恋愛結婚禁止法【短編・完結済】

輝井永澄

恋愛結婚禁止法


「……そう、あの人のこと、好き過ぎて辛いの……」

 真喜屋香織はウェーブのかかった長い髪を、左手の指ですくうようにしてかき上げながら言った。その薬指にはめられた指輪が蛍光灯の光を受けて輝く。窓から差し込む初夏の陽光に比べ、事務所の中が薄暗く感じられる、そんな初夏の午後の時間の中、ダイアモンドの指輪に負けないくらいに輝かんばかりの美女――そんな表現がぴったりだと、芳根美也子は改めて思った。

「でも……当たり前だけど、不倫になっちゃうのはやっぱり……」

 艶めかしくため息をついてみせる香織を、美也子は冷徹な視線で眺めた。

「……ご主人はなんて?」

「あの人も、私のことが好きだって。愛してるっていうの。だから……」

「そうですか……」

 美也子は香織のファイルをめくりながら考えた。元々、香織の夫はここの婚姻書士事務所から紹介したものだ。確か、香織が前の夫と契約を解除した時にそのまま紹介をしたのだ。その時、手続きを行ったのも美也子だった。そして、その前の夫は、今、確か――

「……香織さん、前のご主人……今の彼氏とは?」

 香織が困ったように笑った。

「まだ続いてるけど……なんかねぇ、最近上手くいってなくて……」

 呆れた。あんなに大騒ぎして、婚姻解除をしてまで恋人としての関係になった癖に。

「……一応確認しますけど、ご主人と生殖外交渉は?」

「……あります」

「避妊は?」

「しました」

 美也子は内心、頭を抱えた。他に恋人がいながら、夫と避妊の上での生殖外交渉――すなわち快楽目的のセックスをしたとなれば、慰謝料の発生は免れまい。それに、個人の恋愛には行政手続きの及ぶところではないとはいえ、その相手を紹介した美也子の事務所も、なんらかの責任を問われるかもしれない。

「香織さん……私は不倫の相手を紹介しているわけじゃないんですからね?」

「ごめんなさい……」

 美也子はため息をついた。婚姻契約の相手を紹介するというのは元来、美也子のような婚姻書士の仕事ではない。しかし、婚姻契約やその解除、子どもの所属替え手続きなどの通常業務の一環で、婚姻解除を行って独身となった男女と知り合うことも多かったし、他の婚姻書士の中にも、顧客にこうした紹介を行っているところは多かった。ただ、それにはこうしたトラブルがつきものではあるのだが――

「婚姻契約の手続きの際に重要事項としてお伝えしていたことですが……改めてお話ししておきますね」

 美也子は香織に向き直り、言った。

「婚姻契約を結んだ相手と、子どもを持つ目的以外で性交渉を行うことは禁止されています。これは、社会の最小構成単位たる『家庭』について、感情に左右されない円滑な経営を行い、また子どもが健やか且つ健全に育っていくために、法律で定められています」

 香織は神妙に聞いている。

「婚姻内交渉についての罰則はありませんが、婚姻外での恋愛関係にある人は、この不貞行為に対して慰謝料を請求することができます。また、民事裁判になった場合は通常、婚姻契約の解除が命じられます」

「……はい、よくわかりました」

 敢えて事務的に、淡々とした説明をしたのが却って効果的だったかもしれない。今までどこか浮かれていたような香織の顔が、バツの悪そうな表情へと変わっていた。

 この美しい人妻はそもそも、前の夫と恋愛関係になってしまった上、婚姻契約を解消して恋人となることを選んだのだ。恋愛する気があるのなら結婚なんかしなければいいのに、と思うのだが、こういった女性に限って、「若さと美しさの秘訣は恋多き女であること」とか、どこかで聞きかじったような文句を信奉しているから始末に負えない。世の中にはびこる、夫との不倫愛を「純愛」として祀りあげるようなドラマなどの類もよくないのだと思う――もっとも、それは「障害が多いほど燃えやすい」という性質が一般的であることを示すものでもあり、そう考えると人類の根源的な問題なのかもしれない。

(くだらない)

 内心で美也子はそう思う。

パーティションで区切られた隣のブースから、同僚の山鹿亘の声が聞こえてきた。

「本当のこと言うと、これマズいやつなんだけど……まぁ、段田さんの頼みだからね」

彼が今応対している段田と山鹿とは昔からの馴染みらしく、話が弾んでいるようだ。婚姻契約や子供の所属更新手続きなどで何度か相談にきているが、いろいろと融通を――時には不正と呼ばれるようなことを――利かせているらしいのを、美也子は知っていた。

美也子は憮然とした。相手によって態度や仕事の質を変える山鹿の仕事ぶりは、見ていて気持ちのいいものではない。せめてこっそりとやってくれと思う。こちらのクライアントにも同じ融通をしろと言われたらどうしてくれるのか。

 幸いにも香織はそんなことを言い出すことはなく、一旦夫と相談をすると言って帰っていった。胸にためた息を吐き出し、時計を見る。16時には事務所を出たいが、まだ多少の余裕があった。それまでアポイントはない。書類を片づけるには中途半端な時間だが――

香織の案件に関する資料を片付けていると、段田を見送った山鹿がパーティションの向こうから顔を出した。

「あれ?真喜屋さんもう帰っちゃったの?」

「ええ、さっき」

「そっかぁ、残念だなぁ。一目お会いしたかった」

山鹿は妖艶な美女である香織のことが、いたくお気に入りなのだ。

「残念でした。彼女にはいい人がいるみたいですよ」

「そういうことじゃないんだよ。仕事中のささやかな楽しみさ」

本当にささやかですね、と言いかけてやめた美也子をよそに、山鹿はまだ鼻の下を長くしている。

「いいよなぁ、真喜屋さん。あの手首といい、うなじといい……芳根さん、担当変わってくれない?」

美也子は山鹿に軽蔑の眼を向けた。

「段田さんもそうですけど……仕事に私情を挟むの、控えてもらえませんか?」

「私情なんて大袈裟な。僕はただ、同じ仕事なら楽しい方がいいって思ってるだけだよ」

そう言いながらも、山鹿はパーティションの向こうへ退散していった。

美也子はため息をついた。苛ついていた。自分の仕事を崇高だと思うわけではないが、それでも美也子は、それなりに責任感を持って仕事に取り組んでいるつもりだ。


50年前に社会制度改革が行われて以降、婚姻関係と世帯は行政上の最小構成単位とされ、あらゆる制度が「家庭」を中心に再構成された。行き過ぎた個人主義が伝統的な家族観を崩壊させ、少子化や未婚率、独居老人の増加など数々の社会問題を招いた反省からだ。成人したものはなるべく早く家庭を持つことを推奨され、また二世代以上が同居する拡大家族、複合家族が制度上の優遇を受ける。

