第9話 盆踊り

 

 そしてお盆がやってきた。

 昨年までは、滅多に会えない親戚たちが挙って帰省する上、盆踊りや花火大会、夜店などの楽しい催しもあって大変に待ち遠しいものだった。だが今年は、お盆の後に美鈴との別れが待ち受けていた。洋平は、その寂しさを想像するだけで気が滅入っていた。

 親戚たちが続々と帰って来た。

 名古屋から三男の叔父一家が、東京からは四女で末っ子の八重子が帰ってきた。洋平の睫毛を切った叔母である。最後にもう一人、親戚の中では洋平が一番待ち遠しい四男の昌造も下関から帰って来た。

 昌造は、外国航路の貨物船の機関士をしていたので、帰省する度に寄港した国々の珍しいお土産を持ち帰ってくれたし、航海中の様々なエピソードも聞かせてくれた。 昌造の話を聞く度に、洋平は勝手な妄想を膨らまし、夢の世界を広げていったものである。

 昌造は親戚の中でもとくに心が純粋で優しく、海の男には珍しく細かな気遣いができ、情に厚い人でもあった。

 洋平は親戚の中では、彼が一番好きだった。

 昌造は仕事の関係上、帰省できたのは、お盆や正月と日本に寄港するときがうまく重なったときと限られていたので、何年も帰省しないこともあれば、一年にお盆と正月の両方に帰省するなど、まちまちだった。

 この日は、美鈴の両親も帰省することになっていたので、午前の勉強を終えると、彼女は大工屋に帰って行った。

 午後、久しぶりに一人になった洋平は、身体の一部を捥ぎ取られたような喪失感に見舞われ、彼女のいなくなる現実を実感していた。


 夕方になり、地元に住んでいる洋太郎、洋一郎と里恵の兄弟、そしてウメの出所の親戚らが一同に介しての酒宴となったが、渦中のトラは、体調不良を口実に欠席した。トラが恵比寿家の催事に顔を出さぬことなど、大変に珍しいことだったが、真の理由を知る者は、洋平ただ一人だった。

 ともかく四十人を超える大人数なので、奥中の間と中の間、中の間と次の間を仕切る障子を外し、三間続きにして膳を並べることになる。洋太郎は、奥中の間の番奥、仏壇を背にしたところに座った。この宴では一番の上座である。子供たちは、台所で別に食事を取るのだが、洋平だけは例外で、親族が集まる宴会の席には必ず加わっていた。

 玄関から一番奥が洋平のいつもの席で、東の方を向いて座っていた。つまり、彼の左手に洋太郎が座っている形になった。見ようによっては、彼が一番の上座に陣取っているやも知れなかった。これもまた、洋平が恵比寿の後継者であることを無言で知らしめる洋太郎の配慮だった。

 宴会が始まって一時間ほど経った頃、玄関に来客の声がして、里恵が応対に出た。 

 当時、恵比寿家には多くの来訪者があったので、洋平は気にも懸けなかったが、座敷の向こうにその来客の姿を見たとき、つまんでいた真鯛の刺身を下に落とす粗相をするほど仰天した。

 来訪者の中に美鈴の姿があったのである。洋平の胸は喜びに躍った。

 一同が不審に思う中で、真っ先に声を掛けたのは昌造だった。

「よう、秀次。久ぶりだなあ」

 と懐かしそうな声を上げたのである。昌造と秀次は親友だったのだ。

「万太郎さん、お久ぶりです」

 続けて万太郎にも挨拶をすると、それをきっかけにして各々皆挨拶を交わし始めた。

 二間先に座っている彼女を見つめていた洋平は、微笑ましい光景につい噴出してしまった。さすがの彼女も恵比寿の一門を前にして、いかにも居心地が悪そうにしていたのである。

 皆の挨拶が一通り終わり、美鈴と彼女の両親、そして万太郎の四人を上座の方へ誘ったとき、秀次は一旦それを断り、あらためて一同に挨拶をした。

「今日は美鈴のことでお礼に伺いました。この二週間あまり、毎日娘がこちらのお屋敷にお伺いして、ご厄介になり有難うございました。本来なら、もっと早く御礼に伺わなくてはなりませんでしたが、仕事の関係で本日になり申し訳ありませんでした」

 畏まった挨拶が終わると、四人は頭を下げた。

「皆さん、早よう頭を上げてごしない。秀次さん、そげな堅苦しい挨拶はなしにしましょうや。秀次さんの代わりに万太郎さんが何度もうちにござって、礼を言っておられますけん、ねえ、お祖父さん」

 傍らにいた里恵がそう言って、視線を洋太郎に移した。

「そうじゃ、万太郎さんが何度も礼をなさっているからもうええけん。それよりこっち来て飲まい、飲まい」

 祖父は立ち上がり、いつものように万太郎に上座を譲った。

「姫さんは、総領さんの横がええな」

 誰かがそう言った。

――姫……?

