第13話 精霊舟流し

 人の世とは、実に理不尽なものである。

 否が応でも必ず時は刻まれ、日は去り行き、季節は巡る。それは、時として人の心を癒すこともあるが、そうでないこともある。

 それから半年が経ち、また灼熱の夏がやって来た。

 美鈴の幻影が鮮烈に甦る夏休みである。彼女と一緒に過ごした日々が、洋平の脳を勝手に駆け巡り、いちいち記憶を呼び起した。彼女の面影が浮かび上がる度に、素手で心臓を鷲掴にされたかのような痛みが奔る。

 洋平は心の中から美鈴を消し去ろうとした。だが、その都度罪悪感に苛まれた。彼女のことを忘れ果てる行為は背信であり、純粋な精神を裏切る行為だ、と責め立てるもう一人の自分がいて、ジレンマに陥るのである。


 洋平は、大工屋から美鈴の初盆に呼ばれていた。

 呼ばれずして参列しても一様に感謝される葬儀とは異なり、本来であれば、初盆には親戚筋しか回向しないものである。

 洋平は縁者ではないので、当然場違いであったが、美鈴の両親のたっての要望と、重宝なもので恵比寿家の総領という立場が、それほどの違和感もなく彼をその場に居させた。

 美保浦に縁の薄い親戚の中には、怪訝な表情をする者もいたが、それとて当主である万太郎の、洋平に接する態度を目の当たりした後は一切なくなった。

 洋平は、美鈴の仏壇に向かって正座をした。テーブルの上に曼荼羅を描いた金色の布地を敷いて作られた臨時の仏壇である。

 真っ先に遺影が目に入った洋平は、不覚にも胸を詰まらせてしまった。涙は流すまいと心に決めていた彼だったが、昨年の夏、事あるごとに撮っておいた写真の一枚を見て堪らなくなったのである。

 洋平は、唇を噛み締めながら、視線を遺影から中央の位牌に移した。

『桜光美優大姉』

 と文字が刻んであった。

 さしずめ、『陽の光に映える桜の花のように、美しく心優しい少女』という意味なのだろう。洋平は、彼女に相応しい戒名だと小さく頷いた。

 仏壇の両側には、三対の飾り盆提灯が並んでおり、花や星などの模様が回転している。それはまるで、洋平の脳裏に去来する彼女との思い出のように、浮かんでは消え、消えては浮かび上がっていた。

 飾り盆提灯の横に、美鈴の精霊舟が横たわっていた。おそらく、万太郎爺さんが可愛い孫娘のために、精魂込めて造ったのであろう。素人の洋平にも、これまでに見た精霊舟の中では、最も立派で精巧な造りであることが容易に看て取れた。

 一尋よりやや大きめで、骨組みは檜、側面は杉板を用いてあった。舟の中央にはマストに見立てた丸棒が立ててあり、その頂点より、舳先と艫にそれぞれ紐が伸びている。紐には、永楽寺から持ち帰った経文が書いてある十数枚の短冊が帆に見立てて飾り付けられていた。

 この短冊は、永楽寺での初盆会の合同供養の際、住職の読経の終了と同時に、本堂に吊るしてあるそれらを、出席していた家族、親族で奪い合いの末、持ち帰ったものである。

 故人のために、一枚でも多くの短冊を飾り付けたいと願う者たちが、身体を張ったため、度々怪我人が出たり、せっかくの有難い短冊が破損したりしたため、後年には初盆を迎えた各家に、公平に分配されることになった。

 精霊舟には、すでに木製の仮位牌と遺影代わりの小さな写真が入れてあった。

 洋平は、線香に火を点し、両手を合わせて拝んだ。

――鈴ちゃん、迷わずにちゃんと戻って来ている? 今年も、うちの庭に蛍が飛んでいるけんど、あの中に鈴ちゃんはいるのかな……。

 今年の夏も恵比寿家の庭に蛍を見つけていた洋平は、手紙にあった美鈴の言葉を思い出していた。

 これからの長い人生、お盆にお墓参りをする度に、あるいは庭で蛍を見つける度に、彼女のことを思い出すのであろうかと洋平は思った。もちろん、美鈴の遺言とも言える願いに応えるためにも、思い出すことはいっこうに構わない。いや、思い出したいのかもしれない。  

 だが、いつになればこの悲しみは消えるのだろう。悲しみが消え失せ、美しく懐かしい思い出に昇華するまでには、いったいどれだけの時を待てば良いというのだろうか。洋平は、この深くて計り知れない悲しみが、心の襞にこびり付いて永遠に拭い去れないのではないかとすら思えてならなかった。