この改革を推し進めたのは、「古き良き家族の姿を再生する」ことを標榜して活動する保守系の政治団体だったと言われている。

「国家とは即ち家族の拡張であり、家族とは即ち国家を構成する最小単位であります」

 保守系を代表する政治家が演説する映像を、美也子は見たことがあった。婚姻書士としての資格を取るために、現行制度への理解を深めようと勉強していた頃だ。

「元来我が国では、結婚は家族同士が繋がり、ひいては国家の末端へと参加するものでした。個人は結婚し、家庭を営むことで社会へと参画を果たすのです」

その政治家が、保守系政治団体の強力なバックアップを受けていたことは有名な話だったが、伝統文化を美化し「世界に誇れる国を作ろう」という明快なメッセージは、新興国に押されて低迷している国際情勢もあり、若い世代からの支持をも集めていた。この政治家は、記者からの囲み取材の中でこうも語っている。

「お見合いや夜這いといった風習に見られますように、古来より我が国では結婚と個人の恋愛とは区別されてきた文化がありまして、結婚を恋愛の延長とする価値観は、比較的新しいものなんですね。恋愛自体は大変結構なことですけれども、家族を国家社会制度の要諦と考える我が国の文化とは、実は相性が良くないのではと。つまり恋愛は個人の感情の話でありまして、結婚目的で恋愛するというのもこれまたおかしな話で、しかるに少なくとも、制度としての結婚、家庭というものを見直すに当たっては、こうした不安定な要素を排除するべきではないかと……」

 その当時、大きな問題となっていた少子高齢化社会の中でそれは、主流となっていた意見であった。持って生まれた外見やファッション、流行への敏感さといった、「恋愛」のための要素が「結婚」のための要素と同列に語られることが、晩婚化、未婚率増加の大きな要因となっていることが有識者から指摘され、若者たちからも支持された。メディアは「パートナー婚」と「婚外恋愛」を肯定するためのコンテンツを垂れ流した。一説には、その保守系政治団体が世論工作を行うために、かなりの金額を使用したとも言われる。

 そして、独身世帯が大きく冷遇されることとなる諸制度とともに、「家庭を築き、運営する過程において、個人の感情、情動を差し挟まないこと」が民法に盛り込まれることとなった――これが世にいう「恋愛結婚禁止法」である。

以降、結婚は各個人のキャリアやライフプランを条件としてつき合わせ、生活を共にし家庭を経営するためにパートナーと行う契約行為となった。そうした契約の締結や更新、また子どもに関わる様々な所属手続きや付帯事項の覚書などを取り仕切るのが、美也子たち「婚姻書士」の仕事だ。これは新しいマーケットだった。恋愛と結婚――これまでは同一線上にあったものを、共存可能な二つの市場に切り離すことによって生まれた経済効果は数兆円を超えると言われ、国家資格を認定するための団体には天下り官僚が居座る。政府の主な狙いはここにあったのでは、という声さえもあった。


 経緯はどうあれ、結婚という制度が社会にとって重要であることは間違いはない。だから、この仕事は公正に執り行われなくてはならない、と美也子は考えている。家庭の経営は言わば成人の義務であり、全国民が担う社会的な事業だ。それを手伝う立場の人間が、その仕事に私情を挟んでいいわけがないではないか。そこに個人的な人間関係を差し挟む山鹿も、婚姻契約相手との情事に溺れる香織も、家庭経営に対しての自覚が足りなすぎる、と美也子は思う。

 美也子はコーヒーを淹れ、待合ロビー兼休憩スペースへ持っていってソファに座った。テーブルにコーヒーを置き、テレビをつける。昼間のこの時間は、主婦向けの情報番組や旅行番組、ドラマ――これも大体、婚姻相手との不倫愛が題材だ――ばかりが放映されている。美也子は何度かチャンネルを変え、ニュース番組のところでリモコンを操作する手を止めた。折しも、痴情のもつれから殺人にまで発展した事件を取り上げていた。

「……だからね、国家の基礎たる家庭に恋愛感情なんか持ち込むのは良くないってことを、もっと啓蒙しなくてはいけない。外にパートナーがいなくて慰謝料が発生しないからいい、ってものでもないでしょう」

 コメンテーターがよく通る声で居丈高に言う。

「しかし、恋愛感情といったデリケートな問題を、法律であまり規定するのもどうかという声もありますが。思想信条の自由に反するという意見もあります」

 司会役のアナウンサーがコメンテーターに疑問を投げた。

「それは公共の福祉に反しない限りにおいての話でしょう。家庭を経営し、子どもを正しく育てるのはこれ、全国民が守るべき生活の基本ですよ。それはやっぱり、契約と信頼と正しい判断によってのみ為されなくちゃいけない。感情に左右されるようでは子供も不幸になりますしね。恋愛ってのは得てして判断を誤らせるもので、ですから、今政府でも議論をしている通り、刑事罰を含むより抜本的な対策をね……」

 熱弁を振るうコメンテーターを、美也子はリモコン操作で遮った。放ったリモコンが応接ソファーに落ちる音が、静かになった部屋の中に響く。時計を見た。まだ少し早いが、寄り道でもしながら行こうか――ひとつ大きく伸びをして、美也子は立ち上がった。



 カフェ・ドゥエ――喫茶店の名前をわざわざフランス語にしたりするのは、かつての洋風趣味流行りの名残だろうか、未だにこうした名前の店は多い。そこはそんな、ありきたりと言えばありきたりな場所ではあったが、テーブル席が仕切られているところから利便性が良く、カップルからビジネス上の打ち合わせにまで幅広く利用されている、そんなカフェだった。

 美也子は結局、どこにも寄り道をしないまま、待ち合わせ場所であるこの店に30分も早く着いた。コーヒーを飲むのながら待つのなら同じことだったので、美也子はそのまま店のドアを開けた。

「いらっしゃいませ」

 声をかけてきた20歳前後の若い店員に、美也子は予約の旨を告げた。こういう時なんとなく緊張するのは性分だろうか。

「予約をしてます芳根です。少し早いんですけど……」

「はい、お連れ様がもうお見えになっています」

「え?」

 ――約束の時間まで、まだ大分あるのに?