 言われてみれば、洋平の目にもそのように映った。

 紺色の生地に朝顔の花の模様が入った艶やかな浴衣を着ている彼女は、とても上品で大人びていた。

 親戚の中には、美鈴と恵比寿家の関わりを知らない者も多く、彼らが互いに顔を見合わせたり、周りに仔細を問うたりしたため、怪訝に満ちたざわめきが広がっていった。

 ようやく、そのような波紋も収まり、座が落ち着き始めたときだった。

 突然、七、八人のいとこ連中が、宴席に小走りで押しかけて来た。どうやら美穂子から話を聞いて、美鈴見たさにやって来たものらしかった。

 大勢の子供たちが、慌しくしかも一斉に部屋に入って来たため、何事かと一同が注目した中でのことだった。

「洋平兄ちゃんが好きな女の子って、あの子?」

 近くの街に住んでいて、洋平が一番可愛がっている四歳年下の従弟が、美鈴を指差し、大きな声で言ってしまった。

 皆が一斉に二人の方に振り向いた。だが洋平は、不思議なくらいに平然とした心地だった。

 もちろん気恥ずかしいことに違いはなかったが、心のどこかに『それほどでもない』と感じているもう一人の自分がいた。開き直っているということでもなく、別に知られても構わないという気持ちだった。美鈴との別れが近づいている現在、この期に及んで恥ずかしがっていてどうするのだ、という意識が働いていたのかもしれない。

 洋平は、美鈴の様子を窺ったが、彼女も至って平然としていた。

「ほんとだ、がいに可愛い」

 従弟が美鈴を見てそう言うと、他のいとこたちも、綺麗だとか可愛いとか口々に言って、散々に品定めをし終えると、満足したようにさっさと引き返して行った。

「よおっ。総領さん、目が高いぞ」

 いとこたちが立ち去るや否や、早くも酔いが回っている様子の昌造が、冷やかすように言った。それを契機に皆、良い娘さんだとか、お似合いだとか、真面目ともからかいともつかぬことを口にして囃し立て酒のつまみにしたが、それでも洋平は照れくさくなかった。

 むしろ、美鈴の存在を恵比寿の親族一同に認めてもらったような、もっと言えば許婚として皆にお披露目したような、晴れ晴れしい安堵感を感じていたのだった。

 それは彼の独りよがりで勝手な思い込みだったかもしれないが、彼の目にはこの座の情景と、十年後、二十年後の将来のこの場において、彼女が自分の傍らで傅いている姿が重なりあっていたのである。

「でもな、御一同。うちの総領さんも大した男になるぞ」

 昌造が得意顔で言い出す。

「この俺でさえ、少しでも筋が通らないことをすると、こっぴどく怒られるからな。もう少し大きくなったら親父や兄貴より怖いかもしれん」

「何かあっただか」

 親戚の誰かが訊いた。

「あったどころじゃない。昨年の盆に帰ったとき、そりゃあ胆を冷やした」

 苦笑いをした昌造だが、その先を話したくてうずうずしている。

 洋平は、何の話か察しが付いたので、

「叔父さん、その話はもうええけん」

 と慌てて話の腰を折ろうとした。

 しかし親戚の者たちは、どういうことかと急き立て、さらに美鈴までが、

「私も話の続きを聞きたい」

 と言い出してしまい、止められなくなった。

 猪口の酒を一気に飲み干し、再び話し始めた昌造は、酔いも手伝ってか、至って饒舌だった。

「実はなあ。昨年の盆は日本に寄港する予定がなかったので、女房と子供は帰省していなかった。ところが、八月十四日になって船の整備のため、境港に寄港することになったので、急遽俺一人で帰省したんだ。タクシーを降りて恵比寿に帰る途中、女房の実家の綿屋さんの家が見えてなあ。女房が帰っていればどうって事なかったのだが、まさか素通りするわけにもいかないと思い、ちょっと挨拶に寄った。

