第11話 蛍火

 美鈴と過ごした最後の日を迎えた。

 洋平は、今でもこの日のことを細微に至るまで鮮明に記憶している。まさにこの夜の出来事こそが、彼女との思い出の全てをより夢幻的なものとして、彼の脳細胞に刻み込んだのだった。

 美保浦においてお墓参りということに限って言えば、十五日が最も重要な日であった。

 この日だけは、家族全員で墓参をするというのが慣わしだった。信心深い村だったので、お盆を問わずそのような家は多かったが、この日が特別だったのは正装と言うべきか、身なりを整えなければならないということだった。

 恵比寿家では、洋太郎は家紋の『丸に木瓜』の付いた羽織袴、洋一郎はスーツにネクタイを着用し、洋平も学校の制服姿でお参りをした。

 恵比寿家の墓は丘の頂上付近にあった。他家の五、六倍は広く、先祖代々の古い墓石もいくつか置かれていた。この共同墓地の造成費用も、大半が恵比寿家の寄付で賄われていたので、当然のことではあった。

 この日、洋平と美鈴は墓地で出会えるようにと、それぞれの家族に墓参の時刻を願い出ていた。もっとも、両家とも毎年八時頃に家を出発していたので異論が出ることはなかった。

 洋平は墓の隅に立ち、大工屋の墓にいる美鈴に視線を送った。

 大工屋の墓は丘の中腹より少し下の位置している。

 彼女は出会って二日目の朝、美保浦神社にやって来た服装だった。美鈴は洋平を見つけても、さすがに大きく手を振るようなことはなく、顔の辺りで控えめに振った。

 ほどなく、美鈴が恵比寿家の墓にやって来た。二人は、傍らに聳え立つ松の巨木に背凭れて、眼下に広がる風景を眺めた。足元を這うように伸びている根の中で、太さが庭の松の幹よりも成長しているものは、地中に収まり切らず鱗のようにひび割れた肌を地上に晒していた。

「鈴ちゃん、あの小さな岩が点在しちょうところが小瀬だけん。わかる?」

 洋平は、湾の南側を指差した。

「うん、わかる。ちょうど、お寺と堤防の間だね」

「じゃあ、小浜は?」

 洋平は視線を北側に向けた。

「一箇所だけ砂浜になっているところでしょう」

「当たり」

「やったあ。もうすっかり憶えたよ」

 美鈴は無邪気に笑った。

 早朝の美保浦湾は、太陽が天中に昇るまでには未だ間があるものの、すでに相当な強さで放たれている光りに照らされて、一面さざめく波が銀色を反している。その中を何艘もの小型の舟が、お盆の最後のご馳走を獲るため、沖に向かって走り出していた。

 堤防付近の磯に目を遣ると、釣り人の巻き餌をあてにした数羽のかもめが急降下し、嘴で海面を突いたかと思うと、すぐさま再び空高く飛翔する所作を繰り返している。

 それは普段といささかも変わらぬ風景だったが、見上げた空にいつになく広がりを見せていた灰色の雲が洋平は気に懸かった。

 墓地の周囲を囲む樹木では、往く夏を惜しむかのように、耳を劈かんばかりの蝉時雨が響いている。あたかも、暗い地中に幽閉された時間に比べれば、まったく割に合わない短い生涯ながら、それでもなお精一杯生命を全うしようとする魂の咆哮のようであった。

 その今を盛りと刹那に鳴き狂っているヒグラシに、確実な時の歩みを思い知らされる洋平だった。

「洋君、前から思っていたんだけど、洋君ちはともかく、他の家も新しくて大きなおうちが多いね」

 美鈴は、目線を手前に落としていた。

 見慣れているはずの風景をあらためて凝視した洋平は小さく肯いた。日頃は、とくに気に掛けることもなかったが、村全体を一望すると一目瞭然だった。

 実は、この頃の美保浦は活況を呈していた。洋平の知る限り、最も活力に満ちていた時代であったと言っても過言ではない。

 三、四年前よりかつてない豊漁が続き、しかも主な獲物が真鯛という鯵や鯖と異なり、豊漁であってもさほど値崩れしない高級魚であったため、水揚高が空前のものとなっていたからである。

 当然、漁師の歩合給は跳ね上がり、気前の良い彼らが次々と家を新築したため、好景気は大工、左官はもちろんのこと、他の様々な職種にまで浸透していった。

 他になぞらえて言うならば、『真鯛御殿』と言うべきか。この頃の美保浦は、まさにそのような状況であった。

 おっ、総領さんのガールフレンドだかい?

 とまた二人に声が掛かった。彼らは墓参の合間を見て、洋太郎と洋一郎に挨拶にやって来るのだ。周囲の墓の人々はもちろんのこと、麓近くに墓がある家の者たちも、わざわざ丘を上がって来て挨拶をしてから帰宅した。その光景を目の当たりにする度に、祖父や父の存在の大きさを再認識させられる洋平だった。


 洋平は、とうとう自転車を調達することができなかった。大人用の自転車ならば、どうにかできたが、そうはしなかった。彼は大きな自転車の後ろに美鈴を乗せる自信がなかった。舗装された道ならともかく、でこぼこの砂利道であり、もし砂利に車輪が取られて転倒して彼女に怪我をさせでもしたら、それこそ取り返しが付かなくなる。

 洋平は、すでに歩いて行くことを決心していた。墓地の裾野を歩くことは、少しの勇気を出せば済むことで、帰宅時間が遅くなることは、母に申し出て潔く罰を受けようと腹を括ったのである。

 ところが、昼近くになってさらに厄介な問題が浮上しようとしていた。夕方から夜に掛けて天気が崩れる、との予報が出たのである。墓参のときの気掛かりが、現実のものとなって立ちはだかろうとしていた。

