第5話 宿敵

 墓参が終わると、隆夫の生家で精進落としの酒宴となった。

 地元に住んでいる同級生はむろんのこと、洋平と同様、都会に出ていて三月の葬儀には参列できなかった者たちも数多く出席していた。

 その中に律子の姿もあった。永楽寺では見掛けなかったが、料理の準備を手伝っていたのだろう。

 旧姓森崎、今は結婚して高岡姓となっているはずだ。

「久しぶりだわね。いつ以来かしら……」

 律子は洋平の姿を見とめると、ビールを手にして彼の横に座った。

 シースルーのような夏物の喪服は、彼女の豊満な身体の線を容易に想像させた。

「さあて、いつだったか」

 洋平は視線を逸らして、記憶を手繰る仕草をした。

「高校を卒業して以来よ」

 言い聞かせるような口調だった。

「そがいになるかな」

「小学校の廃校が決まったときの同窓会はともかく、隆夫君のお葬式にも顔を出さないし……隆夫君には悪いけど私、洋平君に会えるのを楽しみにしていたのよ」

 律子は、グラスにビールを注ぎながら耳元で囁いた。

 洋平は戸惑わずにはおれなかった。律子は見た目には二十代、ともすれば二十歳そこそこと言っても通用する若さを誇っていた。洋平の目には、その瑞々しい美貌が眩し過ぎた。たしかに、夫の高岡卓也は四歳年下だが、それだけではないように思われた。

「卓也は元気か?」

 洋平は、手渡したグラスにビールを注ぎ返しながら訊いた。

「三年前に離婚したわ。たった二年しかもたなかった」

 律子はあっけらかんと言った。

「離婚? 理由はなんや……」

 洋平は思わずそう言葉に出して、すぐに思い止まった。

「いや、余計なことを訊いたな」

 独身の身には夫婦間の機微などわかるはずもない、と思い直したのである。

「気にしないで。元々、結婚したこと自体が間違いだったの」

 洋平には意外な答えだった。

「でも、愛し合って結婚したんやろう」

「どうかしらね。彼の愛を感じたことはなかったし、私も何となく、って感じかしら」

「せやったら、なんで結婚を?」

 したのか、と訊いた。

「世間体を気にした親に、しつこく勧められたからよ」

「……」

 洋平の脳には響かなかった。

「わからない? 私は三十手前だったし、いつまでも実家に住み着いていたら、兄夫婦の厄介者じゃない」

「家を出ればええやんか。仕事はしてたんやろう」

 ええ、と頷いた律子が胸を張った。

「松江で塾の講師をしていたわ。これでも、大学の教育学部を卒業したから、教師の免状を取得しているのよ」

「それなら、良い給料を貰っていたやろう」

「馬鹿ね。あの父が一人暮らしを許す訳がないじゃない。いつまでも箱入り娘にしたかったの。いいえ、違うわね、箱入りおばさんかしら」

 律子は自嘲の笑みを浮かべる。

「なるほど、あの親父さんなら、わかる気がするな。君も親に逆らってまで家を出たくなかったということか」

「私には、洋平君のように実家と絶縁になる覚悟なんてできやしなかったわ」

「君はそうだとしても、卓也はなんでや」

「彼は彼で、その、悪い噂が立っていたからじゃないかしら……」

 律子は慎重に言葉を選んだ。

 悪い噂という言葉に不吉なものを感じた洋平は、

「卓也の悪い噂ってなんや」

 と恐る恐る核心を訊ねた。

「大きな声では言えないけど、女性には、あまり興味がないみたいなの」

 律子は、顔を洋平の耳元に近づけて言った。

 瞬間、洋平の背中に悪寒が奔った。

――ま、まさか、あのことが原因か……。

 洋平は、顔面から血の気が引いてゆくを感じながら、美鈴と出逢う少し前の早春の季節を想起した。


 洋平は高岡卓也をよく知っていた。四歳年下だが、子供の頃に親交があった。当時は、一年生から六年生までが一緒になって遊んだり、村行事を行ったりと、交流する機会が多かったのである。

