第7話 夕映え

 洋平は、なぜ隆夫は事故などに遭ったのだろうか、と考えていた。

 実際、彼は事故の詳細を知らなかった。訃報を知らせてきた友人に訊ねてみたが、彼はただ海に落ちたというだけで、後は曖昧なことしか言わなかった。

 しかも隆夫は。泳ぎが得意中の得意である。滅多なことでは溺れるはずがない、という疑念も抱いていた。

「なあ、隆夫が落ちたのは小戸の裏手だろう」

 洋平は、前にいた善波修吾に訊ねた。

 あの初めて美鈴と出会った日、小浜で真っ先に彼女に声を掛けた同級生である。

 隆夫と修吾は、共に恵比寿水産の漁師であり、しかも同船することが多かったので、彼ならば真相を知っているはずと思ったのである。

「ああ」

「そこなら、あいつの庭みたいなものだろう。そんなところであいつが海に落ちるか?」

 小戸というのは、洋平が小学生のときの海水浴場だった小浜から、さらに東に位置する美穂浦湾の北側の先端である。そこから北西折れると日本海に面した、釣りには絶好の磯があった。隆夫は子供の頃か、そこで頻繁に釣りをしていたのである。

「病気持ちで体力が落ちていたから足を滑らせたと違うかな」

 善波修吾は、洋平の視線を逸らしながら言った。

「病気って何や。まさか癌か?」

「えんや。癌なんかじゃない。肺気胸だが」

「肺気胸?」

 洋平は拍子抜けした声を発した。

「肺に穴が開く病気だがな」

 勘違いをした修吾は、知ったかぶりの物言いをした。

「それは、知っとうけど、肺気胸というのは治らん病気なのか」

 そこまではわからない、と修吾は顔を横に振った。

「もう二年も養生していたがな。そいでな、体調が良いときには憂さ晴らしに釣りに行っていたんだが」

「それで事故か。しかし、あいつが溺れ死ぬか?」

「なんぼ体調が良いといっても、泳ぎ切るだけの体力が無かったということだが」

「だがなあ……」

 洋平がそう言ったとき、律子が、

「洋平君、ちょっと来て」

 と隣室へ連れ出した。

「実は隆夫君ね、小戸に飛び込んだのよ」

「なんやて! 隆夫が入水自殺だと」

 洋平は思わず大声を上げた。

「声が大きいわよ」

 律子に窘められた洋平は、

「本当に事故ではなく自殺なのか」

 と小声で訊いた。洋平は、釣りをしていた磯からの転落事故死だと思っていたのである。

「間違いないわ」

 律子は切なそうに言う。

「そのことを皆は……」

 知っているのかと聞いた。

「もちろんよ」

「じゃあ、なんで修吾は本当のことを言わないのだ」

「だって、修吾君は同級生というだけではなく、仕事の同僚、いや上司だったのよ。その隆夫君が自殺したなんて信じたくないのよ」

 なるほど、と修吾の心情を推し図った洋平が頷いた。

「せやけど、泳ぎの達者な隆夫がそれで死ねるんか」

 洋平は得心がいかなかった。

 不慮の転落事故ならば、頭を強打して意識が無くなることも考えられたが、自殺となれば入水しただけでは死ねるはずがない。

「だから、両足を縛ってから飛び込んだらしいの」

 両足を……と洋平は呻いた。

「隆夫、お前はそんなことまでしても、死にたかったんか……」

 大きな衝撃だった。

 座に戻った洋平は、睨むような目で隆夫の遺影を見た。

 それは、ずいぶんと若い頃のものだった。修吾の話では、中学を卒業して恵比寿の船に乗り始めた頃のものだという。

 洋平は、再びあの熱かった夏に想いを馳せた。


 ある日の夕方、二人はウメに連れられて村の北東にある畑へ行った。この時期、ウメは真昼の暑い時間帯を避け、早朝か夕方を選んで畑仕事に出掛けていた。

 途中までは、小浜への道を辿って行き、小浜の少し手前で山道に入り、しばらく分け入ったところに恵比寿家の畑があった。

 そこは丘の斜面を開墾したものだったので、下方の比較的なだらかな斜面を畑として使用し、上方には蜜柑の木を三十本ばかり植えていた。南向きで日当たりも良く、毎年かなりの収穫があった。

 夏時分の畑では、西瓜はもちろんのこと、きゅうりやたまねぎ、トマトやなす、そして瓜などが採れた。ウメは、捥ぎりたてのそれらを、傍らを流れる小川で洗い、二人に食べさせた。とくに、瓜は『金瓜(きんうり)』といって、熟れると皮が黄色になり、メロンのような味は絶品だった。

