第10話 幻影

 翌十四日は、恵比寿家にとって重要な行事があった。

 南の半島の最東端に祭ってある恵比寿神社まで、豊漁と海の安全を祈願するため、船団を走らすのである。

 恵比寿神社は美保浦神社より、とくに漁業、海運の神徳を得るために分社されたもので、決まった神職が務めているわけではなかった。

 毎年の暮れ近くに「当屋(とうや)」という、翌年の神職がくじにより選ばれていた。 

 当屋に選ばれた家の当主は、十二月二十日から二十八日まで、毎早朝三時頃、決して他人に姿を見られることなく、北の陸の先端である小戸へ出向き、海水を浴びて身体を清め、いよいよ二十八日の早朝、新年を迎える準備のため、神社に参詣するのだった。

 当屋の務めを無事に果たせば、その家には名誉だけでなく、繁栄も齎されるとの言い伝えがあり、どの家もくじに当たることを切望していた。


 午後になり、村人たちが三々五々海岸に集まりだした。

 恵比寿家の行事の前に、夏祭りの催しの一つである、櫓こぎ競争が始まるのだ。中学生、高校生、青年、壮年の部に分かれ、南北約百メートルの距離を二尋余りほどの小舟の櫓をこいで競争するのである。漁師にとっては、日頃の腕自慢を披露する絶好の機会になったが、中学生の中には真っ直ぐ舟が進まず、観衆の笑いを誘ったりする者もいた。

 競技が終わると、恵比寿水産が所有する二十数艘の中から選ばれた八艘の船が隊列を作り、美保浦湾に繰り出す。もっとも、八艘もの船団を繰り出すようになったのは、洋太郎が会社を旗揚げした以降で、それ以前は、恵比寿家が所有していた船のみで行っていた。

 八艘の船は、それぞれに五色の大漁旗を立て、等間隔の間を空けて円を作り、湾内を三周した後、一列になって沖へ出るのだった。先頭の船の舳先には、臨時にしっかりと固定されたマストが立てられ、洋平は命綱を付け、そのマストを掴みながら立っていた。

 言わば、神童あるいはお稚児さんの役割であった。

 この役目は、代々恵比寿家の総領が担わなければならないため、洋平は小学校へ入学した年から務めていた。

 半島の先まではおよそ六キロあり、その辺りまで沖に出ると、波も相当な高さになったが、生命の危険を伴わない限り、避けてはならない行事だった。

 船団が恵比寿神社の真下に到着すると、エンジンを切って洋上に停泊し、会社の代表である洋一郎が祈祷文を読み上げる。その後、皆で柏手を打ち、一斉にお神酒を海に流すのである。

 美鈴は、当然のようにこの行事に参加したいと願い出たが、こればかりは許されなかった。これもまた、恵比寿様は女神であり、女人が乗船していると、嫉妬をされて、海難事故を起こされるという古い言い伝えがあったからである。


 この日の夜、洋平は大工屋から夕食に招かれていた。これまでのお礼という意味合いであった。

 夕方になり、彼は浴衣に着替えて出掛けた。その道すがら、出会った人々は一様に、

「恵比寿の総領さん、こんな時間に何処に行かれるのですか」

 と訊ねた。

 こうした場合、洋平は逐一真面に答えるのが億劫なので、

「ちょっと、そこまでです」

 と曖昧に答えることにしていた。

 たいていの場合はそれで済むのだが、中には「そこって、近江屋さんですかい」と道筋にある、叔母の嫁ぎ先の名を口にする者や、立ち止まって姿が見えなくなるまで見届ける、お節介者までいたりすることもあった。

 しかしこれは、決して彼らに他意があってのことではなく、夕方になって子供が一人でうろついていれば、誰であろうと声を掛けるのがこの村の日常なのだった。まして、恵比寿家の総領である洋平ならば、なおさらのことなのである。

