第6話 成就
寺本隆夫の存在は、洋平の心にはっきりと暗い影を落としていた。
洋平は、隆夫が遥か以前から美鈴と単なる知り合いという以上の親密な間柄だということを妬み、二人が親戚関係にあるという現実を羨んだ。つまり彼は、血脈という自身がどのように足掻いても得られない美鈴との特別な関係性を隆夫が有していることに嫉妬したのである。
洋平は、これまでに経験したことのない焦燥感を味わっていた。美鈴を隆夫に奪われるかも知れないという不安に苛められていた。彼はこれまで、何不自由なく育てられ、欲しいものがあれば、たいていの物は手に入れてきた。だが今度ばかりは、恵比寿家の権威と祖父の助力も当てにはならなかった。
唯一、己の力のみが試されるのである。しかも競う相手が、日頃自分が適わないと感じていた隆夫だっただけに、その不安は一層強いものとなっていた。
心を広く靄が覆っていた。この重苦しい憂いは、当分晴れそうもないと洋平は自覚していた。
翌日、洋平の焦燥感に拍車が掛かる事態になった。美鈴から連絡があり、恵比寿家には来られないというのだ。
――隆夫と一緒にいるのだ。
洋平は、そう確信した。
昨日の今日であれば、そう思っても無理はなかった。それでも洋平は、気を取り直し、他の理由を考えてみたが、気休めにしかならなかった。洋平は、久しぶりに会った親戚同士なら、一日ぐらいは当然の成り行きなのかもしれないと自分自身に言い聞かせた。
だが翌日になって、この淡い望みも儚く消えた。美鈴はこの日も家にやって来ることがなかったのである。
洋平は心に光を失ったまま、悶々とした時間を過ごさねばならなかった。
――彼女の心は、隆夫の許に移ってしまったのか……?
疑念から生まれる失望は、洋平の忍耐を容赦なく駆逐した。そして、このまま悪い想像ばかりを働かし、手を拱いていても、この心の痛みから逃れることはできない、という思いが増幅していった。
追い込まれた洋平は、プライドをかなぐり捨て、真実を確かめる行動に打って出た。無我夢中で家を飛び出した彼は、隆夫の家の壁伝いを徘徊し、盗人のように中を窺ったのである。
誰かが通り掛かる度に、すぐ先にある駄菓子屋に駆け込み、人影が無くなったと見るや、また表に出て行くという怪しげな行動を繰り返した。洋平は、およそ恵比寿家の総領に有るまじき惨めな行為も全く厭わなかった。
幸いだったのは、駄菓子屋の老夫婦とは物心が付いた頃から、昵懇の仲であったため、彼の不審な行動にも、きっと何か事情があってのことなのだろうと好意的に受け止め、黙認してくれたことだった。
挙動不審な動きを繰り返して三十分が経った。
突如、隆夫の家の中から、男女二人の笑い声が漏れてきた。大声を上げているのは、明らかに隆夫であり、もう一人の少女の声は美鈴のように聞こえた。微かな声でよく聞き取れず、断定することはできなかったが、冷静さを欠く洋平には、何者の声であれ、彼女のものとして耳に入り込んでいた。
洋平は、真っ暗な奈落の底に突き落とされた。彼の舞い上がった想いは、美鈴と出会った日に張り巡らした予防線をとうの昔に乗り超えており、彼女を失った失望は、広げていた安全網をいとも簡単に突き破ってしまったのだった。
洋平が生まれて初めて、世の中には自分の思い通りにならない事がある、ということを思い知らされた瞬間だった。
こうして苦悶に満ちた二日間が過ぎた。
次の日の朝になって、三日ぶりに彼女が恵比寿家に訪れることになったのが、洋平の心境は複雑だった。何かの間違いで、まだチャンスが残っているかも知れないという期待と、最後通告を受けたときの絶望とを秤に掛け、戸惑っていたのである。