 たとえば、秋になると各々グループを作り、一緒に山々に分け入り、栗やあけび、桑、山葡萄、柿の穴場を上級生が下級生に伝えたりしたものだった。

 恵比寿家の総領の立場にあるうえに、小遣いに不自由のなかった洋平は、よく下級生にお菓子を振舞ったので、彼のグループが最大数を誇っていた。

 その中に卓也もいたのである。洋平は、彼を一番に気に入っていた。頭が良く、素直で粗暴なところがなかったからだが、中でも洋平が最も惹かれたのは、クリーム色のさらさらの髪、少女のような白い肌、優しい顔立ち、華奢な身体つきだった。

 そうなのだ。卓也は、中性的な雰囲気を纏う孌童(れんどう)だったのである。

 ある夜のことだった。性的な目覚めを目前にしていた洋平は、禁断の行動に出てしまった。

 小学生の務めである、『火の番』で、村中を周回した後、洋平は皆を帰すと、卓也一人を残し、物陰に引き込んだ。

 洋平は息を呑んで言った。

「卓也、目を瞑れ」

「えっ」

 卓也は、一瞬怪訝な表情を浮かべたが、何かを悟ったように素直に目を瞑った。

 洋平はしゃがむようにして高さを合わせ、卓也の唇に視線を注いだ。彼の吐く息の熱が伝わってきた。

 洋平はそっと近づき、かすかに唇を合わせた。その瞬間だった。卓也が目を開けた。洋平は、暗闇の中に妖光を帯びた卓也の眼球をはっきりと見た。

 転瞬、言い知れぬ恐怖に襲われた洋平は、咄嗟に頭を上げた。強張った表情の洋平を見て、卓也は妖艶な微笑を浮かべた。ほんの興味本位の行為だったが、洋平は何か踏み入れてはいけない聖域を侵したような戦慄を覚えた。

 以来、洋平が愚かな行為をすることはなかったが、一方で卓也の中性的色彩が濃くなって行ったことを記憶している。

 後年になって、洋平はこのときの出来事が、卓也の心の片隅に封印されていた同性愛を覚醒させたのでないかと後悔し、彼の風聞を気にするようになった。だから、律子と結婚するという話を耳にして、大いに安堵したのを覚えている。


「洋平君、顔色悪いわよ。どうかしたの」

 律子の声で、洋平は悪夢から覚めた。

「い、いや。何でもない……それで、いまはどうしとるんや」

 洋平は、慌てて取り繕った。

「境港で塾の講師をしているわ。松江に残ろうと思ったんだけど、父がしつこく美保浦に戻れって、うるさかったの」

「それで美保浦に近い境港って訳か」

「いい加減、父には子離れして欲しいわ」

 律子はうんざりとした表情で言った。

「子供は?」

「いないわ。夜の方はさっぱりでね。俗に言う、仮面夫婦だったの」

「噂は本当だったということか」

「そういうことになるわね。でも、結果的には子供がいなくて良かったわ」

 律子はグラスを一気に飲み干すと、ふーと生暖かい息を洋平に吹き掛けた。

 三十路本来の熟した色気が伝わって来た。

 洋平は、すっかり気圧されてしまい、

「君もいろいろあったんやな」

 とありきたりなことしか言えなかった。

「別にたいしたことじゃないわ」

 律子はケラケラと笑った。都会人とは異なり、田舎者が離婚するというのは、大きなハンディを負うことになる。田舎に住んでいれば何かに付けて噂の対象にされ、外に出ていても、冠婚葬祭などで帰省すれば中傷の的にされる。それは三十歳を過ぎて結婚しないことも同様の扱いだと、洋平は身をもって知っているが、その割に律子は明るかった。