 洋平は、彼女の前を去り、皆が酒を酌み交わしている場から離れたところに座った。彼らを責めるつもりなど毛頭ないが、とうてい談笑する座の中に入る気分にはなれなかった。

 すると、思いを同じくする人が彼に近づいて来た。

「洋平君。今日はご苦労様。本当にありがとうね」

 美鈴の母の美津子だった。

「まあ、一年経つとこれだけ大きくなるのね」

 驚きの顔の中に垣間見えた寂しげな表情が洋平の胸を打った。きっと、今は亡き愛娘を照らし合わせているに違いなかった。

 美津子が驚くのも無理はなかった。洋平はこの一年で、身長が十センチ以上も伸びていた。彼にしても、美鈴が生きていれば、きっと追い越していたであろう伸びた背に、虚しい時の流れを感じずにはいられなかった。

「洋平君も、是非美鈴の精霊舟流しに一緒して下さいね」

「はい」

 もとより、洋平は乗船を願い出るつもりだった。

 それからしばらくの間、美津子は大阪に戻った美鈴の様子を詳しく話した。

 洋平は、ただ黙って聞いていた。

 本音を言えば、洋平は耳にしたくなかった。いまさら彼女の様子を知ったところで、新たな悲しみを生むだけのことだからである。

 だがその一方で、少しでも美鈴の真実に触れることが、彼女への供養であり、己の使命でもあるという思いに至っていたのも事実だった。いや何よりも、洋平は一生懸命に愛娘の話をする美津子に対して、贖罪の気持ちがあった。

 彼は美鈴の両親に、大きな負い目を感じていた。

『昨年の夏、自分の取った行動が美鈴を死へと追い詰めたのではないか』

 という罪の意識を抱き続けていた。

 時にはそれが高じて、

『自分たちは出逢うべきではなかった』

 と運命すら呪うほどに見境がなくなってしまうことさえあった。

 洋平は、美津子の話を聞いている間、己の責任を問うべきか否か迷い続けていた。自分を恨んではいないか、彼女の本心が知りたかった。

 洋平は勇気を振り絞った。

「おばさん。一つお聞きしたいことがあるのですが」

「あらたまって、なにかしら」

「僕が、その、僕が美鈴さんの死を早めたのではないでしょうか」

「どういうことかしら?」

「昨年の夏休み、僕が、僕が彼女をあちこちに引っ張り出したのが原因で……、その、あの、は、発症を早めたのではないでしょうか」

 洋平は恐る恐る訊いた。

 彼の苦悩を察した美津子は、

「何を言っているの、洋平君。発症は止むを得ない運命だったのよ。手紙にも書いたように、美鈴本人も私たち夫婦も、洋平君にはとても感謝しているのよ」

 と叱咤するように言った。

「でも、安静に養生していれば、発症を遅らせたかもしれないと思うと、僕は、僕は……」

 洋平が思わず言葉を詰まらせる。

「まあ、かわいそうに。洋平君はずっと苦しんでいたのね」

 美津子は洋平の身体を抱きしめ、震える背を擦った。彼女の温もりに、洋平は美鈴を感じた。だが、それを以ってしても彼の心の闇を晴らすことはできなかった。

 洋平は、この先も心に十字架を背負って生きて行かねばならず、それを完全に払拭することができたのは、ずいぶんと長い年月を経た後だった。


 洋平が美鈴の仏壇に目を遣ると、彼女に手を合わせている寺本隆夫の姿があった。

 隆夫も呼ばれていた。彼は灘屋の当主の立場にあったので、当然のことだった。

 あの蛍狩り以来、二人はすっかり幼い頃の関係に戻っていた。もちろん、彼も美鈴の死を知ってはいたが、洋平に遠慮して話題に上げることは一度もなかった。

 隆夫が傍に座った。そして十分に気遣いながら、まるで坊主のようなことを言った。

「いけんよな。年寄りならええということはないけんど、若いのはいけん。まして子供はもっといけん」

 洋平は深く頷いた。

 昨年の大敷屋は、大往生した老婆の初盆だっただけに、涙も笑顔の中にあった。それに比べて今宵は酷く暗かった。たまに談笑しているときもあるが、話が途切れると、皆一様に暗く沈んだ表情になっていた。

 沈痛な空気の中で、黄色い声だけが飛び交っていた。洋平の目には、何もわからない幼子たちの、大勢の人々の賑わいや久しぶりに会った親戚たちに興奮し、美鈴の仏壇の周りで無邪気にはしゃいでいる様子が、例えようもなく皮肉なものに映っていた。

