第12話 真実

 美鈴が去った夏休みは酷く退屈なものとなった。蝉の抜け殻のように空虚となった洋平の心は、何物でも埋られそうもなかった。

 その後、洋平は何度も手紙を書き、電話もした。三ヶ月ほどは、美鈴からの返事もあり、二人の関係はなんら変化がないように思われた。

 ところが、秋も深まる頃になって、美鈴からの手紙がぷつりと途絶えた。不安に駆られながらも、洋平は勇気を出して二、三度電話をしたが、美鈴が受話器を取ることは一度もなく、代わりに電話口に立った母親は、気まずそうな声で要領を得ない返事を繰り返すばかりだった。

 その対応ぶりから、美鈴の心が離れていったのだと直感した洋平は、必死にその理由を考え続けた。そして、それは無理もないとの結論を出した。

 なるほど、美鈴に会う前の洋平の日常は取り立てて変化のないものだったが、彼女のそれは洋平と同じではなかったからだ。美鈴は、東京から大阪への転校という新しい環境の中にいた。見知らぬ街で一人ぼっちだった彼女が、心の拠り所を求めていたとしても不思議ではない。

 つまり、自分との恋は『生活の変化の端境期に起こった、ほんのひと時の心の寄り道に過ぎなかったのだ』という考えに至ったのである。

 まだ子供だった彼が、そのような稚拙な考えでさえ、理に適っていると思い込んでも無理のないことであったろう。

 というより、洋平はあるときからそれ以外の理由を考えないことにした。

 たとえば極めて複雑な人の心理というものを、幼い自分がいくら推し量っても、結論の出ない虚しい行為であるし、仮に至極真っ当な答えを見つけ出したとしても、美鈴の心が再び自分の元に戻ることはないと悟っていたからである。

 故に、難解な思考を放棄し、単純な事象に答えを求めたのである。

 洋平は、手紙を書くことも電話をすることも止めた。美鈴に未練がましい男だと思われたくないという、彼が僅かに持ち得たプライドがそうさせた。

 約束していた冬休みに、美鈴が帰って来ることはないと容易に予想できた。

 やがて年の瀬が来て、予想は現実のものとなり、僅かな望みも断たれた洋平は、これで美鈴との縁は完全に切れたと確信した。

 悲しかったし、辛かったが、子供の彼にはどうすることもできない現実があった。

 洋平は美鈴を忘れようとした。必死になって、心から彼女を追い出そうとした。 しかし、あの鮮烈な初恋の思い出を容易く忘れられるはずもなかった。彼女との思い出は、そのすべてが血肉となって彼の全身の隅々にまで刻み込まれてしまっていたのである。

 季節は本格的な冬へと向かい始めていた。身を切り裂くような北風は、冷えた洋平の心を容易に凍らせた。

 それでも洋平が救われたのは、時というものが誰の身の上にも公平に流れるということだった。あれほどもがき苦しんだ日々も、どうにか過ぎ去り、いつしか洋平の心から少しずつ美鈴が消え去ろうとしていた。


 二月も末に近づいていたある日のことだった。

 未明からの雪は、いっこうに止む気配がなく、この冬最後の大雪になろうとしていた。山陰という名は、このようなどんよりとした空模様から名付けられたものなのだろう。鉛色の雲が空一体に低く立ち込め、霙混じりの雪がやがて本格的なボタン雪に変わり、この世の苦しみも悲しみも何もかも埋め尽くすかのように、ただひたすら深々と降り続いていた。

 土曜日なので、授業は午前中で終わった。

 洋平は、一面銀色に降り積もった校庭で、雪合戦をして遊ぶ下級生らの歓声を耳にしながら帰宅の途についた。

 校門を出た直後だった。雪は降り続いていたものの、それまで無風状態だったのが、いきなり突風が吹き荒れ、ボタン雪が乱舞し始めた。洋平は襟を立てた上着のジッパーを目一杯上げて鼻先まで覆うと、背中をまるめ、視線を落として歩いていた。

 しばらくして、奇妙なことが起こった。

 ちょうど、墓地の裾野の入り口に差し掛かった辺りで、彼は一緒に学校を後にしたはずの友人らの気配がしないことに気づいた。不思議に思って後ろを振り返ると、もはや皆の姿は跡形もなく消え去っていた。

 彼の驚きに拍車を掛けたのは、家の方向が同じで、恵比寿の家の前で別れる友人の姿さえもなかったことである。

 別の帰り道があるにはあった。墓地の裾野までに別れ道があり、遠回りにはなるが、たまの気分転換にそちらの道を通ることもあった。ただ、仮にそうだとしても、一言も声を掛けずに去ってしまうことなど、洋平には解せないことだった。