 洋平は、それが中年に差し掛かった女性の逞しさなのだろうかと思いながら、

「隆夫にも、きっと口にできんことがあったんやろうなあ」

 と遺影に向って呟いた。

「そうね。隆夫君は海に帰れたから良かったのかもしれないわ」

 しんみりと言った律子の言葉が心に引っ掛かった。

「海に帰ったって、どういうことや」

「ほら、隆夫君って子供の頃、海の申し子って呼ばれていたでしょう」

「ああ、そういうことか」

『海の申し子』という律子の一言が、彼の脳裏に過ぎ去りし日の隆夫の面影を甦らせた。


 その日の午後、洋平と美鈴は『小瀬(こぜ)』という磯へ釣りに行くことになった。

 その頃は、魚を選り好みさえしなければ、湾のいたるところで釣りができた。遊びということで言えば、子供たちにとっては、それこそ岸壁に停留している船舶そのものが、最も近場で気軽に行ける格好の釣り場所だった。

 なぜなら、船内を洗浄した際の、海中に流れ出される小魚や、破損した魚の切り身などを目当てにして、様々な魚が集まっていたからである。小鰺や小鯖、カワハギ、鯔などに混じって、たまに海底を鮎魚女が回遊することもあった。

 しかも海中は透明度が高く、海底まで見通せたので、魚の当たりに合わせるといった高度な技術は必要なく、餌に食い付いたところを引き上げさえすれば良かった。船主たちは、余程の目に余る悪ささえしなければ、海の男に似つかわしい鷹揚さで船上を開放していた。

 二人は真昼の暑さを避け、十五時頃になって出かけた。

 小瀬は湾内の南側にある磯で、永楽寺を通り過ぎ、村中から外れ、小さな峠を一つ越えたところにあった。比較的水深が浅く、岩々が散在しており、カサゴやべらなどの雑魚はよく釣れたが、真鯛やチヌなどの高級魚は望むべくもなかった。そのため、大人たちがこの場所で釣りをすることはほとんど無く、水深の浅さという安全さもあって、専ら子供たちの釣り場となっていた。


 二人が小瀬に着くと先客がいた。同級生の寺本隆夫である。

 彼の姿を見た瞬間、ある懸念が過ぎった洋平は、この場所にやって来たことを悔やんだ。

 隆夫は、洋平が唯一気になる、言わばライバルのような存在だった。隆夫は、学校の成績は洋平に遠く及ばなかったが、身体が洋平より一回り大きく、運動は万能で、どんな種目でも一番だった。陸上競技から球技まで、ありとあらゆる種目で、洋平はどうしても彼に勝つことができず、いつも二番手に甘んじていた。

 町に六つあった小学校の対抗陸上大会には、毎年学年から洋平と隆夫が多くの種目の代表に選ばれたが、花形はいつも隆夫で、洋平は彼の露払いのような存在に過ぎなかった。

 隆夫は、はっきりとした目鼻立ちをしており、粗野ではあるが精悍さを持ち合わせていた。そのうえ、親分肌の気性で、皆を引きずっていく力があった。

 そうかと言って、他の者とたやすく馴れ合うようなこともなく、孤独を楽しむ一匹狼のようでもあった。この複雑で屈折した性格もまた、孤高の雰囲気を纏う彼の魅力の一つになっており、それが小学生とは思えない大人びた一面の要因にもなっていた。

 ありのままに言えば、洋平は隆夫に嫉妬していた。隆夫は女子には好かれ、男子からはある種の憧れを抱かれていた。小さな小学校なので、生徒の数は各学年とも一クラス四十名ほどずつしかおらず、必然的に二人は六年間同じクラスになったのだが、毎年学級委員長を決める際、一学期は洋平が選ばれ、二学期は必ず隆夫に白羽の矢が立った。成績は後ろの方だったが、それだけ人気があった。

 このことが、少なからず洋平に嫉妬心と劣等感を抱かせた。確かに、洋平は成績おいては常に一番だったが、一学期に学級委員長に選ばれるのは、多分に恵比寿家の総領という肩書きによるものだと思っていた。皆、自分個人ではなく、家柄に一目置いているのだと思っていたのだ。

 対して、隆夫は己自身の魅力で人気を勝ち取っていた。彼の小学生とは思えない逞しい肉体は、この漁業の村にあって、漁師として生き抜くために必要なものは何であるかを示していた。日本海という大自然を前にすれば、学校の知識など何ほどでもなく、ましてや家柄などでは断じてなかった。唯一、強靭な肉体と精神こそが、絶対条件であることを明白に物語っていたのである。