困惑しながらも、店員に案内をされて席へと通される。そこに座っていたのは、精悍な雰囲気の男だった。年の頃は30代半ば、といったところか。案内されてきた美也子を認め、男は立ち上がる。

「芳根さんですね?はじめまして」

 男がポケットから名刺を取り出したのを見て、美也子も慌てて名刺を取り出す。どちらが相手より下から出すか、無言の攻防を短時間繰り広げた上で受け取った名刺には、「フリープロデューサー 高柳慎介」とあった。

「わざわざお越しいただきまして、ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ」

 通り一辺倒のあいさつ文句を言うにも表情筋が大きく動き、精悍な顔立ちが柔和な笑顔を形作る。これは、女性にはたまらないだろうな、と美也子は他人事のように思った。婚姻契約にとって外見はどうでもいい要素なのだが、それでも外見にはその人物のキャリアや人生がにじみ出るものだ。値踏みをするような視線を遠慮なく相手に向けながら、美也子は椅子に座った。

 店員にミルクティーを注文している間に、高柳は鞄から書類を取り出し、美也子の側へ向けて差し出した。店員が去ったのを見計らい、切り出す。

「まずはこれ、私の履歴書です」

 美也子は履歴書を手に取り、目を通した。募集を出した側である美也子の履歴書は、仲介者を通じてすでに高柳の元へ渡っているはずだ。

「……34歳になるまで、婚姻歴なし、ですか……」

 美也子は冷たい視線を高柳に投げかけた。普通であれば、2人くらい婚姻を経験していてもおかしくない年齢だ。最近で言うところの「ニーム」――Not in Engagement, Activity, or Mariage、婚約、婚活、結婚のいずれも行っていないことを意味する言葉であり、無婚の若年層から中年層を指す――というところか。

「お恥ずかしながら」

 そう言いながらも、高柳には全く悪びれる様子はない。

「なぜ結婚をしなかったんですか?」

「うーん……必要がなかったから、かなぁ」

 ニームの常套句だ――その物言いに、美也子は内心で落胆を感じた。

「結婚は教育、労働、納税に準ずる国民の義務ですよ。個人の必要性で判断するものではないでしょう」

「……果たしてそうでしょうか?」

 美也子の予想に反し、高柳は間髪入れずに反駁してきた。柔和な目元を崩さないまま、しかし瞳はぶれることなく美也子に据えられている。この男は、自分が婚姻面接を受けている立場であることがわかっているのだろうか?

「確かに婚姻の義務は政府が提唱しているものですが、憲法には記されていません。家族形成や配偶者の選択については、国民には選択の自由があるはずなんですよ」

「公共の福祉に反するというお考えは?」

「それはおかしいでしょう。誰にも迷惑をかけているわけじゃない。家族を持って子を育て、国の繁栄に貢献すべしというのは今の政府の都合ってもんだ。国民の自由を侵すものじゃない」

 ともすると軽薄な雰囲気になるような、少しおどけた調子で話してはいるが、高柳の口調は低く抑えられた真剣味が感じられた。

「……それに、そういう意味で言えば、私は育児専業家庭や児童養護施設への支援事業も行っています。私なりに、義務は果たしているつもりなんです」

「……なるほど」

 印象は相変わらず良くないが、美也子は素直に感心してもいた。社会通念にそぐわないことも理解した上で、自分なりの考えを持って生きてきたのがわかる。改めて履歴書を見た。収入や学歴も申し分ない。

「……それで、そんな高柳さんが、今回私の婚姻相手として志望をしていただいたのは、どういった理由からでしょうか?」

「正直に申し上げて、婚姻そのものについては特に必要性を感じていないというのは今でも変わりません」

 高柳は居住まいを正して言った。

「ですが……ひとつの事業として考えた時に、家庭の経営と育児のマネジメントというのは、挑戦してみたい、魅力的な仕事だと感じます。自分の仕事に必死だった若いころには考えなかったんですが……」

 高柳は鞄から別の資料を取り出し、美也子に見せた。

「僕の手掛けている仕事のポートフォリオです」

 美也子は渡された資料に目を落とした。地方再生事業やイベント、教育コンテンツのプロデュースなどといった実績が並んでいる。

「主なフィールドは地方経済や文化の活性化に関することなんです。地方移住や婚姻関係のマッチングについては需要も高い。芳根さんのお仕事と組めれば心強いし、将来、芳根さんが独立するのを支援もできます。これが、僕の提供できるメリット」

 高柳はそう言ったあと、自信に満ちた表情を一瞬崩した。

「それと、こうして培ってきた経験を、家庭と育児で活かしてやってみたい。そのフィールドで自分が今の社会にどれだけコミットできるか、挑戦してみたいんです」

 魅力的な提案だと言えた。資料に並べられた実績の数々に加え、高柳の語り口は彼の確かな実務能力を伺わせる。

「わかりました。前向きに検討しましょう」

 これまでに何人か婚姻契約の面談をした中でも、言わなかった言葉を美也子は口にした。



 「園田」と書かれた表札の掲げられた門扉は、美也子の乗るRV車の全高を上回る高さの石柱と、太い金属製のゲートで出来ている。美也子がその前に車を寄せると、自動的にそのゲートが開き、車を中へと招き入れた。美也子がこの時間来ること、この車が美也子のものであるという連絡がしっかりと行き届いているようだ。美也子は柱の上に取り付けられた監視カメラに向かって片手を上げながら、車を屋敷の中に入れた。

庭を抜ける道沿いに、車をゆっくりと走らせながら、屋敷の中の景色を見渡す。庭先では、小学校に上がる前くらいの子どもたちが数人、走り回って遊んでいた。その傍らで見守る様に立っている若い女性は見覚えのない顔だが、あれはこの家の新しい従業員だろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、美也子は車を駐車場へと入れた。

「どうも、芳根先生。いつもありがとうございます」

 応接室へと通された美也子の前に、園田花代が姿を見せた。

「先生はやめてくださいって言ってるじゃないですか。私、まだ25ですし」

「何言ってるんですか。うちの顧客の間でも、芳根先生の評判はいいんですから」

「恐縮です」

 美也子は頭を下げ、出されたお茶に口をつけた。半分は照れ隠しだ。なにしろ、花代は美也子が学生のころから知っているのだから。

「孝充、まだ帰ってきてないんですよ。最近、友達と遊びながら帰るからいつも遅いんです。寄り道せずにまっすぐ帰れ、って言ってるんですけどね」

「でも、そんな友達ができたのならいいことですね」

「そうですね、それは本当、安心しています」

 去年から小学校に上がった孝充はいい子に育っているようだ。さすがは育児のプロ、と美也子は感心する。自分ではこうはいかなかっただろう。花代は、柔和な顔をさらに崩しながら、自分のお茶を啜った。

「私と主人とでもう、20人くらい育ててますけどもね、まあ孝充は利発ですし、よく気の利くいい子です。やっぱり先生の血でしょうかね」

「いえ、遺伝は関係ありませんよ。しっかりした子に育てていただいて感謝しています」

 花代の家で育てられている園田孝充は、美也子が18歳の時に産んだ子どもだった。当時の恋人との間に出来た子だったが、当時美也子はまだ学生であり、誰かと婚姻契約を結んで家庭を持てる状態ではなかったため、子どもの所属をこの園田家として手続きを行ったのだった。

「まあ、それについては一応、お国から予算をいただいている身でもありますから」

 花代は謙遜することなく、朗らかに言った。そういうときに嫌味が全くないのが、この女丈夫らしいところだ。自分の仕事に誇りを持っているのだろう。

 花代とその夫である園田克季は、夫婦ともに専業の主婦(主夫)である。家庭に所属する子どもの人数によって得られる補助金の制度を利用し、美也子の息子である孝充のように、所属する家庭のない子どもを引き取って育てることを生業とする、家事と育児の専門家だった。

 自治体からの補助金だけでもかなりの収入があるはずだが、その他にも企業の商品モニターや広告出稿なども受け入れているのだという。そのお金を使って屋敷を増改築したり、従業員を雇ったりして育児環境を整備しているのだ。

