第8話 夏夜
親戚の者たちが早々に席を立ったため、精進落としの酒宴はさながら同窓会の様相を呈していた。
洋平は皆の顔を一人一人見渡し、つくづく彼らとは利害関係がなくて良いと微笑んだ。高校や大学の同窓会だと、懐かしさよりも職業や肩書きの方が気になるものだ。名刺交換をすれば、優越感と劣等感が去来し、ときには翌日の営業電話にうんざりさせられたりもする。
だが目の前の彼らは、昔話に花を咲かせるだけで、お互いの現況を深く探ったりはしない。一応尋ねたりもするが、おざなりなことは明白である。きっと、明日になれば忘れているだろう。
この場だけは、社長も従業員も大工も漁師も肩書きなど一切関係がない。独身だろうと離婚者であろうと、子供があろうがなかろうが全くの同等なのである。
その彼らも、時間の経過と共に一人抜け二人去りして、二十二時頃ともなると、残ったのは洋平と律子の他数名となっていた。
「台風も近づいちょうけん、そろそろ今夜はお開きにしょいや」
善波修吾がそう言うと、
「そうね。明日の夜の精霊舟流しもあることだしね」
それに律子が同調したが、
「ちょっと、待てや。仏さんを一人にするのか」
と、洋平は不服そう異議を唱えた。
「そが言ったって、家族が居らんけん、仕方ないがな」
修吾が口を尖らした。洋平に怒られたような気がしたのだろう。
「せやけど、仏さんが寂しいがらんかな……」
尚も洋平が食い下がると、
「洋平君。お通夜と違って、一晩中仏さんのお供をしなくても良いのよ」
と、律子が諌めた。
「そうか」
洋平は勘違いに気づいた。通夜は線香が切れないようにと、誰かが一晩中遺体に付き添うものだが、初盆はそうではなかった。
「でも、もう少し残るよ。俺はお通夜にも葬式にも出とらんしな。今晩ぐらい隆夫の傍に居らんとな」
洋平は、美穂子に朝まで共をすると言って家を出ていた。
「そげしちゃれ。隆夫も喜ぶがな」
修吾は機嫌を直したように言いながら、家の鍵を洋平に渡した。
皆が帰ると、洋平は戸締りを始めた。先ほどまで届いていた松虫の鳴き声が、風の音に掻き消されていた。予報どおり台風が接近しているらしかった。
一人きりになった洋平は線香を継ぎ足しながら、隆夫の遺影をまじまじと見つめた。
隆夫が怪我をしたという連絡が入ったのは当日の昼前だった。
巣潜りをしていて、誤って岩場で足の裏を切り、山に分け入るのは無理だというのだ。隆夫が同行できないのであれば、蛍狩りは取り止めとせざるを得なかった。
美鈴は痛々しいほど憔悴していた。
洋平が二人だけで蛍狩りに行く決意を固めたのは、まさにその姿を目の当たりにしたときだった。
美鈴が今年の蛍狩りに拘る真の理由は何か――。
絶えず心に纏わり付いている、漠然とした不安を一掃するには他に方法がないと覚悟を決めたのだった。
お盆の夜ならば、休漁であるから誰かの同行は可能かもしれないが、洋平がそうした考えを抱くことは全くなかった。二人だけで蛍狩りをすることに意義があると思い込んでいたのである。
実は、こういう事態を予測していた訳ではなかったが、洋平は万が一、隆夫が裏切ったときのために、ある一つの計画を練っていた。ただそれは、十二歳の自分たちにとって、あまりに無謀とも言える計画だったので、心の片隅に追い遣っていた。
洋平はうな垂れている美鈴の気持ちを探った。
「鈴ちゃん、どうしても蛍を観に行きたいだか?」
「どうしても行きたい」
顔を上げた彼女の表情から、切実な想いがひしひしと伝わってきた。
「たとえ、どんなことがあっても行きたいだか?」
「行きたい!」
美鈴は洋平の謎掛けにも、瞬きをする間もなくきっぱりと答えた。その表情には、彼女の意思の強さが現れていた。
「そんなら、おらに一つ考えがあるのだけんど……」
「どんな?」
美鈴は期待の滲んだ表情で訊いた。
洋平は声を落として秘めた計画を話し始めた。
それは、
二人だけで蛍狩りをする。
決行日は花火大会がある十五日とする。
まず、前もって着替えを納屋に用意しておき、二十時前に花火を観に行くと言って家を出る。
門を出たら、海岸の方ではなく、反対の方向から屋敷の裏手に回り、裏門から中に入って納屋で着替える。
懐中電灯や軍手、タオルも事前に用意して置く。
裏門の鍵は、夕方地主さんにお参りするときに開けておけば、誰も不自然には思わない。
時間が掛からないように、自転車を用意して置く。
蛍を見たら、すぐに帰って来て再び納屋で浴衣に着替える。
というものだった。
「鈴ちゃん。十五日の朝までに、この前笹竹を切りに行ったときの服を、うちに持って来ることができるだか?」
「うん、持って来る」
声に張りが戻っていた。美鈴は一縷の望みを見出せた嬉しさで、精気が甦っていた。
冷静に考えれば、実に稚拙な計画ではあったが、思わぬ副産物も生み出すことになった。
『雨降って地固まる』ではないが、二人を落胆させた隆夫の怪我は、一転して秘密の冒険計画を共有しているという、愛しい感情とは異なる、ある種同志のような一体感を生む転機となったである。
このときから、二人は来るべき未知の冒険に向けて、日を追う毎に精神的な繋がりを深めていったのだった。
ただ当の洋平は、この計画が不完全なものだとわかっていた。
彼は自転車を持ち合わせていなかった。事情があり、中学に上がるまで自転車は与えてもらえないことになっていたのだ。
これは意外と難題だった。墓地の裾野を歩かなければならないし、よけいな時間を費やすことによって、冒険から帰った後の、厄介な状況も覚悟しなければならない。
「私も洋君に話があるんだけど……」