 洋平は、もし隆夫と同じ土俵に上がったならば、その人間的魅力において、遠く及ばない事を知っていた。だからこそ、彼が最も美鈴に会わせたくない男が、まさに目の前にいる隆夫だったのだ。


「よお、洋平。彼女連れとはやってくれるねえ」

 隆夫は二人を見るなり、挑発的な物言いをした。いつもの彼の調子である。

 洋平は腹立たしかったが、美鈴の手前、怒りを露にして狭量なところを見せることも、逆に全く無視したりする訳にもいかなかった。

 そうかと言って、まともに受け止めるのも馬鹿らしいので、そのことには触れずに、

「釣れたか?」

 と素っ気なく訊ねた。

「おお、ボッカを二十匹ほど釣ったがや」

 隆夫は、籠を二人に傾けながら自慢げに答えると、覗き込もうと近づいて行った彼女をまじまじと見つめ、確かめるような言葉を掛けた。

「あれ、美鈴じゃないかい? 美鈴じゃろ」

 洋平は、その口調に愕然となった。間違いなく親しみの色を帯びていたからだ。

「隆夫……君なの?」

 美鈴も隆夫を知っていた。そのお互いにただ知り合いという感じではなく、自分と彼女の間とは全く異なる、親近感に満ちた話振りは、洋平に失望と混乱を齎した。

――何ということだ。せっかく彼女とここまで親しくなったというのに……まさか、一瞬にして隆夫に追い越されてしまったのか?

 洋平は、隆夫の姿を見たときの懸念が、現実のものとなって行くことに不条理を感じていた。そして、自分をこのような心境に追い込んだ理由を知りたくなった。

「二人は知り合いけえ?」

「おお、大工屋の爺さんとおらの死んだ祖母ちゃんとは『兄妹』じゃけん。つまり、おらの親父と美鈴の親父は『従兄弟』、おらたちは『はとこ』、ということになるだが」

 日頃、口の重い隆夫にしては、珍しくもすらすらと説明をした。

――なるほど二人は親戚なのか……。

 事情は飲み込めたが、見るからに優越感に浸った隆夫の表情は、洋平の失望感をいっそう増幅させた。

 隆夫は、まるで洋平の心情を読み取っているのかのように、ますます饒舌になった。

「親父が生きちょったときは、盆や正月にはいつも遊びに来ちょったな。でも、わいはなんで今頃帰って来ちょるんだ?」

「ちょっとね……」

「一人で帰って来ただか?」

「……」

「そんで、何でわいたちが一緒なんだ?」

 隆夫は、畳み掛けるように訊ねてきた。

「まあ、どげ言うか……小浜で出会って……あれだ、釣りに行こうかということになったんだが……」

 洋平は、戸惑いを見せる美鈴に代わって答えようとしたが、結局のところ、彼も要領を得た返事をすることができなかった。

 初めて見た洋平のうろたえた様子に、隆夫は『ここぞ』と思ったのだろう、とうとう当て付けがましく、洋平の立ち入れない昔話まで持ち出した。

「なあ、美鈴。わいは小さい頃、うちに遊びに来ると、おらの傍をちっとも離れんかったなあ。大きくなったらおらの嫁さんになると言って、いつもおらの後を付いて来ちょった。両方の親も、将来おらたちを一緒にするつもりだったがや。わい、覚えちょうか」

 眼前の磯に脳天を打ちつけられたような衝撃が洋平を襲った。引き潮のように、全身から血の気が引いていくのがわかるほどだった。

 美鈴は恥じらうように俯いてしまった。その様子で、隆夫の言葉が事実であることを悟った洋平は、凍り付いた心に矢を射られたような痛みを感じた。

 真夏にもかかわらず、鳥肌が立つほどの寒々とした空気が洋平を取り巻いていた。後悔などと言う言葉ではとても言い表せないほど、完膚なきまでに打ちのめされていたのである。

