眼鏡のお姉さんと私
綿貫むじな
眼鏡のお姉さんと私
突然背後から、わたしの口に向かって指がのびてくる。彼女はいつだってわたしの八重歯をなぞろうとしてくる。隙あらば。
「やめてくださいよ。ひとの口の中に指入れないでください」
「んもう、少しくらいいいじゃない。その可愛い八重歯触らせてよ」
「いきなり動いたと思ったらこれだもの。辞めてください」
「はいはい、すいませんでした」
少しくらいとかそういう問題じゃなくてさ、ひとの口に指をいきなり突っ込もうとするのはどうなのかという事ですよ。
小説を読み切って暇になったからといって、真剣に問題集に向かっている最中に集中力を途切れさせる行為はやめてほしい。
「ねえ、早く問題解いちゃってよ茉莉ちゃん」
「とか言いながらわたしのベッドでゴロゴロしないでよ、みかげさん」
むう、と口を膨らませて彼女はわたしのベッドに座る。いやそうじゃなくてこっちに座って暇つぶしててと促すと、渋々と言った顔でわたしが勉強をしているこたつ机の前に座る。向かい側じゃなくてこっちに座ってと促し、わたしの左側の席に座らせる。
切れ長の瞳で艶やかで絹のように柔らかく背中まで伸びる黒髪、そして眼鏡を掛けていて知的な雰囲気を周囲の人たちに感じさせるみかげさん。
実際に頭もいいんだけどさ。トップクラスの国立大学の文学部に入学したって事は聞いたから相当なんだろうな。
小説を読み切って暇になったみかげさん、スマホを弄るふりをしてわたしを横目で見ている。気づいてるからな。
「これで最後の問題……! むー! ようやく終わった!」
「終わった? じゃあ答え合わせするからしばらく待ってて」
赤ペンを取り出し、多少ずり落ちていた眼鏡を中指でくい、と持ち上げてわたしが解いた問題集を答え合わせの紙とを交互に見ながらマル、バツと付けていく。
真剣な眼差しで仕事をしている姿は、誰だろうと彼女の魅力を感じない人は居ない。と思う。
不意に、ふわりと良い香りが漂う。みかげさんの使っている香水? それともシャンプーの香り? どっちでもいいか。
それにしても、今度はこっちが暇になっちゃったな。どうしよ。
……その時に、ちょっとピンときた。何気なくみかげさんに投げかけてみる。
「みかげさんってモテそうだよね~。実際どうだったの?」
彼女のペンの動きは止まらない。聞いてないのだろうか?
「ねえみかげさん。みかげさんってば!」
「何? 今私忙しいんだけど」
ちょっと怒った風の素振りを見せる。む、これはもしかして?
「みかげさん、彼氏今まで居なかったんでしょ」
意地悪な質問をぶつけてみると、彼女の眉間に一層の皺が寄った。
「そんなことありません。私にだって彼氏のひとりやふたりくらい、居ましたよ」
わたしの目を睨みつけながらきっぱりとみかげさんは言った。彼女はちょっと怒るとこういう風に敬語っぽくなる。
言って少し後悔した。
そりゃ、やっぱりこれだけ綺麗で、スタイルも良い人なら男のひとりやふたりくらいくっついててもおかしくないよね。
特にあの胸とウエスト。男の人ならきっと一度は釘付けになる。自分のストーンとした体が恨めしい。みかげさんはまだこれから成長するからって慰めてくれるけどさ、彼女に言われるとなんだかイラっとする。持てる人が持たざる人に言うセリフじゃない。みかげさんに悪気があって言ってるわけじゃないのはわかってるんだけど。
自分の中でカテゴライズ出来ない、言いようのないもやもやに心を包まれてる。
「そうだよね~。そりゃそうだろうね。下らない質問しちゃってごめんね!」
