第4話 秘密のサイン

 翌朝、洋平は美保浦神社に到着するや否や、境内の雰囲気がいつものそれと異なっていることに気付いた。ざわめいた空気感があり、いつものように石段に腰掛け、あくびをしている下級生の姿など、どこにも見当たらなかった。

 夏休みの間、美保浦神社は小学生のラジオ体操の場所となっていた。美保浦では村を南北に分け、洋平が児童会会長と兼務で責任者だった南地区は、神社の境内を借りていたのである。

 異変の原因は美鈴だった。

 皆が一様に見つめる先に彼女が立っていたのだ。初めて美鈴を見た者も多く、少年らは彼女の美しさに見惚れ、少女らはその素性に好奇心を抱いていた。

――なんで彼女が此処に?

 美鈴には本当に驚かされることばかりだ。だが、洋平は少しも嫌ではなかった。それどころか、彼女の積極的で自由奔放な言動は、彼の気持ちを弾ませるばかりか、良く言えば理性的、悪く言えば偏屈な性格である彼の心の扉を叩き、凝固している内向的な精神を触発し、少しずつ溶解へと導いてくれる気がしていた。

 洋平は、担わされた小学校のリーダー的な役割を卒なく熟していたので、おそらく周囲には、明るく快活な性格と受け止められていたであろうが、実は対人関係が苦手で、陰気な性格だった。

 彼はそれを悟られまいとして、あるいはそれを矯正したいと願い、努めて与えられた役目をこなしていたに過ぎなかった。もしかすると、洋平は美鈴の美しい外見だけではなく、内面にある真に何事にも恐れを抱かぬ精神にこそ魅かれていたのかもしれなかった。

 美鈴の服装に洋平の目はまたも釘付けになった。白のワンピースに、良く似合いの、広いつばのある薄黄色の帽子を被り、胸の辺りには日の光に反射して、きらりと光るお洒落な小物を身に付けていた。

 海水浴のときの、短パンにTシャツという装いから、一転してとても優雅で気品に溢れており、近寄り難い雰囲気さえ醸し出していた。ともすれば、高貴な家系のお嬢様のようでもある。

 洋平は、もし最初に出会ったときがこのようであったなら、おそらく気後れをして、声を掛けたいという気持ちは湧かなかっただろうとさえ思った。

「洋平くーん」

 美鈴の声で、一斉に皆の眼が彼に注がれた。洋平は気恥ずかしかったが、心の中では、

――少なくともここにいる者の中では、おらがこの美しい少女と一番に親しいのだ。

 という優越感に浸っていた。

 ラジオ体操が終わると、洋平は参加した認印を一人一人に押していった。判を押してもらうと、誰もが美鈴を気にしながら、三々五々帰って行った。毎朝、百名以上の子供たちが集まっていたため、最後の一人に押し終えると、十分ぐらいは経っていた。

 最後に美鈴が近づいて来た。彼女が首に掛けていたのは、桜貝にプラチナの装飾をあしらったペンダントだった。もっとも、プラチナだとわかったのは後年になってからなのだが……。

「びっくりしたあ。どげしたの?」

 洋平は照れ隠しをするように、少し大袈裟に言った。

「お祖父ちゃんが行っても良いって。そして、洋平君は頭が良いから、一緒に勉強して、教えてもらいなさいって言ったの」

「ふうん」

 洋平は喜びを押し隠すように応じる。

「私も成績は悪くないけど、でもお祖父ちゃんの言う通りにした方が、洋平君ちに行けるから、そうするって言ったの。それで、昨日は九時って言ったけど、朝ごはんを食べたらすぐに行くから、八時までには行けるよ、って言いに来たの」

