕を焦らせる。

「聞いている人に『届ける』時間が欲しいな」

 ぐっと体を寄せて、彼女が作業中のディスプレイをのぞき込む。間奏のあたりの譜面を指でなぞりながらそう言った。

「『届ける』?」

「うーん、上手く言えないけど……私だけ歌ってたらなんか独りよがりになるような気がする」

「『掛け合い』のことかな? でもそれって結構チャレンジだな……」

 持ち時間は一組十五分。そのうち二分がステージ準備に充てられているから、正味十三分が公演に与えられた時間ということになる。つまり、十三分にすべてをかけなければいけない。

 もし観客が乗って来なかったら? もし観客の人数が少なかったら?

 そんなことを考えだしたら掛け合いなんて入れられっこない。

「大丈夫だよ」

 彼女は至極真面目な顔で、大丈夫と繰り返した。

「不安に思わないで。君はいつも通り作ってくれればいいから」

 急に頼んだりしてごめんって、思ってる。

 彼女は少し声を落としてそう言った。

「私は君の作る曲が好き。一度でいいからたくさんの人の前で歌ってみたいって思ってた。いつも通り作れないんだったら、作ってくれないんだったら、もう金輪際歌わない」

 脅迫まがいなことも言われた。彼女は断れないお願いの仕方をいくつも知っている。もしかしたら僕は、彼女に対する気持ちを彼女に弄ばれているだけなのかもしれない。

「……頑張らざるを得ないね」

 でも、それでも構わない。

 彼女に必要とされている限りは、僕は彼女に尽くしたい。




 家を出る直前、深夜一時丁度を指す時計を確認した。僕は自転車に跨がり、一人で走り出す。

『この川を下っていくと、海に着くんだって』

 いつかの彼女のそんな言葉を思い出しながら、ひとまず川を目指してペダルを踏む。深夜まで明かりのつく飲み屋の多い学生街を離れ、駅に向かう道とは反対側の道を走る。街灯は少なく、夜に沈む道を自転車のライトだけを頼りに進み、たまに照らされる雑草の色鮮やかさが闇に不釣り合いだった。

 もうすぐで川のある辺りだというところで水の流れる音が耳に届いた。耳を澄ませて流れる方向を聞き分ける。

「こっちでいいのかな」

 風が心地いい。彼女とよく話をするようになったのも、こんな季節だったような気がする。夏の終わりを感じ始めた虫たちと一緒に、初恋の歌でも歌いたくなる。

 でも僕は歌が得意じゃない。




 潮のにおいがきつくなってきた。「○○海岸まであと500m」などというさびれた看板も見えた。彼女とともに行動しない夜は、久しぶりかもしれない。自転車をこいでも、後ろを振り返っても、彼女の姿が闇から浮かびあがったりはしない。

 彼女は僕を必要としている。でも、僕はどうなんだろう――。

 ふとそんな疑問が頭をよぎった。愛を超えるような愛でない何かを、僕はまだ知らない。でも、僕なりの答えは『U.G.』という一つの形で彼女に提示した。僕と彼女をつなぐ決定的な"何か"があるとしたらそれは僕の作る曲に他ならないという自覚もある。

 恋人のいる彼女をいつまでも自分の傍に繋ぎ止めようとする僕がいる。

 僕が彼女に求めていることって何なのだろう。




 大学生になって初めて海にやってくる僕を出迎えたのは、白く柔らかい砂浜と闇をも砕かんばかりの波の音だった。僕は少なからず恐怖を覚えて、一歩ずつ地を確かめるように海へと近づいた。きっと夜回りの警官に見つかったらまず職務質問されるところだろう。

 職務質問……?

(しまった、学生証を部屋に置いてきた)

 ……まあ、大丈夫だろう、きっと。

 歩いていると、波の中で激しくうごめく二つの影が見えた。得体の知れなさと丸腰かつ一人である不安に一瞬足を止めたが、声をよく聞けば朗らかに笑い合いながら海の水をかけ合っている男女のようだった。僕は一つ息をついて、向きを変えてまた歩き出す。

 生命の根源であるという海の、夜の姿を見るのは初めてだった。波の音は心臓の鼓動よりもずっと不規則で、あらゆる方向からのそれは入り交じり僕の体を震わせる。

 それでも僕は一歩、また一歩と海の方に近づき、潮の手が足下に届くぎりぎりのところまで近づく。死の淵に立っているような感覚ってこういうことなのかもしれないと思うくらい、今にも後ろに逃げ出したくなるほどに恐ろしかった。遠くではしゃぎ続ける二人のように海水に浸る勇気が出ない。

 たったの一歩が踏み出せないまま、僕は作りかけの曲を思い出していた。鼻歌は全身をふるわせるほどの波の音に簡単に負けてしまう。『U.G.』の歌いだしのGの音を、月のない闇の中で探した。




"惹かれ合う"それは万有引力

青い世界に君と僕は生まれた

たとえこの傷は消えなくても

痛み消える君の笑顔は魔法


教えてまずは君の答えを

まだ知らないこの気持ちを

目に見えないものなのに

どうやって名前をつけるの?