 すると、洋平の顔色を見定めた隆夫は、

「まあ、どうでもええことやったけんどな。さて、おらは十分釣ったし、これから畑仕事があるけん先に帰るわ」

 まるで目的を達成したかのように、満足な表情を浮かべ、

 しかも、

「これ以上、洋平の邪魔をしちゃあ悪いけんな」

 と止めを刺すかのような皮肉も忘れずに立ち去った。

 洋平は、隆夫の仕打ちに怒る気力も湧かないほどに憔悴していた。たとえそれが、年端も行かぬ頃の、他愛のない告白であったとしても、すでに初恋という海原に、とっぷりと首まで浸かっていた彼であれば、深手を負わせるには充分な事実だったのである。

 しかしながら、負け犬のように、尻尾を巻いてこの場から逃げ出すこともできない。洋平は爪の先ほどしか残っていないわずかな気力を振り絞り、何事もなかったような素振りで言った。

「ああ、びっくりした。まさか隆夫と美鈴ちゃんが親戚だなんて知らんかった」

「でも、最後に会ったのは二年生のときだし、隆夫君、その頃とずいぶん変わっていたから、最初わからなかった」

「そ、そげか……」

 洋平は言葉を継ぐことができず、それっきり、二人の間に会話がなくなった。

 楽しいはずの釣りが、一転して重苦しい雰囲気に包まれていた。

 それはひとえに、洋平の失意と猜疑心によるものであり、美鈴も彼の心中を敏感に感じ取っていたに違いなかった。

 それでも、洋平に一つの救いがあったのは、このとき彼が本能的に、

『ここがおらの正念場だ』

 と感じ取っていたことだろう。以前の彼ならば、このような難局に直面したとき、頑なに心を閉ざして、嵐が過ぎ去るのを待つか、あるいは言い訳を取り繕って、さっさと逃げ出していたに違いなかった。

 彼の心をその場に繋ぎ止め、試練と向き合わせていたのは、まさしく美鈴への恋心に他ならなかった。

「じゃあ、釣ろうか」

 洋平は澱んだ空気を変えようと、作り笑いを浮かべて言った。


 洋平は、生まれて初めて釣りを体験する美鈴に、数多くの魚を釣らせてやりかった。彼女に釣りの楽しさを味合わせてやりたい、ということもあったが、何よりも彼女の笑顔だけが、唯一自分を救ってくれると思い詰めていたからである。

 洋平は、この磯で釣りをするときの取って置きの穴場を美鈴に譲った。

「ほら、あそこの岩と岩の間に糸を垂らしてね。そいで、こうやってゆっくり竿を上下させえだ。そのうち、魚が餌に食いつくと、ツンツンと小さな振動があるけん。だいでが、そこで慌てちゃいけん。魚の口に針が掛かると、今度はグーッと強く糸を引っ張るけん、そげしたら、あわてんとゆっくりと竿を引き上げればいいけん」

 洋平は、彼女が握っている竿を手で動かして教えた。

 餌は、岩に付いている小さな巻貝をとり、石で割って身を取り出し、針に付けた。初めのうち、彼女は魚の当たりと、錘が底や岩にあったときの振動との違いがわからない様子だったが、