 他愛もない話が一段落したときだった。隆夫が気まずそうな面持ちで切り出した。

「なあ、洋平。今だから言えるんだけどな、実はお前に隠していたことがあってな……」

「なんじゃ、あらたまって」

「そいがな、昨年の蛍狩りのとき、おらがわいたちを見守っていたのは、わいたちが出掛けるところを偶然見つけたけん、と言っただろう」

「ああ、確かそげだったな」

「そいが、本当はそげじゃないんだが」

「どげんことかい?」

「本当は、おらに頼みにきた者がおってなあ」

「わいに頼んだ者だと」

「うん。そげなんだが……」

「誰だ」

「うーん……うーん……」

 隆夫はここに至っても、まだ迷っていた。

「おらは怒らんけん、そこまで言ったんなら、最後まで言ったらどげだ」

 わかった、と隆夫は迷いを断ち切った表情になった。

「そいがな、お前に内緒にしてくれって、言われていたけん、ずっと黙っていたけんど、こげんことになっちまったけん、もうええじゃろと思うけんどな」

 隆夫の言葉に、洋平は見当違いをしていることに気付いた。彼は、蛍狩りから戻ったときの対応からして、てっきり母の里恵だと思っていた。

「まさか……、まさか、鈴ちゃんか?」

「その通り、美鈴だ」

「そうか、鈴ちゃんか……」

 洋平はまた胸が熱くなった。

「それがな、お盆が始まる前の十二日に、美鈴がうちにやって来て、十五日にわいと二人で蛍狩りに行くけんど、もし二人に何かあれば、村中が大騒ぎになるけん、おらにそっと後を付けてくれ、と言うんだ。そして、もし何かあれば力になってくれと頼んだんだ」

「鈴ちゃんが、そげんことを……」

「わい、美鈴に何か言ったのか。あいつは気になることがあったみたいで、おらに頼んだという訳だが」

――そういうことか……。

 洋平は、美鈴が恵比寿家に泊まった夜を思い出した。洋平が大日堂に籠っていたため、村中で捜索する騒ぎになった話を美鈴にしたのだ。

 隆夫は言葉を継いだ。

「そいでな、美鈴はわいには内緒にしてくれと頼んだんだ。せっかく、二人だけで蛍狩りに行こうと意気込んでいるわいに申し訳ないと言うんだ。おらが思うには、わいにまた誤解をされたくないという気持ちもあったと思うだが」

「……」

 洋平には返す言葉がなかった。

「それと、もう一つ。あの夜、わいたちが乗って行った自転車はおらのだが。そいも、十五日の昼にもう一度美鈴がおらに頼みに来ただ」

 この言葉が駄目押しとなった。

 とうとう洋平は、込み上げる激情を抑え切れず、居た堪れなくなって表に出た。

 隆夫の話が真実ならば、美鈴のお陰で隆夫と昔の関係に戻れたということになる。そもそも、隆夫に対して真摯に向き合おうと思い改めたのも、海岸通りでの彼女の一言がきっかけだった。美鈴が二人の関係修復を意図していたかどうかは、今となっては知る術も無いが、彼女の心根を思えば十分に考えられることだ、と洋平には思えた。

 生温かい雫が頬を伝った。美鈴を想うと、すっかり泣き虫になってしまう洋平だった。静かに流れていた涙は、しだいに大きくなる悲しみの波に抗しきれず、身体が震えだし、とうとう人目を憚ることなく声を上げて哭いた。

 悲しみは美鈴の死を知ったときよりさらに増していた。時が悲しみを小さくしてくれたと思っていたが、そうではなかった。心の片隅で静かに、しかし確実に蓄積されていっていた。

 洋平がそれを直視しなかっただけのことだった。隆夫の話に、抑えられていた感情が堰を切ったように溢れ出ていた。

 外は昨年と同じく雨が落ちていた。洋平は夜空を仰いで、降りしきる雨粒を顔に受けながら、漆黒の闇の向こうにいるであろう美鈴に向けて、届けとばかりに吼え続けた。

 通りかかった村人は、慟哭している彼の姿に何事かと思い、一瞬声を掛けそうになったが、恵比寿の総領のただならぬ様子に、とうてい手に負えることではないと感じ取ったのか、無言のまま立ち去って行った。

 洋平は雨に打たれながら立ち竦んでいた。まるで悲しみの全てを流し尽してくれることを願うかのように……。

 その彼の耳に、海岸の方角から盆踊りの口説きとリズムを取る太鼓の音が入り込んできた。雨の中、踊り手はいないものの、景気付けに流しているものらしかった。

 人生の機微をなぞらえた詞と、そこはかとない哀愁を漂わせる旋律、そして耳に残る懐かしい鼓動にも似た太鼓の音が、自然と身体の中に染み入り、心の痛みを癒してくれた。

 それは赤児のときに母の背で聞いた子守唄のような、お腹の中で聞いていた胸の鼓動を確認したときような安らぎだった。

 やがて、大工屋の家の中からも口説きが聞こえて来た。

 美保浦において、初盆を迎えた家は集まった者皆が踊って、故人の魂を慰めるのが慣わしだった。

 美鈴のための盆踊りが始まったのだ。

 洋平も哭いてばかりいられなかった。彼は家の中に戻ると、一足先に浴衣から精霊舟に乗り込む装いに着替え、踊りの輪の中に入っていった。

 昨年の恵比寿家とはまるっきり違っていた。踊りの輪に笑顔は一つもなく、誰もが幼い魂を精魂込めて慰めようと無心に踊っていた。大人たちの見慣れぬ形相に臆したのか、これまではしゃいでいた幼子たちも、ある者は神妙に踊りを見つめ、またある者はその場を遠く離れて行った。