 洋平と美鈴は段々畑に腰を下ろし、美保浦湾を眺めながらそれらを食した。

 眼下には、木々の隙間から小浜のブイが見え隠れし、遠く視線を対岸にやれば、二人で初めて磯釣りをした小瀬を望むことができた。

 小瀬の右手には永楽寺の姿があった。本堂と、大日如来を特別に祭った大日堂が並立していた。この小さな村には不釣合いなほどに壮麗な二つのお堂は、村の人々の信心深さを表すのに不足はなかった。

 さらに視線を右にやると、数人の漁師たちが慌しく漁へ出る支度をしている様子が目に入った。ちょうど、二艘のやや小型の船のエンジンが掛かり、艫綱が外されて岸壁を離れ出したところだった。

 この二艘の小型船は、探索船といって他の船に先んじて海に出て、魚の群れや種類を探知機で特定し、情報を無線で漁港に知らせる役目の船である。次いで、獲物に合う網を積んだ本隊の船団が出港し、最後に獲物を積載し、境港に水揚げするための母船が出港するのである。

 二人が注視する中、二艘の探索戦は、鮮やかな白い波しぶきを上げ、綺麗な幾何学模様の波を作りながら、日本海の大海原に乗り出していった。


「鈴ちゃん、あの頂上まで行ってみょいや」

 探索船が視界から消えると、洋平は翻って、丘の頂上を指差しながら美鈴を誘った。

「良いけど、あの頂上に何があるの?」

 怪訝そうに訊いた彼女に、洋平は意味深げに言葉を重ねた。

「行ってみればわかるけん、絶対に来て良かったって思うけん、行かい」

「そこまで言うなら、行ってみるけど……」

 美鈴は乗り気のない様子だったが、洋平の強い催促に渋々承諾した。

「お祖母ちゃん、鈴ちゃんと頂上に行って来るけん」

 洋平はそう言い残し、東に迂回しているなだらかな道を進んだ。畑の脇にも道があり、距離的には断然近かったが、急斜面で足腰にかなりの負担が掛かるうえに、多少の危険もあった。洋平は美鈴に配慮し、遠回りにはなるが、安全な道を選んだのだった。

 歩き始めてまもなくだった。

「ねえ、洋君……」

 呼び止める声に、洋平が後ろを振り返ると、美鈴が右手を差し出した。桜貝を散りばめたような指先が、洋平の目に向って伸びていた。

「洋君、引っ張って」

 洋平は一瞬たじろいだ。彼はこれまで、自らの意思で女の子の手に触れることなどなかった。まだ、それほどの道のりを歩いた訳でもなく、とうてい彼女が疲れているとは思えなかった。

 それが、あまり乗り気ではなかったため、駄々を捏ねてのものなのか、あるいは別の意図があってのものなのかはわからないが、いずれにせよ、洋平には簡単な行為ではなかった。

 だが、平然と手を出している美鈴を見ていると、照れたりする方が却って不自然に思われ、何気ない振りで彼女の手を取った。

 初めて繋いだその指はあまりに細かった。

 一緒に勉強をしているときに、見慣れていたはずだったが、実際に握ってみて、あまりの華奢な指に、力を入れると、折り紙のように壊れてしまうのではないかと、錯覚するほどだった。洋平の手には、今もそのときの儚い感触が残っている。

 頂上に近づくにつれて、二人の眼前に、空を押し上げるようにして日本海が悠然とその姿を現してきた。ちょうど、先ほどの二艘の探索船が左右に分かれて、走り始めたところだった。

 頂上の東端に立って対峙した大自然の眺望たるや圧巻の一言だった。

 南東の方角に美保浦の村落を望み、東に向かって美保浦湾が広がっている。この湾の波は、やがて日本海のそれと連なっていて、遠く水平線上の彼方に到っては、雲一つ無い空との境界線が識別しかねた。

 そこから左手の北方に視線をやると、遠い波の上に、うっすらと陽炎のように隠岐諸島が浮かんでいる。稀に、外洋遠く異国船が霧笛を鳴らしながら通る様は、まさに映画のワン・シーンのようであった。

