目覚めたのはベッドの中だった。けたたましい目覚まし時計の音に反射的に腕を伸ばす。汗びっしょりの身体、パジャマが纏わりつく。

 いつもの恒例行事。「うおぉ? ここは!?」

はっとわれに返り、机の上のデジタル・ウオッチの表示を確かめる。

 三年前のハルヒとの別れの余韻が脳裏にしっかりこびり付いていた。

あいつはここにいてくれと俺に頼みやがったんだ。

あれはいったいなんだったんだ? 夢でも見てたのか?

別れ際、立ち尽くすハルヒの姿が心を過ぎった。

七月八日、午前七時三十二分、勢いよくドアが開く。

「キョンくん、ご飯できてるよー。学校に遅れるよー」「ニャーゴ」

甲高く元気一杯の妹の声が鼓膜を打つ。さらに、こちらを値踏みするようなシャミの一声。

 いつもの日常にほっとため息を漏らしたのもつかの間の安息だった。

無理やり腕を引っ張られベッドからころげ落ちた。

 恋に邪魔ものはつきものだ。


「はあぁ」

 シーシュポスの苦行を体現するような目の前に聳える学校までの坂道にため息をつく。

「キョンくん! 朝から背中丸めてちゃダメだよ、めがっさ、いい若いもんが、あはは」

 背中にパンチを食らった。「イテテッ」鶴屋さんが勢いよく追い越してゆく。

「ふぁあ、おはようございます」覚醒していない俺は生返事で答える。

「キョンくん、おはよう。お役に立てなくてごめんなさいね。鶴屋さんとわたし日直なので先にいくね、ほんとに、ほんとうにごめんなさい」

 今にも泣き出しそうな顔の朝比奈さんがそそくさと鶴屋さんの後を追う。

朝比奈さん、そんな済まなそうな顔しないでください。多分あのトラブルはあなたのせいじゃないんだから。

やはりあれは夢ではなかったんだ。

 ヒグラシがけたたましい鳴き声を辺りに撒き散らす。

やれやれ、今日も暑い一日になりそうだ。

 教室のいつもの席に座る。

谷口と国木田はこっちを一瞥しただけでおしゃべりに夢中。

 多分夏休みのことだろう。やけに朝から盛り上がってやがる。こっちの気も知らないで……能天気がうらやましい。

 なんにも変わらない日常がそこにあった。俺は安堵のため息をもらす。

なんとも言えない安堵感に後ろの席で腕組してるアイツのことさえ忘れていた。

 「キョン、なによ。目を合わさないってなによ、浮気したみたいな顔して、おはようくらい言いなさいよ。朝から不愉快だわ」

ここにも能天気なやつが一人いた。しかも勘が鋭い。

「う、浮気ってなんだよ? 浮気したみたいな顔ってどういう顔なんだ? 俺が誰に対してどう浮気したって言うんだ? 朝っぱらから分けのわからんことを言うな」

「例えよ、例え。あんたのその腑抜けな顔を例えたのよ、バカね相変わらず。目を合わさないってことは、なんか後ろめたいことでもしたの? なにかわたしに隠し事でもしてるの?」