「別にいいわ。はい、丸付け終わり。今日は中々点数良かったよ」
「ほんと! これでテストで赤点は免れられそうで良かった」
「そんな低い目標で勉強してちゃだめよ」
「学校の勉強に何の意味があるの? 私にはわかんないなぁ」
ふざけ気味に質問をすると、思いの外みかげさんから真剣な眼差しで私の目を見据えられた。わずかに顔を紅潮させている。
「学校の勉強に意味がないなんて悲しい事を言わないで。そもそも勉強は大人になってもついて回るし、今はやり方を学んでいる所なのよ。それに、勉強して知識を付けるというのは喜びでもあるの。楽しいでしょ? わからないことがわかるようになったら」
「それは、そうだけど……」
「楽しくない事だってわかるようになれば楽しくなる。今はそうじゃなくても、後でわかる事だってあるから、そんな事言わないで」
思わず私ははいと言ってしまった。だって、みかげさん、なんだかちょっとだけ目に涙を浮かべていたから。
クールに見える彼女は思ったよりも感情豊かなんだなって、わたしはちょっぴり嬉しくなった。
「ごめんなさい、思わず感情的になっちゃったわ」
「いいえ、わたしが悪いわみかげさん」
「それで、茉莉ちゃんはどうなの?」
「へ? どうってなにが?」
「何がって、一方的に私だけに聞くのは不公平じゃない? 茉莉ちゃんの恋愛遍歴、聞いてみたいな?」
いたずらっぽく片方の眉毛を上げる彼女の表情は、先ほどとは違って大人の余裕を感じさせる。
ああいう風に彼女をからかっておきながら、私にも恋愛と呼べるほどの出来事はない。
「しょ、小学生の時の思い出くらいなら……」
「それ、恋愛に入るのかしら? キスくらいはしたんでしょ?」
「し、しないまま終わりました……」
「ふーん」
ニヤニヤとした顔でわたしを細い金属フレームの眼鏡越し見つめるみかげさん。わたしは恥ずかしさとやり場のない怒りで顔が真っ赤になっている。絶対。鏡で見なくてもわかるくらいに。
「怒った顔もかわいいわね」
「なんですか今言うセリフですかそれは!」
「んふふ。茉莉ちゃん、彼氏のひとりも居なかったのに私にそんな事言ったのね」
くっそ。ここぞとばかりに反撃してきてるなこの人! 負けるもんか!
決意を新たに固めて応戦しようとしている所に、突然みかげさんはぐったりとテーブルの上に倒れ伏す。胸がテーブルに乗ってる。たゆんたゆん。
嫉妬とご褒美の入り混じったよくわからない気持ちが芽生えているわたしに対して、みかげさんは突っ伏したまま言う。
「ねえ茉莉ちゃん、恋愛って何だろうね」
そんな事をわたしに聞かれても困る。第一わたしは恋愛経験がうすっぺらなんだぞ。そういう意味ではみかげさんの方が経験がまだあるでしょうに。
「それ、わたしに聞きます?」
いかにも不機嫌さを醸し出すようにわたしが言うと、みかげさんは足をぱたぱたさせはじめた。
「ほこりが立つからやめてくださいよ」
「人の心の機微って難しいよね。どうやったらわかるんだろうね」
「そんなもの、エスパーでもない限りわかりませんって。人の心なんか推し量って想像していくしかないんですよ。人間は不完全なんですから想いは確かめ合いながら進むしかないんです」
「随分と立派なセリフを言うのね。尊敬しちゃうわ」
「誰が言わせたと思ってるんですか」
なんだか恥ずかしくなってきたぞ。みかげさんは首をこちらに向けてにまっと笑ってわたしの顔を覗き込もうとしている。ひとの顔をじろじろ見るんじゃありません。
「恋心ってなんだろうね。色んな本を読んでも良くわからないわ」
「……じゃあ、一度、一緒にデートにでも行きますか? そうすればわかるかもしれませんよ」