 洋平は、大工屋に着いて初めて気づいたことがあった。大工屋も恵比寿と同様、男衆は親戚である大敷屋の初盆に出掛けているということである。

「こんばんは」

 洋平が玄関先で声を掛けると、奥から老婆が出てきた。美鈴の祖母である。

「まあ、恵比寿の総領さん、よくおいで下さった。どうぞお上がり下さい。美鈴はお風呂に入っておりますけん、ちいと待っていてやって下さい」

 洋平は、初めて大工屋の家に上がった。

 美鈴を待つ間、手持無汰沙の洋平は、自然とある思案に入り込んでいった。


「なにを考えているの?」

 背中越しの声で、洋平は傍らの美鈴に気づいた。

「うん。ちょっと、明日の夜のことを考えていた」

「なにか問題でもあるの」

 洋平が、蛍狩りを躊躇していると誤解したのだろう。美鈴は、洋平の浮かぬ表情を見て心配そうに訊ねた。

「いや、大したことではないけんど、自転車がね……。どうやって調達するか、その手立てが思いつかないんだ」

「なあんだ、自転車かあ」

 美鈴は安堵したように言う。

「そう言えば、洋君は自転車持っていなかったよね、どうして?」

「うん。それはちょっと事情があってね……」

 洋平には苦い思い出があった。

「事情って、どんな?」

「まあ、そいがね、その……」

 洋平が口籠っていると、

「まさか、乗れないの?」

 と、美鈴は小馬鹿にするように言った。

「違うよ、そんなんじゃないがな。そげだったら、自分から自転車を用意するなんて言わんがな」

 洋平は、むきになって答えた。

「だったら、教えてよ」

 美鈴の得意げな表情に、洋平はやられたと臍を噛んだ。彼女は見事な計略で、洋平に返答を迫ったのだ。

 洋平は、渋々真相を話始めた。

「実は、一昨年お祖父ちゃんに新車を買ってもらったんだけんど、おらは嬉しさのあまり、言いつけを破って友だちと二人乗りをしてしまい、その挙句、操縦を誤って自転車もろとも、二人が池に落ちてしまうという事故を起こしてしまっただ」

「ええー、どこに? どうして?」

 美鈴は大声を出した。顔を洋平に近づけると、目を大きく見開いて、話の続きを催促した。洋平の失敗話は、大いに彼女の興味を惹いたようだった。

「ほら、鈴ちゃんも一緒に笹竹を切りに行ったとき、小学校に着く少し手前に、右手に大きな池があっただらが。あそこに落ちてしまっただ」

「どうして、あんなところに落ちたの」

「そいがね、おらたちは隣村の磯に釣りに行っただ。友だちが、メバルっていう魚がよう釣れる磯があるっていうもんでね。友だちは自転車を持っちょらんかったんで、二人乗りはいけん、というお祖父ちゃんの言い付けを破って、おらたちは二人乗りをしてしまっただ。ほら、あの池は、隣村に行く峠の坂道の傍らにあっただらが。帰り道は下り坂になるだが。

 おらたちは、メバルを四十匹も釣って、意気揚々で帰るところだった。けんど、その坂道で、ついスピードを出し過ぎてしまい、メバルを入れた籠をハンドルに掛けていたこともあって、その重みでハンドルを取られ、操作を誤ったただ。そんで、あの池に自転車もろとも、ダイビングをするように飛び込んでしまっただが」

「あははは、おかしい、おかしい」

 洋平の話を聞いて、美鈴は滑稽な場面を想像したのか、大声で笑った。

 だが洋平は、自分の失敗話を笑われても少しも腹が立たなかった。むしろ彼女の笑い顔に幸せを感じていた。

 思い返せば、洋平はこのように大笑いをする美鈴を初めて見たような気がする。

――もっと彼女の笑い顔を見ていたい。

 そう思った洋平はここぞとばかりに、池に落ちたときの二人の慌てふためいた様を、身振り手振りを交えて面白おかしく話した。その表情は、単なる間抜けな失敗話に過ぎないのに、まるで自慢話のように得意げだった。 