 美鈴は弾んだ声で一気に話した。

「そげなことなら、わざわざ来んでも、電話をすりゃあ済むのに……」

 少し意地悪な口調になった。

 美鈴が足を運んでくれたことはとても嬉しかったが、彼女の前だとどうしても素直になれない自分が顔を覗かせてしまうのだ。

 彼女が少しはにかんだ。

「電話は掛け難かったの。だって、洋平君が出てくれたら良いけど、他の人が出たら、どうしたら良いかわからないし……」

 実に意外な言葉だった。洋平は、てっきり言い返してくると思っていた。あれだけ勝気で負けず嫌いの彼女が、しとやかな恥じらいを見せるとは思いも寄らないことだった。

 だが、これまでとは全く違う彼女の一面を知り、それがまた、彼の心を一段と強く惹きつけて止まなかった。

 周りを見渡すと、すでに境内には二人だけとなっていた。

「じゃあ、帰えらか」

 洋平が声を掛けると、

「ちょっと、待ってて。せっかく来たから、お参りさせて」

 美鈴は、そう言い残して神社の拝殿に走って行った。お賽銭を入れ、柏手を打つと、少し長めのお祈りをした。

 美保浦神社は、かつて別格官幣大社であった出雲大社の流れを汲む、由緒正しき古社であった。そのため、以前は出雲大社に参拝する人々が立ち寄ったこともあって、大変な賑わいをみせていたが、時の流れと共に人の心は移ろい、近年は神話に絡む祭事が執り行われるときにしか、注目されなくなっていた。

「何をお祈りしただ?」

 洋平は、戻って来た美鈴に訊ねた。

 だが、

「教えないよ」

 と、彼女は穏やかな口調で断った。その表情は、古代の神々が宿る古社の結界内であったせいか、洋平の目にはとても謎めいたものに映った。

 

 家に戻った洋平は、そそくさと朝ごはんを済ませ、約束の時間の三十分も前から、門の外で待っていた。彼は、幾度となく玄関に戻って時間を確認したが、時は彼の思うようには進まなかった。洋平にとって美鈴を待つ時間は、退屈な授業を受けたときより長かった。 

 やがて、時計の針が八時五分前を指したとき、ようやく海岸の方から、角を曲がってこちらにやって来る美鈴の姿が見えた。洋平の姿を見つけた彼女は二、三度大きく手を振った後、ゆっくりと走り出した。

 洋平の脳裏には、まるでスローモーションを見るように、彼女の駆ける姿が鮮明に焼き付いている。

 美鈴は、風に吹かれて飛ばされそうになる帽子にばかり気をとられていたのか、ワンピースの裾が捲れて、太ももが露になっていることも、胸元が上下に大きく波打っていることにも全く無頓着で、なすがままに走っていた。

 洋平は、未だ残る太ももの白さに眩しさを、天真爛漫な姿に微笑ましさを覚えながら見つめていた。このとき彼の眼前には、たしかに天使の化身が存在していたのである。

 美鈴は恵比寿家の敷地の角まで近づくと、走ることを止め、顔のところで小さく手を振りながら、壁伝いに歩いて来た。

 洋平も手を振って応えた。

「待ってて……くれたの?」

 美鈴は息を切らしながら訊いた。

「うん。初めてだけん、入り難いかと思って、待ちょった」

 洋平は、彼女の来訪が待ち遠しくて、辺りをうろついていたことなど、億尾にも出さなかった。

「ありがとう」

 美鈴は、左手で握り拳を作ると、顔の辺りまで持ち上げ、手の甲を洋平に向けた。

「それ、何の合図?」

「洋平君もやってみて」

 美鈴は洋平を見つめながら、少しだけ首を横に傾けた。その愛らしい眼差しに、洋平は彼女を直視することができず、

「こう?」

 と握った拳で自分の顔を隠した。

「これをサインにしない」

「サイン?」

「そう。うれしいとき、悲しいとき、さびしいとき、つらいとき……言葉にできないとき、こうやって合図するの」

「二人だけのサインだね」

「二人だけの秘密のサインよ」

「わかった」

 握り拳を美鈴のそれにぶつけたとき、洋平はまた一歩美鈴との距離が縮まった気がした。


 二人は門を潜り、玄関まで続く石畳の上を歩いた。石畳の左側には、庭との境界を仕切るように、庭躑躅と牡丹が二十メートルに渡って顔を並べ、間に金木犀が数本植えてあった。春には庭躑躅と牡丹が艶やかな姿を競い、秋には金木犀の豊潤な芳香が辺りに充満するなど、庭の草木が居ながらに季節の移ろいを教えてくれていた。