二人の世界を痛く照らす眩しい光の中

忘れようって決めた 君に惑う心が苦しいから

引力が強すぎる 忘れようとすればするほど

手の届かないほど遠い君を近くに感じる




 気づかないうちに鼻歌は歌声になって、僕は歌詞を口ずさんでいた。

「……っは」

 自分で作った曲なのに、息がうまく続かない。

 自分で作った曲なのに、高すぎて出ないキーがある。

 歌うことが好きな彼女のために作った曲なのだからそれらは当然のことなのに、どうしてか目の痛むような涙を誘う。

 いつまでも彼女が僕のものだという幻想を抱き続ける気はない。僕のものだ、なんてすでに傲慢な思いを抱いている勝手は十分承知だけれど、でもやっぱり今の彼女の関心は確かに僕に向いている。

 でも、もし”その時"がきたら、僕はどんな風に振る舞うんだろう。"ずっとここで曲を聴きたい”……そんな彼女の一言が”嘘"に様変わりするその瞬間を目の前にしたら、僕はどんな言葉を彼女にかけるのだろう。

 幻想は簡単に抱けても、現実を目の前にした自分の姿がまったく想像できない。それが怖くて僕はただ曲を作り続けている。そうして時間は過ぎていく。

 波が寄せては、足下にも届かないうちに引いていく。何も考えずに繰り返してきた日々に僕は願いをかける。

 僕は"今"以上を求めません。

 だから、"今"をずっとこれからも、僕に与えてはくれませんか?

 闇さえ飲みこまんとする飛沫の砕ける轟音は、そんな願いさえも粉々にしてしまうようだった。

「もう、二時になるのか」

 彼女の言葉に引き寄せられてたどり着いたこの場所で、僕は一人苦笑する。

 夜の海は何かを願う場所ではなかったな、と。




 大学のステージだからとあまり興味を持たずにいたけれど、近くで見ると骨組みのしっかりとしたステージだった。サングラスで眩しい夏の陽射しを遮った視界で、僕は周囲をせわしなく見回す。

「ここまでしなきゃだめ? どうせばれるでしょう」

「ばれるかどうかじゃなくてその瞬間僕が恥ずかしいから……」

 さほど長くもない髪の毛をまとめ鮮やかな緑のスカーフで器用に飾った彼女が僕に痛い視線をくれる。僕もあまり鏡を見ないようにしてこの舞台までやってきた。

「これでもちゃんと見繕って新品を買ってきたんだよ。それにほら、陽射しも眩しいし。……ね?」

「何が『ね?』よ」

 往生際の悪さも、視界が暗ければなんとなく和らぐような気がした。普段の僕のままステージに上がるなどということは想像もつかなくて、急遽目深にかぶれそうな夏用のニットキャップとサングラスをファッション店で購入した。何もかも昨日の話だ。

「これだけは勘弁してくれない?」

「いてっ」

 無理矢理剥がされたサングラスの、曲がったところが耳に引っかかって僕は悲鳴を上げる。

「こっちのほうがいいよ」

 そのまま彼女はサングラスを僕のシャツの胸元に引っ掛けた。にかりと笑う彼女の表情のいつにない柔らかさと振り向き様に見せたうなじは、まだ見たことのない彼女の一部だ。

 失われたかのように、言葉は何も出なかった。

「続いてのステージは、無名のバンドからの参戦です!」

 キャンパス内のあらゆる建物に反射してエコーがかった音響に、僕は眩暈さえ感じていた。

「ほら、出番」

「う、うん」

「準備、二分しかないんだから。ちゃんとしてよね」

  彼女の背中を追いかけるようにステージに上がった瞬間、うおぉ、という歓声が聞こえた。そちらを見なくてもわかる。同じ学科のやつらだ。なんでお前らがステージにいるんだよ、彼らが言いたいことをまとめればそんなところだろう。

 僕と彼女とで一曲ずつ選んだカバーと、オリジナル一曲。合計三曲のお披露目というのが僕たちに与えられた十三分の使い道だ。歌うのはもちろん彼女。僕は曲と曲を繋げるために後ろで機材をいじる。

 バレたくない、見られたくない、そんな思いを抱えたまま舞台に立つ。本当は舞台の裏とか袖とか見えないところで参加したかったけれど、彼女もまた舞台で一人になることを躊躇った。ステージで注目されるということはとても攻撃的な戦いだと思っていた。でもそんな弱気も、ひとたび曲が流れ出せば音符とともにはじけて消えていく。

 無駄なMCなどを一切入れない、歌だけに集中できるステージ構成だった。プロによる既存の曲を歌うだけなら、観客も盛り上がれる。順調な滑り出しと言えた。

 その盛り上がりに比例するように、三曲目を投げ出したくなる気持ちが大きくなる。

「次が最後の曲になります。聞いてください」

 ずっと観客に向かって歌い続けていた彼女がステージ後方、僕の方を振り返る。それは突然のことで彼女の背中しか見ていなかった僕は小さくえっ、と驚きの声を漏らす。

「……『U.G.』」

 それは耳元で愛を囁くかのような、甘い声だった。




惹かれるものは離れてる

引き合う力試されてるように

差し伸ばされた手と白いあわひかり

もがいてた水の底から見えた


わからない"不思議"というくらいしか

水面が世界を分つように

それに名前がついたら

たちまち”分かって"しまうの?