 もし雨になれば、二本の刃を突き付けられることになる。

 一つは、雨量と時間帯によっては花火大会が中止になるということである。それは取りも直さず、洋平たちが夜に家を出るための大義名分を失うということを意味していた。

 もう一つは、仮に通り雨であっても、蛍そのものを小川に落とし下流まで押し流してしまう危険が生じるということである。

 午後になると、洋平はしばしば庭に出て、しだいに暗くなり始めた空を恨めしく眺めていた。彼は、村の漁師の子供なら誰もがそうであるように、大まかな天候を予測することができた。雲の湧き具合や流れ方、季節によっての風の向きや肌に受ける湿り気で判断するのだが、洋平の見立ても芳しいものではなかった。

 日が暮れて、洋平はウメの後、地主さんに参拝して裏門の鍵を開けておいた。

 洋平は朝晩、必ず地主さんに参拝していた。朝は今日一日が平穏無事に過ごせるようにと祈願し、晩はその日の無事のお礼を申し述べた。

 秘めた冒険計画を立てた後は、計画成功の願いを加えたが、この日がさらにいつもと違ったのは、天候の回復を付け加えたことだった。人智の及ばない自然が相手となれば、神に祈ることしか他に成す術がなかったのである。


 夜の気配と共に美鈴が訪れた。

 夜空に浮かぶ星の数は、両手で足りるほどだったが、幸いにも雨は落ちておらず、花火大会は予定通りの運びとなっていた。洋平は、一刻を争う事態に、いまさらながら自転車が調達できなかったことを悔やんだ。

 ところが、その痛手は思わぬ形で手当てがなされた。

 二人は降雨のことを考えて、少し早めに冒険計画の遂行に移った。

「お母ちゃん、鈴ちゃんと花火を見に行ってくるけん」

 洋平は何食わぬ顔で言った。

「おや、今年は屋根に上がらんだか?」

 母の問いは想定していた。

「鈴ちゃんがおるけん。危ないことはしない」

「そげだな、その方がええ。だいてが早くないかい」

 当然の指摘にも、洋平は言い訳を用意していた。

「早めに言って、良い場所を取るけん」

「そげか、そげか。そいなら、気を付けや」

 優しい里恵の声に、洋平は心に痛みを覚えずにはいられなかった。

 二人は、いとこたちにも十分注意を払った。美鈴に興味を抱いている彼らの目を盗むことは、ある意味で最大の難関かもしれなかった。誰か一人にでも興味を抱かれれば、全てがご破算になってしまいかねないのだ。

 二人は彼らの行動に神経を尖らせながら、首尾良く門を出た。

「洋君、これ」

 その直後、美鈴が指差した先に自転車があった。しかも車体の低い子供用である。

「これ、どうしたの」

 洋平の声が思わず裏返った。

「うちの親戚から借りてきたの、どう、これで良い?」

「もちろん、ええよ。鈴ちゃん、だんだん、だんだん」

 洋平の胸は熱くなった。時間との争いに役立つということもあったが、それよりもまして、彼女の心遣いが嬉しかった。

 とはいえ、喜びに浸っている暇はなかった。冒険は、たった今始まったばかりで、しかも天敵の雨はすぐそこまで迫っているのだ。

 二人は海岸を背にして進み、屋敷の裏手に回った。裏門は鍵が外れたままになっていた。

 納屋に入り、着替えを始めた。

「洋君、あっちを向いていて。絶対、良いって言うまでこっちを向かないでね」

「わかっちょうけん」

 美鈴の懸念など全く意識の外にあった洋平だったが、その一言で却って邪な衝動に駆られてしまった。

 一瞬、美鈴の目を盗んで振り向きそうになったが、

――駄目だ、駄目だ。今はこの計画を遂行することに集中しよう。

 と雑念を振り払った。

 二人は、笹竹切りと同じ出で立ちになり、自転車に乗って出発した。

 ほどなく墓地の裾野に入った。砂利道なので、車輪がくぼ地を通る度に振動でヘッドライドが点滅した。

 美鈴は洋平の背中にしがみついていた。それが振動のせいなのか、それとも暗闇の恐怖のせいなのかはわからない。洋平もまた必死の思いだったので、彼女の身体の温もりを背中に感じる余裕などなかった。

 墓地の裾野を過ぎると、小学校までは池の横を通る一本道となった。

 ここまで誰一人として出会うことがなく、見咎められずに済んだ。たまに宴会の歓声が漏れ聞こえるだけだった。怪しい空模様に、皆が家の中で様子見をしていたことが幸いしていた。

 小学校に着いた二人は、そのまま正門から入り校庭の中を体育館まで一気に走り抜けた。体育館の傍らにはポンプ式の井戸があった。

 二人は井戸端に自転車を置き、冷たい水で渇いた喉を潤した。

 洋平が何気に振り向くと、そこには一つだけ点った裸電球の灯りに、木造の校舎がまるで廃屋のように浮かび上がっていた。

 美鈴は風に叩かれ、悲鳴を上げる窓硝子にたじろいだが、洋平はしばしば友人と共に校舎に宿泊していたので、その際の肝試しの体験からこの種の恐怖には慣れていた。 

 彼が真に恐怖と感じるのは、休日に皆が遊んでいるものと思い込んでやって来たものの、誰一人として姿がなく、深閑とした広い校庭に一人だけ取り残されてしまった孤独感だった。

 ところが、体育館の裏手を通り、田んぼのあぜ道に一歩足を踏み入れた途端、まるで別世界にワープしたかのように空気が一変した。その五感に受ける寒々とした感触は、これまでとは比べようもない恐怖心との戦いが待ち受けていることを洋平に予感させた。数日前、笹竹を切りに行ったときと同じ道なのだが、昼と夜とでは、その趣は全く異なっていた。