 その後も奇妙なことが続いた。

 友人たちを見失ってからというもの、洋平はずっと一人きりだった。誰かとすれ違うことはもちろんのこと、普段のように軒先から声を掛けられることさえも一度としてなかった。いかに豪雪とはいえ、このようなことは記憶になかった。

 洋平は、道の両側に身の丈まで積み上げられた雪の壁の中を歩いていた。両側に軒を並べる家々は、更なる積雪に備え、雨戸を閉め切っており、家中からの物音すらも漏れ聞くことがなかった。

 洋平は、取りとめもない恐怖に襲われていた。今このとき、この世界にただ一人置き去りにされたような孤独感が洋平の心を支配した。

 洋平は帰り道を急いだ。一刻も早くこの孤独から逃れ、家族が待つ暖かい我が家に戻りたかった。だが深く沈む新雪に足元は覚束なく、思い通りに歩みを進められない。

 ようやく、恵比寿家の南西の角まで戻ってきた。目と鼻の先に門が見えていた。

 少しだけ不安から解放された洋平は、油断して転ばぬようにと足元を見て歩いた。

 残り僅かで門に辿り着こうとしていた。そのときだった。

「洋くーん」         

 遥か前方から、聞き慣れた恋しい声を耳にしたような気がした。

――まさか、鈴ちゃん? いや、そんなはずはない。気のせいだ……。風の泣く声だ。

 洋平はすぐさま打ち消した。だが、別の思いが脳裏を過る。

――しかし、妙だ。今日は何かおかしい。いつの間にか友人はいなくなるし、誰とも出会わないし……。挙句には、この場にいるはずのない鈴ちゃんの声まで聞こえる始末……。

 洋平は奇妙な体験に首を傾げた。

 すると、

「洋くーん。洋くーん」

 先ほどより、少しはっきりと聞こえた。

――彼女の声に間違いない。どうやら空耳ではないようだ。だいてがなんで今頃?

 洋平は複雑な心境だった。四ヶ月近くも音信不通で、いきなり目の前に現れても、どうしたらよいのか心の準備ができていないのだ。

 洋平は何やら狐につままれ、夢を見ているような面持ちで海岸の方を注視した。

 洋平は目を見張った。そこには雪の簾の中を、こちらに向かってやって来る美鈴の姿があるではないか。

 いや、彼女とは確認できなかった。異様なほどに降りしきる雪が強風に乱舞していたため、視界が遮られていた。しかも真っ白なズボンとジャンパーを着て、さらにフードを被っていたせいで、何かの白い物体がこちらに向かって来ていることがわかっただけだった。

「鈴ちゃん? 鈴ちゃんか」

 洋平は、半信半疑で声を掛けた。

「洋くーん。洋くーん」

 今度こそ、はっきりと彼女の声が聞こえた。そして、暗闇のトンネルから光の空間に抜け出し、一気に視界が開けるように、いきなり雪の幕が開かれ、こちらに向かって駆けて来る美鈴が現れた。

 美鈴は手を振っていた。あの夏の日と同じように、手を上げて大きく振っていた。顔ははっきりと見えなかったが、愛くるしい姿は紛れもなく美鈴だった。

「鈴ちゃん、走ったらいけん。雪で足が滑るけん、転んだらどげするだ。走らんでいいけん」

 洋平は、信じられない速さで滑るように走って来る美鈴に向かって叫んだ。彼女は雪を踏みしめているにも拘わらず、まるで乾いた道の上を走るかのように、軽快に走っていたのだ。

 洋平の声が届いたのか、恵比寿家の敷地の角までやって来ると、歩きながら小さく手を振った。

 何もかもが同じだった。季節がそっくり冬に変わっただけで、美鈴の自分を呼ぶ声も、手を振る姿も去年の夏と少しも変わらなかった。 

「びっくりした。どげしただ?」

 洋平は喜びの興奮を抑えるかのように、つとめて低い声で美鈴に訊ねた。

「……」

 彼女は黙ったまま肯いた。

 洋平は、心が軽くなってゆくのを感じた。その少しも悪びれた様子もなく、微笑を浮かべている美鈴を見ていると、この数ヶ月間、自分を深い谷底に這い蹲らせ、悲しみと苦しみを与えた続けた張本人を目の前にしているというのに、彼女に対する恨みがましい気持ちがたちどころに消え去っていったのである。

 美鈴の顔は夏の小麦色がすっかりと醒め、初めて出逢ったときの抜けるような白い肌に戻っていた。それどころか、雪面の反射光に照らされた喉元から頬に掛けて、血の流れが透けて見えるほどの蒼い管が浮き上がっている。それは、妖気すら漂うほどの白さだった。