「ああー、苦しい、苦しい」

 一旦笑いを堪えて、洋平の大げさな話を聞いていた美鈴は、再び腹を抱えて笑った。そのような彼女に洋平の心は和んだが、それも束の間のことだった。彼女の風呂上りで光沢の良い艶やかな顔を見ていると、明日が最後の日である現実が辛く圧し掛かってくるのだ。

 洋平は笑い転げる美鈴を尻目に話を続ける。

「鈴ちゃんはそがいに笑うけんど、一つ不思議なことがあったんだ」

「不思議なことって?」

 真顔になった洋平に美鈴も笑みを消して訊いた。

「池に落ちそうになったとき、なんでかわからんけんど、おらはブレーキを掛けちゃいけんと思っただ。だからスピードがついたまま池に飛び込んだだ。だいてが、そげだったけん、自転車が池底の泥沼に沈んだだけで済んで、おらたちは助かったんだが。

 後でわかったことだけんど、もしブレーキを掛けて中途半端に池の淵にでも落ちちょったら、そこには竹や木の切り株が乱立しちょったけん、大怪我だけじゃすまんかったかも知れんのだけん」

 話を聞き終えた美鈴は神妙な顔つきになっていた。そして事故の後、池の淵の切り株を見たとき、洋平の心に浮かんだ思いと同じことを言った。

「洋君の守護霊様が護って下さったのね」

「おらもそげだと思っちょう」

 洋平は、美鈴が自分と同じ思いを抱いたことが嬉しかった。魂の繋がりというものを実感したからだ。

「そいで、お祖父ちゃんの言い付けを破った罰として、中学校に上がるまでは自転車を買ってもらえんのだが」

「そっかあ、それで洋君は自転車を持ってないのかあ」

 と、彼女は得心した様子でそう言った後、

「あっ、そうか。だからあの日、洋君は集合場所に向かって、ずっと走っていたんだ」

 といまさら思い出したように言った。


「まあまあ、ずいぶんと楽しそうな話をしておいでだね」

 そう言いながら、お婆さんが部屋に入ってきた。彼女の笑い声は台所にまで届いていたらしい。

「さあさあ、恵比寿さんと比べたら何のご馳走もありませんけんど、どうぞ召し上がってごしない」

 並べられた料理を見ると、魚介類は少なめだったが、その代わりに珍しいものが用意されていた。

「この肉はなんですか?」

 洋平はこれまでに見たことのない肉を指して訊ねた。

「それは、野うさぎの肉を焼いたものだけん。前に獲ったのを冷凍しちょったものだけん、食べてごしない、美味しいけん」

 洋平は勧められるままに、一切れ口に入れた。

「うん、がいにまい」

 なるほど美味しかった。牛肉よりやや硬いが、臭みが全くなく意外にあっさりとした味であった。

 そのうち、おばさんと娘さん二人、そして美鈴の母も加わって、女性だらけの食事会となったが、こういった環境に慣れて育っていた洋平の口数が少なくなることはなかった。

 雑談が途切れ一息ついたとき、お婆さんが思い出されたように話を切り出した。

「今日は、恵比寿のだんさんと若だんさんも、大敷屋さんの初盆にお呼ばれでしょうね」

「はい」

 そうですか、と肯くと

「ところで、総領さんは明日の精霊舟はどげなさいますか」

「おらも船に乗るつもりです」

「ああ、それはご苦労なことですのう」

 深々とお辞儀をされたお婆さんに、美鈴が興味津々で訊いた。

「精霊舟ってなに?」

 彼女は精霊舟を知らなかった。お婆さんは訥訥と、しかし丁寧に話を始めた。

「お盆までに、四十九日の法要が済んだ家では、今年のお盆が初盆ということになってね。初盆を迎えた家では、一尋ほど大きさの船を作るのだけんど、それを精霊舟と言うのだが。その中に、仮の位牌と写真、火を点けたろうそくとお線香、お寺さんからいただいたお経の一文が書いてある短冊、それにお米や野菜、故人の好物だった物などを入れて、海に流すのだよ。うちのお祖父さんと伯父さんが、作っちょうところを見たことがなかっただか」