 雲の流れに、明暗が去来していた。

 月が顔を覗かせているときは、薄明かりに周囲が何となくわかったが、雲に隠れて全くの暗闇になると、懐中電灯の光が一部分だけをくっきりと照らし出すという、異様な空間となった。

 辺りに民家の灯りなどあるはずもなく、深々とした闇夜に、蛙の鳴き声が響き渡っていた。遠く山の方で風にたなびく木々の音は、山奥を住処とする悪鬼羅刹の類か、あるいはあの世からの警告のように聞こえていた。

 昼間は、小鳥のさえずりのように心地良い小川のせせらぎさえも、今は地獄へと引きずり込もうとする、下心を押し隠した悪霊の猫なで声のようにも聞こえ、これらがこの闇を一層不気味なものにした。

「はあ……」

 思わず洋平の口から溜息が出る。

 美鈴はそっと洋平の手を握った。その温もりは洋平に勇気を与えた。

「鈴ちゃん、行こう」

 二人はゆっくりと歩き出した。

 歩みを進める先々で、眠りの邪魔をする気配に反応した、何者かの蠢く様子が伝わってきた。水辺の飛び込む音、山側での草を踏みしめる音……。その度に懐中電灯を向けるが、彼らの正体を見定めることができず、気味悪さだけが増幅していった。

 中でも水の上を滑る音は、蛇が泳いでいることを想像させ、鳥肌が立つほどだった。

 多くの敵に囲まれながら、何一つとして自分の目で捉えることができず、一方的な監視の中を進まねばならなかった。そのため、わずか三百メートルほどの道のりだというのに、洋平には果てしない暗黒の世界を突き進んでいるように思えてならなかった。

 この圧倒的な恐怖の前に、洋平は熱の汗とも、冷や汗とも区別の付かぬものを掻いていた。その肌を伝う汗に、雨を誘う湿気を含んだ生暖かい風が絡みつき、いっそう不快さを増した。

 一瞬、洋平は計らずも二人だけでやって来たことを後悔した。しかし、いまさら引き返すことはできなかった。それは美鈴に対する見栄ということだけでなく、すでに彼自身の問題に転化していたからである。

 洋平には、この場所にやって来て、腑に落ちたことがあった。

 隆夫の怪我を知ったとき、美鈴と二人だけの蛍狩りに拘った理由が、ようやくわかった気がしていた。彼は無意識のうちに、この冒険を己自身の試金石と捉えていたのだ。恵比寿家とは関わりのないこの冒険で、一己の人間として自らを試そうとしていたのである。

 したがって、もしここで引き返せば、彼はこの先自分自身の力のみでは、何事も乗り越えることができなくなるのではないか、という漠然とした未来への恐怖を感じていた。

 洋平は、内面から沸き起こるもう一つの恐怖を払拭するためにも、今対峙している自然の恐怖に打ち勝たなければならなかったのである。

 いつしか、美鈴が洋平の腕にしがみついていた。

「鈴ちゃん、大丈夫? 怖くない」

 洋平は、自身の葛藤の中で訊ねた。

「怖いけど、洋君と一緒だから……」

 美鈴は、洋平の腕を一段と強く締め付けた。彼女の手に触れて伝わった温もりが、洋平の挫けそうになる気持ちを奮い立たせた。


 ようやく、道程の中ほど辺りまでやって来たときだった。

 突然、

「バーン、バーン」

 という音が、背中越しに聞こえた。

 驚いて振り返ると、東の空に花火が打ち上がっていた。様子見となっていた花火の打ち上げがいま始まったのだった。

「バーン、バーン……、バーン、バーン」

 花火は間髪を入れずに、次々と打ち上がった。時ならぬ爆裂音は、洋平を勇気づける手助けとなった。四方八方を敵に囲まれた中で、天からエールを受けているかのように、彼の心を鼓舞したのである。

 とはいえ、悠長に天空の芸術を見物している余裕など与えられるはずもない。花火の明かりに垣間見られた雲行きは、あらためて雨の襲来が近いことを知らしめていたのである。ここまでやって来て、もし雨に祟られたりなどすれば、蛍狩りに寄せた二人の想いは、水泡に帰すことになってしまうのだ。

――何としても、蛍を見つけなければならない。

 洋平は、花火の爆裂音に背を押されるように道を急いだ。

 どうにか山道の入り口に着いた。

 そこから先は、隆夫に聞いた話を思い出し、紙に書いてもらった地図を頼りに進んで行くしかない。

 洋平は、帰り道に迷わない工夫もした。適当な間隔を置いて、裁断した新聞紙をセロハンテープで、木々に貼り付けながら進んで行ったのである。

 覚悟はしていたものの、足取りは鈍いものなった。昼間とは違い、足は取られるし、木の枝に頭をぶたれるし、挙句に蜘蛛の巣を顔に受けたりしたのである。

 二人が木々にぶつかる度に、眠りを犯す振動に怒った山鳥の、翼のはためく音や奇声があちらこちらで鳴り響いた。

 美鈴は、洋平の背中に顔を埋め、ぴったりと密着して離れなかった。このことが、ただでさえ覚束ない足元をより困難にさせたが、その反面、二人だけでこの障害に立ち向かい、恐怖に耐えているのだという心理的な抑圧を受けた中での一体感が広がっていった。