天秤は絶望の方に傾いていた。連絡のあった時刻を過ぎても、美鈴は姿を現さなかったのだ。大工屋で何かあれば、再び連絡があるはずであるから、道中で何かあったに違いないと確信した。
洋平は悪い予感に、不安が急速に広がっていくのがわかった。居た堪れない洋平は、門前の通りをうろつきながら、いつ来るやも知れぬ美鈴を待っていた。ほんの数分間が永遠のように彼を苦しめた。
彼が何度目かに、海岸通りの方へ振り向いたときだった。前方から、彼女が誰かと話しながら歩いて来る光景が目に飛び込んできた。
洋平は悄然として、その場に立ち竦んだ。悪い予感は的中した。美鈴と肩を並べていたのは、まさに隆夫だったのである。こうして遠くから眺めると、悔しいけれども、身体の大きい隆夫は美鈴とお似合いである。
しかも彼女は、照れくさそうにしながらも満面の笑みを浮かべている。自分には見せたことのない、その表情を目の当たりにしたとき、洋平は完全に彼女を奪われたと思った。
心から不安が跡形もなく消え去り、入れ替わるようにして、嫉妬心が再び頭を擡げた。
洋平は、何か恐ろしいものと出会ったときのように、門の中に駆け込み、我が身を隠そうとした。だが、一足早く二人の目に留まってしまい、その試みはできなくなった。
「よう、総領さん。ちゃんと美鈴を送り届けたけんな」
近づいて来た隆夫は一瞥すると、口元に冷笑を浮かべながら洋平の前を通り過ぎ、足早に去って行った。
その言い草が洋平の癇に障った。まるでナイト気取りだったからだ。しかも、普段隆夫は『洋平』と呼び捨てにしており、彼がこのような物言いをするときは、精神的な高みに立っているときと決まっていた。どう見ても、明らかに勝ち誇った素振りだったのである。
転瞬、洋平の嫉妬心は怒りに変わった。
しかも、嫉妬の深さに比例した甚大な憤怒の鉾先は、隆夫にではなく美鈴に向けられた。洋平は、理不尽だと理解しながらも、彼女が自分を裏切ったような思いになっていたのである。
「美鈴ちゃん、悪いけんど、今日は一緒に居られんけん。お祖父ちゃんの用で、これから一緒に街に出かけるけん、このまま帰ってくれるかあ」
洋平は、口からでまかせを言ってしまった。
思いも寄らない言葉に、美鈴の表情が一瞬にして強張ったのがわかった。
彼女は、心を落ち着かせるように、一つ息を呑んでから、
「私も一緒に行っちゃだめ?」
と縋るように訊いた。
「そりゃあ無理だけん。だって遊びに行くんじゃないけん。うちの用事で行くのだけん。美鈴ちゃんはうちとは関係ないがな」
洋平は、きわめて冷たく言い放った。まるで心の中に悪魔が忍び込んでいるかのように……。
「……」
彼女は無言のまま、とぼとぼと歩き出した。
――おらを裏切った報いだ。
その憔悴した後姿に、洋平は爽快感を抱いた。
「おらは明日も用事があるけん、うちに来んちょってな」
洋平は彼女の背中越しに、追い討ちを掛けるように言った。もはや美鈴に振り向く気力はなく、うな垂れたまま帰って行った。
しばらくは爽快感に浸っていた洋平だったが、時が経つにつれて、後悔の念に変わっていった。美鈴を斬り付けたはずの言葉の刃は、その切っ先を返し、何倍も鋭い切れ味で、彼自身の心を切り裂いたのだった。
――おらはなんという狭量な人間なのだろう。
美鈴を隆夫に盗られたのではないかという焦燥感。
美鈴が隆夫と一緒に歩いていたことに対する嫉妬心。
隆夫の挑発的な物言いに対する怒りを隆夫本人ではなく、全く非のない美鈴に向ける卑怯な行為。
そして、気を落とす彼女を見て、爽快な気分になる下劣さ。