――この寒さで冷え切っているのだ。

 そう思った洋平は、

「鈴ちゃん、こちけえけん(凍える)。早く家の中に入らい」

 と凍り付いた身体を温めるべく、彼女の手を取り、家の中へと急いだ。

「ただいま」

「……」

 玄関に入ると、奥に向かって呼び掛けたが、里恵の返事はなかった。

 洋平はもう一度呼び掛けた。

「ただいま。お母ちゃん、鈴ちゃんが遊びに来たよ」

「……」

 彼は喜び勇んだが、やはり返事はなかった。

「お祖母ちゃーん、お祖父ちゃーん。誰かおらんの?」

 洋平は力の限り声を上げたが、広い屋敷の中は深閑として誰も答えず、ガタガタと強い北風に戸が打たれる音だけが響いていた。

「おかしいなあ、こんな雪の日に誰もおらんなんて珍しいなあ」

 洋平は苛立ちを覚えたが、

「鈴ちゃん、とにかく上がって炬燵に当たらい」

 と中の間に入った。

「誰もおらんけど、火は残っちょうかな……」 

 中の間にある炬燵は掘り炬燵だった。火種が残っているかどうか心配しながら、布団を捲って中の温もりを探ったが、彼の手に伝わる熱は身体を温めるには頼りないものだった。

 洋平は火箸を取り、灰の中に炭を探したが見つからなかった。火箸を刺しても、掻き回してもいっこうに手応えがなかった。 

 洋平は祈るような気持ちで、最後に奥深くまで火箸を突き刺した。すると、先端に硬いものが当たり、鉄の棒を伝うわずかな熱を感じた。火櫃の底に、赤々と焼けた一本の太い炭が残っていたのである。

「良かったあ。鈴ちゃん、火が点いちょうけん、布団の中に手足を入れて。これで、一時間ぐらいはもつけん。そのうち誰かが帰ってくると思うけん。ああ、良かった、良かった」

 洋平は、ことさら声を弾ませて言った。

 二人は向かい合って炬燵に入った。炭火の暖かみが、手足から身体中に伝わっていった。

 このとき洋平は、ただ単に温もりだけを探していた訳ではなかった。彼は灰の中の炭火に、二人の胸の内に残る恋の炎を重ね合わせ、占っていたのだった。

――火は残っていた……。もしかしたら恋の火も……。

 洋平は、この数か月の空白を埋めるべく、心にも暖かみが欲しいと願った。

「鈴ちゃん、なんで手紙を……」

 と言い掛けて美鈴を見たとき、彼はそこから先を言葉にすることができなくなった。

 美鈴が拳を作って、前に突き出したのだ。

 洋平は自分の拳をコツンと当て、美鈴の屈託のない笑みを見つめた。まるで、墓地の入り口に祭ってある観音菩薩のような、慈愛に満ちた微笑を目の当たりにしたとき、連絡をくれなかった理由など、どうでも良くなった。美鈴がこうして、再び逢いに来てくれたことだけで充分だ、という気持ちに変わっていったのである。