 洋平の、

『とにかく手に振動があったら、竿を上げてみて』

 という言葉通りにしているうちに、偶然にも大ぶりの魚を釣りあげてしまった。

「やったあ! 釣れた。洋平君、見て、見て」

 美鈴は大喜びで叫んだ。

「ねえ、洋平君。これ何という魚?」

「図鑑ではカサゴって書いてあるけんど、ここいら辺ではボッカと言うだが」

「へえー、ボッカって言うんだ」

 それは、体長が十五センチほどの魚だったが、彼女が生まれて初めて釣った記念すべき魚だった。

「これどうしたらいいの? ねえ、洋平君、魚外して」

 美鈴は、竿先を洋平に向けた。彼女は、生きた魚を手掴みしたことがないのだろう。

「美鈴ちゃん、当たりの感覚がわかった?」

 洋平は、ボッカを針から外し、次の餌を付けながら訊ねた。

「よくわかんないけど、竿が引っ張られたので、上げてみたら釣れてた」

「この魚は群れでいる魚だけん。一匹釣れると、あと何匹かは釣れるけん。同じ場所に糸を垂らし続けてみて」

「へえーそうなんだ。なんだかわくわくしてきた」

 彼女は興奮気味に言うと、真剣な眼差しで竿の先を注視した。洋平は、竿を手にすることなく、餌となる貝を獲りながら彼女の姿を眺めていた。

「あっ、きた。またきたよ、洋平君!」

 彼女は叫びながら、再びボッカを釣り上げた。

「洋平君の言うとおりだね。またボッカが釣れた。なんだかいっぱい釣れそうで楽しいね」

 美鈴は、立て続けに五匹のボッカを釣り上げた。洋平は、彼女の笑顔に癒されていた。無邪気にはしゃぐ姿は、洋平を何事もなかったような錯覚に陥らせていた。

 だが、

「洋平君は釣らないの?」

 何度目かの餌を付けたとき、いっこうに釣りを始めない洋平を気遣った彼女の一言が、彼の目を醒ましてしまった。

「うん、そのうち釣るけん。おらのことは、気にせんでええよ」

 現実に引き戻された洋平は、再び隆夫の存在を消化するのに躍起となった。

 美鈴は洋平がそのような精神状態であることなど知る由もなかったのであろう、針に付いている餌を見て、

「洋平君、この餌にしている、小さいサザエのような形をした貝はなんて言うの?」

 などと無頓着に訊ねてくる。

 洋平は少し億劫に感じたが、彼女の素朴な問い掛けは、結果的に彼の気を紛らわすことになった。

「これは、ニイナというだが。形もそげだけど、味もサザエと似ちょうって美味しいだが。美鈴ちゃん、食べてみる?」

「うん、食べてみる」

 洋平は服を脱いで海水パンツ姿になり、少し沖の深い岩場で大きめのニイナを獲り、身を取り出すと、海水で洗い彼女に渡した。

「うわあ、ほんとだ。サザエみたいで美味しい。海水で塩味になっているし……」

「普通は湯がいて食べるのだけんど、おらたちは海遊びにきたときに、小腹が空いたら、このニイナとか、とこぶしとか、がぜを取って食べるだが」

「とこぶしや、がぜってなに?」

 美鈴の興味は尽きないようだ。

「美鈴ちゃん、そいも食べてみる?」

「ここにもあるの」

「いいや、ここいらへんにはないけんど、もっと沖に出て潜りゃあ、獲れえけん。ちょっと待っちょって、獲ってくるけん」

 洋平はさらに沖まで出て、とこぶしやがぜを探した。

 海に入ると、彼はあらためて自分が海の子供であることを実感した。巣潜りをしている間は、獲物を探すのに一心不乱となり、心の憂さを忘れていたからである。

――ああ、そげか……。

 獲物を手にして岩陰に戻ったとき、洋平は美鈴の問い掛けが、自分への心遣いだったと気付いた。

 それぞれ二、三個ずつ獲って戻ると、とこぶしは先が尖った木切れをへら代わりにして、身を剥ぎ取り、がぜは石で切れ目をつくり、両手で殻を割って身を取り出した。

「両方ともすごく美味しい。とこぶしは、小さなあわびみたいだし、がぜってうにだよね」

「うん、そげ。ようわかったなあ」

「洋平君は、いつもこんなの食べてるの」

「そげだなあ。釣りに行ったときは、こげなもんを食べちょうけど、巣潜りに行ったときは、獲ったサザエやあわび、銛で突いて獲った魚なんかを焼いて食べちょうよ」

「ふーん、そうなんだ。海って良いなあ。美保浦って良いなあ。洋平君が羨ましいなあ」

 美鈴は、海面を見ながらしみじみと言った。

 その横顔は、少し憂いを帯びていたのだが、心に重い石を抱えていた洋平に、気に留める余裕などあるはずもなかった。

 やがて、洋平も釣り始め、結局二時間足らずで、美鈴はボッカを七匹、べらを三匹、他の雑魚を三匹釣り上げた。初めてにしては、上々の釣果と言えた。洋平もボッカを十匹、べらを七匹釣り上げたので、晩のおかずの一品にはなった。