 三十分ほどでカセットからの節が途切れ、一通りの踊りは終わりを告げた。夜とはいえ、身体中が汗まみれになった。

 皆が団扇を仰いで涼を取り、冷えたビールを飲んで喉を潤す中、洋平が思わず行動に出た。

 正座をすると、意を決したように口を開いたのである。

「皆さん、お疲れでしょうが、もう一回踊ってもらえませんか、お願いしますけん」

 洋平は頭を畳に擦り付けた。彼は一心不乱に踊り続けたかった。美鈴の魂を慰めるためにも、己の悲しみを消化するためにも、ただひたすら踊っていたかった。

「おらもお願いしますけん」

 洋平の心情を察した隆夫が一緒に頭を下げた。

 とんでもない申し出に、一同は困惑した様子で、しばらくは静まり返っていたが、そのうち親戚の誰かが声を上げた。

「おお、そうじゃ、そうじゃ、一回だけでは幼い魂は慰められんわい」

 すると別の者が、

「恵比寿の総領さんに頭を下げてもろうて、否とは言えんじゃろ。もう一回と言わず、二回でも三回でも踊っちゃらいや」

 と続けた。

 その言葉がきっかけとなって、

「何度でも踊っちゃらい」

 とか、

「交代で踊り続けりゃえんじゃないか」

 とか口々に言い出して、美鈴のための盆踊りを続けることになった。

 口にしなかったが、誰もがこの辛い初盆に酒を酌み交わす気分ではなかったのである。


 はあ、美保浦の五本松。

 一本切りゃあ、四本。

   (あほら、しゃんしゃと)

 あとは切られぬ夫婦松。

 しょこほいの夫婦松ほい。 

   (よーいやな、やあーてごしぇ) 


 はあ、美保浦に生まれて。

 美保浦にそだあーつ。

   (あほら、しゃんしゃと)

 美保浦良いとこ、死ぬまでおる。

 しょこほいの死ぬまでほい。

   (よーいやな、やあーてごしぇ) 



 美鈴が咽び泣いているかのような霧雨に変わっていた。花火大会は明日に延期となり、盆踊りも様子見となっていた。外に出る自由を奪われ、手持無沙汰になった幼子たちが、途中から輪の中に混じりだした。

 残酷にも、この場の情景の一つ一つが美鈴のいた昨年のそれと重なり合い、洋平の胸を締め付けていった。

 二十時から始まった盆踊りは、休憩を取りながら零時までの四時間の間に六度行われ、洋平と隆夫は六度とも踊り切った。

 踊り手の想いが天に届いたのか、美鈴の霊魂が諌められたかのように雨は弱まって行き、日付が変わる前にはすっかり上がっていた。

 最後の踊りの途中に訪れた住職は、仔細を聞いて、それほど踊ったという話はこれまでに訊いたことがないと感服し、自らも踊りの輪に入った。

 住職は、毎年夕方から初盆の家々を読経して回り、最後に寄った家の精霊舟を見送るため、同船して沖に出ることになっていた。その年、初盆を迎えた各家の中で、最も縁深い家の仏様と同船するのがしきたりで、今年は大工屋と決まっていた。 


 永楽寺第四十八代方丈・覚仙上人は、幼い頃日本脳炎に罹り、一命は取り留めたものの、脳に後遺症を残すという災難に見舞われたが、不屈の精神と不断の努力によって、決して軽からぬ障害を克服した奇跡の人であった。

 長じて寺院に生まれた宿世に従い、仏門に帰依してからは大本山に於いて幾度もの荒行を敢行し、ついに田舎の末寺には過ぎたるほどの高僧にまで登りつめた傑物であった。その神仏の差配のような試練に打ち勝った生き様と、生来の親しみやすい人柄も加わり、この界隈の人々の尊崇の念を集めていた。

『南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏……』

 供養の読経が始まった。皆は、覚仙を取り囲むようにして仏壇と向かい合い、後に続いて唱和した。洋平と隆夫は、縁側に敷かれた座布団に正座をした。

 覚仙の恰幅の良い体格で、朗々と唱える経はテノールかバリトン歌手の美声を聞いているかのようで、つい唱和を忘れるほど魅了するものがあった。

 ところが読経が始まって、ものの五分もしないうちに、覚仙に異変が起こり始めた。肩が揺れ、声が震え始めたかと思うと、とうとう経が途切れてしまったのだ。初めは、喉に痰でも詰まったのだろうと思っていたが、その後も頻繁に痞えては、途切れ途切れになってしまった。

 一同が

――どうなさったのだろう?