机を盾に大上段に人を追い詰めるハルヒのいつもの姿。三年経ったらこんなに変わりやがって、黙ってりゃ、そこそこの顔だし可愛げもあるっていうのに。

沈黙は金なりって言葉をお前は知らんのか? ハルヒに沈黙? 似合わん。

「なんなの? なに人の顔、穴の開くほど見てるの? 気色悪い。なにその顔」

「ひよっとして俺たち以前にどっかで会ってないか?」

「あんたと? あるわけないじゃない。わたしは記憶力がいいの。あんたみたいなバカ面会ってたら忘れないわ」


なぜか、放課後になると旧校舎にあるSOS団の部室に足が向く。なんなんだろうな? パブロフの条件反射じゃあるまいし。


 ドアを開けるといつものように長門が窓際で小説を読んでいた。

「よう、お前一人か」

「そう」

「今回もまた世話になったな、済まん」

「礼には及ばない。仕事だから」

「ハルヒは?」

「今日は来ていない」

「そ、そうか……なに読んでるんだ?」

「阿部公房、砂の女」

「そうか、知らんな。面白いのか」

「そう」

「朝比奈さんと古泉は?」

「部活」

「そうか、先に帰る。戸締りよろしくな」

「分かった。光陽園駅に向かうべき」

「なぜ?」

「待ってる人がいるはず」

「誰だそれ?」

「行けばわかる」

「そうか?」

「そう」


 雑踏の中、横断歩道の手前で所在投げに佇むハルヒがいた。

 そうか、ハルヒだったのか……こっちを見ろ! 俺のことが好きならこっちを見ろ。俺は記憶の中の三年前のお前と今のお前を重ねた。

 そして、腹を決めた。

 群集の中、俺を見つけたハルヒが一瞬だがはにかんだ笑顔を見せた。しかし、それはすぐに怒りの仮面の下に埋没する。

「なによ!有希が光陽園駅で待ってろって言うから、あんただったの? 三十分も時間を無駄にしたじゃない」

「そうか」

「そうかってなによ! 呼び出しといてそうかって? なによ? この間は河川敷まで呼び出してくっだらない御託並べるし……」

「そうか、言いたいことは言い終えたのか?」

「なによ! なんか文句でもあるの?」

「丁度いい。本年度数回目の不思議パトロールをやっちまおうと思ってる。ま、それは仮の名称で、俺はハルヒ、お前とデートすることに決めた。本日、今からな」

「デ、デート!? あんたとわたしが?」

「夕方の風が心地いい。ブラブラ歩こうか」

「ふん、なによ? 分けわかんないわよ。なんであんたとわたしが」

俺はそんな不満顔のハルヒを置きざりにしてスタスタと歩きだす。

「な、なによ! デリカシーのかけらもないの? 女の子の歩調に合わせてよ」

「そうか、これはデートだと認めるんだな」

口を尖らせたハルヒがほんの少し小首を傾げる。

 俺たちはどこに向かうでもなく雑踏の中を歩いた。

 ハルヒ、俺はお前の傍にいたい。今はただただそれだけだ。

 

「手をつないであげてもいいわよ。デートなんだから」

指と指がおずおずと絡まった。どちらからともなく、それはなんだか自然なことのように思えた。

 ショーウインドウに写った俺たち。しっかりと手を繋いだ姿。初めてハルヒと心が繋がった、そんな気がした。心臓の高鳴り、顔の火照り、汗ばんでやしないか俺の手のひら、そんなことがやけに気になった。

「わたしたち、見ようによってはけっこうお似合いかもね、あはは」

満更でもなさそうなハルヒの言葉に俺は指先にほんの少し力を込めた。

あの三年前のお前とこうして手を繋いで街をブラブラしたらいったいどんな気分だったんだろう?

 いやいや、違う、違う。俺が恋したハルヒはそうなんだよ! 目の前にいるんだよ!生意気で可愛げがなくてどうしようもなく自己中で俺のことを馬車馬のようにこきつかう。

 そんなお前が……!? 正直に言おう。もう二度と言わないからな。

俺はハルヒ、今、ここにいるお前が好きなんだ……。


 「腕を組んであげてもいいわ」

「余計なこと言うな。組みたきゃ組め」

俺の予想外の言葉にたじろぐハルヒ。

「えっ!? は、はい」

「もっと、ちゃんと俺の腕をつかめ」

「は、はい」

「で、キスしたきゃ左のほっぺた貸してやる。してもいいからな」

 俺は歩みを止めた。はっきりしてること、それは、俺は、ハルヒ、お前が、好きなんだ。

 ハルヒの両手が俺の肩を掴む。俺はそれに合わせてほんの少し左に小首を傾げる。

 雑踏の中でハルヒのローファーが爪先立った。

 左頬に一瞬ハルヒの唇が触れた。

目と目が合った。

「これでいい?」

「ああ、それでいい」

俺は雑踏の中でハルヒを抱き寄せた。

素直じゃないかハルヒ。いつもこうであってくれたら俺は、俺は……。

「今日だけよ、今日だけは恋人になったげる……」

「そうか」

この期に及んでまだそういう言い方しかできないのか? いい加減認めろよハルヒ、俺のことを。

まばらな人影が俺たちを見る。

これでいい。これでいいんだ。


 後日俺は今回の件について古泉の狡猾さを知ることになる。こいつは策士だ、赤壁の曹操より上手かもしれない。


「完璧です。閉鎖空間もまったく影も形もなくなりました。あなたの完全勝利ですよ。涼宮さんは現在、一般的な女子高生のように恋することに夢中です。覚醒などという事態からは程遠い存在です。

 まぁ、あの涼宮さんですから、おのずとあなたに恋してるなどというあからさまな態度は控えていますがね、

 おやおや、もっと喜んでもいいはず、世界の破滅をあなたが救ったのですから」

「古泉、今回の件。お前はどこまで知っていたんだ?ってかお前が仕組んだのか?」

ほんの少しの沈黙のあと古泉が口を開く。

「……必然ですよ、必然。この時間平面の涼宮さんが素直にあなたとの恋に身をゆだねるなど、考えられませんからね。

 われわれはあらゆる可能性を沈思黙考しました。もちろん、長門さんと朝比奈さんも交えて、ああ、言ってませんでしたか? われわれの会話に言葉はいりません。イメージのやりとりで事足ります。とりあえずわれわれ個々の思惑は考えないことにして、ここは一致団結して事にあたりましたよ。なんせ、涼宮さんが己の神のごとき力を確信したり、覚醒しようものなら世界が終わってしまう可能性だってあったわけですから。

 僕だって、あなただって、誰でも、こんな若さで世界の終末を目の当たりにするなんて、どう考えても理不尽ですから」

「そ、それで三年前のハルヒを利用したってわけか?」

「もちろんです。現在の涼宮さんがあなたに抱く恋心を素直に感情に現すと思いますか? 思わないでしょう、あなただって素直に涼宮さんへの想いを吐露するなんて考えられない」