思案に耽っている洋平を窺うようにして、美鈴が話を切り出した。
「なに?」
「あのね。お盆までに洋君ちにお泊りしたいんだけど、だめかな?」
洋平の顔が、ぱあっと明るくなった。
「それ、ええね。うちは大工屋さんがええと言わさったら、たぶん大丈夫だと思う」
美鈴の言動にすっかり慣れた洋平は、こういった提案にも驚かなくなっていた。むしろ、彼女の恵比寿家への溶け込みようからすれば、至極自然なことのように思えた。
「お祖父ちゃんは、恵比寿さんが良ければいいよ、って言ってくれた」
「そんなら、お母ちゃんに訊いてみるけん」
洋平は自転車のことなどすっかり放念し、喜び勇んで里恵に願い出た。
ところが、里恵の表情は芳しくなかった。
うーん……と険しい顔をしたのだ。
「お母ちゃん、どうかした」
「まずはお祖父さんの許しを貰わんといけんけど、洋平、ちいと難しいかもしれんよ」
「えっ、なんで」
思い掛けない里恵の言葉に、洋平は呆然とした。彼は、密かに難問が持ち上がっていたことを知らなかった。
不安の種を抱えながら、洋平は足早に書斎へ行き、祖父の許しを得ようとしたが、里恵の言ったとおり、洋太郎は渋い顔になった。
「洋平、それは無理だが。そいに、家の中はええが、美鈴ちゃんと外に出掛けたららいけん」
「お祖父ちゃん、なんでだかい」
洋平は、祖父の心変わりが納得できなかった。
「わいたちの噂が村中に広がっちょうだが」
「だいてが、裕子叔母さんには、おらの好きにさせると言わっしゃったがの」
洋平は洋太郎を問い質した。彼が、絶対者である祖父に楯突くなど考えられないことだった。
「ああ、たしかに裕子にはそげ言った」
「そげなら、なんでだかい」
「そいがな、洋平。噂がトラ姉さんの耳に入ってしまっただが」
「ええー。船屋のおばさんに……」
洋平は絶句した。
「でも、なんで……」
呻くように訊ねるが精一杯だった。
「わからんが、どうやら、誰かがトラ姉さんに告げ口したみたいだがな。今朝、わしに釘を刺す電話があったばかりだが」
まさに晴天の霹靂だった。
――くそー、よけいなことしやがって。いったい誰だ。
洋平は、姿を見せぬ敵に苛立ちを覚えた。
洋平は『おばさん』と呼んだが、祖父洋太郎の実姉なので、実際は大伯母に当たる。洋太郎より十歳年上で、権力者の祖父が唯一頭の上がらない存在だった。
洋太郎は次男だったが、女の子が三人続いた後、ようやく誕生した長男が夭折してしまったため、その後すぐに生まれた彼は、家族からよけいに愛情を注がれた。
とくに、長女であり十歳も年嵩のトラの可愛がりようは尋常でなく、物心が付く頃からは、それこそ母親代わりとなって養育したと言っても過言ではなかった。
洋太郎が経営者として成功し、没落していた恵比寿家の再興を果たすことができたのも、トラの薫陶が下地になっていたことは間違いなかった。
トラは男尊女卑の風潮が残る時代にあって、男も舌を巻くほどの進取の精神の持ち主で、当時では珍しいほど学問に精進した才女だった。彼女は、家庭教師代わりとなって、己の持てる教養を洋太郎に授け、まるで洗脳するかのように恵比寿家再興を耳に吹き込んだ。
洋平は大伯母のトラが大嫌いだった。
お盆や正月、あるいは法事のときなど、たまに恵比寿にやって来ては、ウメや里恵にあれこれと指図をし、それこそ主のように振舞っていたからである。彼の絶対者であり、敬愛する洋太郎に対してまでも、同じ態度を取っていたため、自尊心を深く傷つけられた彼はトラを忌々しく思っていた。
そのトラが自分の恋にまで口を挟んできた。今年のお盆も、間違いなくやって来る。それまでに、何らかの決着を付けなければ、宿泊どころか蛍狩りや盆踊りも危うくなる。
洋平にとっては、看過できない難敵の登場だった。
洋平が大伯母トラとの対決を決意するまで、多くの時間を要しなかった。理解者である洋太郎と里恵も当てならない以上、彼には直談判するより他に手立てがなかったのである。
トラは、美保浦から大きな峠を越えて南に下り、そこから東へ五キロ行き、再び大きな峠を越えて北に上がった『片田(かただ)』という、美保浦に匹敵する村の『船屋』に嫁いでいた。船屋は、その名のとおり船の建造や修理をするドックを生業としていて、漁業で成り立っているこの界隈の分限者だった。
恵比寿水産がこれといった支障もなく順調に発展していったのも、トラが当時船屋の当主だった夫、つまり洋太郎の義兄を通じて、各方面に根回しをしていたことも大きな要因となっていた。祖父洋太郎が彼女に頭が上がらないのは、この辺りにも原因があるのだろうと洋平は推察していた。
さて、思案すべきはどうやって片田へ行くかであった。
路線バスはあったが、直通は無く、乗換えを含めると片道二時間も掛かったうえに、洋平は一度もこの方面のバスへ乗ったことがなかった。しかも、一人でバスに乗っていれば、不審を抱いた誰かがよけいな気を回して、恵比寿家に連絡をするかもしれない。
洋平は、自分の思惑を前もってトラに知られたくなかった。彼女は、まさか従順だった自分が直談判に訪れるとは夢にも思っていないだろう。彼は、トラの虚を付きたいと思っていたのである。
洋平は、海岸線沿いの山道を歩いて行くことにした。四キロ足らずの距離なので、一時間ほどで辿り着くことができる近道である。
しかも、洋平はその道を良く知っていた。片田へ行く途中に、アケビや栗の穴場が数多くあったので、毎年秋になると、頻繁にそれらを採りに行っていたからである。