唐突に口から零れた言葉。みかげさんは目を丸くしてわたしを見ている。
「わたしと、茉莉ちゃんで?」
「そりゃ、もちろん、わたしとみかげさんですよ」
さらに目を見開くみかげさん。こうなればヤケだ、勢いで押し通してやる。
「せっかく行くんですから行きたい所とか無いんですか?」
「茉莉ちゃんと行きたい場所か。騒がしいのはあんまり好きじゃないから、静かで落ち着いたところがいいな」
「静かで落ち着いたところですか……」
幸い明日は土曜日。二人とも学校は休みだしみかげさんのアルバイトである家庭教師も休みだ。
明日の午前九時くらいにみかげさんがウチに来てくれることになった。
明日の予定をどうするか話し合っていると、みかげさんのスマホのアラームが鳴り響く。今日の家庭教師の時間が終わってしまった。
「あら、もうこんな時間だわ。そろそろ帰らなくちゃ」
「見送りますよ」
わたしとみかげさんは玄関まで降りていく。靴を履き、上着を着たみかげさんは帰り際、くるりとこちらを向いて笑った。
「明日のデート、楽しみにしてるからね」
そして颯爽とドアを開けて彼女は帰宅の途へと着いた。
……楽しみにしている。
その言葉に、わたしはしばらく身悶えしていた。なんであんな事を言ってしまったんだろう? いやいや、これも恋愛を知る為だ。え? 恋愛を知るのにどうして女の子同士でデートしなきゃなんだろ? よくわかんなくなってきた。
ごはんを食べた後も、お風呂に入った後も、自分の部屋に戻った後も頭からみかげさんの言葉が離れない。
色々な想いがどうしようもなく渦巻いている。ゴリラの大きなぬいぐるみを抱えてベッドでゴロゴロしながら声にならない声を上げていたら、親に物音がうるさいと怒られてしまった。
ぬいぐるみをいつもの場所に置いて、ベッドでおとなしく毛布を被って目を瞑る。デートと言う単語が脳内に根を張って動かない。どうしたものかなぁ。明日はいつもの休日よりもちょっと早く起きないといけないのに全く眠れる気がしない。
落ち着けわたし。デートといっても女のひとだぞ。つまりただの友人同士との休日の遊びなんだよ。
そう言い聞かせようとしたらなんだか胸の奥がチクリとした。でも少しは頭のぐるぐるが落ち着いてきて、わたしの意識は遠のいていった。
翌日。
ちょっと起きるのが遅れた私は急いで準備を進めていた。朝食もそこそこに着替えをして化粧を整えて、ってそこまで気合いを入れる必要あるのかなぁと疑問符が頭の中にぽんぽこ浮いてきた。
でもやっぱり、デートなんだしちゃんと整えて行かないと……とかやってるうちになんだか濃いめになってない? と、洗面所を通りすがったお母さんの指摘を受けてちょっと顔が赤くなった。うるさい。
ピンポーン。
インターフォンが鳴っちゃった。やばいやばい、はやく支度整えなきゃ。
「今鍵を開けますからちょっと待っててねー」
お母さんが玄関までスリッパを鳴らして小走りで向かう。鍵を開ける音がして程なく玄関の扉が開き、みかげさんが入ってくる。
「おはようございます。今日はちょっと茉莉ちゃんを借りていきますね」
「どうぞどうぞ。こんな娘で良ければいくらでも借りてって」
こんな娘って言いぐさひどくない? と内心思いつつ突っ込むよりも化粧を終わらせなければと手を動かすわたし。
よし最後にリップを塗って終わりっ! わたしはバッグを持って急いで玄関に向かうと、みかげさんが手をひらひらさせながら迎えてくれた。
わたしのようにキメキメのファッションではない。やっぱりわたし気合い入れすぎた……?