自分はこれほど陋劣な人間だったのか。
これほど自分勝手で心の卑しい人間なのか。
洋平は、ほとほと自分自身に呆れ果て、自己嫌悪に苛まれていた。
恵比寿家の総領として生まれ、家族の寵愛を一身に受けて育ってきた。その結果、いつの間にか、心の中に歪な自己顕示欲と独占欲が萌芽し、それを満足せんとして、劣等な精神に冒され、このような愚行に走ったのかもしれない。
総領として受けていたはずの厳しい躾も、この体たらくからすれば、何ほどのものであったか、と洋平は自分自身に失望した。
翌朝、洋平がいつものように奥の間で勉強しているときだった。血相を変えた母の里恵が小走りでやって来て、いきなり怒鳴った。
「洋平。そこに正座せんか!」
洋平には、すぐに母の怒りの元が何であるかがわかった。
彼が正座をした瞬間、里恵の容赦ない平手が飛んできた。
うっ、と洋平は左手を頬に当てながら呻いた。
母にぶたれたのは久しぶりだった。
「わいはなんでぶたれたかわかっちょうわな!」
夜叉の如き形相だった。
「はい」
すでに母の怒りを理解していた洋平は、観念したように肯いた。
「わいは、美鈴ちゃんに何と言っただ?」
「昨日と今日は、用事があるけんうちに来るなと言いました」
「なんで、そげな嘘を吐いただ。用事なんてないだらが!」
洋平は、正直に昨日の出来事を話した。すると、一転して母の口調が悲しみを帯びたものになった。
「わいは何と愚かなんか。美鈴ちゃんは、わいが何に怒ちょうのかわからんで、どんだけ心を痛めちょうか、わいにはわからんか。心配して、いま大工屋さんから電話があっただが」
「……」
洋平には答えようがなかった。
昨日、美鈴は家に戻っても元気がなく、家族が理由を訊ねても、口を堅く閉ざしたままだったいう。今朝も、いつもの時間になっても、いっこうに出掛ける様子がない。万太郎が訊ねても、ただ泣くばかりなので、心配になり我が家へ電話を掛けてきたということだった。
里恵は諭すように継いだ。
「洋平、よう聞きなさいよ。わいは、少しは頭がええのかもしれん。少しは神仏を信心する心があり、少しは筋目を通し、義に厚いところがあるのかもしれん。しかし、それもこれも皆、まず先に人間としての大切な心があったうえでのものなのだよ。
ええか、洋平。人間は人を憎まない心、人を恨まない心、人を妬まない心、人を羨まない心。そして、人を許す心が一番大事なのだよ」
里恵の目に光るものがあった。生まれて初めて母の涙を見た洋平は、込み上がる想いに胸が塞がってしまい、涙が溢れ出た。
里恵は躾には厳しい人で、目上の者に対する言葉遣いをよく間違えた洋平は、その度に叱られていた。とくに里恵の誤解で注意されたとき、弁明をしようとすると、焦ってつい言葉遣いを間違えてしまうことがあった。里恵は、そのような場合でも容赦がなかった。
叱られるときは、まず頬をぶたれた。すぐに心底から謝れば、そこで収まったが、少しでも口答えや反抗的な態度を取ると、土蔵に入れられて、柱に縛り付けられた。
然様に、これまで幾度もぶたれていた洋平だったが、その時々に母の怒りを感じたことはあっても、悲しく諭す母は初めてだった。
洋平は、母の言わんとしていることが良くわかっていた。彼自身、自責の念に苦悩し続けていたのだから……。
「おら、大工屋さんに行ってくるけん」
洋平は、とにかく美鈴に謝ろうと思った。たとえ彼女に嫌われたとしても、けじめを付けようと思っていた。
「そうだね。そうしなさい」
洋平の心情を読み取った里恵は、いつもの優しい母の顔に戻っていた。
