Ⅲ
あくる日、午前中いっぱい僕は可音と表と裏口の砂を欠き出していた。皮膚がまるでジリジリと焼けていくような、そんな猛暑の中で、
可音はAcross The Universを口ずさみながら砂を欠いていた。
昼にマスターが用意してくれたクラブハウスサンドとビールで喉を潤した。もちろん、可音はレモネードをゴクゴク飲んでいた。
四人の会話はほとんどなかったけれど、穏やかな空気が流れていた。それは、この空間に流れる悠久を思わせた。
由美とマスターが後片付けをするというので、腹ごなしに可音と二人で砂浜を歩いた。歩くたびに砂はキュッ、キュッと小さな音を立てた。
「この辺はなきすなで有名なの」
「可音は、ここから出る気はないの」
浜風が砂丘のコリドーを渡り、刻々とその形を変化させてゆく。砂丘は、まるで生き物のように蠢き、ゆっくりとあらゆるモノを飲み込んでゆく。文明もその一つに過ぎない。
好きなある作家の言葉を思い出した。――文明とは伝達である。何も伝えられないのであれば、いいかい、それはゼロだ――
「人は生まれた所を離れられないって言うでしょ。死ぬ間際はみんな生まれた土地を思い出すっていうし……それに、パパ一人じゃ裏口も庭も何もかもすぐ埋まってしまうわ」
「可音のパパが寂しがるから? 可音には可音の人生があるはずだよ」
「ううん、パパだけじゃないの……ママもこの土地に眠ってるしね」
「ここから離れられないんだね。可音はそれで幸せ……?」
「薫さん、砂漠のキツネが言いました。大切なものは目には見えないんだってね……」
僕らはあの砂漠に不時着し必死で脱出を試みる遭難者なのだろうか……。
暫くベッドに横になり、窓外を見つめていた。昼間の疲れから眠気はすぐにやってきた。
真っ暗な空を背景にペルセウス座流星群が天空をまたいでいた。
いったいどのくらいここに留まっているんだろう。記憶すらもあやふやだ。
由美は相変わらず可音に教わった砂時計造りに夢中だ。
僕たちはまるで出口のない迷宮に取り残されたみたいだ。
出て行こうと思えば、いつだって出ていけるんだ。マスターに街まで送ってと一言言えばいいんだ。
しかし、僕も、由美も、その一言すら言えずにここに留まっている。
砂丘は相変わらず日ごとにその形を変えながら、物音も立てずに浸食してゆく。耳を澄ませるとマスターと可音のデュエットが聴こえてきた。 どうやらビートルズのYesterdayらしい。
マスターは相当なギターのコレクターだ。店内にはLPレコードに混じってフェンダーやらギブソンやらオベーションやらのギターが無造作に飾ってあった。どれも手入れが行き届いた状態で、すぐ弾けるようになっている。飾っておく類のコレクターではなく、実際に弾けるギターでないと駄目なんだと言う。
今弾いているドレッドノートのマーチンにしても創立百年だかの記念のクラップトンのサイン入りのギターとさりげなく自慢げに言っていた。
僕も由美も砂との格闘をしばし止めて、その声色に聴き入った。
まるでこの空間だけが特別で、特別な時間がゆっくりと流れているように感じた。
時間とはいったい何だろう……、人はそれを知ろうと悠久の時代からあらゆる手段、あらゆる知能を使って解明しようとした。
しかし、時間も空間さえも実在するものではない。目の前にぶらさがっているのは分かっているのに、手に取ることすらできない。
例えて言えば、神はいるかと訊ねられたり、霊や死後の世界はあるかと訊かれたりしたら、信じている人にとってそれは間違いなくいたり、あったりするようなモノなのだ。
心ですら唯物論者にとっては実在しないし、やっかいなものでしかない。
時間とはそういうものなのだ。
物理法則に則れば、今僕が立っているこの場所が現在だ。留めておくことはできない。なぜならその僕が立っている場所は常に過去に成り下がろうとし、好むと好まざるとに関わらず未来に向かおうとするからだ。しかし、現実の僕は一秒前の過去に戻れないし、ここから一秒先の未来にだってゆけやしない。
砂時計に例えればあの括れの砂が落ちる瞬間が今いる僕の場所で、落ちてしまった砂は過去に成り下がり、上部の球形に残った砂が未来だ。
その砂時計の砂を眺めながら人は苦渋に満ちた過去や、まだ形すらもない未来に思いを馳せるのだ。
「ここにいろ! と、なんで言えないの!意気地なし」
分かっていたんだ。僕にはすべて分かっていた。月に何日かは音信不通の日があったり、携帯の着信が来るたびにビクっと震えてみたり、絶対に僕をベッドから遠ざけたり、でもね、僕にはどうすることもできなかった。
僕には由美、君の未来を束縛するなにものもない、そう思っていた。
「ねえ、お願いだから……手錠でもなんでも掛けてわたしを閉じ込めてよ! わたしのこと好きなんでしょ!
違うの! レイプでもなんでもしてここから出さないでよ!」
由美が出て行った部屋で僕はメソメソ泣き続け、後悔するんだ。君の心の中の男に嫉妬し、君の感情をこれほどまでに弄ぶ男を憎いとさえ思う。
でも、僕にはどうすることもできなかった。僕みたいな最低な男にいったい何ができる。
僕にできることはね、由美。待ち続けるしかなかったんだ。砂丘のように、ひっそりと、ただただ、待ち続けることしかできなかったんだ。
なぜなら初めて会った日から、我侭で、理不尽で、ひらぺったい胸で痩せすぎな由美に恋してしまったのだ。
朝、ベッドを這い出し、由美の部屋をノックした。応答はなかった。
「由美! 由美!」
ドアを開けると、半分ほど砂丘に埋まっていた。 空には明けの明星がくっきりと囁くように浮かんでいた。
視界の半分を砂丘が、半分を真っ青な空が埋め尽くしていた。
砂丘に点々と続く由美の足跡を追った。もし、もう一度逢えたならはっきりとこう言おう。
どうしても伝えなければならないんだ。
「君のそば以外に僕のいるべきところはない。君が好きだ、愛してる」
たったこれだけのことを伝えるのに僕はなんて遠回りをしたんだろう。
伝えられなければそれはゼロだ。今、やっと分かった気がする……。
来た時には全く気づかなかったけれど、入り口のすぐ横の壁に伝言板と書かれたコルク・ボードがあった。
青春の残像のような文字でこう書かれていた。
「薫クンへ……待ち合わせは世界の涯てでね、由美」
World's End Cafe ――待ち合わせは世界の涯てで @natsuki @natsuki
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