 と疑念を抱きながら、覚仙の様子を窺っていたときだった。

「どうもいけません。涙が出て止まりません」

 なんと覚仙は、一旦読経を中断してそう言うと、着物の袂よりハンカチを取り出して、目頭を押さえるではないか。

 洋平は恵比寿家の総領という立場上、子供にしては法要などの機会に数多く居合わせていたが、先代も含めこのような事態に初めて遭遇した。

 ざわめきが波紋のように広がっていった。洋平だけでなく、長年付き合いのあるお年寄りたちも初めて目にしたのか、驚きを隠せずにいた。

 異変は続いた。

 驚きが冷める間もなく、今度は仏壇に点っていた左側のろうそくの火が、風に吹かれた訳でもないのに、激しく揺れ始めたかと思うと、ぱちぱちと火花を放ちながら、三十センチほどの細長い火柱を立てたのである。

「うぉー」

 ざわめきはどよめきに変わった。

 その場に居た誰もがはっきりと目撃したのである。相次ぐ奇怪な現象に、皆が動揺する中で、洋平は不思議と落ち着いていた。

 このとき洋平は、美鈴を感じていた。

 あの夜、納屋で抱擁したときの肌の感触が彼の身体を包んでいたのである。

――鈴ちゃん、ここにいるんだね?

 洋平は心の中で問い掛けた。

 すると、どこからともなく一閃の涼風が流れ、彼の鼻っ面をかすめるように吹き抜けていった。

――やっぱり、そげなんだ。皆が居るんで、合図だけを送っているんだね、鈴ちゃん。

 洋平の想いが確信に変わったときだった。

『洋平君……』

 背後で、自分を呼ぶ声がしたような気がした。もしや、と思いつつ洋平が振り返ると、目の前に一匹の蛍が浮遊していた。

『鈴ちゃん、よう帰ってきたな!』

 洋平は心の中で叫びながら、左手を握り締め、蛍の前に突き出した。すると、それを待っていたかのように蛍は彼の拳の上に止まった。

「どげした?」

 隆夫が背中越しに訊いた。

「えんや。蛍が止まっちょうだが」

 洋平は静かに身体を戻し、隆夫に見せようとした。そのとき、一瞬だけ視線が蛍から逸れた。

「ほれ……、あれ?」

 再び視線を戻したときには、拳の上に蛍の姿はなかった。

「蛍なんておらんがな」

「確かにおっただが、この拳の上に止まっていただが」

 洋平は真顔で言った。

 隆夫がいつになく神妙になった。

「そげなら、美鈴が戻って来ただな」

 洋平は静かに目を瞑った。彼の瞼の裏には、あの蛍狩りの夜、袖に留まった蛍と交信していた美鈴の微笑が浮かんでいた。


「では、続けます」

 少し間を取った後、覚仙は読経を再開したが、この日ばかりは、本来の見事な読経を拝聴することは叶わなかった。

 読経が終わると、覚仙の法話が始まった。

「皆さん、とんだ醜態をお見せしました。誠に申し訳有りません。拙僧も数多の葬儀、法要で経を唱えておりますが、このようなことは滅多にございません。最近では、五年前の母の葬儀ときに、このようなことがございましたが、そのときは血を分けた肉親でございますし、私の幼い頃、行く末を案じて色々と苦労をした母のことを思い出し、思わず不覚を取ったのでございます。

 しかし、この仏様は肉親でもございませんし、ましてこの村でお育ちになった方でもございませんので、この世での私との縁も深くはございません。にも拘わらず、このような次第になったということは、前世で御縁があったのか、あるいはこの仏様は余程この世に未練がお有りになるのでしょう。いずれにしても、及ばずながら、拙僧がそこのところを、よくよく言い含めて魂を慰めて差し上げました。

 さて皆様、この仏様は十二歳という幼さでお亡くなりになりました。さぞや、お悲しみになったでしょう。とくに御両親の心中たるや、察するに余るものがございます。

 ただ、誤解の無きようにお願したいのですが、拙僧のように仏門の世界に生きる者から見ますと、幼くしてこの世を去るということは、必ずしも悪いことではないのです。

 信心深い皆様は、良くご承知のことと思いますが、仏教では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天と六つの世界があると説いております。

 魂はこの六つの世界に何度も生まれかわり、その度に磨かれて、神仏の眼鏡に適った魂だけが天界へと旅立って行くのです。幸いにも、我々は最も天界に近い人間界に存在しています。ですから、私たちはこの世で魂を磨くことにより、天界へ生まれ変わることもできるのです。