「芳根先生ももし良かったら、うちからお仕事のご紹介とかさせていただけませんか?女性の婚姻書士の方ですと、いろいろご相談もしやすいですし……」

 確かに、子どもの所属家庭の変更などの手続きは婚姻書士の業務の範疇だった。それに、例えば先ほどの香織のように、婚姻契約に関する更新や改訂等の手続きが必要になるケースも、花代の顧客には多いだろう。

「ありがとうございます。私にできることがあればぜひ」

 美也子は頭を下げた。もちろん、花代としては仲介料を取るつもりなのだろうが、将来事務所を構えるつもりの美也子にとって、仕事を紹介してもらえるのはありがたい話だ。

 美也子のような独身者に対する世間の風当たりは厳しい。既婚者の世帯が基本単位となっている社会制度上、独身者には不利益が大きいのだ。行政上の控除もほとんどが受けられないし、社会保険料も割高になる。民間のサービスでも、マンションや火災保険等は申し込みができないか、倍近い金額を取られるのが普通だ。逆に、花代のように多くの子どもを育てる家は優遇される。そもそも独身のままでいる人間は一人前として認められないというのが現在の考え方だった。たとえ美也子が今のまま独立したとしたら、独身の婚姻書士というだけで仕事上は不利になるのだ。だからこそ、美也子は婚姻相手の募集を行っているわけだが、結婚するにしてもしないにしても、花代のようなところから仕事を紹介してもらえるのはありがたい。

 応接室のドアが勢いよく開いた。美也子の産んだ息子――今は花代の息子、園田孝充が駆け込んできて花代に抱きついた。


 美也子が孝充を車に乗せて向かったのは、隣の県にある自分の実家だった。翌日、90歳になる曾祖母・茅の誕生日祝いが予定されている。法的に言えば、孝充は茅の曾孫ではないが、「せっかくなので」ということで連れてくるように、美也子は母親から言われたのだった。

「本当、あんたの血が入ってるとは思えないねぇこの子は」

 実家の居間に持参した本を広げ、大人しくしている孝充を見て、美也子の母・朝子は言った。

「まぁ、お母さんの血も入ってるんだけどね」

「ほら、そういう反抗的なところがないじゃない」

 傍から見ればお互いさまとしか言いようのないやり取りをしながら、美也子とその母はキッチンで翌日の準備をしていた。いわゆる三世代住宅として昨年建て直しをした家は、間取りもたっぷりと取られ、キッチンとひと続きになった居間は、ちょっとした宴会場のような大きさがある。その隅の方に孝充が、そしてテーブルの奥側には座椅子に座った曾祖母の茅が、曽孫の様子を眺めて目を細めていた。美也子は一人暮らしをしているが、ここには曾祖母の茅と母の朝子、そして妹である未央とその夫義之、そしてその子供たちが暮らしている。祖母は曾祖母よりも先に亡くなっていた。

「人格形成に必要なのは遺伝より環境よ。プロに任せて正解だった」

「そうねぇ、あんたが育ててもねぇ」

 美也子自身の、一言付け加えなければ気が済まない性格は、この母の作る環境によるものに違いない。

「でもどうするの?家庭を作ったらこの子は」

「引き取りたいとは思ってるんだけど。相手がなんていうか、かな」

 その時、廊下へと続くドアが開き、買い物に出ていた妹の未央が入ってきた。

「お姉ちゃんの場合は、他の条件が厳しすぎるんじゃないの?」

 一緒に入ってきた未央の娘はさっそく、孝充のところへ突撃してじゃれかかっている。

「はい、未央ちゃんお帰んなさい」

「ただいま、おおばあちゃん」

 年齢の割に矍鑠とした声で言う茅に答えながら、未央は手に持ったビニール袋をキッチン台へと置いた。

「婿入りのことなら、気にしなくていいって言ってるじゃない」

 未央の言葉から察した朝子が言った。そうなのだ。芳根家の長女である美也子は、結婚相手には出来れば婿養子としてこの家を継いでもらいたいと思っている。一応、江戸の昔から続いた名家なのだ。

「うーん、でもまぁ、出来ればね。それに言うほど条件厳しくないよ?子どもはもういるわけだから、遺伝子を厳選する必要もないし……」

「だって、20代で独立を目指す婚姻書士の先生だもん。バリバリ働きたい男性にしたら、家庭経営を任せられる人がいいだろうし、もっとぐうたらな男性なら、お姉ちゃんが嫌でしょ」

「お互いにバリバリ働いてる同士の婚姻契約も結構あるよ。まぁ、プロの主夫資格を持った男性とキャリアウーマンってパターンの方が確かに多いけどね」

 この時代、収入の多い相手と婚姻契約を結んで「就職」し、プロの主婦(主夫)として家庭の経営と育児に従事するというキャリアプランは、男女問わず一般的なものだ。どこかの家庭で実績を積んだ主婦(主夫)が、よりいい条件の家庭に引き抜かれてキャリアアップをするのも珍しくない。例えば、その家庭に所属する子どもを東大に入れたというような実績があれば、数千万円の年棒を提示されることもざらだ。だから、そういうところを目指すのであれば、若いうちに婚姻契約を結び、実績を積む方がいい。そして中には、園田夫妻のようにそれを専業として「独立」する者も現れる。

プロの専業主婦を志望した美也子の友人たちなどは、名だたる企業の幹部社員の家に「就職」している。家事と育児のプロとして生活しつつ、夫を介して知り合ったセレブ男性たちとの恋愛を楽しむ様子を聞かされもすれば、そういう生活をうらやましいと思わないではなかった。もちろん、プロの主婦としての道は美也子の志望ではなかったし、専業主夫と契約するのも美也子の希望とは違う。それに、婿入り共働きという条件でも応募してくる男はいるのだ。先日会った高柳もその一人だ。

「お母さんの今付き合ってる彼氏が専業の人よ。3人育てたベテラン主夫で、今の婚姻相手は弁護士だって」

 姉妹の会話に、朝子が口をはさんだ。

「へー、女弁護士?」

「いえ、お相手も男性」

「ああ、男同士のパートナー婚ね。最近多いみたいね」

「子供を育て終わった後で生活を共にするだけなら、男同士のがなにかと都合がいいんだって。仕事をリタイアした高齢の人に、最近多いみたいよそういう方」

 同性婚は10年ほど前に解禁されていた。高齢者に限らず、若者の間にも同性間でパートナー婚をする者は多い。逆に、同性愛者は異性と結婚契約を結び、同性の恋人を外で持つという形が多かった。美也子も何件か、そうした案件を担当したことがある。

「……今の人はいいねぇ。結婚も恋愛も、自由なんだねぇ」

 曾孫たちが遊んでいる様をにこにこと眺めていた茅が突然、美也子たちの話に口を挟んだ。

「あたしの頃は、女の恋愛も結婚も、家が決めるものだったからねぇ」

 美也子は曾祖母の経歴を思い出していた。確か20歳の頃に、芳根の家に嫁いできたと言っていた。曾祖母側の実家も代々続く名家であり、地方の有力者同士が基盤を強めるための婚姻という側面が強かったのだろう。