 それは、秘密の共有とは全くの対極にあるものだった。

 しばらくすると、かすかに小川のせせらぎの音が耳に入ってきた。隆夫の描いた地図に間違いはなかったようだ。二人は顔を見合わせ肯きあった。

 現金なもので、希望が湧いた二人の足取りは自然と軽くなった。そして、水の音を頼りに進んで行くと、ほどなく前方のそこかしこに点在するほのかな灯りが見えてきた。

鈴ちゃん、懐中電灯を下げて」

 蛍の群生が近いと思った洋平は、声を落として言った。洋平は、彼らを刺激しないようにと、自らも懐中電灯の光を足元に落とした。そこから先は、蛍の光を目印にして進めば良かったのである。

 目の前を塞いでいた枝葉の束を払ったときだった。

「あっ!」

 洋平は、立ち止まって絶句した。

「す、すごい……」

 洋平の背中越しに覗き見た美鈴も呻いた。

 目の前に信じられない光景が広がっていた。何百、何千、いや隆夫の言ったとおり、数など計り知れないほどの蛍が蠢いていた。

 いくつかの塊に別れ、ある者たちは水辺を飛び交い、またある者たちは水辺の木々の葉や草に止まり明滅していた。彼らは、オスの求愛行動をきっかけにして、一つの群れの塊が一斉に飛びまわり、やがて別の葉や草に移って行った。

 一定の間隔を置いて、あたかも光のマスゲームのように幾度も繰り返すのである。 

 その見事なまでの幾何学的な演舞は、とてもこの世のものとは思えず、もし天国が存在するとすれば、きっとこの空間も、その一部に違いないとさえ思えた。

 これぞ大自然の営みだった。

 洋平は天の星々も宇宙ならば、蛍の群生もまた宇宙なのだと思った。遠い彼方から光をかざし、無言で見守る大宇宙が父ならば、手の届きそうな眼前にあって、無限の優しさで暖かく包み込んでくれている小宇宙は母なのだと悟ったのである。

 二人は、暫し放心したように見つめていた。

 すると、突然一匹の蛍が群れから外れ、美鈴の袖に止まった。それは、まるで仲間を代表して、二人に挨拶にやって来たかのようでもあり、時ならぬ闖入者を検分しにやって来たかのようでもあった。

 この思わぬ出来事に、

「うわっ、蛍が止まった。どうしよう」

 と、美鈴は小さい声で、しかし興奮を隠せずに言った。

「そのままにして」

 洋平がそう言うと、彼女は身じろがずにいた。

 蛍もまた、彼女の袖で明滅していた。美鈴は蛍を刺激しないように、静かに袖を顔の近くに寄せると、息を潜め、瞬きもせずに凝視していた。闇の中に、蛍の明滅に合わせて、彼女の顔が浮かび上がったり、消えたりしていた。

 洋平は飽きもせず、美鈴と蛍の無言の交信を見つめていた。蛍の群れは、変わらず神秘の舞踏を続けていた。ときおり吹く風に煽られて、規律を乱したりするが、それがまた玄妙な趣を漂わせ、二人をいっそう幻想的な世界に引き込んでいったのだった。


 たおやかな時間が流れていった。

「鈴ちゃん、そろそろ、帰らか?」

 洋平が重い口を開いた。この情景を見ていると、悠久の時の流れに漂っているようで、少しも退屈しなかったが、そうかと言っていつまでも居られるわけではなかった。二人に与えられた時間は、それほど残ってはいないのだ。

「もう……」

 美鈴は名残惜しそうな顔をした。

「雨も近いし……」

 洋平も後ろ髪を引かれる想いで言う。   

「蛍さん、さあ、仲間のところに戻って」

 美鈴は口を窄めると、促すようにやさしく息を掛けた。

 蛍は羽を広げて飛び立つと、まるで別れの挨拶をするかのように、彼女の顔の前を二、三度旋回してから群れの中に戻って行った。

「蛍さん、ちゃんと仲間のところに戻ったね」

 美鈴の口元に、優しい微笑が宿っていた。それは蛍の瞬きに少しも劣らない美しさだった。


 帰途の間、二人は全く言葉を交わさなかった。感動の余韻に浸っていたということもあったが、なにより蛍の神秘の営みを陳腐な言葉で汚したくないという思いが強かったからだ。

 同じ道を引き返しているのに、往きの不気味さを全く感じなかった。洋平は、きっと蛍火の感動が心を埋め尽くしていて、他の感情の入り込む余地がないからなのだろうと思った。

 ところが、山道からあぜ道に出た直後だった。

 突然、前方に火の玉が浮かび上がった。ボーっとした丸い灯りが、ゆらゆらと浮遊しているのだ。

「うっ」

 洋平は思わず呻き声を出した。

――お盆で戻って来た霊魂が彷徨っているのか……。

 彼の腕を掴んでいる美鈴の手に力が入った。ほんのわずかな隙間を衝いて、再び恐怖が入り込んでしまった。

 美鈴は洋平の背で顔を隠し、火の玉を視界から消している。

 火の玉は、揺れながらゆっくりと向かって来るが、洋平も足が竦んでしまい、身動きができない。懐中電灯は向けてはいるものの、視線を逸らしているので、正体を見極めることすらも叶わない体たらくである。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」

 洋平は必死でお題目を唱えた。

 こういったときにと、祖母ウメから教わっていた法華経のお題目である。しかし、日頃の信心が足りないのか、魔除けのご利益はなく、火の玉は悠然とこちらに向かって来ている。