 広大な海面は、陽光を反射して無数のダイヤの輝きを放ち、それが夕焼けともなり、一面黄金の煌めきに変わって行く様は例えようもなく壮大、且つ優美だった。

「うわあー。すごくきれい」

 美鈴は、圧倒的な大自然が織り成す美の極致に感動の声を上げた。

「すごいだあが。登って来て良かっただあが」

 洋平は、神に授かったこの絶景が、まるで自分の所有物のように自慢げに言った。


 美鈴が急に押し黙った。

「鈴ちゃん。どげした。声が出なくなっただか」

 洋平が気遣っても美鈴は、その潤んだような瞳でただ洋平を見つめている。

 洋平はあまりの愛らしさに、

――キスしたい……。

 と、脳裏に不埒な考えが過った。

 そのときだった。

「いいよ」

 美鈴が微笑んだ。

「え?」

 洋平は心の中を覗かれたようで激しく目を泳がせた。

「キスしよう」

 それは一瞬にして、洋平の顔面を強張らせた。

 突拍子もない美鈴の言動に慣れてきた洋平も、さすがに身体が小刻みに震え、動揺の色を隠し切れなかった。目を剥いて横を見た洋平に、美鈴のおどけるような仕種が映り込んだ。

 洋平は、ただふざけているだけかもしれないと思い直し、黙っていた。

 すると、

「キスしよう」

 今度は真剣な眼差しだった。

 洋平は、臆面もなく言い放った彼女に戸惑った。

 キスなどしたことがない洋平が、いや高岡卓也との過ちを犯した彼が、そうした行為に畏怖を抱いていたからである。。

 もう一つ、別の理由もあった。   

 洋平の潔癖性である。

 洋平は、性に関して『決して興味本位にはならない』という、潔癖とも言える信念を持っていた。もっとも、はっきりと信念として自覚するのは、数年先のことであり、この頃は漠然とした素地が形作られていただけのことではあったが、これもまた卓也とのトラウマが生んだ副産物だった。

 ともかく自戒の意識に照らしてみれば、今の美鈴への思いが永遠に続く真実なのか、あるいは恋の熱に侵された仮初に過ぎないのか判断をしかねる状態で、性への一歩を踏み出すことに躊躇いがあったのである。

 だが、本能とは恐ろしいものである。

 そのような清純な観念とは裏腹に、洋平の胸は未知の世界への期待に激しい高鳴りを打ち続け、今にも張り裂けそうになっていた。胸の鼓動が、口の中で響いているかのような錯覚すら覚えていた。

 

 正直に言えば、全く期待していなかったわけではなかった。いつしか、心の片隅にそれとなく忍ばせていた淡い願望ではあったのだ。

 美鈴が発した、たった一言の小悪魔的な囁きに、芽吹いたばかりの高邁な精神は撹乱され、未だ脆弱でしかない理性は無残なまでに蹂躙されてしまった。

 そして、最後の砦であった畏怖心までもが、いとも簡単に駆逐されてしまったとき、歯止めのなくなった洋平の心は雪崩を打った。

 愛おしさと好奇心と、少しの性欲に背を押された洋平は、美鈴の息遣いが耳に届くほどに近づいた。

 彼女は目を閉じていた。洋平も目を閉じて、さらに顔を近づけてゆき、ついに唇と唇が触れ合った。

――甘い。とても甘い。

 と、洋平は感じた。

 と同時に、何とも言えぬ仄かな彼女の体臭が伝わってきて、歓喜が洋平を包み込む。

 ほんの束の間、宙に浮くような夢心地だったが、

「洋平、美鈴ちゃん、そろそろ家に帰るよ」

 祖母の声で我に戻された。その刹那、ふいに襲ってきたうしろめたさに、洋平は思わず一歩退いた。

 美鈴は、大胆さが一変して洋平の視線から逃れるように下を向いた。

 洋平には美鈴が顔を赤らめているのがわかった。彼女と同様、顔面に熱を帯びていた洋平は、

――彼女はとても勇気を出したのだろう。自分にはとうてい持ち得ない勇気だ。

 と深く思った。

 洋平は左手で拳を作り、美鈴の頬に触れた。気付いた美鈴が顔を上げると、洋平はその拳を自分の眼前に移した。美鈴は微笑しながら、コツンと自分の拳をぶつけた。

 夕焼けはさらに広がりを見せ、いつの間にか空全体が薄赤色をぼかしたような色に染まっていた。

 美鈴は拳を開き、山並みに姿を隠そうとしている夕陽に向かい手を合わせた。陽の反射のせいなのか、あるいはキスの余韻が残っていたのか、赤く染まった彼女の横顔が洋平の眼前に神々しく映し出されていた。

 静寂の中で、絶え間なく打ち寄せる波の轟きが、まるで洋平の血潮の流れの如くに、繰り返し繰り返し断崖を駆け上がってきていた。


 美鈴と初めてのキスを体験した洋平は、彼女に対する愛しさが一段と増してゆくのを感じていた。その反面、あまりに急速で刺激的な恋の成り行きに戸惑いがあったのも事実だった。洋平は、美鈴の大胆で積極的な行動に翻弄されながらも、初恋という導なき大海原を邁進していたのだった。