「うん、見たことない。お祖父ちゃんと伯父さんが作っているの」

「そげだよ、器用に自分のところで造る家もあるけんど、たいていは大工に頼むわね。だけん、うちも今年は十三軒から頼まれちょって、夜なべをして作っちょうのだが。二人とも材木置き場で作っちょうけんなあ、そうかそうか、美鈴は見たことがなかったか……」

「船に乗って沖へ出て、そこから流すんだよ。大敷屋さんの船には、おらも乗って行くんだ」

 自慢げに言った洋平は、しまったと顔を顰めた。

 美鈴はすぐさま、

「私も乗りたい。ねえ、お母さん良いでしょう」

 と、母に承諾を請うたのだ。

 洋平の予想した事態になった。

 美鈴の性分を考えれば、乗り気ではない素振りをするべきだった、と悔やんだが後の祭りである。

 大敷屋には律子がいる。美鈴と初めて出逢った日以来、美鈴と律子は顔を合わせていなかった。洋平自身も律子とは疎遠になっている。

 美鈴と精霊舟流しに同船したいのはやまやまだが、三人が顔を合わせるのは、さすがに気まずい。

「なにを言っているの。船が出るのは、夜中の一時頃なのよ。それにもう船は満員でしょうに……」

 美鈴の母が反対した。洋平には心強い援軍だった。

「だって、洋君は乗るって言っているじゃない」

 だが、美鈴は一歩も引き下がらない。彼女は昼間の行事のとき、洋平と一緒に船に乗れなかったことで、今度こそはと執着しているようだ。

「洋平君は、恵比寿の総領さんなのよ、特別なの」

「だって……」

 洋平の叔母裕子は大敷屋の次男に嫁いで分家を立てており、万太郎の長男万喜男は大敷屋から嫁を貰っていた。したがって、姻戚関係では同じようなものと言えた。

「ええんじゃないか。美鈴が乗りたいって言うなら。他人ならともかく、親戚の者なら見送りは多い方がええ。大敷屋に電話をして訊いてみたらどうじゃ」

「じゃあ、まだ船に乗れるかどうか、問い合わせてみます」

 お婆さんの一言で、美鈴の同船が決まった。洋平は、鉛を呑んだように気が重くなった。


 日付を跨ぐ頃になって、風雨は一段と激しさを増していた。

 二人は日本酒を酌み交わしていた。洋平は、酒は滅法強かった。滅多に酔わなかったし、たとえ酔っても醜態を見せるようなことは一度もなかった。

 子供の頃より、祖父の晩酌に毎晩付き合わされ、小さなお猪口で日本酒を一杯ずつ嗜んでいたので下地ができていたこともあったろうが、何よりも彼が大学生時代に寄宿した寺院の住職の影響が大きかった。

 その住職は五十代早々の若さで、我が国でも最大級を誇る宗派の大本山の貫主に抜擢されたほどの名高い高僧だった。信心深かったウメが親交のあった米子にある住職の父親に懇願し、精神修養になればと洋平を預かってもらったという経緯なのだが、このことでウメは後々悔やむことになった。

 洋平が住職の哲学、見識に感銘を受け、また彼自身も住職に気に入られたことから、書生となって身の周りの世話をするうち、自立心と恵比寿水産よりもっと広い世界で活躍したいという野望が芽生え、結果的に恵比寿家の相続放棄を宣言することになったからだ。