 雨戸を叩く風の音が、さらなる荒天を告げていた。

 二人は見つめ合った。ただただ見つめ合っていた。

 どれほどの時間が経ったのだろうか。すーと美鈴が立ち上がり、洋平の横にやって来て、無造作に仰向けになると、ゆっくりと目を閉じた。

 虚を衝かれた洋平だったが、相変わらずの奔放な行動に、夏の日の彼女が甦ってきた。

 洋平も同じように彼女の横に、仰向けになって目を瞑った。

 洋平が目を瞑ったのと同時に、美鈴が初めて口を開いた。

「ねえ、洋君。私と初めて出逢った日のことを覚えている?」

 恋しい声を耳元で聞いた洋平は、懐かしさがこみ上げてきて、目頭が熱くなった。

「覚えちょうよ。集合場所で鈴ちゃんを見たとき、がいに可愛くてびっくりしただ。おらは、あのときから鈴ちゃんを好きになっただ」

 洋平は美鈴に悟られまいと、震える声を懸命に抑えていた。

「初めてキスをしたことは?」

「そんなもん、絶対に忘れるはずがないがな」

「盆踊りは? 蛍狩りは? 納屋のことは?」

 美鈴は急くように、矢継ぎ早に訊ねてきた。彼女が始めて恵比寿家にやって来た日の転寝をしたときと同じだった。

「もちろん、全部覚えちょうよ。だいてが鈴ちゃん、なんでそんなことばかり聞いてくるだ」 

 問い返しながら、横を向いて美鈴を見た洋平は、渇望していた心の暖かみが隅々にまで広がって行くのを感じた。瞑っていた彼女の瞼が、小刻みに震えていたのである。

――鈴ちゃんもおらと同じ想いなのだ。鈴ちゃんの気持ちは少しも変わってはいなかった。そうか、鈴ちゃんもおらも同じ想いかどうか確かめているのか。

 二人の関係が、昨夏のままだと確信した洋平は、お盆の夜以来、絶えず気に病んでいた、ある胸の痞えを取り除きたいと思った。

「ところで、鈴ちゃん。おら、鈴ちゃんに謝らんといけんことがあるだが……」

 洋平には、この冬に美鈴と再会したならば、真っ先に釈明しなければならないことがあった。

 だが、彼女は返事をしなかった。

「ねえ、鈴ちゃん。あのね、プレアデスのことだけんど……」

「……」

 やはり何も反応がない。

「鈴ちゃん? 鈴ちゃん、どげしただ」 

 洋平は何度も呼び掛けたが、彼女の口が開くことはなかった。どうやら、眠ってしまったようだ。

「なあんだ、寝ちゃったのか」

 そう呟きながら、美鈴の寝顔を見ているうちに、いつの間にか洋平も眠りに陥ったのだった。


「洋平。起きなさい、洋平」

 夢現の中で母里恵の声を聞いた。眠りから醒める寸前で、洋平は隣に美鈴の気配がないことに気付いた。

「お母ちゃん、鈴ちゃんは?」

「えっ、美鈴ちゃん?」 

 数瞬、驚きの色を浮かべた里恵だったが、すぐに何かを悟った表情に変わった。

「そうかい。美鈴ちゃんが遊びに来てたのかい」

「うん。おらもびっくりしただけんど……。さっきまで話をして、それから寝ちょったのに……」

「きっと、美鈴ちゃんは時間がきて、帰って行ったのだよ」

 洋平は納得がいかなかった。

「鈴ちゃんが、おらに黙って帰るはずがないけん。そこいら辺におるかもしれんけん、おら、ちょっと見てくる」

 洋平は家中を捜し回ったが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。 

「こんな吹雪の中を一人で帰って行ったのかな、鈴ちゃん大丈夫かな? お母ちゃん、大工屋さんに電話してみて」

 中の間に戻り、里恵にそう頼むと、

「洋平、今日は朝から吹雪なんてちっとも吹いちょらんよ。それに、美鈴ちゃんが帰って行ったのは大工屋さんじゃないよ」

「えっ?」

 洋平には里恵の言葉の意味がわからなかった。

 訝しがる洋平に、

「洋平、これが届いたよ」

 と、里恵は一通の手紙を差し出した。

 洋平の心の片隅に胸騒ぎの火種が点った。そして、封筒を裏返して差出人の名前を確認したとき、不吉な予感は心の中を一気に席巻していった。

 差出人は『井上美津子』。美鈴の母だった。

 洋平は、ようやく事の真相を悟った。彼は、まるで手にした手紙の開封を遠ざけるかのように、母屋の式台、土間を渡った離れの式台、そして階段を上がる途中で何度も腰を下ろした。それはまるで、絞首台へ向かう死刑囚のような躊躇いだった。洋平は右手で左胸を摩り、気持ちを落ち着かせながら自室へ入って行った。

 乾いた冷気が、一層洋平の胸を締めつけた。ベッドに腰掛けた洋平は、封を切ろうとするが、手が震えてうまく開けることができない。手だけではない、身体全体が震えて、どうにもならなかった。

 むろん、寒さが原因ではない。これから受けるであろう衝撃の予感に、戦慄していたせいだった。彼は、何度も何度も深呼吸をして、錐が突き刺さっているかのような胸の痛みに耐えながら、どうにか封筒から手紙を取り出すと、ゆっくりと広げた。


「拝啓、洋平君。

 突然のお手紙でびっくりしたと思います。

 そんな洋平君に、もっと驚くことを言わなくてはなりません。美鈴が、二月二十二日に白血病で天国へ旅立ってしまいました。

 驚いたでしょう。悲しいことですが、事実なのです。美鈴は、三年前に白血病とわかり、それからずっと治療してきました。幸い、発病しないうちは無理さえしなければ普通の生活はできたので、本人には本当のことを話してはいませんでした。 身体に気を付けて、無理をしないようにとだけ言っていました。しかし、元々勘の鋭い娘でしたので、気付いていながら、反対に私たちに気を使って気付かないふりをしていたのかもしれません。

 ともかく、そういう事情でしたので、美鈴が望むことはなるべく叶えてやるようにしていました。昨夏の夏休みに、一人で先に美保浦に行きたいと言ったときも、とても心配でしたが、美鈴の言う通りにさせました。

