第14話 終章  

 あれから二十数年という歳月が過ぎ去った。

 この年になってみると、洋平は美鈴と過ごした日々が現実のものであったか、ときどき疑いたくなるときがある。

 彼女と恋に落ち、ときめき、喜びに胸弾ませたことも、彼女の死に臨み、嘆き、悲しみに哭き暮れたことも、全てが夢の中の出来事であったような気がしてならないのだ。

 現在では、それほどまでに美しい思い出と昇華し、彼の心を豊かなものにしている。光の届かぬ海底に眠る真珠の如く、密かにしかし確実に彼の心を灯し続けてくれているのである。

 美鈴の死後何年か経って、洋平はようやく彼女の最後の優しさに気が付いた。それは、突如彼女が連絡を断ったことである。

 当初それを、美鈴の心が離れていったのだと誤解した洋平は、初めて失恋の痛手を味わったのだが、よくよく思い返してみれば、そのとき受けた心の痛みこそが、まるで予防接種のように、永遠の別れの際に受けた格段に大きな悲しみに耐え得る免疫となっていたと気づいたのである。洋平は、それこそ美鈴が死に臨んで、自分に向けた渾身の愛だと確信した。

 洋平はまた、あのとき手紙をすぐに読ませてくれた母にも、いつしか感謝をするようになった。もっと後になって、中学生になり、美鈴が頭の片隅に追いやられたときであったならば、もっと悲しみは小さかったかもしれない。新しい恋に落ちていたならばなおさらであったろう。

 だが、あのとき大きな悲しみを受けたお陰で、美鈴との思い出は彼の心の最も深いところに刻み込まれることになった。この先老いが来て、少しずつ記憶を無くすようなことがあったとしても、最後の最後まで残っているであろうと思うほど奥深きところに……。


 洋平は真にこう思う。

 美鈴と過ごしたあの夏の日は、わずか二十日間という短い時間だった。そして、二人はまだ十二歳という子供だった。しかし短い時間であったからこそ、人生の中で、最も濃密で充実した時を過ごし、幼い初恋であったからこそ、精神は極めて純粋で、ひたむきさがあった。

 そして、あの大きな悲しみがあったからこそ、彼女との思い出はいつでも、より切なく、より悲しく、より懐かしく、そしてより鮮やかに心に甦り、いつの頃からか心の大切な宝物となっているのだ。

 それは、あのお盆の夜、いみじくも美鈴が言った言葉の通りに、彼女は今でも私の心の中で燦然と輝きを放ちながら、美しく生き続けているということになるのであろう、と。

 また、ときどきこのように考えることもある。

 十二歳で命を絶たれた美鈴は、さぞや無念であったろう。もっと長く、夢や希望を抱いて、精一杯生きたかったに違いない。しかし見方を変えれば、彼女は自分との恋の中で命を燃やし尽くし、死出の旅に着くまで、輝きを失わずに生き抜いたとも言えるのではないだろうか。

 それに比べ、命を永らえている自分は、その後の人生の中で、いったい何ほどのものを勝ち得たのであろうか。日々の生活に追われ、虚しく時を費やし、人が生きることの意味さえ、露ほどにも見出すことができず、苦悩の中に生きている。

 そのような自分から見れば、はたしていったいどちらの人生が幸福なのだろうかとさえ思えてならない。

 人が例外なく死を迎えることはこの世の真理である。したがって、およそ人の生涯はその長短で推し量られるものではないとは思うが、ではその価値をいったい何に求めれば良いというのであろうか。自分には、未だ答えが見つかっていない。

 だが、神は彼女の人生を早々と絶ち、自分はまだこうして生きている。これにはきっと意味があるのだろう。何らかの神の意思が働いているのであろう。そうだとするならば、自分はその答えを求め続けて生きて行くこと以外に道はないのかもしれない、と。