ただ、いくつか問題もあった。栗取りは、いつも友人や下級生ら七、八人と連れ立っており、一人きりで歩いたことは一度もないということ。そして最大の難所、別名『蝮沢(まむしざわ)』と呼ばれる、蝮が繁殖する沢を通らなければならないということだった。
洋平の耳には、沢には蝮がうようよしているという噂も入っていたため、これまでに渡ったことは一度もない。沢の先にアケビや栗の穴場があっても、決して近づいたことはなかったのである。
だが、洋平の決意は揺るがなかった。
トラとの直談判が避けられないように、蝮沢の踏破も越えなければならない試練だと腹を据えたのである。
翌日、午前の勉強を済ませると、洋平は美鈴に理由を話して大工屋へ帰し、釣り道具を手にして片田へと向かった。片田は小瀬へ行く道筋の先にあったので、釣り道具を手にしていても、誰も疑うことがないし、蝮沢の備えとして長靴も履けると計算したうえでのことだった。
熟知した道とはいえ、山道の一人歩きは、結構勇気がいるものである。
片田までのほとんどの道幅が、人一人が通れるほどの狭さで、しかも小瀬を過ぎた辺りからは、至る所でそれをも塞ぐように雑草が生い茂っており、場所によっては足元どころか、前方が全く見えないところもあった。おまけに、木々の密集しているところは灼熱の日差しをもすっかり閉ざし、夕闇のように薄暗くて気味が悪い。
洋平が足元に注意しながら、緩い坂を下っていくと、ふいに水の音が聞えてきた。
――蝮沢だ。
洋平の背筋に緊張が奔った。そして、いよいよ蝮沢かと思った途端、とぐろを巻く夥しい数の蝮が脳裏に浮かび、足が竦んで動けなくなった。立ち止まっていれば、よけいに危ないとわかっていても、まるで金縛りにあったように一歩が踏み出せない。
――このまま引き返そうか。
と弱気が心を覆い始める。前にも踏み出せず、後ろにも引けず、洋平が逡巡していると、前方で、ガサッという音がした。
その刹那、洋平は踵を返していた。
――情けない、情けない……。
と唇を噛み締めながら、早足で戻って行った。
小さな峠を越えると、美保浦の景色に戻った。視線の先には、小瀬が見えていた。見慣れた風景なのに、なぜか懐かしさを覚えた洋平の瞼に、ふいに美鈴の笑顔が浮かんだ。彼女のはしゃぐ声も聞えたような気がした。
――よし、もう一度挑戦しよう。
洋平は、身体に力が漲ってくるのを感じた。
洋平は、再び片田へ向け力強く歩みを進めた。また水の音がしたが、今度は怯まなかった。それこそ、呼吸も忘れるほど無我夢中で蝮沢を走って渡った。蝮がいたかどうかもわからないほど、一目散に走り切った。
蝮沢が背に遠くなると、どっと疲れが襲ってきた。だが、道のりはまだ半ばである。洋平は立ち止まって、二、三度深呼吸をして息を整えると、片田へと歩き出した。
時計を持っていなかったので、たしかな時間はわからなかった。ただ、歩いた距離の感覚で、本能的に片田が近いことを肌に感じていると、峠の頂上に立ったところで、急に視界が広がり、紺碧の海が目に飛び込んで来た。
――片田の海だ。
これまで一度も見たことはなかったが、洋平はそう確信した。
片田の海の表情は、美保浦のそれとは違っていた。東向きの美保浦湾と違い、北向きの片田湾は、波の向きに加えて光の当る海面の反射角が違うからなのだろう。
村人に場所を訊き、どうにか船屋に着いた。さすがに、この界隈有数の分限者だけのことはあって、恵比寿家に勝るとも劣らないほどの立派な屋敷だった。
洋平は深呼吸を一つすると、眦を決して門を潜った。
「こんにちは」
洋平は玄関先に立ち、宣戦布告のように、ことさら大きな声を上げた。
「どちらさんですかいの?」
この家のおばさんらしき中年の女性が出て来て、小首を傾げながら訊いた。
「野田洋平です」
「野田……洋平?」
「恵比寿の野田洋平です」
「あれま……恵比寿の総領さん。これはこれは、ずいぶんと大きくなられましたなあ。すっかり見違えてしまったがの」
洋平だとわかると、女性は懐かしげな眼差しで、まじまじと彼を見つめた。
「一人ですかい?」
「はい」
「バスで来なさったか?」
「いえ。山道を通って来ました」
「あれ、まあ。それは大儀なことでしたなあ。そいで、今日はまた何の御用ですかいの?」
「ちょっと、トラ大伯母(おば)さんに用事が有ってやって来ました。大伯母さんは居られますか」
「ええ。自分の部屋で休んで居りますけん、呼んで来ますだが、まあ中に入ってごしない、冷たいもんでも用意しますけん」
女性は洋平を応接間に通すと、トラを呼びに屋敷の奥に消えて行った。
やや間があって、トラが姿を現した。トラは、すでに七十歳を超えていたが、顔の色艶も良く、腰も曲がっておらず、歩く動作も矍鑠としていた。あの祖父が一目置くだけのことはあって、洋平はその威風に圧倒されそうになった。
「洋平。突然やって来て、おらになんの用じゃ?」
トラは訝しげに訊いた。
トラに気付かれなかった……。思惑通りだったが、反面自分にとっての重大事を少しも気にも掛けていないことに、洋平は腹立たしくなった。
――こんな軽い気持ちで、二人の間に介入されたくない。
洋平の口調が自然と強くなった。
「大伯母さんには、おらの事は放っておいて欲しいだが」
「なにい。わいは何を言っちょうだ」
と言い掛けて、
「そげんことか」
トラは来訪の用件に気付いた。
「洋平。そいはならんぞ」
低い声で諭すように言った。
「なんでだかい」
「軽率なことをして、恵比寿の家に傷を付けたらいけんがな」
「傷って、どげなことだかい。わいは、トラ大伯母さんに文句を言われるようなことは何もしちょらんが」
「わいはそげ思っちょっても、世間というのは、そげに簡単なものではないだが、わいの知らんところで、色々と噂をするもんだが」