 今になって思えば、それで本当に良かったと思っています。洋平君とお友達になれて本当に良かった。

 美鈴は大阪に戻ってからも、私たちに洋平君と一緒に過ごした夏休みの思い出を楽しそうに、そして嬉しそうにに話してくれました。私たち夫婦は、美鈴とこんなに話をしたことがあったかしら、と思うくらい話をしました。

 自分の身体が弱いことに引け目を感じ、内気で口数の少ない子供だった美鈴が、まるで生まれ変わったように明るくなっていました。これも洋平君のお陰だと感謝の気持ちでいっぱいでした。

 洋平君が、いろいろなところへ連れて行ってくれるという度に、大工屋のお祖父さんから連絡があり、とても迷いましたが、今では美鈴の好きなようにさせてやって良かったと思っています。

 洋平君、本当にありがとう。昨年の夏、いつも美鈴と一緒にいてくれてありがとう。美鈴のことを好きになってくれてありがとう。美鈴にとっては、大阪にいるより、ずっとずっと幸せな日々が送れたことでしょう。だって、最初で最後のすてきな恋をしたのですから……。

 美鈴は病院のベッドの中でも、洋平君から貰ったペンダントを握り締め、一緒に撮った写真を眺め、洋平君から届いた手紙を何度も何度も読み返していました。ペンダントも写真も手紙も、美鈴の棺に入れてやりました。

 美鈴は入院してからも、初めのうちは返事を書いていましたが、そのうちに書くことを止めました。それは、一緒に勉強したとき、洋平君から『とてもきれいな字だね』と褒められたことがとても嬉しかったので、汚い字でしか書けなくなった手紙を見せたくなかったのです。

 また、自分の病気を知られて、洋平君を悲しませたくなかったのです。美鈴は、自分が返事を書けなくなったことをとても悔やんでいました。私も、何度も洋平君に本当のことを知らせようかと思いましたが、どうせ助からない命なら、美鈴の想いを大切にしたいと思い、また洋平君によけいな心配と悲しみを与えるだけだと思い、止めました。

 こんな手紙を送ることになって、本当にごめんなさいね。

 洋平君は美鈴の分まで、一生懸命勉強してください、一生懸命遊んでください、一生懸命恋をしてください、そして一生懸命生きてください。

 同封した手紙は、美鈴が最後に洋平君に書いた手紙です。汚い字ですが、美鈴が死を目前にして、必死の想いで書いた手紙です。どうか読んでやってください。

 洋平君、本当にありがとうございました。                           

                                 かしこ

 

追伸

 

 美鈴が死の間際に、『私、死んだら美保浦のお墓に入りたい』と言った願いを叶えてやりたく、今年の初盆に納骨しようと思っています。美鈴が、短い生涯の中で、最も幸せだった場所に眠らせてあげようと思います。もしよかったら、洋平君がお墓参りするとき、美鈴のところにも寄ってやってください。美鈴もきっと喜ぶでしょう。

 最後に、この二通の手紙を読んで、洋平君が大きなショックを受けることを心配しましたので、お母様にお渡しして、ご判断をお任せすることにしました」


 洋平は、途中から涙が溢れ出て止まらなかった。嗚咽で何度も何度も息を詰まらせた。

 美鈴の消息が途絶えたのは、こういうことだったのか……。決して、自分への想いが消え失せたということではなかったのだ。

 それなのに、自分は美鈴を忘れようとしていた。美鈴の心が離れたと誤解し、心から彼女を追い出そうとしていた。

 洋平は、自分が許せなかった。美鈴の身に何か起こったのではないか、と想像すらしなかった自分が情けなかった。

 美鈴は、その誤解を解くため、最後の別れに来たのだろう。

 本当のことを言って欲しかった。こうなることがわかっていたのなら、祖父に無理を言ってでも、大阪に駆けつけたのに……。最後にもう一度、現実の美鈴に逢って別れを告げたかった。

 悲哀と後悔と自責と少しの恨みがましい気持ち、これらが複雑に絡み合って、洋平の心を殴打していた。

 あっという間だった。

 激情は、洋平の心の器を超えて溢れ出てしまい、いとも簡単に心そのものを壊してしまった。彼女の死を受け止め切れない彼の心は、現実から逃避し、正常な思考回路を失い、全くの無になってしまったのである。

 美鈴がもうこの世には存在しないとはどういうことなのか?