 魂は艱難辛苦によって磨かれます。この世で苦しみ、悲しみが多いということは、それだけ魂を磨いていることになり、天界へ旅立つ準備をしているということになるのです。

 この仏様のように、幼くしてこの世を去られるということは、この世で魂を磨く必要がないということでもあります。つまり、この仏様はもうすぐ天界へと旅立たれる魂なのでございます。もしかすると、今生が最後の人間界だったのかも知れません。そういう意味からすれば、私を含めこの中では一番尊い魂だということが言えるのです。

 どうぞ皆様、気休めにしかならないかも知れませんが、そのようにお考えになって、心安らかに仏様の供養を致しましょう」

 覚仙の話に癒されたのか、各々の表情が穏やかなものに変わっていった。

 そこへさらに、覚仙が一言付け加えた。

「私の父などは、九十歳を迎えようとしている今も、この世に執着があるようですので、天界へは程遠い、どうにも始末に終えない魂ということになりますかねえ……」

 あっはっはっはっ……。

 覚仙の冗談に、どっと大笑いが巻き起こった。誰もが、この日初めて腹の底から出した笑い声だった。

 話が終わると、精霊舟流しの時刻まで、覚仙も加わった供養の酒盛りは続いた。

 洋平は覚仙の横に座った。彼にはどうしても確かめておきたいことがあった。

「お上人様。さきほどのお話ですが、生まれ変わりって、本当にあるんでしょうか」

 洋平は酒の酌をしながら訊ねた。

「ほう、総領さんがそんなことを聞きなさるとは珍しい。総領さんは、どげん思いなさる?」

「はい。おらは、それこそ母のお腹にいるときから、地主さんがおらの護り御本尊様だと言われ続けてきましたけん、神仏というものは信じる、信じないと言いますより、たしかにそこに存在して、庇護して下さっていると言った方が正直な感覚でした」

「なるほど、ウメお婆さんの薫陶の賜ですな」

 覚仙が頬を緩める。

「ですが、それはおらに、神仏に何かを強く頼るという気持ちがなかったからなのだと思うのです。今のおらのように、心底より神仏に頼る気持ちが湧いてきますと、却って神仏の存在そのものが不確かなものに思えてならないのです。それは、私の不信心なのでしょうか」

 いいえ、と覚仙は首を横に振った。

「それは不信心なのでは有りません。総領さんの実に素直な心根の表れです。人というものは、皆そのようなものです。例えば、普段はとても善人なのに、欲が絡むと途端に豹変してしまう。金、愛、権力、名誉……、とありとあらゆる欲望が人間世界の軋轢の源です。

 欲望の原因は、ひとえに心の未熟さです。総領さん。だからこそ、人は心を磨かなければならないのです。時にそれを学問によって、それを信心によって、あるいは親子の情や、恋愛、友情といった人間関係によって……。ところで、総領さんが神仏に頼りたい事とは、いったい何ですかな?」

「もし、生まれ変わることができるのなら、いつの日にか、もう一度この仏様と巡り会いたいのです。それも、叶うことならこの世での思い出の記憶を留めたままで……」

「そうですか。総領さんは、余程この仏様のことを深くお想いになっておられたのですね。総領さんが、それほどのお気持ちでおられるのなら、拙僧が今申し上げられることは、そのお気持ちを持ち続けなさいということだけです。

 おそらく、総領さんならば、拙僧がこの場で申し上げるようなことは、いずれご自分で分別なさるでしょう。それよりも、今のお気持ちを大切に心の奥底にしまって置いて下さい。そうすれば、どのような形になるかはわかりませんが、総領さんの願いはきっと叶うと思います。拙僧の感ずるところ、仏様がこの世に未練を残されていたのも、総領さん故のようですので、お二人の魂はどこかで繋がっていると思われます」 

 洋平は、一筋の光明を見出した気持ちになっていた。いつの日にか、再び美鈴と巡り会うことを信じて未来を生きて行こう……。そのとき、彼女に恥じない人間になっていようという決意の光を……。

 この覚仙との会話が引き金となって、洋平は死後の世界とか魂といった宗教的観念に興味を抱くようになった。

 そして後年、祖母のウメから覚仙の宗教上の兄弟子に当たる、とある高僧のことを聞き及んだ洋平は、覚仙からその高僧を紹介して貰えるようウメに頼み込んだのである。

 ウメは孫の精神修養に良かれと思い、頼みを聞き入れたのだが、洋平が恵比寿家の後継の座を放棄するに至り、深く後悔することになったのである。


 洋平は覚仙との話を終えると、縁側にいた隆夫の横に座った。庭の燈篭のぼやけた明かりは、先ほどまで降っていた雨で、生命の営みを吹き返したかのような瑞々しい緑の草木を照らし出していた。