「だいてが、お祖父ちゃんはええって言わさった」
「洋太郎はわいには甘いけん、なんでもいうことを聞くだが。だいてが、おらはそういう訳にはいかん」
洋平はその言い様が気に入らなかった。
「トラ大伯母さんは、もう恵比寿の人間じゃないだが」
「な、なにを言うだか、この子は。わいは、いつからそげな生意気な口を利くようになっただか」
怒気を含んだ声だった。だが、洋平は臆しなかった。
「いつからって。本当のことだが。大伯母さんは、とっくに『野田』ではないだが」
「まだ、言うか! これ以上生意気な口を利いたら承知せんぞ」
その言葉に心の奥の何かが切れた。
洋平は、
「承知せん? それはおらの台詞だが。大伯母さんがこれ以上、おらたちのことに介入してくるつもりなら、おらにも考えがあるけん!」
と言葉を荒げた。
トラは、初めて見る洋平の形相に、驚きを通り越したようで、口を半開きにしたまま見つめていたが、やがて我を取り直すと、
「わいの考えとはなんだか?」
と静かな口調で洋平の腹を探った。
「おらは恵比寿のなんだかい?」
「そりゃあ、総領に決まちょうがな」
「ということは、いずれおらが恵比寿を継ぐちゅうことだの」
「当たり前だがな。だけん、おらも心配しちょうだが」
「そんなら、大伯母さん。おらが当主になれば、恵比寿はどうにでもできるっちゅうことだの」
そう言って、洋平は不適な笑みを浮かべた。
「わ、わいは、いったいなにをする気だ」
漠然と洋平の悪意に気付いたウメは、鋭い目つきで睨み付けた。
「なにを……って、いま大伯母さんの頭に浮かんだことだが」
「わ、わいは、わざと恵比寿を潰す気か」
トラの脳裏に、少女の頃、恵比寿の身代を傾かせた祖父の記憶が過ぎった。洋平にとっては高祖父に当たる。
「なるほど、それもええな。大伯母さんは、わいよりも恵比寿の方が大事らしいけん、その恵比寿を潰すのもえかもしれん」
洋平は、極めて冷めた目で言った。
「それもええ? なら、そげではないのか」
さすがのトラも、洋平の真意は見抜けなかったようだった。
「おらも、恵比寿は大事だけん。そげんことはせん。むしろ、松江高校から東京大学へ入って、うんと勉強して恵比寿をもっと大きくしちゃる」
「それなら、わいはいったいなにを……」
と言い掛けたトラの紅潮した面が、一瞬にして青ざめた。
「まさか。まさか、わいは……」
「大伯母さんが、おらの大事なものを踏みにじる気なら、おらも大伯母さんの大事なものを壊しちゃる。手始めに、恵比寿の船の建造や修理は、他所に頼むことにするけん」
「な、なんてことを言うだ」
思わずトラが身体を震わせる。
「そのときは、大伯母さんはこの世にいないけんど、あの世から見ちょらさい」
洋平は捨て台詞のように言うと、
「そげんこと、そげんこと……」
うわ言のように繰り返すトラに止めを刺した。
「おらは本気だけん。それが嫌だったら、恵比寿は美穂姉ちゃんに継がせるよう、お祖父ちゃんに言ったらええ。けんど、それはそれで恵比寿は世間の笑い者になるけんね」
たしかに学力優秀な嫡男を差し置いて、凡夫な姉に婿を迎えて跡継ぎに据えることなど、世間の目には狂気の沙汰と映るだろう。
「うっ……」
トラの顔面から生気が失せていった。
洋平が学力優秀なのはトラも知っていた。神童とまでは言わないまでも、俊童であることには間違いがなかった。言葉の通り、東京大学に進学し、経済と経営学を学び、必ずや恵比寿水産を成長させることだろう。
しかし、トラの憂いは他にあった。
トラは嘯くように言った洋平の眼底に、怪しげな妖火を見ていたのである。
――この子の心には狂気が宿っている。子供だと侮ってはいけない。
返す言葉がないトラは、苦渋に頬を鈍く歪めるしかなかった。
美鈴に向けた言葉の刃もそうだが、一旦心の箍が外れた洋平は人が変わったように狂気が顔を覗かせ、すこぶる悪知恵が働いた。
バスに乗って帰宅した洋平は、さっそく洋太郎に呼ばれた。
洋太郎は何か不思議なものを見るかのような目で見つめると、トラからこれまでどおり美鈴との交際を認めるとの連絡あったと告げただけで、洋平がどのような談判をしたかなど一切訊かなかった。
八年後、二十歳になった洋平が、突如として恵比寿家の後継の座を放棄したため、姉の美穂子が継ぐことになる。言うまでもなく、今回の件とは全く無関係だったのだが、この面談がトラウマになっていたのか、トラはしきりにその理由を洋太郎に訊ねたという。
美鈴が恵比寿家に泊まったのは、お盆で大勢の親戚が帰省する前の十一日だった。
彼女は、蛍狩り用の服をこの日の荷物に忍び込ませていた。
夕方、二人は『地主さん』にお参りすると称して、納屋に着替えを持ち込んだ。
恵比寿家には、民家にしては立派な祠があった。尼子の重臣の遺骨を敷地の北西の角にお祭りし、『地主さん』と称して深く信心していた。洋平は物心が付いた頃から、この地主さんこそが、彼の守護霊様だと教えられて育っていた。
すでに、西の空に太陽の姿は無かった。
夏は、太陽がその姿を全て隠しても、残光はしばらく辺りを照らし続けている。
洋平はこの時間帯が嫌いだった。
俗に言うところの『逢魔が時』であるが、このような時刻、彼はしばしば自己の気が沈んでゆくのを感じ、脱力感に見舞われることがあった。
昼の燦燦たる陽光でもなく、かといって冷たく澄み切った月光でもない凡庸とした明るさに、洋平は悪魔に出会う恐怖より、そこはかとない哀愁を感じることの方が嫌だった。
この頃は、夏になると就寝するときでも、窓という窓、戸という戸は全て開け放っ