 仏さんを拝んで、すぐに帰ろうと思ったら、綿屋の義父(おやじ)に『ちょっと一杯やっていけ』と勧められて、つい飲み始めてしまった。それがいけなかった。一杯が二杯になり、そのうち気が付けば二時間ぐらい経ってしまっていた。俺もすっかり出来上がってしまい、恵比寿のことなどすっかり頭から消え去っていた。

 そのときだった。お袋が血相を変えて綿屋にやって来た。そして、「昌造。早く帰らんと、二度とうちの敷居を跨げなくなるぞ』と言うんだ。

 最初、俺は事情が飲み込めず、『親父か兄貴が怒っているのか?』と訊いたら、『そうではない。怒っているのは洋平だ」とお袋は言う。

 どうして総領が怒っているのか、ますますわからないので、

『どうして、総領が怒っているのか』と訊くと、お袋は総領がこう話したと言うんだ。『お祖母ちゃん、綿屋さんに行って来て下さい。昌造叔父さんが、電話で帰ると言った時間を二時間も過ぎています。多分綿屋さんに寄って酒でも飲んでいると思います。もしそうだったら、昌造叔父さんに、こう言って下さい……。叔父さん、ちょっと筋が違ってはいませんか。叔父さんはいつから綿屋さんに婿入りをしたのですか。綿屋さんへ行くにしても、まず恵比寿の仏壇に挨拶するのが先ではないでしょうか。叔父さんは、いったい何ののためにお盆に帰って来るのでしょうか。そういう筋目もわからないようになった叔父さんなら、もううちに帰って来なくても良いので、そのまま綿屋さんに泊めて貰って下さい。そして、もう二度と恵比寿には帰って来なくても結構です。お祖父ちゃんやお父ちゃんが許しても、僕の代になったら、絶対恵比寿の家には入れません」

 とすごく怒っていたと言うんだ。

 その上、皆が食事を始めても、総領はずっと箸を付けず、俺の帰りを待っていたということも訊いて、俺はもう酔いなんか一気に醒めてしまって、急いで恵比寿に帰った。綿屋の義父も悪いことをしたと言って、一緒に謝りに来てくれた。

 恵比寿に帰り、『総領の言うとおりだ。俺が悪かった』と言うと、総領は『謝るのは、僕にではなくてご先祖様に、でしょう。まず、仏壇に線香を上げて下さい』と言うんだ。

 その後、綿屋の義父も謝ってくれて、なんとか総領の気持ちが治まったけれど、そのとき『我が甥っ子ながら、総領はとんでもない子だなあ、これは親父や兄貴より大物かもしれん』と、つくづく思ったよ。

 自身にとっては極まりが悪いはずの話を、昌造はとても自慢げに話した。

 一同は、口々に洋平を褒めたり、感心したりしたが、当の洋平は穴があれば入りたい心境だった。美鈴との仲を冷やかされるよりも居心地が悪かった。

 洋平は、自分は何と傲慢な人間だろうかと思っていた。

 たしかに筋は通っている。間違ってはいないと思う。しかし、大人に対して何という不遜なことをしたのだろうと思っていた。大仰なことをしなくても、後で叔父に言えば済むことであった。

 洋平は、自分が筋目を通す人間であることを周囲に知らしめると同時に、そのような自分自身に酔いしれていただけだったと後悔していた。結果的に、綿屋まで巻き込んで叔父の昌造に恥を掻かせてしまったことを深く反省していたのだった。