「……ね、そういえばおおばあちゃん、結婚前に彼氏がいたんでしょ?」

「え?」

 未央が振った話は、美也子にとっては初耳だった。

「ええ、ええ。未央ちゃんにはお話ししましたっけね。旦那さまと会う前にね」

「そんなことあったんですね……」

 曾祖母の時代は、まだ結婚と恋愛とが不可分とされていた時代だ。ましてや、名家に嫁いだ婦女が、夫以外に愛人を持つなど許されなかっただろう。茅は結婚によって、恋人との仲を引き裂かれたのだろうか。

「旦那さまのことも大切にしたつもりですよ。だけど、女の人生は戻って来ないのねぇ」

 茅の目には涙が光っているように見えた。もし、今の時代に生まれていれば、婚姻契約によって家同士の結びつきを作りつつ、恋人と添い遂げることもできたのかもしれない。

 日本政府が婚姻に関する法律と行政を整備したのが50年前。ちょうど、美也子の母・朝子が生まれたころだ。そして、婚姻関係にある夫婦間での恋愛は、社会的に不道徳なものとなった。半世紀の間に、様々な価値観のぶつかり合いがあったのだろうと思う。しかし、現在の社会を見渡せば、恋愛と結婚が切り離されたことは、女性を解放し男性に選択肢を与えるものだったと、美也子は思っている。

「好きな人と添い遂げるのが、なにより幸せだよ」

 曾祖母の言葉には、実感を伴う重みが込められていた。



 美也子が高柳と2回目に会ったのは、それから1週間ほど後のことだった。高柳の方から食事に誘ってきたのだ。生活を共にするのであれば食の好み、方向性は事前に確認しておく必要があるため、これは一般的な手順だと言える。もちろん、親睦を深めるといった意味合いもある。美也子に断る理由はない。

 「鉄板焼き」という曖昧なジャンルの店で、美也子と高柳は生ビールを酌み交わしていた。ある程度調理された食材が運ばれ、目の前の鉄板で最後の仕上げをされて取り分けられる、というスタイルの店である。雑然とした場末の店、とはならない程度の程よいカジュアルさ故か、周囲には上司と部下、別の会社の担当者同士、といった関係性のサラリーマン層がビールや焼酎を酌み交わしていた。

「家庭に恋人を連れ込む、というのはどうなんでしょうね?」

 よく火の通ったエビの殻を剥きながら、高柳が言った。

「それは、職場に恋人を連れ込むということと同じですよね」

 美也子は答えた。こちらは、皿に取った茸類をつまんでいる。

「家の中にプライベートが確保されていれば、それはそれって気もするけど」

「だとしても、少なくとも子供が小さいうちは控えた方がいいんじゃないかと思います」

 この議論は、結婚して家庭経営に携わる社会人の間では定番のテーマだった。家庭は個の場か公の場か――雑誌記事などでも取り上げられることがある内容だ。それぞれの側に相応の主張と、相手方への反論がある。結局、「バランスを取って臨みましょう」という無難な話に落ち着くのがお約束でもあった。

「芳根さん、連れ込む予定の相手は?」

 藪から棒に、高柳が訊いた。もっとも、本当に結婚をするなら、訊いておいた方がいいことではある。

「今は特に。いても連れ込まないつもりですけど」

「いないんですか。それは意外だ」

 高柳はおどけた調子で言い、エビにかぶりついた。

「まぁ、特に必要なものでもありませんから」

「ふふ、芳根さんらしいですね」

 美也子は笑った。孝充の父親である相手とは、20歳前に別れている。その後も何人かの男性と付き合ったし、男嫌いというわけでもないのだが、恋愛に意識が向かない時というのはそんなものだ。

「そちらは?」

「……まぁ、私もいい歳ですからね。女性にはあまり相手にされません」

「そんなことはないでしょう」

 美也子の目から見ても、高柳はモテそうに見える。それを口にすると、高柳は自嘲気味に笑った。

「モテそうだとは言われるし、仕事柄たくさんの女性と知り合うでしょうとも言われます。でも、恋愛に意識が向くかどうかってのは別問題ですね」

「ああ、それはちょっとわかります」

 美也子にも、言い寄って来る男はいる――実は、同僚の山鹿もその一人だ。一夜を共にしたこともある。仕事の態度について言いたいことはあれど、なんだかんだで悪い相手ではないとも思うが、恋人として継続的な関係を持つかというのは別だ。これが昔のように、恋愛と結婚が直結しているのであれば、とりあえず付き合ってみる、ということもあったのかもしれない。

「恋愛は日常に対して垂直に立っている、と言った昔の作家がいます」

 ビールのジョッキを手にして、高柳は言った。

「理屈じゃない、って言うと陳腐になりますけど……たぶん、日常に対しての角度が90度に近くなるほど、燃え上がるんでしょうね。角度が平たくなると、散文的になっていってしまう」

「ですが、結婚相手とばかり恋愛に陥ってしまうような女性もいますよ。私のクライアントにもいますけど」

 これはもちろん、香織のことだ。

「それってだいぶ、日常に対して平たいと思いません?」

「日常の方が垂直になってるんじゃないですか?その人は」

「ああ」

 美也子は妙に納得した。香織は家庭の外で、恋人や友人たちと贅沢な遊びに興じては、その様子をSNSで自慢してばかりいる。

「まぁ、人に迷惑をかけなければ構わないんでしょうけどね」

 高柳の不倫に対する考え方は、そういうことのようだ。

「婚姻関係内の恋愛について、厳罰化という話もあがってますよ」

「そうなったら、その中で生きるだけです」

「不倫をお望みということですか?」

「え……あ、いやいや、そういうことではなくてですね」

 高柳は慌てた様子で否定した。それまでの素振りとのギャップに、美也子は噴出した。

「すいません、そんなに慌てるとは思わなくて」

「意地が悪いな」

 高柳は苦笑いをしながら言った。

「僕の仕事は、法律を遵守することでも、積極的に破ることでもなくてね……規制は規制として、その中でどうやるか、どうやったら最大の成果が挙げられるか……そういう座組みを考えるのが性分なんですよ。もっとも……」

 高柳は一瞬、真剣な顔になった。

「……個人の感情を法律で罰するということそのものには、僕は反対ですけどね」

 美也子は頷いた。空になったお互いのジョッキに気が付いた二人は店員を呼び、ワインを注文することにした。



 婚姻関係内の恋愛について、刑事罰を設けるという法案が与党から提出されたのは、それからしばらく経ったある日のことだった。「国家の要諦、社会制度の最小構成単位である家庭においてそれを乱す要因は、即ち社会の基盤に対する脅威であり、未然に防がれるべきものである」という名目とともに発表されたこの法案は、当初こそメディアにも取り上げられ、番組内でコメンテーターが様々な意見を述べ数多くの有名人、知識人が言及する騒ぎになったが、その実、野党や世論からの大きな反発の声もなく、拍子抜けするほどあっさりと、衆議院を通過した。元々不道徳とされていることが厳罰化することに、反対の声を挙げづらいという事情もあっただろう。それに、ことが家庭内のことなので、実際に立件されるケースは少ないだろうという見方も大勢だった。それでも、100万円以下の罰金刑に加えて前科がつくことになるという制度改正は、それなりにインパクトのあるものではある。