でも、カジュアルなパンツルックスタイルが凄い似合ってる。足も長いから余計に映えるんだなぁ。
見惚れていると、みかげさんが近寄ってわたしのちょっと癖がかかったショートボブの髪を撫でる。
「やっぱりいつさわってもふわふわしてていいわね、茉莉ちゃんの髪の毛」
「そうですか? わたしはみかげさんみたいなストレートに憧れてるんですけど」
「だめよ。茉莉ちゃんはこの可愛い髪型が良いんだもの。それにふわふわした感触がなくなっちゃうの勿体ないから」
玄関口でそんなやり取りを重ねていると、見ていた母親からいちゃこらするのは良いけど早く出かけないと日が暮れちゃうわよと言われ、慌てて靴を履く。
いちゃこらってなんだよいちゃこらって。わたし達はそんなんじゃないから、って言っても説得力ないんだろうか。
わたし達は外へ出て、ひとまず駅までの道のりを並んで歩く。家から駅までは五分程度で着いちゃうけど。
突き抜けるような初夏の晴天。雲一つなくて太陽の光は眩しい。気持ちの良い休日。雨が降らなくて本当に良かったな。
「じゃあ、これからどこに行こうか?」
改めてみかげさんが聞く。
「昨日、美術館の話出たじゃないですか。あそこなら騒ぐ人も居ないですし、いいと思うんですよ。最近フェルメールだかレンブラントだかの展示やってるらしいんですよ」
「でも、今その展示やってるなら人が多いんじゃない? わたし人混みもあんまり好きじゃないの」
意外とワガママだなぁこの人……。それならと、もう一つの案を提示する。
「じゃあ最初は水族館にでも行ってみましょうよ。動物には興味ありますよね?」
「うん、クラゲとか見るの好きだよ」
「決まりですね」
わたし達は街の水族館に向かった。水族館は電車で二十分くらい乗らなきゃいけないけど、駅前にあるからアクセスも楽だ。
電車に乗りながら何を見ようかと話をしていたんだ。意外にもみかげさんは海の生物にも詳しく、わたしに色々と教えてくれる。
これは水族館での案内が楽しみだなって、そう思ってたんだ。
駅から降りて、徒歩五分の距離を歩いてたどり着いた水族館。
でも、運が悪い事に今日は臨時の休館日で開いていなかったのだ。無情にも休館の看板が入口の前に佇んでいる。
「クラゲ……」
入口をぼんやりと見ながら、みかげさんがクラゲのようにふわふわぐらぐらと漂っている。そんなに楽しみだったのか、クラゲ。
うーん、仕方がない。とりあえず喫茶店に入ってこれからのプランを練りなおそう。
喫茶店、喫茶店……。そういえばこの辺りには個人経営のおいしい珈琲を入れる喫茶店があった気がする。みかげさんは珈琲結構好きだからきっと気に入るだろうと思って一応リサーチしていたんだった。
「みかげさん、この辺りに喫茶店あるんですよ、行ってみませんか?」
「クラゲ……クラゲ……え? ああ、喫茶店ね、私もおすすめしたい所があるのよ」
そういって、みかげさんがずんずんと先導しながら速足で歩いていく。二人ともヒールじゃないから歩く速度は別にいいんだけど、さ。もう少しゆっくり歩きながら話とかしたいなって思うんだけどさ。歩きながら景色とか色々話したいのになぁ。
しばらく歩いて、着いたけど……。
「ここよ」
「あれ?」
わたしは看板を見上げる。黄色い看板でシンプルなゴシック体で書かれたお店の名前。わたしのスマホに入れておいた情報と全く同じ。
「ここの珈琲がね、すっごく美味しいのよ!」
「はあ、そうなんですか……」
どうやらみかげさん、ここの常連だったみたい。
「あら、どうしたの? そういえば紹介したい喫茶店あるとか言ってたっけ?」
「ええ、そうなんですけどね。わたしの紹介したいお店ってここだったんですよ」
「ああ、それは残念。私このお店に週三日くらい通ってるの。でもおいしさは保証するわ」
みかげさんは木目調のがっしりした店の扉を開ける。店の中に一歩足を踏み入れた瞬間に広がる珈琲の香りが鼻腔をくすぐる。香ばしくて脳が一瞬で眠気から解放されそうな、匂い。