 玄関に着き、洋平が母を呼ぼうとしたとき、見計らったように奥から里恵が顔を出した。

「はじめまして、井上美鈴です。今日は突然お邪魔をしてすみません」

 彼女は落ち着いて、丁寧な挨拶をした。

「はじめまして、美鈴ちゃん。洋平の母です。よう来なさったね」

 里恵も満面に笑みを浮かべて、それに応えた。

「これ、大工屋の伯母さんから渡すように言われました」

「まあ、だんだん。そげな気を使わんでもええのに、さあ、どうぞ上がらさい」

 里恵は、美鈴の差し出した手土産を受け取りながら、お礼を言うと、

「洋平、どの部屋を使うだか?」

 と訊ねた。

「いつものように、奥の間を使うけん」

 洋平は即座に答え、サンダルを脱いで、土間から式台に上がった。

 奥の間とは、母屋の玄関から一番奥、つまり西側にあたり、十二畳の広さに加えて床の間があった。畳敷きではあったが、絨毯を敷きソファーとテーブルが置いてあり、祖父の洋太郎が接客に使っていた部屋だった。

 奥の間の西続きに縁側があり、戸を全開にすると、午前中は涼しい風が吹き抜け、とても快適だった。午前中はこの奥の間で勉強をして、午後は海水浴に行き、夕方には南側の縁側でロッキングチェアーに腰掛けて本を読み、あれこれ空想をしながら転寝をする。夏休みの間、それが洋平のお気に入りの過ごし方だった。

 母屋には、玄関からみて、南北それぞれに座敷、次の間、中の間、奥中の間、奥の間と続いており、平屋建てではあったが十部屋あった。洋平たちが勉強に使ったのは南の奥の間で、北の奥の間は洋太郎の書斎になっていた。南北両方に、幅が一間もある縁側が東西に貫いており、それぞれ夕涼みをするための椅子とテーブルが置いてあった。

 二人は、座敷から奥の間まで部屋の中を通り抜けていった。すべての障子が開け放たれた、広々とした空間は爽快な開放感をもたらした。

 洋平は新築された離れより、この重厚な造りの母屋の方が気に入っていた。柱はすべて檜木で、梁には幅が五十センチもある、桜の一枚板を多く用いていた。檜木は奈良、桜木は岡山まで行き、捜し求めたというものだった。

 天井が高く、有に四メートルはあり、精巧な細工の欄間が幾つもあった。この昭和の初期に建てられた風格のある建物からは、当時没落していた恵比寿家にあって、曽祖父の当主としての意地のようなものが伝わってくるのだった。

 目を庭に移すと、そこには凝縮された小自然があった。表の庭には、松や梅、桜をはじめ様々な観賞用の樹木や草花が植えてあり、季節折々の彩を楽しむことができた。とくに東側には椎の樹が六、七本植えてあったが、これは冬の海からの風よけとなっていた。この椎の樹により、風に乗って運ばれる潮の塩分をも防ぐことができた。

 池には錦鯉を二十匹ほど飼っていたが、夏になると、その水をあてにして、毎年何処からともなく蛍が数匹舞い込むことがあった。

 方や、裏庭には草花に混じって、柿や柘榴、無花果といった果実類の木々が植えてあり、洋平は空腹になると、それらの実をおやつ代わりに食していた。

 歩みを進めながら庭を眺めると、柱と梁が絶妙な額縁代わりとなって、まるで絵画か屏風をなぞらえているかのような趣向を与えてくれるのだった。

 好奇心旺盛な美鈴は、何を見ても驚きと興味津々の表情を見せていた。都会育ちの彼女には、その大きさもさることながら、趣のある古風な造りが珍しかったに違いない。


 奥の間に入り、二人が勉強を始めようとしたときだった。こちらに向かって、足音が近づいて来た。洋平はそれが姉美穂子のものだと気付き、悪い予感が胸を過ぎった。美穂子は職場に出向くところなのだろうが、正直に言って、洋平は美鈴に会わせたくなかった。