 風雨はずいぶんと弱まっていた。どうやら嵐は峠を越したようだ。

 洋平は涼を取るため起き上がった。

「ちょっと、大きいな」

 と苦笑いをしながらパンツをずり上げた。隆夫のパンツが大きいのだ。

 縁側の雨戸を少しだけ開けた、そのときだった。待ち受けていたかのように、一匹の蛍が彼の頬を掠めながら中に入り込み、隆夫の遺影に留まった。

「おっ、蛍だ」

「うそ。蛍なんているはずないじゃない」

 律子は取り合わなかった。彼女もまた、下着姿で横たわっていた。

「本当や。遺影に留まっている」

「まさかあ、さっきまで暴風雨だったのよ」

 と上半身を起こし、半信半疑で遺影に目を遣った律子が驚愕した。

「し、信じられない」

「きっと隆夫が戻って来たんやな。そうでなきゃあ、律子の言う通りこんな天気なのに、蛍が飛ぶはずないものな」

 そうね、と律子は神妙に肯いた。

「今頃、蛍がいること自体が不思議だしね」

「隆夫も蛍とは縁があるからな。きっと姿を変えて戻って来たんだ」

 洋平は布団に戻ると、律子の横で仰向けになった。

「蛍との縁ねえ……。洋平君、貴方と美鈴ちゃん、お盆の夜に蛍狩りに行ったでしょう」

「なんでそれを?」

 知っているのか、と洋平は訊いた。

「隆夫君に訊いたのよ」

「隆夫に? 嘘やろう」

 洋平は釈然としない顔をした。

「本当よ。彼、私も誘いに来たんだけど、断ったの。それどころか……」

「どないした」

「私は二人の冒険の妨害をしたの」

「妨害って……」

「隆夫君ね。足を怪我なんかしていなかったの。私が、隆夫君に行くのを止めるように頼んだの。そうすれば、洋平君たちも諦めると思って」

 洋平は、なるほどという顔をした。

「それで合点がいった。あの隆夫が、磯で足の裏を切るへまなんかするはずないもんな」

「彼ね、ずいぶんと悩んだ末に、あんな狂言を思い付いたんだと思うわ」

「俺たちの様子を窺っていたのは、罪滅ぼしという気持ちもあったんやな」

「どういうこと?」

 律子が訝し気に訊いた。

「隆夫は、鈴ちゃんに頼まれたからと彼女の初盆のときに告白しよった」

「美鈴ちゃんがそんなことを……」

「せやけど、隆夫は律子のことはなんも言わんかったで」

「約束は守ってくれたんだ」

「あいつらしいな」

「でも、結局貴方たちは諦めなかった」

「せやったな」

「それどころか、貴方は別の策略も見事に突破したわ」

「別の策略? まさか……」

 洋平は律子の横顔を見つめる。

 律子はゆっくりと頷いた。

「そう。トラお祖母ちゃんに泣きついたのは私なの」

「そうか。おばさんたちを問い質したんやが、誰が犯人かわからなかったんや。律子だったとはなあ」

 なるほど盲点だった。律子の母はトラの次女であり、そもそも孫の律子と洋平の縁組を望んだのはトラであった。

「怒った?」

 天井を見つめたまま、不安げな声で訊いた律子の髪を洋平が右手で撫でた。

「なんでいまさら」

「私、とんだピエロだったわ。障害があればあるほど、恋は燃え上がるものだと知らずに、せっせと油を注いでいたんだから」

 しかし……、と洋平は首を傾げた。

「トラ大伯母さんはともかく、よく隆夫が君の言うことを聞いたな」

「ばかね。彼は私のことが好きだったの。だから、なんでも言うことを聞いてくれたわ」

「せやから、蛍狩りのことも君だけには話をしたのか」

 洋平は秘密を約束した隆夫が、律子に暴露した理由もようやく理解した。

「だからね、隆夫君が貴方に対して挑戦的だったのは、私が貴方のことを好きだったからよ」

「せやったのか……。俺はてっきりあの不幸な海難事故が原因だと思っていたんや」

「もちろん、それもあったと思う。あの悲劇は彼の心を深く傷付けたから……」

 律子の顔が物悲し気なものに変わった。

「ねえ、洋平君。隆夫君の自殺は本当に病気を苦にしてだと思う?」

「なに、どういうことや」

 洋平は上半身を起こして、律子を見詰めた。

「今、貴方が言ったあの海難事故が原因だと思うの」

「海難事故がなんで……」

 隆夫の自殺に繋がるのか、と訊いた。

「彼ね、あの事故は自分のせいだとずっと悔やんでいたの」

「自分のせいって、隆夫は船に乗っていなかったのに、か?」

 そう、と律子は小さく顎を引いた。

「あの日、漁の途中で時化になったので、他の船はさっさと帰港したんだけど、彼のお祖父さんとおじさんの船だけが漁を続けていたの。漁協は、無線を入れて帰港を促したんだけど、ちょうど延縄(はえなわ)を流したばかりで、魚が食い付くまで待っていたのね」