 そのうちに七夕を迎えた。

 この辺りでは旧暦で行事をしていた。七夕の行事と言って、特別なことをする訳でもないが、各々の家では山へ行って笹竹を二本切って戻り、願い事を書いた短冊を枝に結び、縁側の柱に括りつけた。

 恵比寿家は、『じゃいま』という所有する山で調達していた。毎年、親戚に依頼するのだが、今年は洋平と美鈴も同行することになった。

「鈴ちゃん、一度家に帰ってズボンと長袖のシャツに着替えて、長靴を履いて来てね」

「どうして? こんなに暑いのに……」

 洋平の注文に、美鈴は疑問を投げ掛けた。

 彼女は山に入るのも初めだった。それらが蚊をはじめ様々な虫に対する防備であること、笹で腕を切らないため、あるいは漆にかぶれないようにするためであること、また水辺にいる蝮に対する備えであることを知らなかった。

 三人は、夕方近くになり暑さがいくぶん和らいだ後に出掛けた。

 門を出て西に進み、墓地である丘の裾野を通って、さらに南西の方角に二百メートルほど歩いたところに小学校があった。校舎の西側に体育館が建っていて、裏手に水田が広がっていた。その水田のあぜ道を、さらに三百メートルほど西に進んだところにある山がじゃいまだった。

 辺り一帯は、今を盛りにと稲穂が緑の絨毯を敷き詰めたように成長している。中ほどまで歩みを進めると、山の麓の狭い休耕地には、空に向かって真っ直ぐに伸びている数十本のひまわりが、まるで彼らを歓迎するかのように、顔をこちらに向けていた。

 美鈴は、水辺で動き回っている様々な生物に興味を示し、いちいち声にして名前を言った。知らない生物を見つけると、洋平の方を向いて催促し、彼がそれらの名前を言うと、あたかも度忘れをしていたかのように肯く素振りを見せて復唱した。

 日が傾きつつある空には、早くも夥しい数の赤とんぼが飛び回っており、照り付ける夏の日差しの裏で、季節の変わり目が確実に近づいていることを知らせていた。

 赤とんぼは、洋平たちが無関心と見るや、頭を掠めるほどに低空飛行を繰り返し、中には平然と帽子や肩に止まろうと試みる挑戦的な輩もいて、美鈴が捕まえようと手を差し出すと、嘲るようにひらりとその手をかわした。彼女は初めての体験に、その都度歓声とも悲鳴ともつかない奇声を上げていた。

 赤とんぼの群れより、五メートルほど高い空には、おにやんまが悠然と飛行している。彼女は実物の大きさに驚き、洋平が『おにやんまは人の手の届くところには近づかないため、タモは使わず、トンボ釣りと言って、釣竿を使って捕まえるのだ』と言ってもなかなか信じなかった。

 洋平は、夕映えに照り輝く美鈴の横顔をじっと見つめていた。数日を経て、もはや初めて出会ったときの、透き通るような白い肌は消えうせ、見事な小麦色に変わっていた。知らぬ間に、美鈴はすっかり夏の少女に変身していたのだった。


 形の良い笹竹を首尾よく手に入れ、意気揚々と帰路に就いていたときだった。 近くの山で笹竹を切っていた寺本隆夫にばったり出くわしてしまった。

 あの、門前で美鈴に冷たい態度を取ったとき以来のことだった。

「おやおや、総領さん自ら笹竹切りとは恐れ入りますのう」

 隆夫は、顔を洋平に向けたままでお辞儀をするという、妙な謙りの所作を見せながら、相も変わらずからかうような物言いをした。

 隆夫の挑発に反して、洋平はいつものように苛立ちはしなかった。このとき、ある決意をしていた彼は、冷静な目で隆夫を見ていたのである。

 洋平はこれまで、隆夫のこのような言動に対して、苛立ちを押し隠すため、軽く受け流し、全く相手にしていなかった。

 だが、海岸通りでの美鈴の『隆夫君は四年前と少しも変わっていなかった』との一言が、指肉に食い込んだウニの棘のように気になっていた彼は、そのときから隆夫の立場になって想いを巡らしてみた。

 そして、ある結論に達していたのだった。

 思い返せば、洋平の知る限り、隆夫は誰一人として自ら話し掛けることがなかった。 

 唯一、自分に対してのみ、たとえそれが挑戦的であれ、からかいであれ、例外であったことに気付いたのだった。

――隆夫は寂しいのかもしれない。彼は自分と関わりたくて、わざと気を荒立てるような言動を取っていたのかもしれない。

 そういう思いに至った洋平は、それが真実なのかどうかはともかく、少なくとも、彼に対して真摯に接しようと心に決めていた。

 そういう目で見れば、隆夫の言動は明らかに彼の鬱積した心の現われだと洋平にはわかった。洋平は、隆夫がこのような屈折した態度を取る、止むを得ない理由も察しを付けていた。