 恵比寿家の家族も、相続放棄の原因がこの住職との関わり以外であれば、決して容認することはなかったであろう。

 大学在学中、住職を通じて様々な分野の人物と交流をし刺激を受けた洋平は、卒業後、さらなる見聞を広めるため、住職の推薦でフランスの大学に二年間留学した。

 帰国後は大手情報処理会社でコンピューターエンジニアとして活躍し、二十八歳の若さで自らの会社を興した。

 当初は順調に成長を遂げていたが、独立系企業の宿命なのか、長引く不況の影響を徐々に受け始め、資金繰りに窮するようになっていった。他に頼るところがなくなり、進退窮まった洋平は、虫の良い話だと気が引けながらも、里恵に度々金の無心をした経緯があった。 

 さて、その住職は大の酒好きで、酔うということを知らない酒豪だった。毎晩、日本酒を一升半も飲む師に付き合っているうち、しだいに洋平の酒量も増していった。 

 しかも相手は素面のままの師である。緊張を強いられた洋平に、酔うだけの精神的余裕など生まれるはずもなく、自然と強くなっていったという次第である。


 二人の会話は高校時代に移っていた。

 実は、共に松江高校に進学した二人は、三年生の一時期、交際していたことがあった。交際といっても、休日に映画を見たり、下校時に喫茶店で談笑したりするだけで、キスはおろか手を握ったことさえなかった。律子のアプローチに洋平が渋々応じただけのことであり、卒業を機に自然消滅した。

 そのとき律子は、美鈴の幻影がまだ洋平の心を独占していることを痛感させられていた。彼女には、ほろ苦い思い出として胸に残っているのである。

「洋平君はどうなのよ。まだ、彼女が棲み付いているのかしら」

 律子は絡むように言った。彼女も酒は強かったが、さすがに頬は紅を差したように赤みを帯びていた。

「彼女って?」

 洋平は素知らぬ顔で訊き返した。

「またあ、惚けて」

 律子は溜息混じりに言った。その口調に、洋平は失言したことに気づいた。

「その様子だと、図星らしいわね」

「そんなんやない。俺だって恋愛の一つや二つはしたさ」

「へえーどんな?」

「どんなって、言ってもなあ……」

 洋平は気が進まなかった。

「私も話したんだから、洋平君も逃げないでよ」

 律子は咎めるように言った。その糾弾するかのような眼差しに、洋平は口を開かざるを得なくなった。

 洋平は大学三回生のとき、大学付近の喫茶店でアルバイトをしていた、初音という女子大生と恋愛したことがあった。アルバイトといっても、オーナーママの一人娘だったのだが、実を言うと、彼は初音より先にママに気に入られたのだった。

 ママが抱えていた土地を巡るトラブルを解決したからなのだが、正確に言えば、洋平は自力で解決したのではない。祖父洋太郎が後援していた与党の有力議員の秘書に連絡を取り、裏で手を回してもらったのだ。

 だが、細かな裏事情はわからなくとも、洋平の実家が相当な旧家であることを知ったママは、初音に洋平との交際を薦めた。母親の言いなりだった初音は、言われるままに洋平との交際を始めたのである。