 洋平は、離れていて逢うことができないということと、この世から消えてしまったということの区別がつかなくなった。


 どれだけ時間が過ぎたかわからない。

 洋平は、美鈴の声が聞えたようで、顔を上げたが、風の泣き声が耳に届いただけだった。

 現実に引き戻された洋平に、再び悲しみが襲い掛かってきた。

 洋平は、再び哭いた。拭いても、拭いても涙は止めどなく溢れ、ジャンパーの両 袖は濡れ雑巾のようになっていた。

 時はさらに過ぎ去った。

 永遠かと思われた悲しみの時にも、終焉というものがあるのだろうか。嗚咽はしだいに治まり、涙も流れなくなった。だがそれは、悲しみが薄れたのではなく、心が悲しみに麻痺してしまっただけのことだった。

 洋平には、美鈴の手紙を読む勇気などなかったが、さりとて、彼女の最後の手紙を読まずに遣り過ごす訳にもいかなかった。彼は、より深い悲しみに襲われることを承知しながら、どうせ悲しいのなら、いっそのこと、今その悲しみの全てを受けてしまおうと、覚悟を決めた。

 洋平は、同封してあった手紙を、ゆっくりと取り出して読み始めた。


「洋君、こんにちは。長い間、返事のお手紙を書かなくてごめんなさい。

 汚い字でびっくりしたでしょう。私、病気になって、こんな字しか書けなくなって、恥ずかしいのでお手紙書きませんでした。でも、もうすぐ汚い字でも書けなくなりそうなので、最後にこのお手紙を書きました。どうしても、洋君に謝っておきたいことがあったのです。

 それはね、昨年の夏、海水浴の集合場所で、初めて洋君を知ったように振舞っていたけれど、本当は違うのです。

 私は、昨年のお正月にも美保浦に行っていました。獅子舞が、二回おうちに来たんだけど、そのとき、二階のお部屋から、大きな太鼓を叩いている男の子を見ました。前髪を風になびかせ、ちょっと口を尖らせて、とても上手に太鼓を叩いていた男の子は、すごく格好良かった。私は、従姉のお姉さんから、その男の子が洋君だと教えてもらいました。

 お姉さんは、洋君のお姉さんとお友達で、おうちにもよく遊びに行ったりしていて、洋君を小さい頃から知っていたので、いろいろな話をしてくれました。

 とっても頭が良くて、運動も得意で、近所の小さい子供たちを集めて一緒に遊んだり、勉強を教えてあげたりしている、とてもやさしい男の子だとも聞きました。 他にもたくさん洋君のことを聞きました。お姉さんの話を聞いているうちに、私の胸は、洋君のことでいっぱいになっていきました。自慢じゃないけど、私は男の子に人気がありました。でも、一度も話をしたことのない洋君のことが好きになってしまいました。

 私は、ずっと前に洋君を知っていました。うそをついてごめんなさい。いつか、どっちが先に好きになったか、口げんかしたけど、私の方が先に好きになっていた のです。

 それで、昨年の夏には、どうしても洋君に逢いたかったので、両親にお願いをして、一人で早く美保浦に行ったのです。お姉さんから、洋君はいつも海水浴に行くということを聞いたので、あの日、あの場所で待っていたのです。

 私は、洋君がやって来たとき、緊張して胸が張り裂けるかと思うくらいどきどきしていました。小浜で、私がどうやって洋君に話し掛けようかと思いながら海を見つめていたとき、洋君が傍に座ってくれたので、勇気を出して話し掛けたたのです。

 だから、初めて洋君のおうちに行った日、お姉さんが、洋君が私のことを好きだって言ってくれたとき、『やったあー』と大声で叫びたいぐらいにとてもうれしかった。

 その日から、毎日、毎日洋君と一緒で楽しかった。一緒に勉強したし、魚釣りに連れて行ってくれた。畑で食べたうり、とてもおいしかった。盆踊りの稽古楽しかった。あの蛍すごかったね。いまでもはっきりと目に残っているよ。

 洋君と過ごした思い出の中でも、最後の夜の二人だけの冒険と納屋でのことは、特別な宝物として心にしまっています。

 もう一つ、美保浦神社と地主さんに、何をお願いしたか告白するね。それはね、美保浦神社には『洋君が私のことを好きになりますように』ってお願いをしたの。だって、美保浦神社は出雲大社と関係があるのでしょう。だから、洋君と結ばれますようにとお祈りをしたの。

 地主さんには『洋君がずっと私のことを好きでいますように』とお祈りしました。『これから先も、洋君の気持ちが変わることのないようにして下さい』って、 洋君の守護霊様にお願いをしたのです。

 あのときは恥ずかしくて言えなかったけれど、今なら言えるから……。二つとも私の願いは叶いました。洋君も私を好きになってくれたし、私はもうすぐ消えてなくなっちゃうから、洋君に好かれたままで終われそうです。