「どれどれ、見せてみい。まあ、小さいけんど大漁じゃの。こんだけありゃ、立派に晩のおかずになるねえ。大したもんだ」

 籠の中を覗き込みながら、里恵が言った。

 里恵に誉められて、鼻高々の二人に、母は嬉しい言葉を加えた。

「美鈴ちゃん、今日はうちで晩御飯を食べていかさい。さっき、大工屋さんから電話があって、後でお爺さんもうちにおいでになるけん……美鈴ちゃんは、お魚は大丈夫よね」

「はい、大好きです」

 美鈴はいつになく声を弾ませた。

 洋平の心も躍っていた。彼女が夕食を共に食するのは初めてだったし、しかも大工屋の万太郎がやって来るということは、いつものように、祖父と酒を酌み交わすことになる。それは取りも直さず、夜遅くまで彼女と一緒に過ごすことを許されるお墨付きを貰ったようなものだった。

 二人は夕食の時間まで、南の縁側に腰掛け、過日の夕方、転寝で途切れてしまった話の続きをした。

「洋平君が幼い頃は、叔母さんたちも一緒に住んでいたって言ってたよね」

「うん。下の二人の叔母さんが一緒に住んでた」

「どんな人? お姉さんに似てる」

「うーん。似ちょうと言えば似ちょうかなあ」

 と、洋平が曖昧な返事をすると、

「頼りないなあ。そうだ。洋平君、アルバムを見せて」

 と端からそれが目的のような強い口調で言った。

 洋平は、里恵に両親の部屋に入ることの断りを入れ、三冊のアルバムを持ち出した。

「これが三女の百合子叔母さんで、こっちが末っ子の八重子叔母さん。百合子叔母さんとは十三歳、八重子叔母さんは十一歳しか違わんけん」

「ふーん。お姉さんも綺麗だけど、二人とも綺麗な人だね」

「そうかなあ? 親戚だとようわからんけん」

 洋平がそう言う間もなく、美鈴はアルバムを取り上げ、彼の生まれたときからの写真を順に見ていった。

「これも、洋平君?」

 アルバムを捲る手を止めて、驚きとも笑いとも着かぬ声を上げた。素っ頓狂な声に、彼女が指差した写真を見ると、そこにはスカートを穿き、頭の両側の髪を輪ゴムで括り、リボンをつけている洋平が写っていた。

「ああ、これはおらが三歳の時で、叔母さんたちが悪戯しただが。この頃は、お祖父ちゃんとお父ちゃんは仕事に行っちょって、家にはなかなかござらんで、おらのほかは女だけだったけん。叔母さんたちのやりたい放題だっただが」

「ふーん、そうなんだ。でも、何だかうらやましいなあ。私は一人っ子だから……と言うよりいつも一人ぼっちだから」

 と、彼女は表情を曇らせた。

 あまりに淋しげなその表情に、

「だいてが、良いことばっかりじゃないけん。うっとうしいときもあるけんな」

 と、洋平は気休めにしかならない言葉を掛けた。

「そうなの。でも洋平君。それって贅沢だと思うよ」

 美鈴は神妙な顔つきで言うと、何かを探すかのように、再びアルバムを捲り始めた。そして、三冊目のアルバムを捲っていた彼女の手が止まった。

「洋君、この写真もらえないかな?」

 どうやら、目当ての写真を見つけたようだった。一番新しいアルバムの中から、彼女が見つけ出した写真は、今年の正月のお祭りのとき、お囃子の大太鼓を叩いているものだった。

「ええけど、どげしてこの写真がええの?」

 洋平は、少しピントの外れた写真を気に入った理由が知りたかった。

「どうしても……」

 だが、彼女ははっきりとした理由を言わなかった。

『ゴーン……ゴーン』

 ちょうどそのとき、海岸からの海風に乗って、永楽寺の鐘の音が響き渡った。十八時を知らせる時の仲裁に、洋平はその先の言葉を封じられてしまった。

 陽は十分に傾き、辺りは夕闇の入り口に差し掛かっていた。やがて、長い影を引きずりながら、万太郎がやってきた。携えた日本酒の一升瓶が、孫が世話になっていることへの礼であることは言うまでもなかった。






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