「だけど、肝心の洋平君は、初音さんを気に入ったの」

「ま、まあな……」

「そうなんだ」

 律子は伏し目がちになった。自分と別れたわずか数年後には、洋平の心から美鈴の幻影を追い払った女性が現れていたことになる。

 律子は、洋平の心を奪った初音という女性が気になった。

「初音ちゃんって、どんな女性だったの」

「いや、うん。それが……」

 洋平の煮え切らない様子に律子は直感した。

「もしかして、美鈴ちゃんに似てたんじゃないの」

「なんで、わかるんや」

 洋平は目を丸くする。

 やっぱり、と律子は嘆息した。

「そうじゃないと、洋平君が女性に惹かれるはずないもの」

「勘がええなあ。せやねん、外見は双子かと思うくらい瓜二つやった」

「やっぱりね」

「だけど、一年で別れた。性格はまるっきり違っていたからな」

 洋平は弁解したつもりだったが、律子の気分は晴れなかった。

 洋平の告白は二人を沈黙で覆ってしまった。洋平は気を紛らわすため、しきりにグラスを口に運んだ。

 空になるグラスに何度目かの酒を注ぎ終えたとき、律子はすっと立ち上がった。

「私、シャワーを浴びてくる」

 彼女の言葉が、気まずい空気を切り裂いた。

「シャワーって、ボイラーの油はあるんか」

「無いと思うけど、酔いを醒ますには水の方が良いわ」

 そう言って律子は席を立った。

 電気と水道は、この初盆が終わるまで親戚が肩代わりをして継続していたが、さぐがにボイラーの油までは給油していなかった。

 彼女の姿が土間の奥に消えるのを見届けると、洋平は手酌を始めた。グラスに氷とレモン汁を入れて日本酒をロックで飲む。師に教わった飲み方であり、彼の一番の好みだった。

 酒のつまみにと、律子が持参した重箱の蓋を開けたとき、洋平は思わず苦笑した。

 筍があった。旬は春だが、保存していたのだろう。

 洋平は隆夫の遺影に向って、

『お前のせいで、酷い目に遭わされたことがあったなあ』

 と独り言を呟いた。

 洋平の追憶は美鈴が現れるずっと前、二人が七歳の春に遡った。


 二人は小学校に入学したことで、子供心にも、少し大人になった気分だった。

 ある日、隆夫が筍採りに洋平を誘った。

 洋平は一も二もなく同意した。筍は洋太郎の大好物だったからだ。洋平は沢山の筍を持ち帰ったときの祖父の喜ぶ顔を想像した。

 筍は『きたかたん』と呼ばれている、村の南の外れの山に生えているという。

 二人は手鍬と紐を用意して、その『きたかたん』に分け入った。

 筍は一面に生えていた。幼い二人は小ぶりな方が上物とも知らずに、大きな筍を選んで抜いていった。

 二人は六十センチほどの筍を三本ずつ紐に括った。洋平は筍を抱え、意気揚々と家に帰った。玄関先で母の名を呼んだが、あいにく不在だった。そこで彼は祖父の名を呼んだ。

 書斎から出てきた洋太郎は、洋平の抱えている筍を見て、

「その筍はどげした?」

 と不審げに訊いた。

「山に行って採ってきた」

 洋平がそう答えると、

「山? いったいどこの山じゃ」

 洋太郎の語気が一気に強まった。

 その表情に、洋平はようやくある重大なことに気づいた。『きたかたん』は恵比寿家の山ではないことを……。

「き、きた、かたん」

 洋平は、小声で恐る恐る答えた。

 その瞬間、祖父の平手が洋平の頬を打った。

「洋平。わい、なにをしたか、わかっちょうか!」

「はい……」

 洋平はうつむいて答えた。彼の足元には、転々と雫の跡が付いていった。

「きたかたんは、竹屋の山だがな。わいは泥棒をしただぞ」

「……」

「わい、一人で行っただか」

 洋平は少し間を置いて、

「はい」

 と答えた。

 すると祖父は、急に優しい口調になった。

 洋太郎は洋平が一人で山に入ったとは思っていなかった。孫が同行者を庇った男気に満足していたのである。

「そげかそいなら、ばあさんと一緒に竹屋へ謝りに行って来い」

 洋平は、日本酒の一升瓶を抱え、ウメに連れられて竹屋へ謝罪に行った。

 洋太郎は厳格ではあったが、洋平がぶられたのはこの一度だけだった。彼は筍を目にする度に、今でも頬の痛みを思い出すのだった。


「一人で笑っているなんて、気味が悪いわよ」

 律子の声で振り返ると、いつの間にかバスタオル姿の彼女が立っていた。

 洋平の目が大きく見開く。

 はち切れんばかりの豊かな二つの乳房の上半分が顔を覗かせていた。

 実に豊満な肉体だった。だが、決して太っているわけではない。細い両腕、引き締まった太腿、くびれた腹部……子供を生んでいないからなのだろうか、とても三十路とは思えないほど見事な体型をしていた。