 隆夫の生家もまた、かつては網元であった。

 だが、洋平の祖父・洋太郎が旗揚げした恵比寿水産には最後まで加わらず、独自で漁を続けていた。



 しかし四年前の秋、突然の不幸が彼の家を襲った。大金を費やして建造した新船が、

時化で難破してしまい、祖父と父を同時に亡くしてしまったのだ。

 この事故が原因で、隆夫は心を閉ざしてしまうことになった。彼は、周囲の口先だけの同情を遠ざけ、必要以上のそれを拒んだ。つれて世間には寡黙を通し、洋平には茶化した態度を取るようになっていった。

 その後の生計は、彼の母の女手一つに頼ったため、新船の借金を抱えた生活は楽ではなかった。やむを得ぬ事情で、隆夫の兄は中学を卒業と同時に、稼ぎの良い遠洋鮪漁船に乗ったため、ほとんど家にはおらず、母と二人暮らしの隆夫は、実質的に家長の立場にあった。

 隆夫もまた、小学生とはいえ、休みの日には海に出るなどして母を良く助けた。つまり、遊び半分の洋平とは違い、夏にサザエやあわびを獲り、冬にわかめや岩海苔を獲ることは生計の足しにするためであり、釣りもまた、食卓に上がる貴重なおかずを得るための仕事だったのだ。

 当然の如く、隆夫は釣りもそして素潜りも、洋平などより数段上手であった。それどころか、本職の漁師に混じってさえも、大きく引けを取ることがなかった。

 言わば、好むと好まざるとに拘らず、彼は海の申し子のような少年に成長していったのである。

 そしてもう一つ、洋平はずっと後年になってから知ることになるのだが、隆夫は洋平より一歳年上だった。幼児の頃、大病を患い入学を一年延ばしていたのだった。おそらく彼自身はこの事実も知っていて、内向きになる傾向に拍車を掛けていたと思われた。

 洋平は歩みを止め、深呼吸をした。

「そげな格好は、やめんか!」

 率直に怒りを面に出した。

 洋平は歩みを止め、率直に怒りを面に出した。

 これまでとは一変した洋平の対応に、隆夫は驚きというよりは拍子抜けしたように唖然と佇んでいた。

 やがて、洋平の真意が通じたのか、真顔になった。

「すまんの、洋平。ちょっとふざけすぎたの」

 短い言葉ではあったが、洋平は久しく見聞きしていなかった隆夫の真摯な物言いに、心の中を一閃の清風が通り抜けたような気がした。わずかではあるが、彼に対するわだかまりが薄れたようにも感じていた。

「洋平。侘びという訳ではないけんど、一つええことを教えちゃろうか」

 隆夫は妙に自信ありげな表情で言った。洋平は、彼の自信の在りかに興味を持った。

「ええことって、なんじゃ?」

「実はな、うちが毎年笹竹を貰っている山のもう少し奥に分け入ったところに、小川の堰があるんだが、そこに蛍がいるんじゃ」

「蛍なら、小学校前の小川でも見ることができるがな」

 当てが外れた洋平がおざなりな言い方をすると、隆夫は意味深げに微笑んだ。その、これ以上は焼けようがないほどに、真っ黒な顔からわずかに覗いた白い歯が、彼をよけいに得意げに見せていた。

「そいがなあ、小学校の小川とは、蛍の数が全く違うだが。あれは何百、何千、いや何万かもしれん。とにかく小学校のちょろちょろとしちょうのと違って、あばかんおるだが」

「だいてが、ここいらの蛍はいつも七月の中頃だけん、今頃居る訳がないが」

 洋平は至って冷静だった。

 へへへ……、と薄笑いをした隆夫の自信は揺るぎのないものだった。

「普段はそげだが、今年はちと違うだが」

 隆夫は高揚する気持ちを抑えるようかのように低い声で言った。その熱を受けた 洋平と美鈴は、しだいに彼の話に聞き入っていた。

「どげな意味じゃ?」

「おらが蛍を観たのは五年前の盆前だった。兄貴が杉の枝打ちを手伝ったときに見つけただ。そんときは、まだ日が暮れてなかったけん、あんまり綺麗じゃなかったらしいけんど、あばかんだったということはわかったらしい。その話を聞いて、翌日の夜、兄貴に連れて行ってもらったんだけんど、そりゃあ気味が悪いほど凄かったけん。おらもあんなのは初めて見ただ」