「延縄なら、最低でも一時間ぐらいは待つやろうな」

 延縄というのは一本の幹縄に多数の枝縄をつけ、枝縄の先端に釣り針をつけて海に流す漁法である。

「二人がそんな危険を冒した理由はね、隆夫君が自分の部屋が欲しいので、家を新築するよう頻りにせがんだから、ということらしいの」

「こんな広い家だから、隆夫の部屋ぐらいあっただろう」

「彼ね、洋室の部屋が欲しかったのよ。自分の部屋があっても、和室じゃあ、出入り自由でしょう」

「せやな。洋室の部屋が貰えたときは、俺も嬉しかったのを憶えている」

「隆夫君はね、洋平君が羨ましかったらしいの。それで、おじさんに新築するように、何度もせがんだのよ」

「わかる気もするけど、それだけの理由で無理な漁をするかな」

「もちろん新船建造の借金もあったし、それだけが理由ではないと思うけど、幼い隆夫君は自分のせいだと思い込んでしまったのね」

「じゃあ、なにか。隆夫は、自分が二人を殺してしまったと?」

「私、おばさんから頼まれたことがあったの。自分がいくら言っても隆夫君が聞かないので、私から言い聞かせて欲しいと」

「おばさんは、隆夫の苦しみに気付いていたんやな」

「そういうことね。でも彼は、うわべではわかったと言ったけど、結局自分を責め続けていたのね」

「隆夫は、そのトラウマから開放されたかったということか」

「あくまでも、私の推測だけどね」

 なるほどな、と洋平は頷いた。あの隆夫が病気ぐらいで自殺などするはずがない、との心の痞えが取れた気がしたのである。

「まさか、俺と同じ苦悩を抱えていたなんて、知らんかったな……」

 洋平は律子に聞えないように呟いた。

「なに? なんて言ったの」

「なんでもあらへん。せやけど、隆夫が急に俺と友好的になったのはなんでや」

 洋平は話を変えた。

「貴方が美鈴ちゃんを好きだと知って、二人が仲良くなれば、私が貴方を諦めて、自分に振り向いてくれるかもしれないと思ったからよ」

「じゃあ隆夫は、君の言うことを聞いて俺と鈴ちゃんの邪魔をすれば、俺と君の中が復活するかもしれないし、言うことを聞かなければ君に嫌われるという、どちらにしても報われることのない立場にいたのか」

「私、彼に酷いことを強いていたわ」

「俺だって、なんもわかってやれんかったなあ」

 二人はどちらともなく起き上がると、遺影に線香を手向けた。そのとき、蛍は姿を消していた。

「ところで洋平君、会社はどうするつもりなの」

「どうするって」

「危ないんでしょう、会社」

「いや……。うん、そうだけど。どうして」

「知っているか、でしょう。隆夫君から聞いたの。もっとも彼も詳しいことまでは知らないようだったけどね」

「……」

「事情が飲み込めないようね。隆夫君はね、何かのときに里恵おばさんから貴方の会社が危ないことを聞いたらしくて、それ以来ずっと気に掛けていたのよ」

「隆夫が……」

 なんてことだ、と洋平は唇を噛んだ。病床の隆夫を見舞わなかったのは、傾いた会社に苦悩する姿を彼に見せたくなかったからなのだ。つまり、隆夫に対する見栄が洋平の足を遠のかせていたのである。

「彼、死を覚悟したときから、遺産をどうするか考えていたのね」

「遺産?」

「二億もあるのよ」

「二億だって!」

 洋平は仰天した。いくら、高収入だったとしても想像も付かない金額だった。

「隆夫には、親の借金があったやろう」

「そんなもの、七年で返済したらしいわ。その後、三十前で弁才師に抜擢されていたから給料も良かったし、生命保険を合わせるとそれくらいになるの」

 隆夫は借金を返済するため、中学を卒業と同時に恵比寿水産で漁師を始めていた。

「贅沢をしていなかったということか」

「酒は嗜む程度だったし、タバコも吸わなかった。パチンコや競馬といったギャンブルには見向きもしなかったらしいの。そうね、お金を使うことと言ったら、たまに風俗へ行くぐらいかしら」