店の中はそれほど広くない。十数人が入ればそれでもう満員になってしまう、ちょっと狭いお店。でも今もひとりのおじさんがゆっくり珈琲を楽しみながらデザートのケーキを口にしている。そして珈琲を口に入れた時の恍惚の表情。どんな味と香りがするんだろう。
「どう? 雰囲気もいいのよここ」
「確かに凄い居心地はよさそうですよね……」
みかげさんに促されてわたし達はテーブル席に座る。メニューを手に取ってみると、茶色の厚紙にコピー用紙らしき白い紙が貼られていて、そこに手書きで品名が書きこまれている。決して上手ではないけど、丁寧に読みやすさを心掛けて書かれたボールペンの字は、店主のある種の誠実さを感じさせてくれる。
メニューを読み進めていくと、まず珈琲の価格に驚く。どれもこれもが八百円や千円以上で、中には三千円もするメニューがある。珈琲一杯でそれだけの値段がする。これはちょっと、わたしのような高校生が通えるようなお店じゃない。思わずみかげさんの方を見ると、彼女はうん? と首をちょっとだけ傾げて微笑みかけてくれた。何も心配する事はないよ、と言わんばかりに。
わたしがどのメニューを選ぼうか躊躇していると、みかげさんが店員さんを呼んで注文を始めていた。
「コロンビアのアイス二つお願いします。ミルクとシロップもつけてください」
「かしこまりました。多少のお時間はいただきますがよろしいですね?」
「はい」
わたしが目を丸くしていると、みかげさんがウインクした。
「ここは、私がおごってあげるから気にしなくていいのよ」
「ありがとう……ございます!」
そこまで頭を下げる事でもないよ。私の方が年長者なんだしね」
時間をいただくという事で少し待つ。店内には所せましと焙煎済みの瓶詰めされた珈琲豆が置かれている。でもこういう所の豆って、自宅で焙煎してもうまくいかないってみかげさんが言ってたような気がする。お店用の機材で、それこそ何年も腕を磨かないと豆のいいところがひき出せないらしい。試しに豆を買って自宅でやってみたらしいんだけど、えぐみと苦みだけが抽出されて全く美味しくなかったって言ってたな。
待っている間、わたしとみかげさんは言葉を発する事が無かった。でも、それがかえって心地よかった。珈琲の匂いに身をゆだねて、ただ待ち続ける時間というものは何よりも尊いんじゃないかって思える。
店の装飾や時計の音を楽しんでいると、程なくして店員さんがグラスを二つ、お盆に乗せて持ってきた。ミルクとシロップの容器もセットでついてきている。
「お待たせしました。最初はブラックで飲んで、次にシロップやミルクを入れて楽しんでください。では、ごゆっくり」
最初はブラックと聞いてわたしは少し身構える。子供舌というわけじゃないけど、ブラックコーヒーはちょっと苦手なんだよね。
「大丈夫よ。ここのはブラックで飲んでもおいしいから」
「みかげさんがそういうなら……」
わたしはおそるおそる口をグラスにつける。珈琲の素晴らしく香ばしい香りが鼻を通り抜けて脳をくすぐる。それだけでも美味しいって直感できたんだけど、舌で味わうとより鮮明に理解できた。この珈琲は美味しい。
まずブラックコーヒーというと苦みとえぐみ、酸味があるんだけど、この珈琲にはえぐみや喉につっかかるような不快感が全くない。苦みはある。でも心地よい苦みで、顔をしかめるようなものではない。喉をすいすいと通り抜けていく。こんなのは今まで飲んだことない。月並みな表現だけど、本当に美味しい。水みたいに飲めちゃう。
わたしの驚く表情を見て、みかげさんは微笑んでいる。誰もが一度飲めば目を見開くのだそうだ。
「ブラックで飲んだね? じゃあ、次はミルクとシロップをたっぷり入れてみて」
勧められるままにミルクとシロップを入れて混ぜ合わせる。珈琲の黒とミルクの白のマーブル模様が出来て、次第に混ぜ合わさって色が濃い目の茶色から徐々によく知っている茶色へと変化していく。
「茉莉ちゃんの髪の色みたいになったね」
言われて、そんなに色同じかなぁと思った。わたしの髪の色はもっと明るくしてるもの。