――もう、駄目だ……。

 ついに洋平も目目を瞑ってしまった。

 そのときだった。

「よお、洋平」

「……?」

「洋平、おらだ」

 聞き覚えのある声だった。

「えっ? 隆夫、か……」

 洋平は、硬直していた全身の力が抜けてゆくのがわかった。

「どげだ、びっくりしたか」

 隆夫が得意げに言う。いつもであれば怒りを覚える洋平だが、このときばかりは百万の援軍を得たように心強かった。

「うん、びっくりした。なあんだ隆夫か、火の玉かと思っただ」

「悪い、悪い。ちょっこし、悪戯が過ぎたな」

 隆夫は頭を掻くと、

「そいで、蛍は観れただか」

「うん、観れた。凄かったが」

「そげか。そいは大そうな冒険をした甲斐があったがな」

 ああ……、と相槌を打った洋平だったが、

「だいてが、なんでわいがここにおるだ?」

 と当然の疑問を口にした。冷静になって考えてみれば不思議だった。

「えんや。おらが、ちょうど花火を観に行こうと海岸へ向かっちょうと、わいたちが、屋敷の裏側に回っちょうのが見えたけん。そのとき、おらはわいたちが二人だけで蛍狩りをするんだと直感したけん。しばらく様子を見ちょったが、思ったとおりにわいたちが墓の方へ行ったけん、確信したがな」

「そいで、心配で迎えに来てくれただか」

「まあ、そういうことだ」

「隆夫君、足は大丈夫なの?」

 美鈴が心配そうに訊ねた。

「えっ、足? お、おお、大丈夫だ。お、おらも、一度道案内を請け負っておきながら、自分の不注意で約束を破ったという負い目を感じていたけん、わいたちの邪魔をせんように、そっと後を付けていただ。何かあれば、助けに出て行くつもりだったがな」

 隆夫はしどろもどろだったが、洋平はそれが彼の照れ隠しだと思った。

 懐中電灯の明かりに浮かんだ彼の表情は、これまでのものとは全く異なっていた。 

 よく一緒に遊んだ昔の彼に、すっかり戻っていた。

 洋平の心の中は、誇りと喜びに入れ替わっていた。自分自身の力で冒険を成し遂げ、美鈴に蛍を見せてやれたという誇りと、どこかに仕舞い込んで、久しく行方知れずになっていた宝物をようやく探し当てたような喜びで埋め尽くされていたのである。それは、先ほど蛍の群生を見たときの感動に勝るとも劣らないものだった。

 二人は蛍の興奮を隆夫に伝えながら、あぜ道を戻り小学校に着いた。

「あっ、雨だわ」

 美鈴の言葉に、洋平は空を見上げた。ポツポツと顔に大粒の雨が当たった。本格的な降雨の前触れだった。だが、すでに念願を果たし終えていた彼は、満足の笑みを空に向けて、神の御加護に感謝した。

「急いで、帰らい」

 洋平の言葉を合図に、三人は自転車に乗り、帰り道を急いだ。しかし、一旦降り出した雨脚は速く、洋平と美鈴が恵比寿家に戻ったときには、掻いた汗を洗い流してしまうほど、ずぶ濡れになっていた。


 家に戻ると、幸いにも裏門の鍵は開いたままだった。

 二人は納屋に入り、背中合わせになって着替え始めた。締め切った納屋の中は、昼間の残熱に、雨の湿気が加わり、噎せ返るような息苦しさだった。

 濡れた服を脱ぎ、乾いたタオルで身体を拭き、浴衣に袖を通して帯を締めようとしたときだった。洋平は、ふと背後に物音がしないことに気づいた。美鈴が着替えている気配がしないのだ。

 一瞬、もうすでに着替え終わったのかと思ったが、思い返してみると、ずっとそのような状態であることに思い当った。

 洋平は、背中越しに訊ねた。

「鈴ちゃん、もう着替えた?」 

「……」

 返事が返ってこない。

「ねえ、鈴ちゃん。着替え終わった?」

「……」

 重ねて訊いても、やはり返事が無かった。

「振り向くよ、いいね」

 洋平は念を押し、自分の行為を正当化しておいてからゆっくりと振り返った。

――あっ、しまった……。

 洋平は咄嗟に目を瞑った。見てはいけないものを目にしてしまったのだ。

 美鈴はブラウスを脱いだ状態で、洋平の方を向いて立っていた。

 事態を飲み込めない洋平は恐る恐る訊ねた。

「どげしただ、鈴ちゃん」

「……」

 それでもなお、美鈴は口を閉じたままだった。

 蛍狩りの前とは一変した様子に、あの蛍火を観たことで彼女の精神が異常をきたしたのかも知れないと洋平は真剣に思った。

 それほど彼女は別人格に見えた。

 洋平は、目を開けて良いものかどうか計りかねていた。蛍狩りとは違う異様な緊張感が彼を襲っていた。

「ねえ、鈴……」

 もう一度、洋平が声を掛けようとしたとき、その言葉を遮るように、美鈴が口を開いた。 

「目を開けて……」

「えっ!」

 驚きのあまり、洋平は思わず目を開けそうになったが、ぎゅっと瞼を固く閉じて下を向いた。

 洋平は躊躇っていた。美鈴の言葉とはいえ、従って良いものかどうか迷っていた。 

「洋君、顔を上げて、私を見て」

 と、彼女は語気を強めて言った。

 二度目の催促に勇気を得た洋平は、目を開けてゆっくりと顔を上げた。

 二股電球の、豆電球の方しか灯っていない凡庸とした明るさの中に、白い彼女の姿が浮かんで見えた。雨に濡れたシュミーズは、彼女の乳房を包む下着をはっきりと透けて映し出していた。その下着もまた、肌に張り付いていたので、少女にしてはしっかりと丸みを帯びた一双のふくらみが看て取れた。