大工屋からの帰り道、洋平は小瀬での釣りのときから、今朝母にぶたれるまでの自分の気持ちを嘘偽りなく美鈴に話した。彼には、弁明をしようという気持ちは一切なかった。ただ一途に、真実の気持ちを伝えた。
美鈴もその一つ一つに答えてくれたお陰で、洋平は大きな誤解をしていたことがわかった。美鈴が来なかった二日間、彼女は体調を崩し、寝込んでいたというのが真実だったのである。
――隆夫と会っていたのではなかったのか……。
春霞が風に吹かれて霧散するように、洋平の心を覆っていた憂いが晴れていった。
美鈴が笑顔で隆夫と会話をしていたことに、話が及んだときだった。
「あれは、隆夫君が変なことを言ったから……」
「変なこと?」
「うん。あのね、あるとき隆夫君が素潜りしていて、トイレに行きたくなったんだって。でも海の中だし、陸まで遠かったから、そのまましたんですって。すると生暖かいものが……その、あの……のところに広がってきて気持ち良かったので、それからいつもそうしているんだって。だから、そのときの顔は……」
「わかったけん、もうええよ」
誤解を解こうとして、懸命に説明をする彼女を見ているうち、洋平の心に罪悪感が再燃し、痛みに耐え切れなくなった。
「でも、隆夫君、外見と違って、心は昔とちっとも変わってなかったなあ」
美鈴は独り言のように呟いた。
――昔と変わってない……。なら、隆夫がおらに取る態度はわざとなのか……?
洋平は、美鈴の何気ない一言が妙に耳に付いて離れず、気もそぞろになっていた。
彼女が不意を突いた。
「洋平君、今でも私のことが好き?」
海岸通りに入ったところで、いきなり彼女が訊いた。
えっ? 思いも寄らぬ言葉に、洋平は足を止めて美鈴を見つめた。
美鈴は顔を赤らめながらも目を逸らさない。
「うん、がいに好いちょう」
洋平自身も意外なくらいに素直な言葉が口から出た。
すると、間髪入れずに、
「私も、洋平君のことがとても好きだよ」
……と言ったように聞こえた。
か細い声が潮騒に打ち消されて、はっきりと聞き取れなかったのである。
「えっ、いま何て言った?」
「……」
下を向いたままの彼女に、洋平の期待はさらに膨らんでいった。
「おらのこと好きって言った?」
二度目の問いに、彼女は黙ったまま小さく肯いた。
眩しいほどに光り輝く視界が広がった。
洋平は『天にも昇る心地になる』と言うのは、今の自分の気持ちを言うのだろうと思った。
これまでの言動や仕種に、あるいはそうかもしれない、と少なからず期待は抱いていた。だが、隆夫の出現に加え、昨日の一件で美鈴を傷つけてしまい、その期待も虚しいものとなった、と半ば諦めかけていただけに、洋平の喜びは数倍化した。
その後、いったい彼女と何を話したのか、いや、そもそも何も話さなかったのか……。とにかく、例えようもない喜びに浸っていた洋平は、そのときの記憶が途切れていた。
洋平は幸福の絶頂にいた。生涯において『最も幸せに満ちた日々』と言っても、決して大げさではないとさえ思っていた。
もちろん子供心にではあるが、洋平は初恋の成就という極めて情緒的な感情の発露だということを差し引いていた。
それからというもの、美鈴は毎日恵比寿家を訪れ、何をするのも何処へ行くのも一緒で、二人は片時も離れることがなかった。彼女はラジオ体操にも顔を出し、三食も恵比寿家で済ませるようになった。大工屋には、それこそ寝るためだけに帰っていたようなものだった。現在ではとても考えられないことだが、二十年以上も昔の田舎には、それだけ大らかな風潮があった。
背景に絶大な信用があった恵比寿家の存在も忘れてはならないが、いずれにせよ、これだけ恵比寿家で過ごすと、まるで家の子供になったようで、ウメや里恵などは、新しい孫か娘ができたみたいと喜んでいるほどだった。