あらためてミルクとシロップをいれたアイスコーヒーに口をつけると、先ほどとは全く世界観が変わった。これはデザートだ。
シロップの甘さとミルクの風味が珈琲の苦みと酸味に程よく混ざり合って、それらがハーモニーを口の中で奏でている。こっちの方がやっぱりわたしの口には合うな。珈琲はそこまで好きじゃなかったんだけど、なんだかちょっと好きになれそうな気がする。
みかげさんも最初はブラックで飲んで、その後ミルクとシロップを入れて飲んでる。でもシロップはちょっとだけで、ミルクを多めにしている。あまりにも甘ったるいのは好きじゃないらしい。
「相変わらずマスターの淹れる珈琲は美味しい。脳が冴え渡るわ」
心底幸せそうなみかげさん。みかげさんが微笑んでいる顔を見るとなんだか気持ちが暖かくなってくる。
珈琲をじっくり堪能し、わたしたちは店を出る。滞在時間は珈琲を飲んだだけだからそれほど長くはない。でも濃密な時間だった。
「次はどこ行こうか?」
「そうですね」
わたし達のプランはのっけから滅茶苦茶になったけど、それはそれで楽しいものなんだなって思えたのは良かった。
二人で笑って、ああでもないこうでもないとわたし達は歩いていく。
とりあえず、この街のお店を色々巡って行こうという話にまとまったんだ。
その後、わたし達はウィンドウショッピングをして楽しみ、お昼は目当てのパスタ専門店で舌鼓を打った。
昼食後、わたし達はあらかじめ、ここだけは必ず行こうと決めていた場所に向かう。
県立図書館。たぶんこの辺では蔵書量が一番だと思う。木がそこかしこに植えられていて、ちょっと駅から離れてるからバスを使って来る事になる。
みかげさんは本を読むのが大好きだし、図書館は静かな場所だからうってつけの場所。実際図書館に行くと言ったらちょっと小躍りしてたし。
中に入る。ゆったりとした空間で当たり前だけど本がいっぱい棚にズラリと並んでいる。その本の量にちょっと圧倒される。
わたしは図書館を利用することがあまりなかったので、まず利用するために登録してカードを作る所から始めないといけなかった。みかげさんは毎月何度も来ては本を借りられるだけ借りているらしく、既にカードを持って職員と話し、山のように本をテーブルに積み上げている。
ようやくカードを作り、何を読もうかと考える。わたしは今まで読書する習慣がなかった。みかげさんと出会ってから、色々と小説を勧めてもらって読み始めた口だ。といっても現代作家の小説とライトノベルくらいしか読んでないんだけどさ。
何を読もうかなって棚に向かって本の背表紙を見て考える。そういえば梶井基次郎という作家の作品がちょっと気になってたので、全集がちょうどあったから読んでみようかな。
本を持ってテーブルに戻ると、みかげさんは既に本に視線を集中させていた。積まれている本のタイトルを眺めると哲学みたいに難しそうな本から新書まで雑多に積み上げている。本当に本と名の付く物なら雑食なんだなって、改めて感心する。
わたしはみかげさんの隣に座る。彼女の切れ長の瞳が文字を追っている。本を読む様が本当にかっこよくて、凛々しさもある。
いかんいかん、見惚れていないで自分も本を読むんだ。
梶井基次郎の全集。元々これも勧められたもののひとつで、エッセイめいた文体の掌編が多くまとめられたものらしい。まだ小説に慣れていないわたしみたいな人にはうってつけらしいよ。
冒頭の掌編、檸檬を読む。
……得体の知れない不吉な塊。不安。なんだろう。正体のわからない物に心が押しつぶされそうになっている主人公というかたぶん梶井基次郎が、檸檬を買ってその感触と、空想を楽しんでいるうちに心が軽くなってくるという掌編っぽい。
でもなんだか、この時代の他の作家に比べると大分読みやすくて面白いな。
そうやって、全集を読み込んで一冊ようやく読み終えた所でふと、みかげさんを見てみると彼女は既に何冊も本を読んで山を崩していた。凄い。
ふと思い出す。
これ、一応デートだよね?