 洋平は、美鈴の感想が気になって仕方がなかった。大人から見れば、子供ながらたいしたものだということになっても、彼女には傲慢と映ったかもしれないのだ。

 洋平が顔色を窺うと、彼の心中を察したように美鈴が口を開いた。

「ちょっと偉そうにしすぎだね」

 やはりそうか、と洋平は肩を落とした。

「でも、そういうことがわからない人よりずっと好きだよ」

「本当?」

「うん」

 美鈴は優しく微笑んだ。 

 彼女のことだから気を使ったのかもしれないが、それでも洋平は、ほっと安堵の息を吐いたのだった。


 時計の針が二十時を指し、辺りはとっぷりと夜の帳に包まれていた。

 普段はひっそりとしている村中に、海岸の方から流れてくる盆踊りの口説きと太鼓の音に混じって、子供たちのはしゃぐ甲高い声が行き交っていた。

 洋平と美鈴は西の縁側に腰掛け、墓地を眺めていた。東斜面全体に鏤められた数百の灯篭に先祖の霊の迎え火が灯り、暗闇の中に妖しくも霊妙な揺らめきが浮かび上がっていた。

「ここからはお墓全体が見えて、とても綺麗。ねえ、洋平君ちのお墓ってどの辺?」

「頂上の松のすぐ右側」

 洋平の指差した先には、灯篭の灯りにまるで墓地全体を覆いつくす傘のような松の巨木がうっすらと浮かび上がっていた。

「ふーん。うちは真ん中の左側……。ねえ、洋君。どうしてお盆には灯篭に火を灯すの」

「そいは、お盆に帰ってござるご先祖様をお迎えするためだが」

「お盆って、本当に死んだ人の霊が帰って来るのかなあ」

 それはそうだ、と洋平は当たり前のように言う。

「だけん、霊魂が迷わんようにと、火を灯して明るくしちょうのだけん」

 賢しらな口調で答えた洋平を、まるで咎めるかのように、美鈴の独り言が洋平の胸を突き刺した。

「もし私が死んだら、どこに帰るのかなあ? 東京かなあ? 大阪かなあ? 私、ここに帰って来たいなあ」

 とても物悲しい響きだった。

 洋平が心臓を鷲摑みされたような痛みを覚えたほどだった。言葉を失った彼が、無言のまま横を向くと、遠くを見つめる美鈴の目が潤んでいるように見えた。

 何という悲しい表情なのだろうか。

 洋平は、これほど憂いを帯びた美鈴を見たのは初めてだった。

 いったい何が、彼女を追い詰めているというのか。

 洋平は美鈴に触れたかった。彼女の手を握り、あるいは肩を抱いて己の温もりで少しでも彼女が抱く不安と憂いを取り除いてやりたかった。          

 だがこのとき、洋平は手を伸ばせば容易に触れることができる近さにいながら、決して渡ることのできない大河の流れのような、二人の心を隔てる絶望的な何者かの存在を意識した。

 洋平は、胸の奥で得体の知れない不安が広がっていくのがわかった。

「なーんてね。どお? お芝居上手でしょう」

 凝っと見つめていた洋平に向かって、美鈴はお茶目に言った。先刻の表情は跡形もなく消え去り、いつもの彼女に戻っていた。

――今のは芝居なのか?

 洋平の頭は混乱を極めた。何が芝居で、何が真実なのかわからなくなっていた。


「何が始まるの?」

 美鈴の声で、宴席の方がなにやら騒がしくなっているのに気づいた。

「里恵義姉さん、まな板とすり棒をもって来て下さい」

 昌造が里恵に頼んでいた。

 洋太郎と万太郎の二人を残し、皆立ち上がって座敷に移動し、南北の座敷を隔てる襖を取り外していた。

「総領と美鈴ちゃんもこっちに来て踊りなさい」

 昌造が二人を呼んだ。どうやら、盆踊りへ繰り出す前に、ひとまず稽古をしようということになったらしい。

 昌造は、里恵から手渡されたまな板とすり棒を、太鼓とバチに見立ててリズムを取り始めていた。

「節はどげするの」

 洋平の懸念に、

「叔父さんが、口説いてみせるよ」

 と、昌造は自信満々に答えた。

 洋平は、いつも場を盛り上げようと、率先して音頭を取る叔父のこういうところが大好きだった。

「半分ぐらいまでしか憶えていないけど、まあそれで何とかなるだろう」

「ああ。半分も口説ければ、上等、上等。そいを繰り返せばええがな」

 誰もが口々にそう言った。地元に住んでいる者でも、半分も憶えている者は少なかった。

 盆踊りの節は四十九番まであった。

 四十九番といっても、一番一番の節は短く、それが踊りの動作のひと括りになっていた。節の間に二度の合いの手が入り、二度目の合いの手で踊りの最初の姿勢に戻った。

 昌造は、海岸から聞こえてくる太鼓の音に合わせて、まな板を叩きリズムを取りながら口説き始めた。大人も子供も一緒になって、昌造を中心に楕円を作って周回した。

 村に住む親戚の人々は誰もが上手に踊れたが、外から帰省して来た人たちは初めてだったり、忘れてしまったりしていて、教わりながらあるいは他の者の踊る様を見て、思い出しながら踊った。