 洋君、最後にお願いがあります。

 鈴のこと忘れないでください。いつもでなくていいから、ときどき思い出してね。鈴ね、毎年お盆になったら、蛍になって洋君のおうちのお庭を飛んでいるから、そのときは鈴を思い出してね。

 洋君、がんばって勉強して大きな人になってね。世の中のためになる人になってね。鈴は、お空の上からいつでも洋君を見ているよ。お盆の夜、洋君が話してくれた神話のように、いつまでも洋君を見守っているよ。だから、鈴の分まで思いっきりすてきに生きてね。

 洋君、去年の夏休み、いつも一緒にいてくれてありがとう。鈴を好きになってくれてありがとう。洋君が納屋で言ってくれた言葉、とてもうれしかった。心に刻んで、何度も何度も思い出しています。

 鈴も洋君が大好きでした。一緒にいた時間はとても短かったけれど、鈴は洋君と出逢えてとても幸せでした。

 鈴も、もっともっと長く、洋君と一緒に生きたかったけれど、約束を守れそうもありません。もう洋君と逢えそうもありません。この手紙が洋君に届いたときには、鈴はもうこの世からいなくなっていると思います。

 洋君、こんな手紙が最後の手紙になってごめんなさい。本当にごめんなさい。そして、心からありがとう。


 私の大好きな洋君へ                       美鈴   



 鈴ちゃん……、洋平は呻きながら、指で便箋の端を弾いた。そこには拳を突き出した挿絵が書いてあった。

 また涙が止まらなくなった。

 せっかく堪えていたのに、また涙が止まらなくなった。散々哭き尽くして、もう涙は残っていないはずなのに……。

 洋平は哭いた。身体中の水分という水分が全て涙に変わってしまったのかと思うほど哭いた。生まれてからこれまで、ほとんど哭かなかった分と、これから先の一生で哭く分の全ての涙を、今ここで出しつくしてしまうのかと思うほど哭いた。

 汚い字だった。あれほど綺麗だった字は影も形もなく、ようやく読めるほどの汚い字だった。だが、この手紙に込められた魂の叫びは、洋平の琴線に触れ、激しく魂を揺さぶった。

 ところどころ、文字が滲んでいた。

 きっと、泣きながら書いたのだろう。辛かっただろう、悲しかっただろう、怖かっただろう。

 洋平は、この手紙をどんな想いで書いていたのだろうかと思うと、愛おしくやるせなかった。

 洋平の頭の中を、美鈴と一緒に過ごしたあの夏休みの、ありとあらゆる場面が、次から次へと浮かんでは消えた。そして、彼の心に棘のように刺さっていた疑問が、まるで差し出した手のひらに落ちては消え、消えてはまた落ちる雪のように、一つ一つ解けていった。


 たしかに、正月には『トンド』という、小学生が主役のお祭りがあり、五日と六日の二回、獅子舞をして村中の家々を回った。六年生が獅子舞をし、昨年五年生だった洋平は、お囃子の大太鼓を叩いていた。

――初めて出逢った集合場所で、鈴ちゃんがおらに向かって意味有り気に微笑んだのも、アルバムの中から、あの写真を欲しがったのも、そういう意味があったか……。

 二人の出会いは偶然ではなかった。

 わずかの時間で泳ぐのを止めたのは、時々疲れた表情を見せたのは、ただ身体が弱かったから、ということではなかった。おそらく、家に戻ったならば、美鈴は相当に疲れていたに違いない。

――おらが誤解した二日間もそうだったのだ。

 そのような素振りを一切見せずに、努めて明るく元気に振舞っていた美鈴を思い出し、洋平は切なさで胸が張り裂けそうになった。

 美鈴がが鬼気迫るほどに蛍狩りに拘ったのも、あれほど積極的で大胆な行動を取ったことも、手を繋ぐように差し出したのも、キスをしようと言い出したのも、さらに洋平の手を取り、自身の胸に当てたことも、すべてそういうことだったのである。


――鈴ちゃんは、急き立てられるように生きていたのだ。きっと鈴ちゃんは、自分には時間がないのかも知れないと感じながら生きていたのだ。鈴ちゃんが、いつも笑顔でいたのは、心の深層に澱のように横たわるどす黒い不安と畏怖の裏返しであったのだろう。

 笑顔の裏で時折見せた暗い表情も、お盆のとき、お墓の灯篭をみて、自分が死んだらここに帰ってきたいと言ったことも、納屋で見せた涙も、彼女は頭の片隅で、自分の死を予感していたからなのだ。

 だからこそ、自身に残された短い時間の中で、古い殻を脱ぎ捨て、相当な勇気を奮って、おらとの恋に生きようとしたのだ。おらの心を突き動かしていたものは、美ちゃんの内面から滲み出ていた執念だったのではないだろうか。