「どうされるんですか?芳根先生」

 応接間で紅茶を飲んでいる美也子に、花代が尋ねた。花代から紹介された仕事について、軽い打ち合わせを終えた後、世間話をしているところだった。

「……まだちょっと、いいかなって」

 曖昧な返事を返す美也子に、花代は怪訝な顔をする。

「結婚したら孝充のこと、引き取るっておっしゃってたじゃないですか。晴れて事務所も構えたんだし、いいころ合いじゃありません?」

「ええ、まぁ……」

 美也子の返事は煮え切らない。

 法改正があってから1年、美也子が高柳と最初に会ってからは1年半近くになる。美也子は高柳と婚姻契約を結び、高柳の支援もあって、この春、自分の事務所を設立したばかりだった。孝充は小学校3年生に進級している。

「別に、うちはこのままでも構わないんですけどね。ただ、引き取るのなら思春期になる前の方が」

「いろいろと、考えていることもありまして……」

「高柳さんとの子どもとか?」

 柔和な顔のまま無遠慮に踏み込む花代の眼が、その奥で笑っていないことを美也子は感じていた。

 美也子はまた、曖昧に笑った。


 花代の家を辞した美也子は、結婚前から変わらず乗っているRV車を運転してスーパーマーケットに立ち寄った。お互いに会社員ではない美也子と高柳は、家事を分担して行っている。今日は美也子が食事を作る番だった。カートを押しながら生鮮食品売り場を回る美也子の眼に、大きなエビが止まる。ふと、結婚前に高柳と行った鉄板焼き屋で出されたエビのことが思い起こされた。

「あら、芳根先生」

 唐突に背後からかけられた声に振り向くと、そこには香織が立っていた。

「あ、香織さんこんにちは」

「買い物ですか?やーねぇ、先生も結婚したら所帯じみちゃって」

 けらけらと笑いながら香織が言う。

「香織さんこそ、大根とか似合わないですね」

 美也子はわざとらしく、香織の買い物かごを覗きながら言った。

「夫が好きなのよ。ま、これくらいはね」

 香織はその後、当時の夫と別れて恋人関係になり、別の相手と結婚したばかりだった。もちろん、その手続きも美也子が行っている。

「私は彼氏様とラブラブだからそれでいいの。恋はいつでも女を若く、美しくいさせるのよ」

 美也子は思わず苦笑したが、香織はそれを苦笑いとは認識しなかったようだ。

「先生もね、いくつになっても恋し続けなきゃだめよ。この国の女は、結婚しても恋愛し続けることが法律で保証されてるんだから!ね、どうなの?最近は?彼氏は?」

 ぐいぐいと前に出てくる香織に対し、美也子は適当にお茶を濁すのが精いっぱいだった。なんとかその場を逃げ出し、レジへと向かった美也子が振り返ると、背後から美也子を見る香織の眼は笑っていなかった。

(やっぱり、そう思われるよなぁ……)

 レジで会計をしながら、美也子はため息をついた。美也子と高柳は婚姻契約を結んでいたが、お互い外に別の恋人を作っていない。花代や香織が向ける目はつまり、好奇と疑惑のこめられた視線であろう。

 婚姻関係内恋愛の刑事罰化がもたらしたものは、近隣の住人同士がお互いを監視する密告社会だった。つい先日も、近隣のマンションのゴミ捨て場が荒らされるという出来事が発生している。夫婦が暮らす家庭のゴミから使用済みの避妊具でも見つかろうものなら、警官が家にやってきて任意同行を求められることになるだろう。

 今回の法改正がこうした結果を招くとは、美也子も予想していなかった。罰則のなかった今までと違い、名実ともに婚姻内恋愛が「犯罪」として認知されたことによって、人々はそれを「叩いてもいい」対象として認識したのだ。そこにはおそらく、嫉妬のような感情も含まれているのだろう。美也子と高柳は格好の餌食というわけだ。買い物袋を抱えて自分の車へと向かう美也子へ、好奇の視線を向けるものは他にもいた。なにしろ美也子と高柳の夫婦は、若くして独立したビジネスを行っている近隣の名士だ。高潔な顔をした者が実は不浄であってほしいと願う願望。自分たちよりもいい暮らしをしている者に、凋落の可能性を願う心理。下衆な感情ではあろうが、無視することのできない人間の本性だ。美也子は身体を固くして駐車場を横切った。


 自宅にたどり着き、自分用のガレージに車を停め、美也子は買い物袋を抱えて自分のプライベートスペースへと入った。昨年建てた自宅は、共用スペースを挟んで美也子と高柳それぞれのプライベートスペースに、別々に玄関が取り付けられた作りになっている。広い土地に建てた新築の一軒家ならではの構造だ。

 プライベートスペースを横切り、ダイニングキッチンとリビングの設えられた共有スペースへと向かう。たっぷりと間口の取られた部屋の奥にはカウンターキッチン、その手前にソファ、壁には薄型のスクリーンが掛けられ、その左右には美也子の身長の半分ほどの高さもある大きなスピーカーボックスが置かれていた。そのどれもが、高柳が「家庭内の公共スペースだから」と拘って(本人曰く、プロデュースして)選んだ品たちだったが、今はどれにも火が入ってはいない。静かな部屋の中で一人、高柳がソファにもたれ、本を読んでいた。部屋に入ってきた美也子に気が付き、顔を上げる。

「お帰り、芳根さん」

「ただいま」

 美也子は目を合わせずにキッチンへと向かった。

「園田さんからの仕事、なんでした?」

「大したことない話です。実母の所属のままになってる子どもの所属を、まとめて手続きしたいって」

 言いながら美也子は、その後に話し合われた孝充のことも思い出していた。

「大したことのない話を相談してもらえるのは、仕事上の信頼があるってことですね」

「見積もりはいつもの通り、データで送ってほしいって」

「わかりました。手配しておきます」

 高柳はスマートフォンを取り出し、その場でメールを打ち始めた。美也子と高柳それぞれに収入のあるこの家の会計は、専門の業者へ委託していた。企業の給与計算や経理などを請け負っていた多くの業者が参入した家庭会計代行業は、ここ数十年ほどの間に家事の代行や子どもの教育サポートなどと合わせた、総合的な家庭経営支援産業として成立している。