二人の世界冷たく浸す透明な水の中

生きようって決めた 生に惑う心が苦しいから

負けそうになる 逃げようとすればするほど

沈んでいく溺れていく呼吸が苦しい




 曲の二番に当たる部分が終わり、間奏に入っても観客の手拍子は止まない。その途中、彼女が僕の方にやってきた。小さな唇がいつもより赤くて、白い耳たぶにはスカーフに合わせたのだろうか、緑の小さな石が飾られていた。

 ……今更ながら気づく。




『特別』という魔法 君と生きる魔法




 僕と彼女しか知らないこの曲のリズムに、大勢のオーディエンスが手拍子でひとつになる。

 曲の中でリズムは簡単に変わらない。そして変わらないリズムは少しだけ先の未来を予感させる。僕はそこに音楽特有の力を感じた。




『大切』という魔法 今日を生きる魔法




 楽しい。生まれては消えてゆく”瞬間”の一粒一粒の美しさに陶酔する。

 彼女がマイクを向ける仕草に合わせて観客からも歌声が聞こえてくる。その隣で僕もリズムに体を委ねる。

 僕と彼女の曲が僕らだけのものではなくなる瞬間なのに、それがなぜだか心地よいと感じていた。 




『ごめんね』はこのナイフで切り刻むよ

『好き』で君と離れるくらいなら




 二秒間。僕の想いの丈をつぎ込んだ、永遠のような無音。

 それは恐ろしいほど刺激的な刹那だった。




二人の世界を青く染める爽やかな風の中

愛そうって決めた 離さないよ例えば苦しいとき

引力に委ねてみて ほら自然と分かってくる

眠くなるのは疲れてるから

目に見えなくて不安でも

距離を超えて君を感じている




 はあ、と官能的な彼女のため息がマイクを通して会場全体に、僕の耳に、開放された広い広いキャンパスに余韻を残す。

「……ありがとうございました」

 広場の向こうの灰色の建物に反射したのか、彼女の声は二度三度とリフレインしてライブは終わった。

 ……“ライブは終わった”、そんな感想を抱く日が来るだなんて。




 僕たちの十三分せつなはあっけなく燃え尽きた。広場のベンチに二人で腰掛け、解体されゆくステージを見つめ続けていた。頭に巻き付けていたスカーフはもう外されて、膝にきれいに畳まれている。

 しばらく二人沈黙が続いていたけれど、彼女が思いついたようにこんなことを言い出した。

「私が君の作る曲が好きなのはね、」

 あ、と思い出したように周囲を確認し、撤去作業で忙しそうにしているスタッフの姿を見つけるなり、僕に耳を貸すようにと手招きした。どうやら聞かれたくないらしい。

 なんで好きかっていうとね、と彼女はもったいぶった。胸の逸りが止まらない。

「君の思いの詰まった言葉をそのまま口にできるから」

 耳元でささやかれたその言葉は、夜の波とはまた違う響きで僕の全身をふるわせた。彼女はさらに続けた。

「君が歌詞も曲も全部作ってくれているのに、私が我が物顔で歌うの、最近耐えられないの。大切にしたいって思ってる。でもそれってどうやったら伝わるの? それがどうしてもわからなかった」

 僕の耳元から顔を離し、彼女は自分のつま先をじっと見つめていた。

 忘れないでほしい、と僕はつぶやくように口にした。

「忘れないでほしい。曲や歌詞を忘れそうになっても、その曲が君のためにあったことを忘れないでほしい」

 きゅ、と手元のバンダナが握りしめられる。

「絶対失われないものなんてないんだと思う。だから大事なんじゃないかな。それをわかっている人が、何かを大切にできる人なんだよ、きっと」

 きっといつか、君という存在は僕から"失われる"。

 だから僕は君との時間を大切にしたいと思える。

「今日はゆっくり休もう。きっと明日、学科のやつらがうるさい」

 今日のあの十三分で、少しだけ確かになった答えを見つけた。

 僕は彼女に求めるもの、それは。

「……ふふ、そうね」

 赤く染まる彼女の目の縁を照らす夕焼けが木々と鉄骨の隙間からこぼれて、広いキャンパスの遠くの方を燃やしているようだった。しかしそれも夕闇に沈んで辺りは嘘のように静かになる。

 手を振って僕に背を向け離れていく彼女の背中に、僕は視線で語りかける。

 僕は君に、一生分の刹那を求める。

 そしてそれをかき集めて出来上がる君との時間を求める。

 波のように常に形を持たなくても、砂の城のようにいつかは消えてしまうものだとしても、僕は君との時間を忘れない。

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