 おらは、少しも彼女の不安の先にあるものに気付かなかった。鈴ちゃんの心の奥に思いを馳せることができなかった。鈴ちゃんに好かれて、浮かれて舞い上がっていただけでだった。

 いや、そうではない。おらはあるときから、頭のどこかで気付いていた。鈴ちゃんを不安に陥れている正体はわからずとも、それが存在すること自体には気付いていた。

 おらは、その正体を突き止めようとしなかっただけだ。正体を知るのが恐ろしくて避けていただけなのだ。

 なぜ、おらは鈴ちゃんの不安を共有しようという勇気を持たなかったのか。なぜ、鈴ちゃんの真実を知ろうとしなかったのか。

……結局のところ、おらは鈴ちゃんへの愛しさよりも、自分自身が傷つくことを恐れていたに過ぎなかったのだ。

 洋平は、そんな意気地のない自分が悔しかった。臆病で自己保身に走った自分が、堪らなく汚い人間に思えていた。


――逢いたい……。もう一度、一目だけでも鈴ちゃんの顔を見たい。声を聞きたい……、頬に触れたい。そして詫びたい。だが、どの面下げて逢えるというのだ? 卑怯者のおらは、鈴ちゃんの前に出る資格など有りはしないのだ。 

 洋平は、自分自身をこの上なく厳しく責め立て、激しく貶め、そして罵り蔑んだ。それは、そうすること以外に、この果てしなく怒涛のように襲い掛かる悲しみに耐える術を知らなかったからである。

 洋平の一生涯の、辛く悲しい時間がここに凝縮されていた。


 洋平は、ふと扉の外で自分の泣き声に共鳴する、母の嗚咽に気付いた。

 きっと、自分のことが心配で、様子を見にきたのだろう。ところが、あまりの悲しみように、美鈴を不憫に思う気持ちと、彼女を失い、大きな悲しみに暮れる我が子への切なさとが入り混じり、感極まって泣いているのだろう。

 母とはかくも有難きものなのか。かくも尊きものなのか。洋平は、このまま泣いてばかりいると、きっと母も泣き止まないだろうと思い、必死に涙を堪えた。

 外は、すでに日が落ちていた。

 洋平は、おもむろに起き上がって西の窓を開けた。いつの間にか、風が舞い始め、雪が踊っていた。洋平は上半身を乗り出し、天中より少し西の彼方にプレアデスを探した。

 期待もせずに見上げた夜空だったが、意外にもわずかな雲の切れ間に、プレアデスが蒼白く冷たい光を放っていた。

 洋平は、彼女らは怒っているのだろうと思った。

 彼女らが放つ、小さくはあるが、自分を糾弾するかのような、冷淡で鋭い六つの光を目の当たりにしたとき、彼は強烈な悔恨に見舞われたのだった。

 本来なら、美鈴と共に見上げるはずの冬の夜空だった。洋平は、そのとき彼女に心からびるつもりでいた。

 あの夏の夜空に、プレアデスはいなかったことを……。今誇らしげに輝いている彼女らこそが、本物のプレアデスであることを……。

 だが洋平は、弁明の機会を与えられないまま、置き去りにされてしまい、嘘を吐いた報いとして、途方に暮れるという罰を受けたのである。

――鈴ちゃん、ごめんね。

 なす術のない洋平は両手を合わせ、心の中でそっと詫びた。

 宙を舞っていた雪華が、洋平の頬を伝う一滴の涙の上に落ちて溶けた。それはたったひとひらの雪の葉にも拘わらず、彼の心を凍り付かせるのに、十分な冷たさだった。

 ヒュー、ヒューと、暗闇を吹き渡る木枯らしは、まるで彼の魂の悲鳴を代弁しているかのように、いつまでもいつまでも鳴き止むことがなかった。


 洋平は手紙を読んだ以降、家の門を出入りするとき、無意識に海岸の方を見る癖が付いてしまった。そしてその度に、毎朝手を振りながら自分に向かって走って来た美鈴の姿を瞼に浮かべていた。

 それは、初めのうちは美鈴の死を現認していない彼の心が、幽明遥かに相隔たった事実を受け付けず、その姿がいつの日か現実のものになるやも知れないと錯覚を起こしていたからであり、事実を受け入れた後は、たとえこの世のものでなくとも、もう一度彼女に逢いたいと切に願って止まなかったからである。

 だが、そのように願えば願うほど、真綿で締め付けられるような悲しみに耐え切れなくなっていった。そして、いつの日からか彼は心変わりをし、美鈴との思い出を忘れ去りたいと願うようになったのである。






















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