 美鈴は、洋平のすぐ後ろを付いて来ていた。

 彼女は、これまで盆踊りを見たことすらほとんどなく、ましてや実際に踊ったことなど一度もなかったので、洋平の動作を見ながら、少しずつ覚えようとしていた。

 たまに、まるっきり動作を間違えると、おどけた仕種をしながら、ケラケラと声を出して笑った。その笑い声が周りの笑いを誘い、広い屋敷の中は和みの声で満ち溢れていった。

 途中で、昌造が洋平に目配せをした。彼の意図を見抜いた洋平は、踊りの輪から外れ、叔父の元に寄り、まな板とすり棒を受け取った。

 昌造は口説きながら踊っていた。そのうち一人、また一人と一緒に口説く者が増えてゆき、合いの手は全員で声を上げた。

 単純な振り付けなので、美鈴もすぐに覚えたようだった。洋平はリズムを取りながら、皆が笑顔を溢し、楽しく賑やかに踊っているこの情景の一つ一つをかけがえのないものとして、脳裏に焼き付けていた。

 ひとしきり踊った後、洋平は再び昌造と役目を代わり、美鈴と縁側で休んだ。すると、いとこたちも踊りの輪から外れてやって来て、二人の手を引いた。庭で花火をし

ようというのだ。どうやら、美鈴と触れ合う機会を窺っていたらしい。

 洋平は、彼らの輪には入らず、少し離れた庭石に腰掛けて眺めていた。彼は、家でする花火はあまり好きではなかった。花火を終えた後の、そこはかとない虚しさに、胸を締め付けられるからだ。とくに線香花火は、火花と人のはかない命が重なり合い、ついものの哀れに思いを馳せてしまうのだった。

 持ち前の人見知りをしない明るい性格が幸いし、美鈴がいとこたちと馴染むまでに、それほどの時間を要しなかった。まるで本当の親戚のように戯れていた。洋平は、火の粉に映し出される彼女の顔をじっと見つめ、このまま時間が止まって欲しいと強く願った。

 洋平は彼女と出会う前から、自分の生涯の中で、小学生までが一番幸福なときであろうと思っていた。

 ただでさえ、大人になれば人は誰でも何がしかの責任というものを背負わなくてはならない。ましてや、自分は恵比寿家の総領である。この界隈で一番の旧家の跡取りなのだ。

 家格だけではない。

 この村の半数以上の家が恵比寿家の事業に携わっている現実を見れば、近い将来彼らの生活の浮沈は自分の双肩に掛かると言っても過言ではないのだ。そうであればこそ、この先周囲が寄せる期待は日に日に過剰なものになり、つれて見る目は厳しさを増してゆくことが火を見るより明らかだった。

 言葉を改めれば、洋平は生まれながらにして、絶えず己の真価を世間から問われ続けるという、過酷な宿命を背負っているということである。

 洋平の腹の底には『それに良く応えることができるだろうか』という不安が、絶えず澱のように横たわっていたのである。

 だからこそ、少なくとも家族の期待に対して言えば、完璧なまでに応えている今こそが、最も安んじて幸福感を満喫できるときであり、己の人生において、おそらく二度とこのような心の安穏は訪れないと、洋平は直感していたのだった。

 しかも美鈴との初恋の真っ直中にいたことを加味すれば、

――数十年後の未来から振り返ったとき、きっと最も輝きに満ちた時を生きていたと懐かしむことだろう。

 と、思い詰めていたとしても無理のないことであろう。


 花火を終えたいとこたちは、家の中に戻って行った。洋平と美鈴は庭に残り、直径が二メートルもある半球の庭石に凭れて夜空を見上げた。

 片田舎の明澄な夜空には、狭い空間に放り投げられたビー玉のような無数の星々

が競うように潤んでいた。

「ねえ、洋君、宇宙ってどうなってるの」

 美鈴は洋平の心を見通しているかのように訊ねた。

「ちょうど、おらも鈴ちゃんと同じことを考えてただ」

「洋君は、天体観測をしているのでしょう?」

 洋平は、天体の授業を受けたのを契機に、天体望遠鏡を買ってもらい、家で星を観測していた。宇宙に関する本も数冊購入し、多少なりとも学習はしていた。

 だが洋平は、

「地球は太陽系だろう。太陽系は銀河系の中にあって、銀河系の中に地球のような星は何十万もあるというし、その銀河系のような星雲は無数にあるし……いったい宇宙の果てはどげんになっちょうかな」