 高柳が家庭のタスクをスマートフォンでこなしている間に、美也子は買い物袋をキッチンカウンターの上に置いた。この家庭では、料理は美也子の仕事となっていた。元々、一人暮らしのころから自分で作って食べる習慣のあった美也子が、高柳の分もついでに作っている形だ。高柳はその仕事上、外でクライアントや業者と食事をすることも多いから、という事情もある。当番制にするという提案もあったのだが、食材や費用の管理のことを考えると主担当者を立てる方が効率的だったのだ。とはいえ、美也子の帰りが遅いときなどは高柳が作る時もあるし、外食をする時もあった。こういう毎日のことは、あまり厳格にルールを決めない方が上手くいくものだ。

 買い物袋の中から食材を取り出し、すぐ使うものを調理台の上へ、そうでないものを冷蔵庫の中へと仕分けていく。ひと通り片づけを終えて顔を上げると、高柳が傍らへとやってきて美也子の作業の様子を見降ろしていた。

「なにか手伝うことは?」

「座っててください。すぐ作りますから」

 笑いもせずにそう返しながら、美也子はキッチンカウンターへと向かい、かけてあったエプロンを手に取った。

 ――そのエプロンを首からかけようとして持ち上がるはずだった美也子の腕はしかし、身体の側面から動かなかった。背後から回された高柳の腕が、美也子の上腕を固定していた。

「……芳根さん」

 首筋から囁かれる声に、美也子の肩は柔らかくなっていった。


 ソファの上で高柳に抱きすくめられながら、美也子は罪の悦楽に悶えていた。婚姻書士としての日々の仕事、孝充の顔、花代や香織の顔――様々な物事が脳裏をよぎり、理性を呼び覚まそうとするほどに、揺り返すように快感が身を撫でる。その振り幅が大きいほど、快楽はより強くなるのだということを今や、美也子はその身体で理解していた。

 ――不倫。この私が。

 唇を噛みしめ、美也子は宙を掻く。

 ――子どもを引き取ることもせずに、配偶者との情事に溺れるなんて。

 美也子は自分を軽蔑していた。なんて無責任な。なんて軽薄な。公的に家庭を経営し、国家制度へと参画する契約を交わしたパートナーとの間に、こんな下劣な感情を持ち込むなんて。この人との関係は社会的なものなのに。もし、感情のもつれによってこの家庭が上手くいかないようなことがあったら、私はどうするつもりなのだろう。例えば、こうして抱いてくれなくなったら、私は――

 不倫中の家庭内に孝充を引き取らずにいるのは、美也子の良心の最後の砦だったが、それは同時に、罪悪感に拍車をかけるものでもあった。自分はこの先、どうするつもりなのだろう――傍らでソファに寝そべる高柳の顔を見ながら、美也子はそんな自問に溺れていた。

「……どうしたの?」

 高柳が美也子を見て言った。

「帰りにスーパーで香織さんに会って」

 美也子は、商品棚の奥から自分へと送られる、監視するような視線を思い出した。

「……疑われてると思う。たぶん、園田さんにも……」

「……仕方ないね」

 ことも無げに言う高柳に、美也子は苛つきを覚えた。

「仕方ないって、なにが?」

「火があるからこそ煙が立ってるってわけだから。さすが不倫のベテランというべきかもしれない」

「真面目に考えて!」

「……なに怒ってるの?」

「もういいよ」

 ついつい語気が強くなった自分に気づき、美也子は顔を背けた。自分が理不尽な怒りを向けていることを、頭ではわかっている。少なくとも、現時点では美也子と高柳が、「お互いに恋人を作っていない」という以上の事実は対外的には存在しないのだ。ゴミ捨て場に出した袋を漁られて使用済みの避妊具でも見つかればそれこそ終わりだが、高柳は、不倫の証拠を残さないように慎重に対処をしていた。その冷静さが、美也子には気に入らない。自分がこんなに理性を失って道ならぬ恋に陥っているのに、この男はそれが外に漏れないように気を遣う余裕があるのだ。自分ばかりが熱を上げているような気分は惨めなものだった。そしてなにより、自分がそんな筋の通らない理屈を高柳に向けているということが最も、我慢がならなかった。こんな、馬鹿げた気持ちを振り回すような家庭で孝充を育てるなんてこと、出来るわけがない。これだから、家庭に感情なんて持ち込むべきではないのだ――

「……芳根さんはどうしたいの?」

 すねた様子の美也子に、高柳は優しく声をかけた。

 離婚――その二文字が、美也子の脳裏に浮かんだ。そうすれば、この人と堂々と付き合える。誰にはばかることもなく、一緒に街を歩くことができる。だが、結婚相手としてこの男と同じくらいに理想的な条件を備えた相手が、他に見つかるとも思えないのだ。そもそも、美也子の事務所は高柳との共同経営になっている。離婚して恋人同士になった相手と共同経営している婚姻書士事務所なんて、そんなに体裁の悪いものはない。そして何より――離婚したら、高柳は他の女性と一緒に暮らすことになってしまう。例えそれが恋愛感情の伴わない婚姻契約であったとしても、美也子にはそれがどうしても我慢ならないし、自分が他の男と暮らすというのも嫌だった。

 美也子は高柳の問いに答えることなく、その胸にすがりついた。



 美也子と高柳の生活は、誰から見ても順調だった。美也子の葛藤を余所に、警察が取り調べに訪れるようなこともなければ、噂が広まって仕事に支障が出るようなこともない。香織や花代は相変わらず、美也子に会うたびに恋愛事情を訊いてくるが、それだけだ。スーパーで感じたような監視するような視線も、自意識が過剰になった故の思い過ごしだったのかもしれない――美也子はそう思い始めていた。

 仕事の方もまた好調だ。花代から紹介された仕事だけでなく、高柳の手掛ける婚活イベントなどから仕事が広がり、美也子の事務所にはひっきりなしに依頼が舞い込んでいた。高柳の方もまた、手掛けた仕事がメディアに紹介され、声がかかることが増えて全国各地を飛び回っていた。二人で自宅で過ごす時間は減ったが、美也子は幸せだった。それぞれの仕事でプロとして活躍する二人が、お互いを補完しあい、支えあう。それぞれの能力を持ち寄って、家庭を円滑に経営する。理想的な夫婦、理想的な家庭の姿だ。しかも、お互いを強く想い合っている。

(幸福だ)

 美也子はそれを確信していた。

 確かに、一時期の美也子は高柳に対する思いの強さから、理性的な判断を失っていたかもしれない。自分の気持ちの大きさに戸惑い、また高柳の気持ちがわからない不安が、自分を見失わせていたと思う。だが今は、お互いの心を分かり合い、強い絆を感じている。信頼があると思えるし、その信頼がお互いの人生を確かなものにしていると思えるのだ。道ならぬ恋でもあるし、家庭経営という社会的な仕事を、感情という不確かなものに頼っているのは褒められたものではない。しかし――それで上手くいくのなら、それに越したことはないではないか――美也子はそんな風に思い始めていた。

「そう、ようやく決めたのね」

 紅茶のカップを手にした花代が、いつも通りに柔和な笑顔を見せながら言った。美也子の方も、同じティーカップを手にしてくつろいでいる。今日は仕事の話で来たのではなかった。