ていた。もちろん、恵比寿家に限ったことではなく、この村の全ての家がそうであっ
た。それだけ平和で安全な村だった。
その夜は、美穂子を加えた三人で、母屋の奥中の間で寝ることになった。
三人で蚊帳を吊った。麻布の蚊帳は意外に重く、長押の鉤に輪型の釣具を掛けるの
には苦労した。
中に入って二人が蚊帳を頭の上に被せ合いをしてじゃれていると、開いた隙間から蚊が入って来て、せっかく蚊帳を吊った意味がなくなる、と美穂子に叱られた。
洋平は蚊帳で寝るのが好きだった。
外の世界と隔離された、一種独特な感覚に陥るのだが、それがまた密着感を呼び起こし、不思議と心地良い落ち着きを与えるからだ。
洋平と美穂子が、美鈴を挟んで川の字になった。
時刻は、まだ二十二時を廻ったばかりだったが、すでに村中は灯りに乏しくなっていた。閑静な空間に、ときどき表通りから聞こえてくる酔っ払いの発する奇声が、三人の笑いを誘い、妙に心を和ませた。
美鈴が。ふと美穂子に訊ねた。
「お姉さん、洋君は幼い頃はどんな子供だったんですか」
「洋平の幼い頃ねえ……」
美穂子は間を言いて勿体ぶるように続ける。
「自分の弟だけど、とっても可愛かったわね。お利口さんで、素直でなんでも言うことを聞く子供だった。まだ、下の二人の叔母さんたちが同居していてね、その叔母さんたちがとっても洋平を可愛がっておられたの。家の中は女ばかりで、洋平に悪戯をしたりして遊んでいたわね」
「女の子の服をきた写真を観ました」
「そうそう、そんな悪ふざけもしたわね」
美穂子も懐かし気に言う。
「中でも一番下の叔母さんは、目に入れても痛くないほど洋平を可愛がっておられた。あるとき、その叔母さんが洋平の睫毛があまりにも長いのをやっかんで、悪戯心からはさみで切ってしまい、お母ちゃんにかんかんに叱られたの」
「まあ……」
「美鈴ちゃん、そのとき叔母さんは、なんて弁解されたと思う」
「なんと言われたんですか」
「それがね、『だけど、洋平、睫毛を切るから、目を瞑りなさいと言ったら、うん、と返事して素直に目を瞑るんだもの。だから最初はそのつもりがなかったけれど、つい切ってしまったの』だって。それぐらい素直だったわねえ」
「洋君はそのこと覚えてるの」
美鈴が洋平に顔を向けた。
「うん、覚えちょう。四歳のときだったかな」
洋平は、この頃の出来事を数多く記憶していた。
そう言えば……と美穂子が意味深長な物言いをした。
「四歳と言えば、大変な事件があったわねえ、洋平」
洋平は、姉が何を話そうとしているのかわかった。
「大変な事件?」
美鈴は食い付くように美穂子の方に身体を向けた。
「美鈴ちゃん、訊きたい」
美穂子はすでに話す気満々である。
「訊きたい」
目を輝かせて言った美鈴は、美穂子に気づかれないように洋平の手を手探りし、握った手に力を込めた。
洋平はクスっと声もなく笑った。わずかに差し込んだ月明かりの中に、好奇に輝く彼女の両眼を想像したのである。
美穂子が話を始めた。
「それはね、永楽寺のお祭りでの事なの。毎年五月に、永楽寺で年中行事のお祭りがあり、多くの露天商が軒を並べていたの。その日はね、夜に大日堂でのお籠もりがあり、そのまま商いを続けている店もあったのね。大日堂のお祭りは、美保浦神社と同様にこの辺りでは有名でね、他の村や街からも訪れる人もいて、夜でも大変な賑わいだったの。
洋平は、お祖父ちゃんに連れられて、そのお籠もりに行ったの。『桜餅』という和菓子が目当てで付いて行ったのね。それが、大騒ぎの始まりでね。大日堂に着いたとき、本堂に上がる石段のところで、お祖父ちゃんが、『すぐに戻るからここで待っちょれよ』と洋平に言われて、石段を上がられたの。
しばらくしてお祖父ちゃんが戻って来られると、そこに洋平の姿がなかったので、お祖父ちゃんは、洋平は先に家に帰ったと思い、家に戻って来られたの。ところが、洋平が家に戻っていないので、お祖父ちゃんはもう一度、大日堂へ探しに行かれたのだけど、やはり居なかったので、こりゃあ大変なことになった。きっと洋平は、海に落ちたか、人さらいにあったと駐在所に連絡するわ、親戚中に声を掛けるわ、大騒ぎになったの。そうこうしているうちに、村の消防団もやって来るし、恵比寿の漁師さんたちは船を出す準備に掛かるわで、今まさに総出で村中を捜索しようとしたところへ、洋平が他所のお婆さんに連れられて帰って来たのね」
言い終えた美穂子は、ふうと息を一つ吐いた。
「洋君は何処に居たんですか」
「後は本人に聞いてみて」
美穂子は洋平に話の下駄を預けると、喉が渇いたと言って台所へ向かった。
美鈴が寝返りを打って訊く。
「洋君、何処にいたの」
「それは……」
洋平は口籠ると、
「それより、鈴ちゃん」
美鈴の方に身体ごと向け、低い声で言った。
二人は布団に寝転がった状態で向き合っている。
洋平はゆっくり顔を美鈴に近づけた。
意図がわかった美鈴は静かに目を瞑る。
洋平は唇を合わせると軽く吸った。
美鈴が驚いた目で唇を離した。
「ご、ごめん」
「ううん……でもびっくりした」
そう言ってはにかんだ仕種がまた愛らしい。
そのとき美穂子が台所を出る気配がして、洋平は慌てて仰向けになった。
「本堂の中」
洋平は、美穂子に聞こえないように言った。
「えっ、なに?」
美鈴も囁くように問い掛ける。
「さっきの話の続き……」
「ああ、そうか。本堂の中って、どうして?」
洋平は、そのときのことをはっきりと記憶していた。
洋平は、洋太郎にしばらく待っているようにと言われたが、洋太郎が戻って来るのが遅いので待ち切れなくなった。それほど時間は経っていなかったが、幼い洋平は耐えられなかったのだ。