「ご、ごめん」

 罪悪感に責め立てられて、もう一度目を閉じた洋平に、美鈴は思いも寄らないことを言った。

「触りたい?」

 一瞬、何を言っているのか洋平にはわからなかった。

 洋平は目を開けて、美鈴の目と合わせた。

 唖然としている洋平に向かって、彼女はもう一度言った。

「触っても良いよ」

 洋平は、混乱の波に溺れそうになっていた。驚愕と興味と誘惑と畏怖――。複雑に入り混じったそれらが、津波のように彼の心を飲み込んで行った。

 いや正直に言えば、美鈴の一言は、そうした中にあってさえも洋平が心の奥底に、秘かな期待を持って宿していた唯一の言葉であった。

「……」

 だが、それでも洋平は答えに窮していた。

 もし触りたいと『真実』を言えば、己の心の奥底に巣食っている、やましい精神を見透かされ、触りたくないと『嘘』を言えば、この甘美な世界は幕を閉じることになる、と洋平にはわかっていたからだ。

 洋平はどちらも嫌だった。

 できることならば、この時間が長く続くことを望んでいた。迷いに迷う洋平は、視線のやり場にも困り始めた。彼女と目を合わせているだけで、揺らぐ心の内を見透かされそうな気がしたのである。

 洋平が逃れるように、視線を彼女の足元に下ろした。すると、見計らったように、彼女の足が動いたかと思うと、氷の上を滑るかの如く、すうーと近づいて来て、洋平の足元で止まった。

 それはまるで、亡霊が地面より少しだけ宙に浮いたまま、移動するかのようにスムーズだった。そして、洋平が戸惑う間もなく、美鈴は彼の右手を取り、自分の左胸に引き寄せてしまった。美鈴の素早い一連の動作に、洋平は逆らうことができなかった。

 ビクン……。

 洋平の手が美鈴のふくらみに触れた瞬間、彼女の身震いが手に伝わった。乳房が受けた初めての刺激に、彼女の身体が自然と反応したものだった。

――やわらかい、とてもやわらかい。

 洋平は、初めの手触りにそう思った。とても下着の上から触れているとは思えない感触だった。

 美鈴の胸の鼓動が、洋平の手のひらを打った。擽ったくも心地良いその刺激こそ、まさしく彼女の生命の息吹だった。絶え間なく、正確なリズムを刻むその神聖な律動は、すぐさま洋平のそれと同調し始めた。そして、腕を通して伝う美鈴の血潮の波は、しだいにより大きく、より激しさを増してゆき、つれて洋平の胸の鼓動に、同様の変化をもたらした。

 二人に言葉は不要だった。

 ただ見つめ合っているだけで、心が通じている気がした。洋平の腕を伝うものは、美鈴の血潮だけでなく、二人の想いもまた交流していると信じて疑わなかった。だからこそ、美鈴がゆっくりと目を閉じたとき、洋平には彼女が求めているものがわかった。

 洋平は躊躇うことなく顔を近づけ、そっと唇を合わせた。二度目となる今度は、前より長く合わせていた。彼女の唇を軽く吸ってみる余裕さえあった。

 そのうち、全身が熱く火照ってきた。もちろん、室温の高さという外部の熱の仕業もあるにはあったが、何よりも、身体の内より湧き出でる興奮の熱が、毛穴という毛穴を通して、外に吹き出ていることに他ならなかった。

 洋平には、美鈴も同様であることがわかっていた。口や鼻から出る息の熱だけでなく、彼女が発する身体全体の熱を肌に感じていたからである。

 やがて唇を離し、目を開けた洋平は、閉じられた美鈴の両方の眼より、一筋流れるものを見た。むせ返るような密室の中で、二人とも顔中に大粒の汗を掻いてはいたが、彼はそれが涙だと確信した。

 洋平の脳裏に、あの墓地一面に灯っていた灯篭を見て、彼女が涙していた場面が過ぎった。転瞬、彼の胸に全身の血液が逆流するほどの激情が込み上げてきて、思わず彼女の身体を引き寄せた。

 洋平は美鈴の身体を強く抱きしめた。充分に弾力のある二つの乳房が、彼の胸で潰れるほどに強く、細い身体が壊れてしまいそうになるほどに、強く彼女を抱きしめた。

「おらが、一緒にいるけん。ずっと、ずっと一緒にいるけん……」

 洋平は、美鈴の耳元でうわ言のように何度も何度も呟いた。それは、彼女に向けてというだけでなく、彼自身に言い聞かせた魂の叫びでもあった。洋平の真心を聞いた美鈴の、彼の背中に回していた両手に力が込められた。

 洋平の胸は、激しい鼓動を打ち続けていた。だがそれは、先ほどの興奮の熱によるものではなく、ひたひたと忍び寄る、得体の知れない黒い影によるものに変わっていた。

 洋平は、こうして美鈴をしっかりと抱きしめていても、いとも簡単にこの腕をすり抜け、自分の手の届かないところに行ってしまいそうな不安に駆られていたのだった。

 洋平は、その不安を打ち消すことができるまで、美鈴の身体を抱きしめていたかった。だが、無常にも『わあっーと』いう母屋から聞こえた歓声が、この濃密な空間を切り裂いてしまった。

 洋平は、おもむろに美鈴の身体を離し、頬を隠している濡れた髪を掻き分け、両手でそれを包み込むようにしてもう一度言った。

「これからはおらがずっと一緒にいるけん。心配はいらん」

 このとき洋平は、子供心ではあるが、真剣に生涯を掛けて美鈴を護って行こうと心に誓っていた。

「……」

 美鈴は無言のまま軽く肯くと、左手で拳を作り、手の甲を洋平の眼前に向けた。 洋平は、作った拳を彼女の腕と絡めるようにして、彼女を引き寄せた。

 二人はもう一度唇を重ねた。そうすることで、妖しくも、言いようのないやるせなさを帯びていた時間に、終止符を打つことにしたのである。

 美鈴は再び着替え始めた。洋平は、振り返って彼女の姿を視界から外し、前もって用意していた品をかばんの中から取り出した。彼は、この冒険が終わったとき、美鈴に渡す品を用意していた。