「独身なら、それくらいは仕方がないな」

 洋平は、決まりが悪そうに律子から目を逸らした。 

 一方で、洋平は腑に落ちていた。いまでもこの辺りの村では、月に六、七万円もあれば生活自体はできる。皆、持ち家なので家賃がいらないし、土地が安いので固定資産税も少額である。

 なにより美保浦は村全体が一つの大きな家族のようなところがあり、魚や野菜を隣近所に分け与えるからだ。むろん、贅沢さえしなければという前提である。

 ただ、難点もある。

 交通の便が悪いので乗用車が必需品であることと、家族的であるがゆえに、冠婚葬祭、とくに葬儀の香典は多額になった。それでも独身の隆夫ならば、月に二十万円もあれば結構な暮らしができただろう。二十五歳を過ぎてからの彼の年収は、少なくても千五百万円は下らないと思われた。二億円という遺産は、贅沢さえしなければ考えられない額ではなかった。

「それに、彼は家族がいないでしょう」

「いや、兄貴がいるやろう」

「フィリピンにいるらしいけど、連絡も無いし、遺産を相続させる気はなかったみたいね」

「疎遠だったからな」

「それだけじゃないわ」

「え?」

「お兄さんとは血が繋がっていないの」

「本当か」

 洋平は初めて聞く話だった。

「ずっと子供ができないので、遠縁から養子に貰ったらしいわ。ところが、二年後に隆夫君が生まれたの」

「なるほど、疎遠だった理由はそれか」

 子供に恵まれない夫婦が養子を娶った後に、実子が生まれるというのはよくある話である。

 隆夫の兄は、隆夫が生まれたため、必ずしも家を継ぐ必要がなくなったし、借金を背負わされるのは御免だと、高校を卒業すると家を出て行ってしまったのだった。

「だから、一旦は福祉施設にでも寄付をするつもりだったらしいけど、貴方の事情を知って、気が変わったのね」

「どういうことや」

「貴方も鈍い人ね。そんなんだから会社が傾くのよ」

 咎めるように言った律子に洋平は苦笑いを返した。

「お前、案外きついな」

「嫌い?」

「いいや。それくらいの方がええな」

「そう、良かった」

 律子はほっと息を一つ吐く。

「それでね、彼は自分に何かあったら、遺産を私に託すと言い出したの。自分のものにするか、洋平君の事業に投資するかの判断は任せるってね」

 なるほど、と洋介が肯いた。

「それで君は、隆夫の死を知ったとき、すぐに自殺だと思っていたんだな」

「うん。でも、言われたときはてっきり冗談だと思っていたの。だから弁護士から連絡があったときはとても驚いたわ」

「せやけど、なんで君に遺産を預けたんだ」

「やっぱり、鈍感ね」

 律子が呆れ顔で言う。

「彼は、ずっと私を忘れられなかったの」

「もしかして、隆夫が独身を通した理由はそれか」

「そうかもしれないわ。十三年前に借金を完済したときと、私が離婚したときの、二度求婚されたけど、断ったの」

「なんでや……。いや、ええ」

 言い掛けて、愚問だと気づいた。

「せやったら、卓也とはどうして一緒に」

「昼間も言ったように実家の居心地が悪くなったのと、彼は松江に住んでいたからかな」

「松江? ようわからんなあ」

「隆夫君は恵比寿水産の漁師だったのよ。恵比寿家と実家の濃い結び付きのうえに、彼と夫婦になれば、それこそ一生、恵比寿家との、つまり貴方との腐れ縁から逃れなくなるじゃない。私は一緒になれないのなら、貴方との想い出があるこの村から離れたかったの」

「だったら、二人で他所へ行けば良かったじゃないか」

「おばさんは病気勝ちだったのよ。隆夫君にそんな親不孝なことができると思う?」

「ああ、そうか……」

 洋平は浅慮だったことに気づいた。

 たとえ健康であっても、母親に一人暮らしをさせるなど、隆夫にできるはずもなかった。

 それから一年後、母の病死で隆夫は自由の身となったが、不運なことに、その直後に彼自身が肺気胸となってしまった。そのとき隆夫は、律子と一緒になる権利を無くしたと諦めたのだという。