洋平は、洋太郎の後を追って石段を上がり始めた。生憎、数個の提灯しか灯っていなかったため、辺りは薄暗くて誰も洋平に気づかなかった。当の洋太郎もしかりだった。
石段を登り切って本堂の前に辿り着いたが、洋太郎の姿は見当たらなかった。
洋平は、きっと洋太郎は本堂の中に入ったのだと推量し、自分も中に入ることにした。
ところが、本堂の中にも洋太郎は居なかった。
洋平は焦った。心細くもなった。
このまま本堂の中に居るべきか、それとも家に帰るべきか迷ってしまった。
一刻も早く家に帰りたいところだが、洋太郎のここで待っていろという言い付けが洋平を拘束した。。
家に帰って、もし洋太郎が帰宅していなければ、言い付けを破ったことになるのだ。
というか、そもそもすでに本堂の中に入ってしまい、言い付けを破ってしまっている。洋平は、どうにか自分の方から洋太郎を見つけなければならないという強迫観念に駆られていたのである。
「送って下さった婆さんとはどうやって出会ったの?」
美鈴がそう訊いたとき、美穂子が戻ってきた。
「あれあれ、まだその話なの」
と呆れた声で言う。
「詳しく説明してたの」
洋平は怒ったように言うと、話の続きをした。
「しばらくして、一旦読経に区切りがついたとき、横にござったお婆さんが、やっとおらに気づき、『あんたさんは、恵比寿の総領さんじゃないかいの?』と訊かさったので、おらが『あい』と返事をすると、『あれぇ、だんさんは、だいぶ前に帰られたぜぇ。そりゃあ、大切な総領さんが帰って来られんので、きっと、えりゃあ心配をしてござあよ。わしが送りますけん、一緒に帰えらい』と言われて、家に帰ることになっただ」
洋太郎は、一度大日堂に戻ったが、まさか洋平が本堂の中にいようとは思いも寄らないことだった。
何とも皮肉なことだが、このとき本堂の中だけが、唯一村の喧騒から隔離された世界だったのである。
「それから、どうなったの?」
美鈴は眠気も忘れ、話の続きを知りたがった。
「帰る途中、おらの気持ちは暗かっただ。幼いおらにも、お祖父ちゃんの言いつけを破り、その場を離れたために家中の者が心配しちょうことはわかっていた。きっと、お祖父ちゃんに、がいに叱られるなあと思って、おらの足取りは重かっただ。
鈴ちゃんも通っちょう、あの海岸通の角を曲がると、百メートル先にうちの門に、がいな人だかりがあって、慌ただしい気配が伝わってきただ。『ああ、やっぱり大事になっちょう』と、おらは泣きたくなっただ。おらの足取りはますます重くなって、まるで恐ろしいものに近づいて行くようにゆっくりとあるいただ。
ちょうど半分ほどのところまで進んだときだった。
向こうからお祖父ちゃんの声がしただ。『洋平か?』って。
『あい』とおらが返事をすると、『よかった。ああ、よかった。よかった』と何度もそう言わさりながら、お祖父ちゃんは走ってござっただ。そして、おらを抱き上げっさあと、おらの顔に自分の顔を擦り付け、何度も何度も、『よかった。よかった』と繰り返してござった。そうやって、お祖父ちゃんが顔を擦り付けっさあ度に、おらの顔には冷たいものが当っただ。
そいが、お祖父ちゃんの涙だとわかると、おらも涙が出てきただ。おらはお祖父ちゃんが泣いてごさるのと、叱られんかったんで、ほっとして泣いただ。そげしちょううちに、お祖母ちゃんやお母ちゃん、お姉ちゃんもやってござっただ。お祖母ちゃんとお母ちゃんは、送ってくれたお婆さんから事情を聞かさって、何度もお礼の頭を下げてござった」
「洋平、わいは知っちょうか? お祖父ちゃんは、『わしが目を離したから、こげんことになった。わしが洋平を抱いて石段を上がりゃあよかった』と自分を責めてござった。わいの身にもしものことがあったら、お祖父ちゃんも自らの命を絶つ覚悟でござったと思うよ。いつもは、威厳のあるお祖父ちゃんが、あんなにうろたえ、狼狽してござったのを見たのは、後にも先にもあのときだけだが」
美穂子がしんみりとした口調で言った。
洋平は、美穂子の言葉で洋太郎のそのときの覚悟の程を初めて知った。姉の言葉が真実かどうか確かめる気はないが、たしかに洋平も、洋太郎の涙を見たのはあのときだけだった。そして祖父の性分を考えれば、自らの命を絶つまではしなくとも、出家して仏門に帰依し、残りの生涯を自分の魂を弔うためだけに生きることはしかねないと思った。
「洋君は、本当に家族から愛されているのね」
美鈴は、握った洋平の手に力を込めた。
彼女の言葉を潮に会話がなくなった。
ただ庭で鳴く鈴虫と風に触れて鳴る風鈴の音が、寂寞たる深夜に物悲しく響き渡っていた。その均整の取れたリズムは、しだいに身体の波長と調和してゆき、いつしか洋平は心地よい眠りに入ったのだった。
浅い眠りのせいだろう、洋平は誰かの話し声で目が覚めた。声のする縁側の方を向くと、背を向けたウメと美鈴が腰掛けていた。
東の空がようやく白み始めたところで、薄闇の中で時計を見ると、まだ四時を過ぎたばかりだった。ウメはいつものように日の出前に起きたのだろうが、美鈴がこんなに早く起きている事に驚いた。
――何を話しているのだろうか。
二人の会話が気になり、すっかり目が冴えてしまった洋平は、身体を起こし蚊帳の中から声を掛けた。
「こがいに朝早くから何をしちょうの?」
「ああ、洋平か。起こしてしまったかの。おらが神さんを拝もうとしたら、美鈴ちゃんが起きちょったけん、ちょっと話ちょっただが」
二人は同時に振り向くと、ウメがそう言った。洋平は蚊帳を出て、美鈴の横に座った。。
