離れていてもキスができるよう
恋人も、友情も、家族だって、それを繋ぎ止めるのはきっと”愛"なんだと思う。でもこの言葉はあまりに陳腐で使い古されて、なにより短すぎて僕はあまり好きじゃない。彼女もきっと、好きか嫌いかで答えるとしたら嫌いと答えるのだろう。
だから彼女は”愛”を越える何かを求めたがったんじゃないだろうか。
“愛"は彼女にとって、あまりに重要なところで不完全だったのだろうから。
覚えてないとは言わせない
あの時だけは二人同じ夢を
太陽を迎えに星が眠り
笑い声が夜の音符を紡いだ
離ればなれなんて思わぬサダメ
寂しいよねお互いがお互いを
必要としなくなったなんて
でも僕はそんなに強くない
君といた時間が遠ざかっていく
君専用のマグカップ今も変わらず
窓辺の光浴びている
飛行機雲が流れ星に見えた夕暮れ
君といつまでもいられる道は
あったのだろうか? 振り返っても
そこにあるのは一本の道だけ
君と過ごし君と離れた道
音のない部屋で一人きり
隣の人の咳が聞こえる
夜の静けさを歌に変える力
僕はまだそんなこと出来ない
君といた時間は雪とともに
音無き春の代わりに消えてしまった
「時も音も形のないもの」と言い聞かせ
なんでもない振りはお手の物
君の代わりに朝日が僕を起こす
スイッチ一つ再生不可能な
君との時間が流れ出す
君といた時間が遠ざかっていく
君専用のクッション相も変わらず
柔らかいままそこにある
流れ星ない夜空に願いだけ浮かべる
流れ星ない夜空に願いだけ浮かべる
「面白いね、歌詞だけ見ればすごく寂しい曲なのに。曲調でこんなに印象が変わるんだ」
「そうそう。言葉の世界観とかイメージに合わせる例ももちろん沢山あるけどね。いろんな曲を聴けば、いつもそうとは限らないってわかるよ」
感心したように曲に耳を傾ける彼女。頭にかぶるピンクのラインが入った黒いヘッドホンは、僕のブルーと色違い。
……彼女が勝手に、買ったのだ。
「イメージをリクエストしたら、それに合わせた曲も作ってくれるの?」
日中は指先から新しい季節を感じるようになってきた。住み慣れてきた7帖の部屋、僕は作業中の手を休めて彼女の問いかけに答える。
「まあ、イメージしやすければ努力はするけど。誰にでも何でもって訳にはいかないよ」
元々遠慮のない立ち居振る舞いだったけれど、今日も彼女は我が物顔で色気のない座布団の上に座っている。以前飲み物の好みが違うことを知ってから、部屋には紅茶なりココアなりを買い揃えた。
つまり、彼女がこの部屋にいやすくなるようにしているのは、他の誰でもない僕だ。
「じゃあ、すっごく切ない歌を爽やかに歌いたい」
ニッと笑いかけられる、この笑顔にだけは逆らえないのだ。
「切ない、ねえ。もう少し具体的に言える?」
リクエストをもらえるのは正直助かる。自分の中だけで生まれるものには限界があるし、歌っている本人からもらえるアイディアは特に、とても貴重だと思う。
彼女は至極真面目な顔で続けた。
「物理的に離れてても、心さえ離れていたとしても、繋がれるものが欲しいって思う時があるの。そしてそれはきっと、愛ではないと思うの」
愛、と僕は唇だけで反芻する。
「愛は愛で素敵だと思う。でも所詮……例えばキスは、触れている間だけがキスでしょ?