「なあ、隆夫。鈴ちゃんがわいのところに頼みに行ったのは、おらとわいを仲直りさせる意図もあったと思うか?」

 うーん……、と隆夫は腕を組んだ。

「それは、おらにもわからんなあ……。だいてが、あのときの美鈴は必死だったがな。どんなつもりだったかはわからんけんど、あいつが真剣にわいのことを想っちょったのは間違いないな。それがおらにもひしひしと伝わってきたがな。だけん、おらはちょっと事情があったけんど、わいたちの力になろうと思ったんだが」

「事情って、なんだ?」

「ほ、ほら、足を怪我しちょっただろう……」

 隆夫は動揺を押し隠すように言い、

「それより、おらはそこまで美鈴に好かれちょうわいが羨ましかったがな」

 と話をすり変えた。

 ああ、と洋平は頷く。

「それはおらの想いも同じだったがな。だいてが、今はそれが反って辛いんだが。お互いに、もっといい加減で浮ついた想いだったら、こがいに辛い思いをせんで済んだだが……」

「わいの気持ちはようわかるけんど、そこだ、そこが大事なんだがな、洋平。それを乗り越えていかないけんのだがな」

 隆夫の言葉には、真実の重みがあった。

 そうなのだ。彼はわずか八歳のときに、祖父と父を一緒に亡くしていたのだ。洋平は、そのときの彼の悲しみと今の自分の悲しみを対比するという愚考に奔るつもりはないが、少なくとも大きな悲しみを乗り越えて来た彼の言葉は、十分な説得力をもって心に響いていた。


 いよいよ精霊舟の出船となった。仏壇に供えられていた全ての蝋燭、線香、果物、お菓子に加えて小銭とお米が中に詰められた。

 覚仙を先頭にした一行は、定刻どおりに大工屋を出て岸壁へと向かった。

 洋平は美鈴の精霊舟を担いでいた。

 チーン……、チーン……。

 読経の合間の物悲しいリンの音が、深い夜のしじまに鳴り響いていた。この世の儚さを知らしめるかのような音色が、洋平の耳を通して身体の隅々まで染み入り、彼に美鈴と同船した昨夏の精霊舟流しの記憶を呼び起こした。


 洋平と美鈴は覚仙のすぐ後を歩いていた。

 二十人ほどの参列者は、行列を作り海岸通りを岸壁へ向かって歩いた。時を同じくして、初盆を迎えた家々の親族らが、村のあちらこちらから岸壁を目指していた。

 この厳かな行事を迎え、盆踊りは一旦中断していた。道中で出会った人々は、一様に身体を隅に寄せて道を譲り、手を合わせながら無言でお辞儀をした。

 岸壁のあちらこちらで、船のエンジンが鳴り響いていた。どの船もイカ釣り用のランプを点けていたため、辺りは昼間と見間違うほどの明るさだった。

「波はどげな?」

 誰かがこの船を操縦する者に聞いた。

「さっき、ちょっと八島の先まで出てみたけんど、まあまあ凪だったが」

 洋平はその言葉に安堵した。空はすでに平穏になっていたが、波は遅れて静まる。時化が残っていると、初めて船に乗る美鈴の船酔いが心配だったのだ。

 供の者が次々と船に乗り込んだ。曾孫である律子は、中央の精霊船の傍に洋平と美鈴は艫に乗った。

 艫綱を外し、船が進み始めてまもなく、洋平は美鈴に左手を見るように合図をした。頼りない月明かりの中で、二人が初めて出遭った集合場所から小浜までが、かすかに一望できた。そこから視線を上にやると、初めてのキスをした丘がうっすらと浮かび上がって見え、二人は目を合わせて微笑みあった。

 美保浦湾の波は穏やかだったが、防波堤を過ぎた辺りから、少しずつ波が高くなっていった。それでも、まだ東の方向に進んでいるため、さほどのことではなかった。さらに東へ進み、左手に見える二つ目の島の八島を過ぎた辺りで、舵を北に切って、本格的な外洋に出た。

 凪とは言うものの、さすがに外洋である。途端にうねりを見せ始め、立っていることが難しくなった。ときどき波がまともに舳先とぶつかると、その衝撃はたとえ座っていても、何かを掴んでいないとよろけてしまうほどで、そのとき生じた波しぶきが、大粒の雨のように降り掛かってきていた。

 美鈴が、洋平の腕にしがみついた。

「大丈夫? 酔ってない?」

 洋平は、もう片方の手で、船の安全マストをしっかり掴みながら、美鈴を注視した。

「まだ、大丈夫。あとどれくらい進むの」

「もうちょっとだと思う。前に乗ったとき、このあたりで止まったから」

 洋平がそう言ってまもなく、予想通りにエンジンの音が小さくなり、船は減速し始め、やがて完全に止まった。

 船が止まると、一層縦揺れを大きく感じる。船に慣れていない者は、これで酔ってしまうのだ。船に乗り始めた頃、いつも船酔いをしていので、洋平はその辛さを知っていた。心配げに美鈴の様子を覗った洋平だったが、意外にも彼女は平然としていた。船酔いに強い体質なのだろう。