デートなのにお互い本を読みふけるだけってそれはどうなんだろう? って思ったけど、午前中には結構喋ったりなんだりしていたからそれはそれでいいのかな?
でも、なんかちょっと、寂しい。
そう思ってみかげさんの横顔を再び眺める。
ぼんやりと横顔を眺めていたら、視線に気づいたのか不意にみかげさんがわたしの髪の毛を撫でた。
戸惑っていると、みかげさんは更に髪の毛を撫でながら本を読んでいる。
動けない。
でも、それが心地いいし、もっとしてほしい。
自然にみかげさんの方へ体を委ねる形になる。みかげさんは拒否もせず、相変わらず髪を撫でながら本のページをめくる。
「わたしも、みかげさんに……触りたい、です」
口から自然にしたい事が漏れ出た。
みかげさんはこちらに目配せし、声にはしなかったけど微笑みを返してくれた。
みかげさんの黒髪を、撫でる。黒いけど光の当たり具合で微妙に変わる色合い。艶やかで絹のような手触り。いつまでも触っていたい。恍惚に浸り、ため息が漏れる。わたしもあんな髪が欲しい。何度願った事か。でも身近にあるだけでも満たされる。
日が傾き、夕暮れの図書館。まだ電気がついていないから光の入らない場所は少し薄暗い、今わたし達が座っている場所。
さらにわたし達の距離は近くなる。肩を寄せ合う形から、向かい合って密着するような形に。みかげさんはもう本を読むのを止めて、わたしを真っ直ぐに見ている。
「ねえ? 昨日の彼氏の話なんだけどさ」
唐突に、それは告白された。
「私、あの時彼氏の一人や二人と付き合った事があるって言ったよね。でも、付き合った彼氏いずれとも全然長続きしなかったの。長くても三カ月くらいで終わっちゃったのね」
「そうなんですか?」
きっとそうなんだろうなって思った。みかげさん、妙に男を寄せ付けない部分があったから。でもそれは言わない。みかげさんの気持ちを逆なでるだろうから。
みかげさんは更に続ける。
「元々私、小っちゃい頃は今みたいにカッコいいとか凛々しいとか、そんな風に言われるような容貌じゃなかったの。ちっちゃくて、本ばかり読んでたせいで視力が悪くて分厚いレンズを付けてたから、がり勉女って呼ばれてたのよ。男の人に見てもらえるような子じゃなかった。中学二年まではそんな感じだったけど、三年生辺りから急激に体が成長したのね。ついでに眼鏡も野暮ったいのから新しいのに変えたら、そのせいか言い寄る人たちが急激に増えて、あの頃は大変だったわ。言い寄る男の人たちをどう捌けば良いのか、よくわからなかったし」
言って、みかげさんは目を瞑る。
「人に言い寄られるってどんな感じでした?」
「好意を持たれるのはもちろん、悪い気はしなかった。でも、その好意に応えられないって返事をして、それで悲しい顔をされたり、悪態をつかれたりするのがちょっと辛かったかな。あはは」
笑っている。でもみかげさんの瞳の端に、涙がにじんでるのが見えた。
その瞬間、わたしはみかげさんの懐に飛び込んで抱き着いた。
そうしたいって思ったから。
みかげさんは驚いて少し体を震わせて硬直する。でも次第に力が抜けて、私をそっと抱きしめる。笑顔は消えて、涙が頬を伝っていた。
顔に胸が当たっている。みかげさんの心臓が早鐘のように鳴っているのが聞こえてくる。体温が暖かい。見上げて顔を見れば、顔は赤く、眼鏡のレンズが少し曇っているようにも見える。薄暗いからはっきりとは見えないけど。
わたしはゆっくりと顔をみかげさんの顔と同じ高さにまで上げる。わたしの心臓の脈拍もどんどん上がっている。わたしは何をしているんだろう。でも心のままに動こう。動く。わたしのしたい事だ。たぶん。
みかげさんの顔がどんどん近くなってくる。みかげさんは困ったような、でもちょっとはにかんでいるような、どちらにも見える表情をしていたけど、やがて眼を瞑った。
お互いの息が吹きかかる距離。もう少しで触れる。
「……」
不意に館内の電気が点灯した。薄暗い空間は照らされて、みかげさんの顔がはっきりと見える。真っ赤で、目が凄い潤んでる。もしかしたらわたしの顔もそんな風なんだろうかと思ったら、急に恥ずかしさが噴き出してきた。
「う、わわっ」
同時に、お互い勢いよく背を向けた。
……わたし、いったいなにやってんの!?