 彼の性格からして、洋平は決して嘘でも大げさでもないと思った。

「その年はの、四月になっても低温が続いての、海水の温度も上がらんで、真鰯(マイワシ)が不漁だったし、山の根雪は一ヶ月も長く、四月の終わりまで残っちょった。だけん、蛍の繁殖も一ヶ月ほど遅れたじゃないかの」

「ということは……」

 洋平は今年の冬を思い起こした。

「洋平君。今年の冬はどうだったの」

 美鈴が急かすように訊いた。

「そう言えば、三月の終わりに季節外れの大雪が降り、四月になっても寒かった」

 洋平が声を弾ませて言うと、

「今年の春も真鰯は不漁だったけん、五年前と似ちょうということだが」

 隆夫は、どうだ参ったか、と言わんばかりの得意顔になった。

「けんど、蛍は水のきれいなところじゃないといけんのじゃろ。あの近くで、ダムの工事をしちょうけど、大丈夫だらか」

「さっき俺が行って見た限りでは、あの辺りは変わっちょらんから、大丈夫だら」

 蛍の群生が現実味を帯びたことに、洋平は大いに興味をそそられたが、一方で絶望的な難題を抱えていることにも気付いていた。夜にどうやって家を抜け出すか、その手立てがないということである。

「私、見てみたい。洋君、二人で行こう」

 美鈴は洋平の耳元で、囁くように誘った。洋平は、彼女の気持ちを忖度しながらも、きっぱりと否定した。

「そいは無理だけん」

「どうして?」

「だって、夜なんだよ。夜だと、おらたちだけで、どこかへ行くことさえもできいしぇんのに、まして山に入るなんて絶対にできいしぇん」

 いかに平和で安全な村だと言っても、いやそれが村人たちの相互関心の上に成り立っていることを思えばむしろよけいに、夜に村中をうろつくことなどできることではなかった。

 それっきり、二人とも言葉がなくなった。

 洋平は隆夫を少しだけ恨めしく思った。自分たちに興味を持たせた挙句、落胆するはめになったからだ。もちろん悪気のない隆夫に対して、筋違いであることはわかっていたが……。

 隆夫と別れたときだった。

「ねえ、洋君。蛍、どうしても無理かな」

 縋るような眼差しだった。

「誰か大人の男の人が付いて行けば、もしかしたら行けえかも知れんけんど、でもうちは、お父ちゃんは仕事だし、お祖父ちゃんも無理だけん」

「うちも、祖父ちゃんと叔父さんの二人は、夕食が終わってからも、作業場に行って仕事をしているみたい」

「親戚の叔父さんたちも無理だろうなあ……」

「でも、どうしても観たい。やっぱり二人だけで行けないかなあ」

 美鈴は諦めが付かないようだった。しかし、洋平にはどうすることもできなかった。

「そいは絶対無理だけん。おらも行ったことないんだよ。場所は隆夫に教えてもらうけんど、もし道に迷ったら大変な騒ぎになるけん。第一、いったいどげして夜に家を出るっていうだあ」

「それは……」

 美鈴は言葉に詰まった。

「ねえ、鈴ちゃん。今年は諦めて、次の機会にしょいや。中学生か高校生になったら、二人だけでも行けえけん」

 慰めのつもりだったが、意に反して彼女の表情を険しいものに変えた。

「次じゃだめ。どうしても今年行きたいの!」

 初めて聞く強い口調だった。それが洋平の心に不安の波紋を広げた。

「何で次じゃいけんのかな? なにか特別な理由でもあるだか」

「特別な理由なんかないけど、どうしても今年観ておきたいの」

 勝気とも負けず嫌いとも違う頑なな態度に、洋平の不安は増幅されていった。

「言っちょくけんど、おらの鈴ちゃんへの気持ちはずっと変わらんけん。だけん、今年無理せんでも、来年でも再来年でも何時でも二人で行けがな。それとも、鈴ちゃんは、おらに対する気持ちに自信がないだか」

 ううん……と美鈴は首を横に振った。

「そんなことはない。私の気持ちも絶対に変わらないよ」

 そう断言した美鈴だったが、俯いた表情に陰影が射していた。

 彼女は呟くように言葉を継いだ。

「私が拘っているのは、そんなことじゃないの……」

 その思い詰めた物言いに、洋平は見当違いの不安だったことに気付いた。

「そんなら、なんなの? なんで、そがいに今年に拘るだ」

「ええと……、それは次だと……、それは……、そう、次に大雪なるのはいつかわからないでしょう」

 途切れ途切れの言葉は、洋平にも苦し紛れだとわかった。たったいま、気持ちは絶対に変わらないと言ったばかりである。そうであるなら、次の大雪の年を待てば良いのだ。むしろその方が、二人も大人になっていて、都合が良い道理である。