二人は外出することも多くなった。海遊びや釣りはもちろんのこと、虫取りや畑仕事、小学校やお寺、神社にも出向いた。二人が、あまりに村のあちらこちらに顔を出すものだから、当然世間の目に触れることも多くなったが、二人の関係は幼い恋だったので、別に人に見られて気が咎めるようなことはなかった。
村人たちは、内心はいざ知らず、表向きは愛想良く接した。うっかり表立って良からぬ噂などを立て、それが洋太郎の耳にでも入ったりすれば、それこそどのような次第になるやもしれず、皆それを恐れて口にしなかったと思われた。
しかし、親戚の者たちは黙ってはいなかった。とくに父方のおばたちは、取越し苦労をしていたようで、さっそく行動となって表れた。
恵比寿家を訪ねて来て、美鈴を見掛けると、初めのうちは、
「あの娘さんは、どこの娘さん?」
と口々に訊ね、
「大工屋の秀次さんの娘さんですよ」
と、里恵から聞くと、
「ああ、秀次さんの娘さんか、そげんしても可愛らしいこと」
などと言って帰っていたが、そのうち何度来ても、その度に彼女を見掛けるうえ、二人が一緒に居るところを村のあちこちで目撃した、という話を度々耳にするものだから、里恵に詰め寄ったりすることもあった。
その日は、近所に住んでいる叔母の裕子が、何やら腹に意を含んだ面持ちで恵比寿家にやって来た。
「里枝義姉さん、今日は姉さんにひと言言わせてもらいますけんど、最近あの娘は、しょっちゅうこの家に来とるということじゃないですか。私も恵比寿に来る度に出会うけん、よう見かけるなあ、と思っていましたけんど、小夜子姉さんと話をしちょううちに、小夜子姉さんも、恵比寿に行く度に顔を見ちょうと言うじゃないですか。日にちを勘定すると、毎日来ちょうということになりますけんど、これは何か事情があってのことだかい?」
「別に、事情も何もああしぇんがの。本人同士が気に入っちょうだけのことだけん」
いきり立っている裕子に対して、里恵は軽く受け流した。
「義姉さん、そりゃあ、ちいと呑気すぎいしぇんかい。何か間違いがあったら、いったいどげんするつもりだかい」
「何の間違いがあるって言うだかい?」
「だけん、そげだ……。十二歳といっても、男と女だけん、何があるかわからんって言うのだが」
あははは……と里恵は口を大きく開けて笑った。
「裕子さん、そげんことを心配してわざわざごさったのかい。何も心配はいらんけん。二人はまだ子供だけん」
そう言うと、呆れ顔を仕舞い込んだ。
「だいてが、もし二人の間に何かありゃ、そんならそんで、洋平の許婚として、ゆくゆくはうちの嫁にもらったらええことですけん。美鈴ちゃんは、器量はええし、気立てもええし、さらに頭もええ。まさに文質彬彬だけん。大工屋さんの身内だけん家柄も文句ないでしょうが。第一、洋平が何かするとすりゃあ、それぐらいの覚悟をしちょうけん」
里恵は真顔でそう言い放った。
里恵は生来度胸があるというか、人を食ったようなところがあり、洋平は母のそういう一面は大好きだった。
里恵は苦労人だった。七人兄弟の第一子で、十四歳のとき、戦争で祖父を失ったため、二十一歳で父と結婚するまで、生計を立てるため外に働きに出ていた祖母に代わり、弟妹の面倒を良くみた。それだけでなく、暇を見つけては、漁港の肉体労働をもいとわなかったため、過労が祟って身体を壊したりもした。
十七歳のとき、洋一に見初められ求婚されたが、里恵は家柄の違いと、弟妹とのことを考え固辞し続けた。しかし、洋一の気持ちは何ら変わることがなかった。