「あなたが、美鈴ちゃん? 私は姉の美穂子です。まあ、ほんとに可愛いらしいこと。洋平が一目惚れをするのも無理ないわね」

 美穂子は、彼女を見るなりそう言った。不本意にも洋平の予感は当たってしまったのだ。

 美鈴は突然の言葉に驚き、小さな声で、

「あっ。私、井上美鈴です」

 と自分の名前を言うのが精一杯で、後の言葉を継ぐことができなかった。

 美穂子は、根は決して悪い人間ではなかったが、少々思慮が浅いところがあり、その場の空気を読み取ったり、相手の気持ちを忖度したりすることに劣っていた。

 彼女もまた、恵比寿家の第一子として生まれ、自由気儘に育てられたため、自分の感情の趣くままに、あるいは思いついたことは、深く考えずに口にすることがあった。

 ときにそれは、相手を傷つけることもあったかもしれないが、もとより彼女に悪気があってのものではなく、彼女の性分を知っている者ならば、反って腹に意を持たない正直で真直ぐな心根であり、可愛げがあると受け止められたりもしていた。

「洋平と仲良くしてやってね」

 美穂子はそう言うと、さっさと立ち去って行った。

 まるで、突風が吹き荒れたごとき有様だった。散々に辺りを散らかしておいて立ち去り、後の始末は二人に委ねられた。

 洋平は、顔が赤らんでいることがわかっていた。美鈴は、すでに自分の気持ちに気付いていたかもしれなかったが、こうも明白に暴露されてしまうと、この状態をどうしたら良いものか思案に窮した。彼女もまた困った様子で、二人は無言のまま教材を広げ、勉強を始めるしかなかった。

 洋平は、姉が言ったことに対しての答え、つまり美鈴の本心が知りたかった。そこで、彼女の言葉の端々や、ほんのわずかな何気ない仕草にも、それと匂わすものはないかと神経を尖らせていた。何かのきっかけさえあれば、自分をどう思っているのかと訊ねるつもりでいたが、ついにその機会は訪れないまま、時は刻まれていったのだった。


「どお、洋平。美保浦のような田舎とは違うでしょう? 美鈴ちゃんは東京の学校でも成績が良かったんよ。ついていけえかい?」

 里恵がおやつを持って来るなり、美鈴を持ち上げるように言った。時計を見ると、十時を少し回っていた。

 たしかに、美鈴は勉強が良くできたようだった。それは、大工屋の万太郎が恵比寿家にやって来て、洋太郎と酒を飲むと、いつもお互いの孫自慢になるのがお決まりだったが、そのとき万太郎は、一緒に住んでいる孫のことではなく、美鈴のことを自慢するらしく、里恵は幾度となく耳にしていたのだった。

「うん、大阪の小学校の副教材は、おらのとは違っていて面白い」

 洋平は、半ば里恵に同調するように答えた。洋平は、おそらく母は我が子の成績が抜群であることをわかっていないと思っていた。母は、我が子の学校の成績など全く眼中になく、それより人としてどうあるべきか、ということを大事にする人であったからである。

 テストの結果を聞くのはいつも洋太郎で、里恵も通知表ぐらいは見ていたのだろうが、それとてどれほど記憶しているか定かではなかった。したがって里恵は、洋平がどれほど勉強のできる子か本当に知らず、美鈴に劣ると信じ込んでいても、何ら不思議がなかったのだ。

 だが洋平は、少しも気にならなかった。プライドの高い彼にすれば、それは大変に珍しいことだった。


 午後になって日が西に傾くと、二人は風が通る北側の一室に移った。

 トランプや五目並べなどをして遊んでいた二人だったが、やがて並んで仰向けになると、どちらからともなく互いの身の上話をし始めた。

「美鈴ちゃんは、授業では何が好き?」

「私は、国語かな。本を読んだり、作文を書いたりするのが好きだから。洋平君は?」

「おらは、教室の中だと算数だけど、やっぱり理科かな」

「どういうこと?」

 彼女は興味深げに訊いた。

「理科はね、課外授業が多いけん」

「課外授業?」

「うん」

「どんなことするの」

 彼女は身体を洋平の方に捩った。

「色々なことをするけん。春はおたまじゃくしを捕まえて、かえるに成長するまでの過程を観察したり、夏には海へ行って貝や海草類を採ったり、時には漁師さんにお願いして沖に船を出してもらい、海水をすくって、プランクトンの採集などもしただ。