「そいは今年も同じだが。いくら大雪が降ったといっても、今年だって必ず蛍が居るかどうかわからんがな。だけん、次の機会に延ばしても同じじゃないかな……」

 美鈴には乗り気がないと映ったのだろうか、いっそう語気が強まった。

「だから、今年に行っておきたいの。次の機会なんてどうなるかわからないでしょう? 必ず蛍狩りに行けるとは限らないし、ダム工事の影響だって出るかもしれないし、相手は自然なんだから、大雨でも降ったら蛍は全滅しちゃうじゃない。どっちにしても、次に必ず蛍を観られる保障なんてどこにもないんだよ。もし、次の機会に観られなかったら、きっと洋君も後悔すると思うよ」

「まあ、そりゃあ、鈴ちゃんの言う通りだけんど……」

「洋君。今年も次の機会も、ううん、来年も再来年もその先も、毎年二人一緒に行ってみれば良いじゃない。そうすれば、後悔なんかしないでしょう。とにかく私は一度思い立ったことを先延ばしにするのが大嫌いなの」

「……」

 その気迫に満ちた口調に洋平は返す言葉が見つからなかった。

 美鈴が続ける。

「洋君、どうせ同じことをいつかするなら、思い立ったときに行動する方が良いよ。思い切ってすぐに行動してする後悔より、先延ばしにしてする後悔の方がずっと大きいと思う」

 気迫に満ちた口調だった。説得力もあった。これまでも美鈴の言葉の端々から意志の強さを窺い知ることはあったが、これほど強固な態度は初めてだった。

 洋平は、もう一度考えを巡らした。しかし、どうしても夜に二人で家を抜け出す手段で行き詰まった。


「二人ともご苦労さんだったね」

 縁側に笹竹を置いたとき、見計らったように奥から里恵が冷えたぜんざいを持って来た。里恵は、度々洋平の好物のぜんざいを作った。冬は熱いまま、夏は冷やして食した。

 さっそく箸を付けた洋平を他所に、美鈴は里恵に切実な心情を吐露した。

「おばさん、隆夫君に蛍の話を聞いて、夜に山へ見に行きたいのですが、洋君が無理だって言うんです。でも私、どうしても、どうしても観に行きたんです」

「あらあら、美鈴ちゃん……どげしたかい、そんなに思いつめた顔をして……」

 事情が良く飲み込めない里恵に、洋平は隆夫から聞いた話を詳しく伝えた。

「なるほど、そういうことかね。夜に山へねえ。けんど、誰かが付いて行くと言っても、うちの親戚は皆漁師だけん、海に出ていて居らんしねえ」

 里恵もそう言ったきり考え込んでしまった。

 洋平は、やはり無理なのだろうと思った。沈鬱な空気が支配する中、庭で鳴く油蝉とミンミン蝉の合唱が、殊の外耳障りな雑音となって届いていた。

 洋平が美鈴に諦めさせる適当な言葉を模索し始めたときだった。

 里恵が意外な言葉を吐いた。

「ここは一つ、隆夫君に頼むしかないわね」

「え? 隆夫」

 洋平は思わず顔を顰めた。

「隆夫君は場所を知っちょうのでしょう。だったら、まだ安心じゃない」

 里恵は委細構わず言い切った。

 たしかに考え得る一つの方策ではあったが、隆夫に対するわだかまりが、完全に払拭されたわけではなく、洋平は気が進まなかった。

 美鈴はじっと洋平を見つめていた。

 洋平は彼女が何を訴えたいのかわかっていた。

 洋平は迷いに迷ったが、ただ黙って切々と望みを訴えている美鈴を見ているうち、彼女に蛍を見せてやりたいと思う気持ちが、隆夫へのわだかまりを駆逐していった。

「おら、隆夫に頼んでみる」

 洋平は決然と言った。

 すると、彼の口元を注視していた美鈴がすかさず、

「私も一緒に行く」

 と訴えたが、

「いや、鈴ちゃんはうちで待ちょって、おら一人で行って来るけん」

 と、洋平は押し止めた。

 このとき洋平は、一度隆夫に頼むと決めたからには、土下座をしてでも、必ずや承諾を得ようと思っていた。したがって美鈴にはその場を見られたくはなかったし、なによりも彼女が傍にいれば、隆夫に対して素直になれなくなるかも知れないと案じたのだった。