「おかげさまで、事務所も上手くいっていますし……ようやく、上手くやっていく自信ができたと言いますか」

「そうねぇ、確かにいいタイミングかもね」

 美也子の息子、孝充は今年で10歳になる。引き取るのであれば思春期前にしたかった。

 花代は自らのことのように嬉しそうに、孝充の成長を語る。花代がこうして愛情を注いで育ててくれたことには、本当に頭の下がる思いだった。美也子もたびたび孝充には会っており、関係は良好だ。もちろん、本人の意思も確認はしているし、高柳とも顔を合わせている。あとは引き取る日取りを決め、手続きを進めるだけだった。

「細かいところは、高柳とも一度話しあってきます」

 美也子はそう言って、紅茶を口に含んだ。ローズヒップの甘酸っぱい香りを吸い込む。最高のパートナーであり愛する恋人、そして子どもと、全てを手にできる自分は、なんと幸福だろう――

 花代は大きく頷いた。

「高柳さんも幸せよね。パートナーは美也子さんだし、これで子どももできて、それにお美しい彼女も……」

 美也子の手が止まった。口に含んだ紅茶の苦みが鼻へと抜ける。かろうじてそれを飲み込んだ美也子は、恐る恐る花代に訊き返した。

「……彼女って?」

「あら、聞いてないの?夫婦なのに」

 花代は心底意外そうな顔をした。美也子は首を横に振る。何かの音が、脳裏に響いていた。

「まぁ、家庭ではそういうことあんまり話さないって人も確かにいるからね」

 美也子の内心に気づかず、花代は一人で納得している様子で言った。

「お相手、モデルさんなんだって。やっぱりああいう仕事してる人だから、知り合う相手も少し違うのねぇ。今まで独り身だったのが不思議なくらい」

 花代は饒舌に話し、美也子は黙って聞いた。


 その日、­自宅へと変えるまでの道のりを、美也子は憶えていない。気が付けば、自室で仕事用のデスクの前に座り、虚空を眺めていた。

 時刻はもう夕暮れを過ぎ、電気をつけないままの部屋は暗くなっている。壁と天井とを隔てるラインが、闇の中へと溶ける一点に目を据えて、美也子の時間は漫然と流れていた。

「婚姻の契約を結び、夫婦が社会に参画する公的な最小単位としての家庭を築くにあたり、恋愛等の個人の感情、情動を差し挟まないこと。また、夫婦間における生殖目的以外の性交渉も極力避けることが望ましい」

 美也子は呟いた。最近改正された民法の条文だ。当然、それに続く罰則の項目も暗唱できる。この規定に違反したものは、百万円以下の罰金に処する――

 ノックの音が闇の中に響いた。共有スペースの方へ続くドアの方からだ。

「芳根さん?」

 高柳の声だ。美也子は身体を固くした。

 鍵をかける習慣がとうに無くなっているそのドアが開き、光の筋が部屋の中へと差し込む。

「……なんだ、いるんじゃない」

 高柳の優しい声が、光の筋に沿って入ってきた。美也子は動かなかった。

「どうしたの?電気もつけないで」

「……なんでもない。すぐに晩御飯作るから」

 美也子は高柳から逃げるように、共有スペースのキッチンへと向かった。

「なにかあったの?」

 美也子の背中に、高柳が声をかける。美也子は答えなかった。冷蔵庫の中から食材を取り出し、下ごしらえを始める。高柳はそれ以上何も言わなかった。部屋の中に、美也子が料理をする音だけが響いていた。

水で洗った野菜を、カッティングボードの上へと置き、包丁を入れていく。美也子は野菜を切りながら、キッチンカウンター越しに高柳の姿を盗み見た。高柳はソファに座って雑誌を読んでいる――美也子と高柳が何度も痴態を繰り広げた、そのソファに。

「……彼女、出来たんだって?」

 美也子は自らが発したその言葉を、他人事のように耳にした。ページをめくる高柳の手が止まった。

「……いつから付き合ってるの?」

「……半年くらい」

 短く答えた高柳の声のあと、再び静寂が訪れた。美也子が野菜を切る単調な音が、ゆっくりと響く。

「美人なんだってね」

 再び、静寂を破ったのは美也子の声だった。

「誰から訊いたの?」

「みんな噂してるから。連れて歩いたら、さぞかし鼻が高いでしょうね」

 違う。そんなことが言いたいんじゃない。

「芳根さん……」

 高柳が立ち上がり、美也子に歩み寄ろうとした。

「こっちこないで」

 その声は低く、鋭かった。自分の喉からこんな声が出るんだ、と美也子は思った。

 半年――高柳が忙しくなり、自宅を留守にすることが多くなったとはいえ、その間に肌を重ねたのは一度や二度ではない。その時自分に向けられたあの眼は、自分だけに向けられていたわけではなかったのだ。そんなことも知らず、幸せの絶頂にいた自分を殴ってやりたい。

 美也子の声を無視して、高柳は近づいてきていた。

「美也子」

 下の名前で呼ばれたとき、美也子の中でなにかが弾けた。

「触るな!」

 振り向きざまに振り回した包丁が、何かに当たる感触があった。美也子は手に持った包丁を見た。その刃についた赤い液体は、食材を切ったものではない。

 目の前に誰もいないことに気が付き、美也子は視線を落とした。腕から血を流した高柳が崩れ落ちているのが見えた。

「裏切者」

 呟くように言った言葉が正しいのか、美也子にはわからなかった。高柳が外に女を作るというのは、なにも問題のないことなのだ。美也子にはどうすることもできない。むしろ、高柳の彼女だというモデルの女の方は、美也子に慰謝料を請求することができる。

「……裏切者!」

 自分の感情を確かめるように、美也子は叫んだ。美也子は、自分が涙を流していることに気が付いた。なぜかはわからない。美也子は、包丁を逆手に持ち替えた。


 50年前の民法改正以降、一時期は年間10万件近くに上っていたDVや児童虐待の件数は劇的に減り、また出生率も上昇傾向へと転じて2.10を超えるまでになっていた。結婚と恋愛が切り離されたことによって、社会は安定し、人口は増加へと向かい、人々は自由な恋愛と、そしてライフプランに合わせた選択的な結婚を謳歌している。

 政府の発表によれば、国民が一生のうちに結婚する回数は、3.4回だと言う。青年期、中年期、壮年期それぞれの人生のステージで、最も適切なパートナーを選んで契約を結び、ともに社会に参画する。子どもはその生まれや血統にこだわらず、最も適切な家庭に所属して養護され、社会へと巣立っていく。個人のニーズに合わせたマッチングを行う婚姻・養子縁組ビジネスは一大産業となり、容姿の美醜や性的嗜好を問わず、恋愛弱者や恋愛に興味のない者、同性愛者など性的マイノリティにも、広く結婚や子育ての機会が与えられることになった。

「好きな人と添い遂げるのが、なによりも幸せ……」

 がらんとした留置所の中で、美也子は独り呟いた。

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恋愛結婚禁止法【短編・完結済】 輝井永澄 @terry10x12th

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