 辺りを見回すと、何艘もの船が屯していて、すでに幾つもの精霊舟が波間に漂っていた。

 再び覚仙の読経が始まった。

 船の揺れに立っていることができないため、皆腰を落とし手を合わせて祈った。短めの読経終わると、いよいよ精霊舟を海に流す段になった。大きな船だと、その分だけ海面までの距離があるため、精霊舟がひっくり返らないように、慎重に下ろさねばならない。

「ちゃんと、黄泉の国へ帰だじぇ」

「来年のお盆にも帰って来てごしないよ」

 故人と縁の深かった人たちは、口々にそう言って見送った。

 不思議なもので、そこかしこに散らばって漂っていたはずの精霊舟が、波間を漂うにつれて、どれも一点を目指して、寄り添いながら進んでいるように見えた。

 それはまるで、遠い波間の先に西方浄土への入り口があり、そこに引き寄せられているかのようであった。


 昨盆の精霊舟流しに思いを馳せている間に、洋平は再びこの場所にやって来ていた。

 十二歳だった彼には、人の死など遠い存在だった。まして、同じ年頃の子供に死があるということなど、思いすら至らなかった。しかし、現実に美鈴の死を突きつけられ、まさか一年後、彼女の精霊舟を見送ることになろうとは……。真に神が存在するのであれば、何と酷いことをなさるのだろうと、洋平は恨めしい気持ちだった。

 覚仙の読経は、昨年のそれと比べ明らかに長かった。幼い魂ゆえ、より丁重に供養している下さるのだろう。

 すでに他の船からは、次々と精霊舟が海面に浮かべられ、潮の流れに漂いながら、北東の方角に向かって進んでいた。

 やがて読経の一区切りがつき、いよいよ美鈴の精霊舟を海に流す時が来た。このとき洋平は、ポケットより彼女と共に写した写真を取り出し、そっと精霊舟の中に忍ばせた。 

 洋平は、最後に精霊舟を手から離し、艫を軽く押した。彼女の精霊舟は、少し勢いがついて、真っ直ぐに船から離れて行った。

 洋平は、今となっては形見となってしまったペンダントを左手に握り締めながら、右手で拝む形を取った。

――鈴ちゃん、去年の夏おらの前に現れてくれて、だんだん。鈴ちゃんのお陰で、楽しい時が送れたけん。鈴ちゃんがいなくなったのは辛くて悲しいけんど、でも出逢わないより、ずっとずっと幸せだったけん。二人で写した写真を乗せたけん。おらは一生鈴ちゃんのことを忘れんけん。一生鈴ちゃんと過ごした思い出は忘れんけん。絶対に忘れんけん。これから先、おらはどんな人生を送るのかわらんけんど、精一杯がんばってみるけん。いつか再び鈴ちゃんと巡り会うことができたら、よくがんばったね、と褒めて貰えるようにね。そいで、この世での事はそのときに謝るけん。だけん、ずっと空の上から見守ってごしぇな。

 祈り終えた洋平は、拝んでいた右手を夜空に向けて精一杯突き上げ、拳を握った。

 通り雨が去った後の、澄み切った満天に散らばる無数の星々は、決して明るい光ではなかったが、あたかも精霊舟の行方を見守るかのように優しく瞬いていた。

 洋平は深く信じた。

 昨年の夏、忽然と自分の前に現れたかと思うと、閃光の如く輝きを放ち、俄かに姿を消してしまった美鈴は、まさしくあの天空から舞い降りた女神なのだと……。 それはまるで、プレアデスの神話のように、女神が彼女に姿を変えて自分の元へ舞い降り、今またこの目に映るどれかの星に姿を戻して、自分を見守ってくれているのだと……。

 視線を海面に戻すと、今宵もあちらこちらで流されたはずの精霊舟が、奇しき炎を揺らめかせながら、道連れを求めるかのように寄り添い合っていた。彼女の精霊舟の蝋燭の火が、時折吹く風に消えそうになり、洋平をやきもきさせたが、やがて無事に皆の中に混じって行き、とうとう見分けが付かなくなった。

 洋平は、大阪の大学へ進学するため、この村を出ることになるまで、海に泳ぎに行くのを止めた。中学生になったら決行するつもりだった遠泳も止めた。釣りも、祖母と畑に行くのも、蛍を見に行くのも、盆踊りも止めた。

 美鈴を思い出す全てのことを封印したのだった。








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