「どう、抱きたくなったかしら」

 律子が挑発的な顔をする。 

「ば、馬鹿言え。さっさと服を着ろよ」

 洋平は動揺を押し隠すように、ぶっきら棒に言った。

「下着を手洗いして乾かしているの。それより、洋平君もシャワーを浴びてきたらどう? 気持ちが良いわよ」

 律子は意味有り気な微笑をした。

「俺は遠慮するよ。下着の替えも持ってきていないし……」

「私が洗ってあげるわよ。ほら、汗だくじゃない」

「そういうわけにもいかんやろう」

「だったら、隆夫君のを借りれば良いじゃない。私が探しておくから、さあ入ってらっしゃい」

 律子はまるで恋人のように、背後から洋平の腕を取った。彼女に言われるまでもなかった。真夏の夜にも拘らず、台風の接近で窓を閉め切っていたため、扇風機も気休めにしかならないほど蒸していた。

 断る理由が見つからない洋平は、勧められるままに土間の奥にある風呂場に入った。

 ここもまた彼には懐かしい場所だった。幼稚園児の頃、隆夫と遊んで泥まみれになって帰って来ると、おばさんが沸かしてくれた湯に、彼と一緒に入ったものだった。 

 その頃はまだ五右衛門風呂だったので、踏み板を外したり、うっかり背を凭れたりすると、焼けた鉄板で火傷しそうになった記憶が残っている。

 洋平が感傷に浸っていると、背後で物音がした。振り向くと、ガラス越しに律子の裸体が浮かび上がっていた。

「洋平君、入るわよ」

 律子が低い声で言った。

「……」

 突然のことに、洋平は返事に詰まった。

洋平が押し黙っていると、律子は、構わず扉を開けて入ってきた。洋平は、咄嗟に背を向けた。

「な、なにをするんや……」

 言葉とは裏腹に弱々しい声だった。

「……」

 律子は無言のまま洋平の背に凭れ掛かった。彼女の豊かな乳房が背に潰れた。

 洋平は彼女の想いを理解していたが、

「せやけどな」

 と曖昧に答える。

「私が嫌い?」

 律子は少女のような問いをする。

「嫌いなわけがないやろ」

 洋平もまた青臭い返答しかできない。

「じゃあ、好き?」

「……」

 洋平は言葉に迷った。好きと言えば下心があると思われるだろうし、そうではないと言えば彼女を傷つけるかもしれない。

 洋平の困惑を察した律子は、

「好きじゃなくても良いから、抱いて」

 と言った。

 その口調に意志の強さを感じた洋平は、弁解するように言った。

「俺、その、あまり上手やないしな……」

「えっ?」

 一瞬、律子には理解できなかった。

「正直に言うと、あまり女性経験が無いんや」

「美鈴ちゃんが原因なの」

「違うよ」

 律子は、はっとなった。

「まさか、貴方もホモセクシャルなの」

「とんでもない」

 洋平は激しく顔を横に振った。

「じゃあ、どうして。洋平君だったら、もてたでしょう」

「格好をつけるわけじゃないが、遊びで女性を抱きたくはないんや。せやから風俗店だって一度も言ったことがあらへん」

「それなら、わかるわ。洋平君らしいもの……」

 律子は洋平の背から顔を離し、その場を離れようとした。好きでもない自分は抱けないと言われたと誤解したのだ。

「でも……」

 洋平は律子を呼び止めた。

「でも、抱きたい。どれくらい好きかはわからんけど、律子を抱きたい」

 洋平は振り返ると、律子の腕を掴んで抱き寄せた。彼女は、洋平の胸に顔を埋め、静かに目を瞑った。

 二人は熱い抱擁を交わした。邪魔をするかのように降り掛かるシャワーの冷水も、二人の興奮の熱を冷ますことまではできなかった。






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