里恵にしてみれば、自身が洋一との大恋愛の末に、障害を乗り越えて、恵比寿家に嫁いだということもあり、この余りにも幼なくはあるが、純粋な二人の恋を暖かく見守りたいという気持ちだったのかもしれない。
里恵のあまりに大胆な発言に胆を潰され、本気なのか冗談なのか見当が付かない裕子は、このまま里恵と話を続けても埒が明かないと思ったのか、今度は洋太郎にまで談判をした。
「お父さん、いったいどげんしたことなんでしょう。里枝姉さんに言っても、全く取り合ってもらえんし……二人であちこち出かけちょうというじゃありませんか。世間の目だってあるでしょうに……」
「世間の目だと、何か悪い噂でもあるだか?」
「いいえ、別に悪い噂などありゃあしませんけんど……村の者は心に思っちょったって、恵比寿を恐れて、絶対に口になんかしませんよ」
「言いたい奴がおったら、勝手に言わしちょけばええんじゃ」
「恵比寿はそげでええでしょうけど、大工屋さんはどげなんです?」
「万太郎さんが、三日と空けずに礼をしにござる。向こうも承知のことだ」
「本当に間違いがあったらどげするんです。そりゃもう、私は恵比寿の家に傷がつかんかと心配で心配で……」
だら(ばか)! と洋太郎は一喝した。
「わいはもう恵比寿の人間ではないんだぞ。わいは、この家の事より自分の家の事を心配せえ。ええか、将来この恵比寿の家は洋平が跡を継ぐんじゃ。洋平の好きなようにさせたらええ」
父の洋太郎にそうまで言われると、裕子もそれ以上は何も言えなかった。
洋太郎のつるつるに禿げ上がった頭に、口周りと顎に髭を蓄えている風貌は、まるで出家した戦国武将のようで、本人の意図するところではなかったが、相手を威圧してしまうところがあった。
洋太郎を良く知る者でさえ、稀に鋭い眼光で睨まれると、身が縮む思いになったということであるから、初対面の者ならば、その心境はいかばかりかであったか想像に難くはなかった。
だが、内実は義理人情に厚く、涙もろいところがあり、筋目を重んじ不義不正を決して許さない、正義の鎧を身に着けているような人だった。
洋平は三歳の頃から、隠居生活に入った祖父の薫陶を受けて育ったのだが、洋太郎は大概のことは、洋平の思うままにさせ、よほど人倫の道に外れたことをしなければ叱ることはなかった。
しかしそれは、決して放任主義ということではなく、洋平に対する愛情と信頼の表れであった。洋平も、洋太郎の思いを十分に心に受け止め、祖父あるいは恵比寿家の、名と誇りを傷つけまいと胆に銘じ、彼なりに応えてきたつもりだった。
叔母裕子の心配は洋平にも理解できた。だが言うまでもなく、彼女の心配するようなことに至ることなど、思いも寄らないことであった。
正直に言えば、高岡卓也との一件でもわかるように、性に対して全く興味が無い訳ではなかった。誰もがそうであるように、洋平もまた、全くの子供の時期を経て、思春期の入り口に立ち、今まさにその門を潜ろうとする時分であったからだ。
だがなにぶん、濁流の如く情報が氾濫し、性に関する刺激の多い都会とは違い、映画館どころか、一軒の本屋や喫茶店すら無い田舎だったので、そういう類の情報が皆無に等しく、精神は純真無垢の子供のままであり、性に関しては言えば、興味より畏怖の念の方が圧倒的に大きかったのである。
ともかく、洋平と美鈴はお盆が終わるとその先はどうであれ、一旦は離れ離れになるという,制約された短い時間の中で、何かに急かされるように、幼い恋を育んでいったのだった。
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