「鈴ちゃん、これ」

 洋平は、着替え終わった美鈴に差し出した。

「ロケットペンダントね。うれしい。この中に洋君の写真を入れようっと」

「おらのには、もう鈴ちゃんの写真が入っちょうよ」

 洋平は、ペンダントを開いて中の写真を見せた。

「やだ。これって、もしかして私が眠っていたときの写真じゃないの?」

 美鈴は、懐中電灯を当てて写真を確認すると、照れながら言った。彼女の顔に、ようやく笑みが戻っていた。だが、その笑みは洋平の不安を一掃するまでには至らなかった。

 洋平は、ペンダントを美鈴の首に掛けた。

 すると、

「じゃあ。お返しに、これを受け取って」

 と、彼女は桜貝のペンダントを首から外し、洋平に差し出した。

「ええの? 大切なものなんじゃないだか?」

「うん。一年生の夏休みに、家族で沖縄に旅行したとき、浜でこれを見つけて、ペンダントにしてもらったの。でも、洋君に貰って欲しいの」

「だんだん、大切にするけん」

 洋平は、ペンダントを受け取り、自分の首に掛けた。


 二人が家に戻ったとき、時計の針は二十一時半を指しており、花火大会が終わった時刻をとうに過ぎていた。洋平は、母の咎めを覚悟していたが、里恵は二人を見つけると、意外にも優しい笑みを浮かべ、たった一言「楽しかったかい?」と訊ねただけであった。

 母の詰問に備え、心に鎧を着ていた洋平は、その意表を衝いた里恵の言葉に、告白しようとした出鼻を挫かれてしまい、真実を言いそびれたままになってしまったのだった。

 やがて、大工屋からの迎えで、美鈴は帰って行った。

 洋平は、もう一度行水をして汗と雨を流し、精霊舟流しの時間まで、自室で仮眠を取ることにした。


「洋平、起きてるかい?」

 扉の外で母の声がした。眠れずにいた洋平が時計を見ると、まだ二十三時を過ぎたばかりで、精霊舟流しの時刻までには間があった。

「お母ちゃん、まだ早いよ」

「喜一郎さんが呼んでおいでだよ」

「大敷屋のお爺さんが、なんで?」

「なんでか知らんけど、うちのお祖父さんも呼んでだから、とにかく一緒に行くよ」

 祖父から来いと言われれば、否応なかった。

 洋平は、浴衣から船に乗り込むときの衣服に着替え、里恵に連れられて大敷屋へ行った。大敷屋は、恵比寿から北東の方角で、海岸通りに面したところにあった。 ちょうど、道を挟んで盆踊りの櫓が立っていた。

 すでに雨は上がっており、二十三時頃といえば、盆踊りが最も盛り上がる時間帯だった。洋平と里恵は、踊りの輪を右手に見ながら、行き交う人ごみの中を歩いて行った。

 五分ほどで、大敷屋に着いた。大敷屋という屋号は、漁法の一種である大敷網に由来している。大敷屋もかつては網元だった。

 初盆だけに大勢の人が集まっていた。

「おっ、総領さん。良く来て下さった。まあ、こっちへ来て座ってごしない」

 大敷屋の当主・喜一郎に言われるまま進んだ席に、祖父と父が居た。洋平は洋太郎の横に座った。

「この子が、いま話をしていた恵比寿家の総領、洋平君だ」

 喜一郎が、一同に声を掛けた。 

 どうやら、自分の噂話になり、どうせ精霊舟流しに来るのなら、早めに呼んで紹介しようということか、と洋平は推測した。考えてみると、洋平は大敷屋の家族は良く知っていたが、親戚となると、村に住んでいる者でも、ほとんど口を利いたことがなく、まして村の外に出ている者などは面識すらなかった。

「皆、見とけよ。だんさんの人徳と、若だんさんの頭の両方もっておられえけん、大した者になりなさあが」

 喜一郎の言葉に、

「将来は何に成りなさる?」

「議員になりなさるか?」

「恵比寿水産はどうなさる?」

 と、誰彼となく訊ねてきた。 

「いや、親父はどげ考えてござるか知らんけんど、わしは、洋平は自由にしたらええと思っちょうけん。これから先、いつまでも今のような豊漁が続くとは思っちょらんけん。洋平の代になったら、陸(おか)の時代になると思うだが。恵比寿は、有能な誰かが継いだらええと思っちょうけん。それこそ、大敷屋さんの跡継ぎに継いでもらってもおかしくないだが」

 父の洋一郎が代わって答えた。彼は、恵比寿家の長男という立場に縛られ、自身の夢を断念したことを、いまでも苦い思い出として記憶に残していた。そのため、少なくとも洋平には、恵比寿の事業からは開放し、自由な道を歩ませたいと思っていたのだった。

 喜一郎は、洋太郎の一つ下ではあるが、二人は幼馴染で、洋太郎が恵比寿水産を立ち上げたときからの片腕であった。今も専務の要職に就いており、形ばかりとはいえ、洋太郎が若くして会社を父に譲ったのは、この喜一郎が健在だったからと言えた。

 喜一郎の長男、つまり律子の父もまた、洋一郎を助ける立場にある人だった。言わば、大敷屋は二代続いての大番頭格の家柄だったので、洋平が後を継がないのであれば、美穂子の婿次第では、より後継者の資格がある家門と言えた。