 とありきたりのことしか言えなかった。しかも、途中から美鈴が求めているものは、決してこのような乾いた答えではないことに気づいていた。

 彼女が、少しも反応を示さなかったことが、それを如実に証明していた。

 洋平は、ばつの悪さを隠すため、校庭で天体観測をしたときに、先生から聞いた話を口にした。

「鈴ちゃん、プレアデスって知っちょう?」

 東の夜空に、星座を探しながら訊ねた。

「プレアデス? 知らない。それ、なに」

「日本語では昴(すばる)っていう星団だが」

「昴なら聞いたことがあるけど、よくわからない。どの星なの」

 洋平は、美鈴がプレアデスを知らないことに、ほっとした。

「あれだが」

 洋平は、南東の空を指差した。そして、美鈴が指差す方向に視線を向けたのを見て、言葉を継いだ。

「ほら、あそこに、大きくて少し赤く光る星が一つあるけど、わかる」

「たくさん星があって、よくわからない。どれ?」

 美鈴が、洋平の指差す方向に視線を合わせようとして顔を近づけため、頭がぶつかってしまったが、彼女は構わず頭を押し付けてきた。彼女の息遣いが耳に届いていた。

「ローマ字のVが横を向いているようなのがわからんかな」

「Vが横を向いてるの?」

 美鈴がさらに顔を傾けたため、今度は頬と頬が触れてしまった。夜とは言え、庭は燈篭の薄明かりの中にあった。誰かに見られているのではないか、と心穏やかではない洋平を他所に、美鈴は全く意に介することなく夢中で星を探していた。

「あっ、Vが横を向いている星たちって、あれがそうなのかな?」

 美鈴はそれらしき星を見つけると、顔を元に戻した。洋平は、ほっとした反面、彼女の頬の温もりが名残惜しく思った。

「そう、それ。そこから少し真上に、小さい星が六つ固まっているのがわかる」

「小さい星が六つ? あれかな? いち、に、さん、し……。四つしかないけど、あと二つは……。あれとあれかな? 洋君、あれでいいの」

 美鈴は、目当ての星を見つけたらしい。

「うん、そう。それだが。鈴ちゃん、それがプレアデス星団だが」

「ふーん。さすがに洋君、よく知っているね。やっぱり勉強しているんだ」

 素直に感心した美鈴に、気が咎めながらも、洋平は本題の神話へと話を進めた。

「鈴ちゃん、プレアデスは、目に見えるのは六つなんだけんど、ギリシャ神話では、星は七つなんだが」

「えっ、どういうこと?」

「プレアデスはね、七人姉妹を現しているんだが。だけん、元々は七つの星が光っていたんだけんど、あるときから、一つ減ってしまったのだが」 

「どうして一つ減ったの」

「それがね、二つの説があって、一つは七人姉妹のうちの一人の娘が、ギリシャの都市が滅びるところを見ていられなくて、髪を靡かせたホウキ星になったという説と、もう一つは同じ娘なんだけど、彼女が人間に恋をしてしまい、地球にやって来たからという説だが。おらは、後の方だと思っちょうけんど……」

「へえー。すごく素敵な話だね。洋君って、案外ロマンチストなんだ」

 洋平には当てが外れた反応だった。言葉とは裏腹に、彼女の声は沈んでいたのである。

 美鈴は、しばらく黙考した後、

「でも……」

 と口を濁した。

「でも、なに?」

「でも、相手は人間でしょう? その人が死んだ後、どうしたのかな」

 洋平は唇を噛んだ。

――ああ、そういうことか……。

 そこまでは知らなかった。

「うーん、それは知らんけんど、星が七つじゃないということは、プレアデスには戻らんかったということかなあ。もしかすると、この空のどこかで二人仲良く星になっちょうのかもしれんね」