「どげな話?」
「美鈴ちゃんが、『あの世って本当にあるんですか?』って訊いたけん。おらは、『それは難しい質問だが。有るって言えば有るし、無いって言えば無い。それは誰かに教わるもんじゃなくて、美鈴ちゃんの気持ち次第だが。わしは有ると信じて生きてきたけんど、それは人に押し付けるもんじゃないだが。美鈴ちゃんも、これから大人に成長していく過程で、色々な経験や勉強したうえで、自分自身で判断するだが』と答えただ」
と言うと、ウメは洋平向かって何かを催促するように顎を引いた。
「美鈴ちゃん、お祖母ちゃんの言うとおりだが。お祖母ちゃんはおらにも自分の心が決めることだって言ってござあけん」
ウメは誰に対してもそのような態度だった。ウメは孫の洋平にさえ、自分の信じるものを押し付けるような事はしなかった。
「洋平が起きたなら、おらは神さんにお経を上げるとするかな」
ウメは神棚のある奥の間に入って行った。
「美鈴ちゃん、えらい早く起きたんだね」
「なんか、寝ているのがもったいなくて……ずっと起きていても良いくらいだった」
「まさか,ずっと起きちょったの?」
違うよ、と美鈴は顔を横に振った。
「最初はなかなか寝付けなくて、そのまま朝まで眠らなくても良いかなって思ったんだけど、洋君の寝息を聞いているうちに眠ってしまったみたい。でも、まだ暗い内に目が覚めて、しばらくじっとしていたんだけど、そのうちにお婆さんが起きてこられたので、私も蚊帳を出てお話をしてたの。ねえ、洋君。それより、せっかく早起きしたんだから、日の出を見に海岸へ行かない?」
美鈴は、洋平の腕を取った。
「海岸かあ……」
洋平が曖昧な返事をすると、
「ねえ、行こう」
と、美鈴は立ち上がって洋平の腕を力強く引っ張った。
「そいなら、海岸よりももっとええとがあるよ」
「どこ?」
美鈴は少し考えて、
「もしかして、お墓?」
と訊いた。
「いいや、たしかにお墓も眺めはええけんど、もっとええとこがあるだが」
「お墓じゃないのか……そうだ。だったら、あそこかな?」
彼女は顔を赤らめながら言った。洋平はその仕種で、美鈴が思い浮かべた場所がわかったが、
「あそこって、どこ?」
と顔を覗き込むようにして意地悪く聞いた。
「キスしたところ……」
美鈴は、顔を叛けるようにして呟いた。洋平は、その愛しさに思わず抱きしめたくなったが、そのようなことができるはずもない。ウメの目もあるし、美穂子だって様子を窺っているとも限らないのだ。
「いいや、それも違う。今からあそこまで行くには時間が掛かるけん、日の出の一番ええとこを見損なってしまうがな」
洋平は冷静を装う。
「ねえ、それならいったい何処? 早く行かないとお日さん出ちゃうよ」
美鈴は焦れた様子で、なかなか場所を言わない洋平を急かした。
洋平は、ようやく指を上に向けて、勿体付けるように言った。
「この上」
「この上って?」
美鈴は上を向いたまま訊いた。彼女はその場所がどこか、まだわからないようだった。
「屋根に上るだが」
「ええー、屋根に上るの、どうやって?」
と、美鈴は目を丸くする。アパート暮らしの彼女には、屋根に上がるという発想など思い浮かばないのだ。
「梯子を掛けてもええのだけんど、そげんことせんでも、もっと簡単に上がれるだが。鈴ちゃん、行かい」
言うや否や、今度は洋平が美鈴の手を取って離れに移った。そこで二人は、一旦離れた。洋平は自分の部屋に、美鈴は荷物を置いてある客間に入った。着替えを済ませるのだ。二、三分後、着替えを終えた美鈴が東南の角部屋にやって来た。日当たりが良く、十畳もの広さがある部屋が洋平の自室だった。
「わあ、ここが洋平君の部屋なんだ。広いね」
美鈴が感激したように言う。
というのも、これまで洋平は美鈴を自室に入れたことがなかった。そもそも離れ自体に入れてはいなかった。
母屋は、全ての襖や障子が開け放たれてある。つまり、二人がどこにいても周囲の監視の目に晒されているということである。対して、離れは土間に繋がる廊下こそガラス戸で仕切られているが、他の部屋全てが引き戸なので、必然と密室になる。
洋平は、有らぬ誤解を防ぐために、敢えて離れで過ごさなかったのである。
「この窓から上がっていくだが。鈴ちゃん、おらがすることを真似して、後を着いて来て」
洋平は窓の格子に手をやり、身体を抜いて屋根の上に出た。そして、彼女が同じようにして出て来るのを待ち、そこから上の層に上がって行った。
「すごく高いね。洋君、ちょっと怖い」
美鈴は恐怖心に襲われていた。無理もなかった。生まれて初めての体験の上に、恵比寿家は天井を高く造っていたため、頂上の高さは、他所の家の倍近くになっていた。
ただ、洋平が屋根に上がっていることを知った里恵が、大工に頼んで命綱ならぬ、命手摺を施してあった。
「鈴ちゃん、手摺があるから大丈夫だよ」
洋平は笑みを浮かべ、美鈴の気持ちを和らげる。
「下を見たらいけんよ。それと絶対に立ったらいけんよ。大丈夫、瓦はすべえしぇんけん。両手両膝を瓦につけて、つま先を立てて、ゆっくり這うようにして上っていくだが」
洋平はまず美鈴を先に上らせた。万が一、足を滑らせたとき支えるためである。
「やだあ、パンツが見えない?」
美鈴が恥ずかしように言う。この日は短パンではなくスカートだった。
「見えないから安心して、それより手摺をしっかり掴んで集中して」
洋平は怒ったように注意した。
パンツは見えなかったが、その白い太腿が目に眩しかった。洋平は高揚を悟られないようにぶっきらぼうに言ったのだ。