「おらは、まだ何になるか決めていないけんど、政治家になんかなりませんけん。所詮、国会議員といったって、わざわざ向こうから、お祖父ちゃんに頭を下げに来るじゃないですか。おあらは何になるにしたって、お祖父ちゃんのような人間に成りたいけん」

 父に続いて、洋平はきっぱりと言い放った。

 これは彼の本音だった。政治家であれ、銀行の頭取であれ、あるいは警察署長、校長、郵便局長、住職であれ、世間で言うところの社会的地位のある立派な面々が、恵比寿家にやって来ては、祖父に頼み事をして頭を下げている様を、幼少の頃より見続けてきた洋平の、実に率直な思いだったのである。

 零時近くになって、永楽寺の住職の来訪があり、つれて大工屋の婆さんに伴われて美鈴もやって来た。

 ところが、誰かに声を掛けられて目を外した隙に、洋平は美鈴の姿を見失った。洋平はあわてて彼女を探そうとしたが、なにしろここは大敷屋である。恵比寿の屋敷のように勝手な行動は制限された。それでもトイレに立つふりをして、できる限り彼女の姿を探したが、見つけ出すことはできなかった。

――鈴ちゃんはどこに行ったのだろう。律子とは顔を合わせたのだろうか……? そうだとすれは、どのような雲行きなのだろうか。おとなしい律子のことだから、滅多なことはしないだろうが……。

 そのとき二人が律子の部屋で対峙していたことなど、洋平は知る由もなかった。


 深夜一時前になり、精霊舟流しが始まった。

 元来、美保浦の精霊舟流しは、初盆の家々で臨時に作られた仏壇に供えられていた果物や野菜などを布に包んで流していたのが始まりだった。

 明治の終わり頃、永楽寺の三代前の住職の初盆のとき、手に持てるくらいの小型の舟を作り、海に流したことを契機に、各家々でも真似をするようになった。しかも、当初は小戸まで歩いて行き、そこから海に流していたのだが、いつ頃からか、船を出して沖まで出るようになり、つれて精霊船自体も大型化していった。

 精霊舟は、故人と近しかった数人の者が担いで運び、残りの者は後ろを付いて行った。洋平の耳には、住職の読経だけが響いていた。

 精霊舟流しから帰ると、時計の針は二時半を回っていた。洋平は、ベッドに横になったものの、とても眠れる状態ではなかった。納屋での興奮がいまだ冷めやらず、美鈴との二十日間の思い出が、次から次へと浮かんできては頭の中を駆け巡り、休ませることを許さなかった。

 洋平が眠りについたのは、はっきりと日の明るさが差し込むようになってからだった。


 洋平はわずかなまどろみの後、いつもと変らず、六時過ぎに起きて恵比寿神社へ行った。ラジオ体操を終えた彼は、見送りの時間まで、再び横になった。気が滅入らない分だけ、寝ている方がましだったのである。

 二時間ほど経った頃、母に起こされて、少し早めに大工屋に行くと、美鈴はすでに帰り支度を終えていた。

「総領さん、だんだん、だんだん」

 大工屋の人々が口々に言い、

「洋平君、本当に有り難うね」

 と、美鈴の両親が洋平の手を取って頭を下げた。

「冬休みになったら、すぐに戻って来るから。そしたらクリスマスもお正月も一緒にやろうね」

 洋平には、美鈴が努めて明るく言ったように見えた。

「うん、待っちょうけん。雪が積っちょったらスキーやソリもできるけん」

 洋平も、これから先にある楽しいことだけを考えるようにしていた。

 バスの時刻になり、表に出た。

 バス停は大工屋のすぐ前にあった。洋平は、美鈴に掛ける最後の言葉を捜していたが、何も思い浮かばず、そっと手を握り締めただけだった。洋平が少し力を込めると、美鈴は強く握り返してきた。それに応えて、洋平も手に力を込めた。お互いの気持ちを確かめ合うには、それだけで充分だった。

 やがて、西の方からバスが姿を現し、ゆっくりと近づいて来た。洋平はこんな寂しい気持ちでバスを待ったことはなかった。バスを待つのは、祖父と街へ出掛けるときで、いつもわくわくして待っていた記憶しかなかったのだ。

 バスは揺るぎない速さで迫って来て、とうとう眼前に止まってしまった。最後のお別れの挨拶を済ませ、美鈴たちは乗り込んで行き、発進のクラクションが鳴った。

 美鈴はバスの一番後ろの差席に座り、こちらに向いて手を振っていた。バスは海岸に向かって、しだいにその速度を速めていった。洋平は離されまいとして、バスを追って走りながら手を振った。

 美鈴は、拳を作り洋平に向けていたが、彼にはわからなかった。目に涙が溜まっていて、彼女がぼやけてしまっていたからだ。美鈴は何かわめいているようにも見えたが、むろんその言葉は聞き取れるはずもなかった。

 無常にも、バスは海岸通りに入るための角を曲がり、ついに美鈴の姿は消えた。

 洋平は、両手で涙を拭いながら、とぼとぼと海岸通りを歩いた。

 遠く視線の先で、盆踊りに立てられた櫓の解体作業が、昨日までの賑やかな祭りの終わりを告げていた。ただでさえ切ない情景が、美鈴と別れたばかりの洋平には、一層寂寞な印象となって沁みこんでいた。

 洋平は、再び溢れそうになる涙を堪えて、顔を上げ、潮風の匂いを嗅いだ。

 お盆を過ぎると、空には鰯雲がその高いところに薄く棚引き、かすかではあるが、しかし確実に空気の色も変わったとわかる。それらは季節の変わり目を如実に物語っていた。

 心の中を秋風がすーっと吹き抜けていった。華やかだった去り行く季節に、寂寥感を抱かずにはいられない洋平だった。









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