 寺本隆夫の家は恵比寿家から西の方角で、一筋北に位置していて墓地に行くまでの途中にあった。

「こんにちは」

 洋平は玄関で声を上げた。

 隆夫の家は古かったが、元は網元だっただけのことはあって、他に比べれば大きな家だった。

 隆夫がその家に母と二人きりで住んでいるのかと思うと、洋平は我が身の有難さをしみじみと痛感した。

玄関の敷居を跨ぐと、広い土間があり、間仕切りの扉に続く奥の土間に二つの大きな竈が見えた。

 その竈を目にした瞬間、急に胸の奥から懐かしさが込み上げてきた。

「あら、恵比寿の総領さん、これは珍しいこと」

 隆夫の母の愛子が竈のある土間から顔を出し、大変に驚いた声でそう言うと、

「まあまあ。いったい、いつ以来のことですかね。小さい頃はよく遊びにおいでだったね」

 と懐かしそうに言葉を続けた。

 そうなのである。洋平は幼稚園児の頃から、彼の祖父と父が亡くなるまでは、この家によく遊びに来ていたのだ。洋平も他の少年と同様、釣りが上手で、アケビや栗の独自の穴場を知っていた隆夫に憧れていて、いつも彼に付き従っていた。

 小腹をすかせて遊びから戻って来ると、あの竈で煮てあったさつま芋をつまみ食いしたものだった。洋平の胸に込み上げてきた懐かしさは、幼き頃の隆夫との思い出だった。

 だが、あの不幸な海難事故以来、どちらからともなく、お互いを避けるようになった。二人の間に溝ができ、心が通わなくなってしまったのだった。

「隆夫、恵比寿の総領さんがお見えだよ」

 愛子の声に、隆夫が部屋の奥からそのっと出て来た。

「お、おう、洋平。珍しいな、わいがうちに来るなんて」

 隆夫は意外な訪問者に、戸惑うな素振りを見せながら式台に腰掛けた。

「実はわいに頼みごとがあってな」

「わいがおらに頼みごと? これはまた珍しいなあ。いったいなんじゃ」

「さっき、わいが蛍の話をしただろう。そんで、おらたちも蛍を観に行きたいけんど、わいも知っての通り、うちの親戚は皆漁師だけん、夜の付き添いは無理なんだ。そいでな、お母ちゃんがわいに頼むのが一番だって言わさったけん、こうやって頼みに来たんじゃ。隆夫、頼むからおらたちを連れて行ってごさんか」

 洋平は深々と頭を下げた。彼が隆夫に頭を下げたのは、小学校に入学したての頃以来だった。

 隆夫は面を食らった様子で、しばらく黙っていたが、やがて念を押すように訊いた。

「わいのお袋さんがおらに頼め、と言わさっただか?」

「ああ、そうだ。そんで、おらもわいに頼もうと思っただが」

 洋平がそう答えると、

「よし、わかった。おらが連れて行っちゃる。わいのお袋さんが、おらに頼めと言わさったとあっちゃあ、否とは言えんけん。わいのお袋さんには、世話になっちょう義理があるけんな」

 洋平には隆夫の言葉の意味がわからなかった。

「おらのお母ちゃんに義理って、どげなことや」

 と訝し気に問う。

「わいは知らんのかあ……」

 隆夫は逡巡した。

「隆夫、言ってごしぇ」

 洋平は強く催促した。

 そこまで言うならと、

「わいのお袋さんには、いつもおらが獲ったサザエやあわびを買ってもらっちょうがな。それも、漁協で付く値段より少し高値でな。サザエやあわびだけじゃなく、カサ

ゴやべらのような売り物にはならん雑魚まで買ってもらっちょうがな。ほんとに助かっちょうがな」

 隆夫は、洋平が知らない事実を打ち明けた。

 聞けば、里恵はそうしたことをずいぶんと以前から行っていたようだが、洋平をはじめ家族には、一切何も話してはいなかった。

 洋平は、実に母らしいと思った。おそらく、そのような母であればこそ頑なな隆夫も情けを素直に受けたのだろうと思った。

「おらの都合は、明々後日がええのやけんど、そいでええか?」

「うん。ええよ」

 良いも悪いもない洋平は、二つ返事で了承した。

 こうして、蛍狩りは九日に決定したのだが、洋平は彼女が許しを得ることは難しいと思っていた。自分の方は祖父や父も問題ないであろうが、大工屋が預かっている子

供を夜に出すだろうか、という懸念があったからである。

 しかし、意外にもあっさりと許しが出た。後で聞けば、美鈴が両親との直談判に及んだということだが、思いの外強い反対もなく、許しが出たということだった。


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