愛を超えるものがきっとあるって、心のどこかで信じてやまない私がいるの」
彼女の視線がコップに注がれる。色恋の話なんてちっともしたことない彼女が”愛”とか”キス"とか語りだしたことよりも、その視線が気になった。飲み物がどんどんと冷めていくような錯覚さえ覚える。
「難しいな……でも、うん。わかった、考えてみる」
言葉もなく、しかし大きく頷いた彼女は、満足というには足りないけれど安心したように微笑んだ。
僕以外誰もいない部屋、空になったマグカップ。その縁にはうっすらと、ココアと彼女の唇の跡が残っている。
(恋人と離れてるのが不安なのかな)
それが彼女の話を聞いた僕の第一印象だった。愛を越えるものを求めてしまって、彼女はこれからどうなりたいんだろう。不安げにしている彼女を、僕が救えるとは到底思えない。
でも例えば……と僕は部屋の天井の角を見つめる。
彼女と彼女の恋人の関係を繋ぎ止めているものが愛なのだとすれば、彼女と僕を繋ぎ止めるものは、何なのだろうか。
愛ではないとしたら、僕と彼女は愛を越えた関係なのだろうか。
(は……まさかね)
こんな考えは妄想であり、暴走だ。僕は即座にその考えを頭を振って消した。
近くにいたって、成り立つ恋と成り立たない恋があるんだ。一度実った心を失うなんてこと、出来ることならあってほしくない。
失ってしまったなら、取り戻してほしい。
忘れてしまったなら、思い出してほしい。
完成した歌を歌うのは彼女だ。寂しく笑いながら気持ちを打ち明けリクエストしてくれた彼女だ。そんな寂しい顔をするのは、まだ君の心が距離の向こうに消えていないからではないだろうか。爽やかに歌いたがるのは、少しでも苦しみから逃れたいと望んでいるからではないだろうか。
僕は多少勘ぐりすぎかもしれない。でも、君の気持ちがたとえ風前の灯だとしても、僕はそれを吹き消したくない。ましてや、新しい火を灯し直すこともしたくない。
無力かもしれないけれど、僕がその弱い炎を守りたいんだ。
太陽が新しい朝を出迎える頃、僕は時計も見ずに彼女にメールを送った。
『出来上がったよ。暇なときにでも聴きに来て』
その夜、彼女は早速僕の部屋のインターホンを鳴らしてやってきた。その服装は今日学校で見かけた時とは違う服装で、部屋に通すとシャンプーとほのかな汗が混ざった甘い香りがした。
「曲の名前。ユー、ジー……だっけ?」
彼女は息を整えながら、開口一番そう尋ねて来た。
「うん、universal gravityの頭文字で『U.G.』。そのままだと少し長いかなって思ったからさ。まあつまりは、万有引力のことだよ」
彼女の表情からは疑問符が拭えない。
「昔想像した話を、歌にしてみたんだ」
「話?」
「うん、想像っていうか、妄想に近いか。小さな世界で、男の子と女の子が恋をする話」
困っている人を助けたことなんてない。相談に乗ったり話を聞いたりしたことはあっても僕がどうにか出来るわけじゃなくて、結局問題を解決するのは悩んでいる本人か時間の力だった。
でも、いざ力になりたいと心から思ったところで、自分の不器用さに呆れて笑えもしなかった。助けようと思っても、こんな形でしかできないなんて……無力にも程がある。
「彼らの世界は小さくても、彼らにとってはそこが彼らの生きる世界。だから、普通の人たちからすれば小さな傷でも、彼らにとってはすごく痛く感じてしまうんだ。
ある日二人は引き合わされるように出会う。そして出会った場所を秘密基地みたいにして、いろんなことを語り合う。お互いがお互いに似ていると感じ始めた頃、二人は恋に落ちるんだ。
別れそうになったり相手を信じられなくなったりすることがあっても、二人だけの力で、時には誰かの後押しを借りて、二人はまた結ばれる」
出会いという部品を集め組み立てて、大きく拡張されていくのが世界。だから幼い世界は小さくて、そこで生きる人間もまた幼い。
「"引き合う"っていうことは、”離れてる"ってことなんだと思ってる。たとえ同じ距離だけ離れていても、また会えることが出来る人は必ずいる」
このヘッドホンだって、いつかは壊れてしまうだろう。それと同じように、きっと僕らもいつかは……と思わないこともなかった。でも、同じ空間を共にすることだけが"一緒にいる"ということではないと思うんだ。
僕がそう、思っていたいんだ。
「愛じゃないもので愛を超えられるんだとしたら、僕はまだそれが分かる段階じゃない。でも、離れても繋がってるものが欲しいっていうそのリクエストに、出来る限り答えたかった。その僕なりの答えがこの、万有引力なんだ」
アパートの前を大きな車が通り過ぎたのか、部屋全体がカタカタ、と震えた。それにまぎれるように、彼女は唇だけでありがとうと呟いた。
「ねえ、二人はどうして別れの危機を乗り越えられるの?」
「どっちも相手が大好きだから」
間髪入れずに答えた。ぐらり、と二つの大きな瞳が揺れるのを、僕は見て見ぬ振りをした。
「好きだからぶつかるし、好きだから弱い自分を知ってほしくてわがままになっちゃうんだ。……単純でしょ」
一、二秒揺らした瞳を伏せ、彼女は何も言わなかった。何も言わないままヘッドホンを取り出し、耳に強く当てながら微笑んだ。
「この曲も、好きだよ。私でよければまた歌わせて」
「ん、もちろん」
僕の返事は聞こえていただろうか、彼女は曲の世界に沈んでいった。
妄想の自由さは、時に自分を救ってくれる。僕は何度、彼女から愛を告げられるところを想像したか分からない。
でも、もしかしたらこのときからかもしれない。僕の中で彼女はあまりに大切な存在になっていた。
僕はいつしか心の中で、僕の想う彼女がどうか、僕に愛を告げませんようにと願っていたのだった。
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