 「だから俺をまた三年前のハルヒに会わせたってのか? 俺がハルヒに恋心を抱くと……?」

「ええ、長門さんも、朝比奈さんも賛同してくれましたよ。前にも言った通りあなたと涼宮さんは転生し輪廻しながら、そういう間柄であったわけですから、ほんのちょっと我々がその扉を開けてあげれば恋に落ちる。必然ですよ、必然。うふふっ」

 ふんもっふ野郎の得意満面の笑顔が鼻につく。

「もうひとつ言わせていただければ、涼宮さんの異能はあなたへの思慕によって発動したと我々機関は推測しています。うがった見方でしょうか? ゲーテです。若きウエルテルの悩み尽きまじですよ。初恋とはかくも純粋で美しく、そして壮大な物語なのです。

 三年まえの涼宮さんは間違いなく異世界人のあなたに恋をしたんですよ。あなたもね。もちろん三年後の、今、現在の涼宮さんが素直に吐露できないあなたへの恋心をどうしても伝えたくてね。三年前の自分を利用したんです。

 そう考えればあながち我々をそういう風に仕向けた、つまりこのドラマの影の仕掛け人は涼宮さん本人であったのかもしれませんね」


 「あ、あのママチャリのケツに佐々木を乗っけた俺はいったいなんだったんだ? あれもお前たちが?」

「ほおっ? それは初耳です。いや? しかし、涼宮さんが佐々木さんに対する嫉妬心からあなたと佐々木さんを登場させたのかもしれませんね。

 あなたのことだから、一世一代の恋心で三年前の涼宮さんの傍にいるなんて決断されたら元も子もないわけで、ですから、この時間平面上にはすでに三年前のあなたがいて、佐々木さんもいるということを最後の保険としてあなたの目に焼き付けた、そんなとこですかねぇ。佐々木さんを登場させるほうがよりインパクトが強いわけですし」

 「あ、朝比奈さんのTPDDの件はどうなんだ?外部からの強大なエネルギーによって……」

「狂言ですよ、狂言。朝比奈さんには気の毒な役回りをさせてしまって、張り切っていたんですがね。朝比奈さんは、あなたを騙したことがどうも心に引っかかっているようです。それについては朝比奈さん(大)も同様かと」

 まあいいか、あんな素敵なマシュマロに埋没する機会など早々ないわけだし。

「ま、まさかグラウンドに現れたのは、今の長門か!?」

「そうですよ。あなたも見たでしょ、心象風景の具現化を……あの長門さんにとって寸分違わぬあなたが見たマンションを造ることなど造作もないことでね、ああ、あの無数の岩で攻撃された一件ですか、そうですね、あなたにも本気になってもらわなければならなかった。本気で恋に落ちてもらうには生死の境をさ迷うような出来事も必要不可欠かと……もちろん、長門さんに攻撃されて即死なんて事態は起こりえません。長門さんは放った岩の塊を激突数ミリのところですべてコントロールしてましたから、バックアップの朝倉涼子さんにも協力いただきました」

 「なぜハルヒは俺のことを忘れてるんだ? 数時間といっても俺の記憶にはしっかり刻まれてるんだが」

「あのあと三年前の涼宮さんは何度も何度もあなたを探しました。北高にまで行きました。もちろん、あなたの言葉を信じてね。望めば傍にいるし、会いたいと願えば会えるとあなたはいいました。でも、どんなに願っても会えなかった。

 記憶力抜群の涼宮さんは、それに耐えられなかった。つまりジョン・スミスの記憶を抹消したんですよ、完全にね。あの能力で」


 デートらしきもの?を楽しみ喉が渇いたというハルヒのために自販機で缶コーラを買った。

 長門に呼び出されたことのある光陽園駅前公園のベンチに座った。

 「ほらよ」

「ありがと」

プルトップを開けたハルヒの缶コーラから勢いよくコーラが吹き出した。

 「キ、キョンわざとでしょ、ったく」

 ハンカチを渡す。三年前の涼宮ハルヒが記憶の中で微笑んでいた。


「なあハルヒ」

「なによ」

いくぶん、高飛車ないつものハルヒになぜだかおれはほっとする。

「まぁ、これからも、よろしく頼む。ハルヒ……」

「なにがよ、バカキョン。わたしはいつだって団長なの! SOS団のためなら身を粉にして働く覚悟よ」

ハルヒ、お前はお前だ。ほんと、今のままでいい。

 お前はおれにとって? 俺は、お前にとって?

いったい、なんなんだろうな?


……機関とは別にぼくの個人的な意見として聞いてください。

 

《わたしは、ここに、いる》


 あれは、宇宙に、銀河の辺境に、ベガとアルタイルの先に、あるいは宇宙人に向けたメッセージなんかじゃなかったんです。あれはあなたに向けた、あなただけに向けたメッセージだったんです。

 古泉は最後にこう付け加えた。

 




             <了>


 次回、「涼宮ハルヒふたたび」でお会いしましょう……。


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