「なんだか皮肉だな」

 洋平はやるせない思いだった。

「本当だわ。私が貴方、隆夫君が私。永遠に交わることのない道をそれぞれが歩いていたのね」

「そうやな」

「でも、美鈴ちゃんが一番ずるいよね。貴方の心を奪ったまま、逝ってしまうんだもの。これじゃあ、一生太刀打ちのしようがないわ」

 律子は恨みがましく言った。

「いや。そうでもないよ」

 洋平はぽつりと零した。

「……」

 律子が洋平に顔を向けたが、彼は天井を見つめたまま、

「夜が明けたら、鈴ちゃんの墓参りに行こうか」

 と誘った。

「それは、良いけど……」

 律子は怪訝な声で応じる。

「たぶん、鈴ちゃんのことは、一生忘れんと思うけど……、ええか?」

「そ、それってどういう意味……」

 律子は上半身を起こして、覗き込むように洋平を見つめた。

「君も鈍感だな。大阪に来る気はあるかって訊いているんや」

 瞠目する律子の瞳がたちまち涙で溢れた。

「君さえ良かったら、これからの人生を俺と一緒に歩まないか」

 それは予想もしないプロポーズだった。

「どうかな」

 洋平は、視線を律子に移した。

 彼女はしばらく押し黙っていたが、やおら仰向けに戻ると、左手を天井に向けて突き上げた。

 拳がゆっくりと握られた。

「そ、それは……」

 洋平は絶句した。

「驚いた?」

「ああ……」

 彼女の仕種は、洋平の琴線に鋭く触れた。彼は胸に懐かしさを抱きながら、自分の拳を律子のそれに軽くぶつけた。

「これね。美鈴ちゃんが教えてくれたの」

「……」

 洋平には言葉が見つからない。

「私ね。美鈴ちゃんの命が短いことを知っていたの」

 それは突然の告白だった。

「なんやて。いつ? どうして」

 洋平は、驚愕の目で律子を見た。

「ひいお祖母ちゃんの精霊舟流しの夜に、彼女と二人きりになったのね」

「やっぱり、せやったか」

 洋平は、やきもきしたあの夜を思い出した。

「私は美鈴ちゃんに文句を言うつもりだったの。洋平君の気持ちは取り戻せなくても、文句の一つでも言わなければ気がすまなかったの」

「あの頃の君からは、とても信じられんなあ」

 美鈴が現れる前までの律子は、内気で従順な性格だったはずである。

「自分自身でも信じられなかった。でも、ずっと貴方のお嫁さんになるものだと信じ切っていたから、彼女の出現で私の心の箍が外れたんじゃいかな」

「それはわかるよ。俺も彼女と出会って、鎧を脱いだような気がしたからな」

 うん、と律子が同調する。

「ところがね。一言も文句が言えなくなってしまったの」

「なんで」

「だって、マリア様のように優しい笑顔を浮かべているんだもの」

「マリア様か。せやな、彼女にはどこか神秘的なところがあった。今になって思えば、自分の死を予感し、苦悩と葛藤の末に辿り着いた心境が表れていたんやろうな」

「私が押し黙っているとね、美鈴ちゃんが拳を突き出したの」

「……」

「どういう意味か分からなくて呆然としていたら、『律子ちゃんも拳を作って当てて』って言ったの。私が言われたと通りにすると、『これが洋平君との秘密のサインだよ、これまでのように洋平君と仲良くしてあげてね』って言ったの。私、いまさらなにを言っているのって思ったけど、笑顔の中に涙を見たとき、『あっ。この子、いなくなっちゃうんだ』って直感したの」