 秋には山菜を取りに、学校の裏手にある山へ分け入ったりしたし、春に芋やきゅうり、なすび、トマトなどの種を植えて、夏から秋にかけてそれらの実を収穫することもしただ」

 美鈴の息が頬を心地良く擽っていた。洋平は、横を向いて彼女と目を合わす勇気がなく、天井を見つめたままだった。

「へえ、そんなことをするの。楽しそうだね」

 彼女の声は好奇心に満ちていた。

「東京の小学校ではしぇんかった?」

「しない。多分、大阪でもしないと思う」

「田んぼとか畑はああしぇんの?」

「東京は少しだけあったけど、そんなことはしなかった。大阪は東京より、田んぼも畑も多くあるみたいだけど、そんなことはしないと思う」

「そげかあ、でも楽しいことばかりじゃないけん。米作りなんか大変だけん」

「お米まで作ったの?」

「うん。とにかく、米作りだけは田植え、草とり、稲刈りとどれをとっても手間ひまが掛かかるけん、大儀だった。けんどそのぶん、秋に米の収穫をしたときの感動は並大抵のものではなかったけん。それに、収穫した米や野菜、きのこ、山菜などを学校で料理をして皆で食べるときは、がいに楽しいけんな」

「いいなあ。私もこっちの学校に行きたいなあ……」

 美鈴は身体を戻すと、真剣な口調で言った。洋平はそっと横顔を覗ったが、転校したばかりの彼女は、新しい環境に不安を抱いているのだろうとしか思いが至らなかった。

 後々になって、洋平が思い返してみると、二人の話は学校の事、友達の事、幼い頃の事など様々に及んだが、美鈴は洋平が訊ねたことには簡単に答え、すぐさま彼に対して矢継ぎ早に訊ね返していたので、専ら洋平の事についての話になっていた。

 しかし、話に夢中だっ洋平は、その事に特別の疑念を抱くことがなかった。

 やがて、美鈴は洋平の問い掛けに生返事をするようになり、いつしか反応すらしなくなった。どうやら、眠りに入ったようだった。


「あら、あら。仲良く眠っちょうこと」

 夢現の中で聞いた母の声で、洋平は目が覚めた。美鈴の寝息につられ、彼も転寝をしてしまっていた。ずいぶんと時間が経ったような気がしたが、三十分ほどしか経っていなかった。

「美鈴ちゃんはもう少し寝かせてあげたら……」

 里恵は、タオルケットを掛けながらそう言い残して部屋を出て行った。

 洋平は、彼女の寝顔をじっと見つめていた。そして、あたかも未知なる世界へと誘っているかのように振る舞い、心を強く捉えて離さないのは、いまこうして、目の前で何の屈託もない寝顔を見せているこの美少女なのだと思うと、自分も彼女の心を奪いたいという願いが、いっそう強くなっていったのだった。

――この寝顔を写真に残しておきたい。

 という思いが胸に沸き起こった洋平は、堪らず洋太郎のカメラを持ち出してきた。

 カシャ、カシャ……カシャ、カシャ。何枚か写したとき、シャッター音に気付いた彼女が目を覚ました。

「やだあ、写真撮ったの?私一人寝ていたのね、恥ずかしい……」

 美鈴は肩を窄めて赤く染まった顔をタオルケットで隠した。そのあまりに愛らしい仕種を目の当たりにしたとき、洋平の脳裏に、今朝、自分に向かって駆けて来たときの、彼女の白い大腿部が重なり合うように映り込み、突然首筋から脊髄を通り、下腹部にかけて電流が貫いた。

 初めて体験する身体の疼きだった。

 洋平は甘酸っぱい刺激に、思わず手を伸ばして彼女の身体に触れてみたいという衝動に駆られたが、何かに引き止められるように、かろうじてその思いを押し止めたのだった。  

 西の山並みに太陽が半分ほど身を隠していた。放たれた光は、赤みを帯びたものに変わり、静まり返った空間の中で、庭で鳴くツクツクボウシの声だけが響き渡っている、のどかな夕暮れ時だった。

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