 咄嗟の思い付きにしては気の利いた答えだと思ったが、美鈴はそれの先には触れなかった。

「でも不思議だね。今こうやって輝きを放っている星も、実際にはもうすでに無くなってしまっているかもしれないんでしょう」

 と話題を変えた。

「光の中にはこの地球に届くまでに、何千万光年、何億光年も掛かるものもあるけん、星の寿命を考えると、そげなこともあるよね」

「それって、死んでからも人の記憶に残ることと同じだよね」

 美鈴が呟くように言う。

「――そげ、かな」

 洋平は、その悲し気な響きに間の抜けた返事しかできなかった。

 美鈴は、時々このような物言いをした。宗教的な影響を受けている様子でもなかったが、観念的なことを言って洋平を戸惑わせた。


 わっはっは……、という笑い声に、家の中の様子を窺うと、すでに踊りの稽古は終わり、皆はまた酒を飲んで騒いでいた。男たちはしきりに何かを論じ、女衆は酌をしながら興奮する者を宥め、子供たちは広い屋敷の中でかくれんぼをして遊んでいる。その賑やかな光景が、なぜか洋平の目には物悲しく映っていた。

 そのときだった。突然美鈴が、洋平の肩を二、三度叩きながら叫んだ。

「あっ、蛍。洋君、池に蛍がいるよ」

 美鈴の声に池に目をやると、池の淵に植えてある水仙の葉の上で、夜空より零れ落ちた迷い星のように一匹の蛍が明滅していた。屋敷に一番近いところでは、北西に広がる水田の横を流れる小川に蛍を見ることができた。

 今宵、夏の夜風に乗って一匹だけ逃避行をして来たのだろうか、と不思議に思っていると、

「洋君、捕まえて」

 と、洋平にすれば突拍子もないことを言い出した。

 普段であれば彼女の願いを叶えてやるのだが、お盆にそれはできない相談だった。

 洋平は、美鈴をやさしく諭した。

「鈴ちゃん、お盆に虫を捕まえちゃいけんだ。お盆には亡くなった人の霊が乗り移って戻ってござあけん。あの蛍もきっとそげだけん」

「そうなんだ。誰でも帰って来れるの」

「誰でも……、だと思う」

「好きなところに?」

「たぶん、そげじゃないかなう」

 美鈴の核心を突く問いに、洋平は曖昧な返事しかできない。

「ふうーん。そうなんだ。だったら……」

 そう言ったきり美鈴は口を噤んだ。

 洋平には後に続く言葉が想像できた。先刻の灯篭を見たときの彼女の言葉を思い出したからだ。

『だったら……私が死んだら蛍になって洋君ちに戻って来よう』

 洋平は、なんと皮肉なことだろうかと思った。

 彼女の問いには明確な返事ができないのに、このことは確信が持てたのだ。

 その悲しい言葉を美鈴の口から聞かなかったことだけが、洋平にとってせめてもの救いだった。


 二十二時を過ぎる頃、海岸に押し出そうということになった。

 盆踊りは十三、十四、十五日の三日間行われた。十三日と十四日は二十時、最終日の十五日は花火大会の後に始まることになっている。いずれも午前零時が終了時刻になっていたが、そのようになった試しはなかった。

 男衆は、皆どこかの家に集まって酒盛りをしており、踊りに繰り出すのは遅くなってからだ。それまでは女衆と子供が踊る時間帯だった。二十二時頃になって、ようやく酔いの回った男衆が踊り始めるので、零時に終わるはずもなかったのである。 

 踊り手が大勢残っていれば、深夜一時、二時は当たり前で、場合によっては東の空が白み始める頃まで踊る場合もあった。

 海岸に出てみると、すでに大勢の人だかりができていて、踊りの輪は三重にもなっていた。海岸通りに並んだ夜店の前には、色とりどりの浴衣を着た子供たちが、眠気も忘れて金魚すくいやら、的当てやらの遊興に没頭し、年にわずかな機会しか許されない夜遊びを満喫していた。

 洋平たちは、さっそく踊りの輪の中に入っていった。

 美鈴は洋平のすぐ後ろで、愛嬌を振りまきながら踊っていた。その無邪気にはしゃぐ彼女を見て、庭で想像した言葉は思い過ごしだったのだろうか、と惑う洋平だった。





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