二人は無事に天辺まで辿り着いた。ちょうど水平線上の彼方より、白い太陽が顔を出し始めたところで、東の空から明るさが広がっていた。
「うわあ、ほんとに凄い。朝日だけじゃなくて、山の景色も綺麗だね」
恵比寿家は村の中央にあったため、ぐるりと周囲を一望できた。暗闇を抜けたばかりの山の木々は、深い緑から鮮やかな緑へと変わり始めていた。
「おら、気持ちが沈んだときは、いつもここに上がって来るだ。屋根の上に寝そべって広い空の中に雲の流れや、雲雀がのんびり飛んでいる様子を眺めちょうと、なんだか自分ががいに小さく思えてきて、くよくよしちょうことがバカらしくなってくるだ」
「へえー、こんなに恵まれている洋君でも、くよくよすることがあるんだ」
「そりゃあ、あるが」
「おうちはこの辺りの名士でお金持ちだし、家族からはとても可愛がられていて、しかもこんなに恵まれた自然の中で暮らしているのに?」
「鈴ちゃんには、そう見えるのかもしれんけんど、ええことばっかりではないけん」
「鈴には良くわからないけど、でも、それって贅沢な悩みじゃないの」
「そうかもしれんけんど、悩みは人それぞれじゃないだか。他人から見れば取るに足らんように見えても、本人しかわからんことってあると思うだが」
「そう言われるとそうかもね。でも、洋君でも悩むときがあるって知って、少し気分がすっきりした」
「なに、どげんこと?」
「だって、これで悩みも何もなかったら、洋君は腹が立つぐらい恵まれ過ぎだもの」
美鈴は、少し茶化すように言った。
――だが、あまり何もかも揃っているということは、後は失って行くことばかりのような気がする。最初は何もなくても、少しずつ自分の力で手に入れていく方が幸せなのかもしれない。
そう言おうとして洋平は口を噤んだ。自分の気持ちは、同じ立場にいる者にしかわからないと悟ったのである。
「鈴ちゃん。おらは、毎年ここから花火を見ちょうだが。ほんとだったら、今年の花火もここで鈴ちゃんと見ようと思っちょっただが」
洋平は話題を転じた。
「そっかあ、洋君は毎年ここから見てるんだね。ここだと、きっと特等席なんだろうなあ」
「うん。花火が、がいに近くに見えるよ。まるで、火の粉が降ってくるみたいで、思わず身体を捻って避けたりするだが。もちろん、ここまで振って来るはずはないけんど……。だいてが鈴ちゃんにも見せたかったなあ」
洋平の残念そうなに口ぶりに、美鈴も口惜しそうに言った。
「私も見たかったなあ。でも、蛍の方がもっと大事だしね……」
自分自身に言い聞かせているような彼女を見て、洋平は余計なことを言ってしまったという後悔した。
「鈴ちゃん、花火は毎年やるけん、間違いなく来年でも見れえだが。だいてが、鈴ちゃんの言うとおりで、蛍は自然のことだけん、いつどげんことになるかわからんけんな、今年のうちに見ちょかんとな」
洋平は精一杯の慰めの言葉を掛けた。
「そうだよね。花火は来年でも見れるよね。きっと見れるよね……」
美鈴は、何かに縋るように呟いた。
そして、未練を断ち切るかのように、
「お陽様にお願いしておこうっと」
と、朝日に向かって両手を合わせた。
その姿は見事なまでに大自然と調和し、声を掛けることすら憚られる厳粛な気が伝わってきた。洋平は、初めてキスをした丘でも夕日に向かって手を合わせていたことを思い出した。
――彼女は自分などより遥かに信心する心を持ち合わせている。
と強く思った。
皆が去ってから一時間も経ってはいなかった。
洋平は、玄関で女性の声がしたような気がした。
風の声か、と耳を澄ましていると、今度は戸を叩く音と共に、たしかに自分の名を呼んでいる声が聞えた。
洋平が急いで迎えに出ると、律子が手提げを持って立っていた。
「嵐の中を、どないしたんや。帰ったんやないのか」
――驚きと心配と喜び……。
洋平の口調は、彼の複雑な心境を端的に表していた。
「洋平君が一人じゃ寂しいと思って戻って来たのよ。はい、差し入れよ」
律子は、酒のつまみを手渡すと、
「積もる話もあるし、朝まで飲み明かしましょう」
とウインクをした。
「だいてが……」
洋平の困惑した様子に、
「二人きりだと、なにかまずい事でもあるのかしら。洋平君、下心でもあるの?」
と、律子は薄笑いをした。
「な、なんもないけど、それこそ悪い噂が立ったら、俺は大阪に戻るからええけど、そっちは迷惑やろ」
洋平は動揺を押し隠すように言った。
「全然、洋平君となら、むしろ歓迎よ……大丈夫よ、夜明け前には帰るから」
洋平は、十数年ぶりに会った律子に度肝を抜かれていた。内向的でおとなしかった彼女が積極的で快活な女性に変貌を遂げていたのである。
「洋平君、私の変わりように驚いた様子ね」
律子が見透かしたように言う。
「いや、そうでもない。高校時代に、その片鱗は感じていた」
二人は松江の名門進学校に通っていた。
「気に入らない?」
「そうでもない」
「良かった。じゃあ、飲みましょうか」
「君もかなり飲めるみたいやな」
「ええ。でも、酔っ払ったら介抱してね」
律子はグラスを差し出しながら、甘ったるい声で言った。
洋平は、酒ならぬ律子の色香にすっかり酔ってしまっていた。彼女は、美鈴が出現するまでとは全くの別人格になっている。詮無いことではあるが、彼女が最初からこのような性格であったなら、あれほど美鈴に惹かれただろうか。いや、そもそも美鈴と出会わなければ、彼女と同じ道を歩いたのかもしれないのだ。
そう思うと、洋平は胸にざわめきを覚えずにはいられなかった。彼にはずいぶんと久しい感情だった。
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