「そうか。君は、たった一度で彼女の死を予感したんやな。それに比べ、俺は何度も彼女の不安な眼差しを目の当たりにしていながら、全く気付かんかった」

「仕方ないんじゃないの。それが恋だもの」

「違う。俺は、ただ逃げていただけやった」

 洋平は自虐的に言った。

 律子は掌を洋平の胸に当てた。

「美鈴ちゃんは、その方が良かったと思っていたんじゃないかしら。好きな人には心配を掛けたくないものよ」

「せやけど、彼女の心の支えになることができんかった」

「そんなことはない。彼女にとっては、洋平君の傍にいられただけで幸せだったと思うの」

「せやろうか」

「間違いないわ。彼女は死を覚悟していたというのに、とても穏やかな表情をしていたもの。それに……」

「なんや?」

「なんでもないわ」

 律子は、今の私がそうだもの、と言おうとして口を閉じた。

「せやけど、誤解するなよ。遺産目当てで、一緒になるやないからな」

 洋平は沈んだ空気を吹き飛ばすかのように言った。

「馬鹿ね、わかっているわよ。そんな男だったら、好きにならないわ」

 律子は、目頭を押さえていた。

「それにしても、ずいぶんと遠回りをしたもんやな」

「……」

 感慨深げな声に、律子は黙って肯いた。

「隆夫の遺産は、君が預かっていたらええ」

「じゃあ、会社はどうするの」

「やっぱり、予定通り整理するわ」

「本当にそれで良いの」

「ああ。義兄貴も援助を申し出てくれたけど、きちんとけじめを付けて、君と一から人生をやり直すことにする」

 洋平は、何かを吹っ切ったように言った。

 白い陽差しと共に涼しい東風が入り込んできた。すでに嵐は遠く過ぎ去っていた。

「明るくなってきたわ。お墓参りの前に、一旦家に帰らなくちゃ」

 律子は上半身を起こし、洋平を背にして言った。洋平は起き上がろうとする彼女の腕を掴み、胸に抱き寄せた。

「このまま、朝まで一緒にいよう」

「でも、誰か来たら……」

「かまうもんか」

 きっぱりと言った洋平の眦には、過去と決別し、未来を見据えた決意が宿っていた。


 洋平と律子は夜明けとともに、美鈴が眠っている大工屋のお墓にお参りをした。

いかに信心深い村であっても、さすがにこの時刻に人影はなかった。

 丘の頂上で主のように聳えていた松の巨木も、さすがに老いには勝てず朽ち果ててしまい、今は大きな切り株だけが在りし日の姿を忍ばせている。

 幹に背もたれて美鈴と共に眺めた美保浦湾も、あれから港湾の整備が進み、海岸通りはすっかり変わり果てた姿となってしまった。彼女と一緒に泳いだ浜や釣りをした磯にいたっては、影も形もなくなってしまっている。

 だが静かに目を瞑れば、今でもあの夏の日、美鈴と共に過ごしたときの風景そのままに浮かんできて、洋平は彼女の面影に魂を激しく揺さぶられるのである。

 浜で海水を掛けられたときの怒った顔。

 磯で魚を釣り上げたときの喜んだ顔。

 庭の椎の木に止まった蝉を捕まえ損ねたときの悔しがった顔。

 捕らえた蜻蛉を逃がしてやったときの慈愛の顔。

 野道に咲いていたなでしこを愛でていたときの優しい顔。

 ゲームで負けたときの仏頂面。

 自分の名を呼びながら、縁側を走って来たときの足音。

 稲光に恐怖して、身体を寄せてきたとき伝ったほのかな香り。

 海岸通から、手を振りながら駆けて来た姿。

 ありとあらゆる美鈴との思い出が走馬灯のように駆け巡り、思わず涙が溢れ出る。

 なかでも、初めて美鈴に出逢った日、あの集合場所で投げ掛けられた彼女の笑顔は、これから先も決して洋平の脳裏から消えることはないだろう。


「あらあら、昨夜の嵐でせっかく供えた花が散ってしまっているわ」

 嘆息しながら律子は墓掃除を始めた。 

「夕方、新しい花を供えよう」

 洋平がそう言ったとき、

 ふと、

――洋くん、ありがとう……。

 と、背後で美鈴の声が聞こえた気がした。

 洋平は、はっと振り向いた。

 だが、そこにはただ青々とした若葉が風に吹かれて、笑うようにざわめいているだけだった。

「どうしたの」

 掃除の手を止めた律子が怪訝そうな顔を向けた。

「何でもないよ」

 洋平は優しい笑顔を返しながら、美鈴が眠る墓石に拳をコツンとぶつけると、そのまま律子に向けた。












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鈴蛍 久遠 @kamishochihayamaru

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