いや確かにみかげさんの事はわりと好ましく思ってるけどさ、そういう事する関係性だっけか? いやそもそも今日のデートってなんだよ、女の子同士でデートってちょっとおかしくね? は?
いやいやいや冷静になれ、冷静になるんだ。
これは気の迷い、うんちょっと気が迷っただけ。そういう事だ。そういう事にしておこう。
わたしは両手で頬をぱしぱしと叩いて、自分が冷静になるように努める。
みかげさんはどうしてるだろう。
おそるおそる彼女に視線を向けると、まだ背を向けたままだった。
「あ、あの……」
みかげさん、なんだか少し震えてる? だとしたらもしかして悪い事をした?
気まずい。これは超絶に気まずい。どういう風な態度を取るべきなんだろう。
そんな事を考えながら硬直していると、職員がこちらに来てそろそろ閉館の時間になりますがと声を掛けられた。
「あ、すいません。本を片しておきます」
みかげさんはそう言って立ち上がり、キビキビと本を所定の場所に戻した。わたしが借りていた本は一冊だけだったので職員さんがついでに片づけてくれた。
わたし達は何となく、気まずい空気のまま外に出た。夕暮れの太陽はビルや山の向こう側に半分顔を隠して、赤い光を発している。空は薄暗く、もうすぐ夜がやってこようとしている。
バス停まで少し距離があるので歩く。それにしても、ちょっとやっちゃったかなぁ。次の家庭教師の時まで少し気まずいかも。いやそれ以降もどうかなぁ。
「ねえ、茉莉ちゃん」
「は、はい」
なんですか? と問う暇もなく、わたしの唇には柔らかい感触があった。
一瞬。
でもそれで十分だった。
わたしが惚けていると、みかげさんは笑って私を見ている。
「私達、実は幼馴染だって知ってた?」
「え?」
「その時茉莉ちゃんはまだ二歳くらいだったから覚えてなくてもしょうがないよね。私達が小さい頃、家近所同士だったんだよ。時々、茉莉ちゃんと一緒に遊んでたんだよね。公園でブランコに乗ったり、おままごとしたりさ。」
「そ、そうだったん……ですか?」
「その時のおままごとの時にね、茉莉ちゃんが私にキスした事、あるんだよ」
「へ、へぇ!?」
何してんの、小っちゃい頃のわたし!
「もちろん、子供同士だから唇が触れる程度のキスだからね。でも、ファーストキスは茉莉ちゃんだったんだなぁって今、思い出したわ」
ふふ、とみかげさんが微笑む。
「その説は申し訳ない事を……」
「いいのよ。今日は楽しかった。またデートしましょう」
「……え?」
みかげさんがわたしの手を握る。その手は熱を持っていて暖かい。
「幼馴染からもう一歩、踏み出してみよっか?」
冗談っぽく笑いながら言うみかげさん。でも、その眼差しだけは真剣にわたしを見て、とらえて離さなかった。
言われた時のわたしはさっきのみかげさんよりも顔色を赤くしていたと思う。だってこんなにも、顔が熱い。
「踏み出せ……るかな?」
そう言いながらも、わたしの手はみかげさんの手を離そうとはしなかった。
いや、きっとこれからも手を離す事はしない。きっと。
-----
眼鏡のお姉さんと私 END
眼鏡のお姉さんと私 綿貫むじな @DRtanuki
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