「いらっしゃい」

マスターらしき人がカウンターから声をかけた。チェックのボタン・ダウンを着た健康そうに日焼けした穏やかな紳士がそこにいた。

カウンターに座り、由美はカフェ・モカ、僕はエスプレッソを頼んだ。

マスターは笑みを浮かべながら丁寧にコーヒーを炒れた。

「なんだか、初めてきたような気がしないな」

店内を見回しながら由美が言った。

「そうだね、このコーヒーの香りさえ懐かしいような、デジャヴェみたいだ」

僕も言いながら相槌を打った。

店内中央には不釣合いなダルマ型の薪ストーブが鎮座し、壁には一面にビートルズのLPレコードのジャケットが飾られていた。

「マスターの趣味ですか、ビートルズ」

由美がカフェ・モカを一口啜りながら尋ねた。

「そう、今だって毎日聴いてるよ、高校ん時ねえ、Sgt.Peppersに巡り合って、感動して涙が溢れてねえ、それ以来のファンだからねえ」

「何かかけてくださいます?」由美が尋ねた。

ターン・テーブルから流れてきたのは「No where man」だった。確か邦題は「ひとりぼっちのあいつ」ってやつ。

どこにも居場所のない男の歌。

「この辺の砂丘って文明の名残がそこここに埋まってるんですね」僕はマスターに尋ねた。

「そう、ここはWorld'S Endだからね、文明ってのは儚いものなのかもしれない。宇宙の営みに比べたらちっぽけなものさ、結局残るのは砂粒だけ、永遠なんてものはこの世には一つもない……」

天井のJ・B・Lがそんな言葉におあつらえ向きに「Across The Univers」を奏でた。

♪……紙コップに降り注ぐ雨のような言葉……郵便箱の中を転げまわる思考……私の世界を変えるものなど何もない……何度も、何度も続くリフ……この世界はきっと文明という言い訳が降り積もって終焉を向かえるんだ、きっと。


 「ここもね、いつかこの一ミリにも満たない砂粒に埋まってしまうんだ。閉じ込められてるって気はしないんだが、どこにも行けないのは確かだからね」

「それは、どこにも行かないっていうマスターの意思じゃないんですか、行けないんじゃなくて……」

そう言ってから僕は由美を見詰めた。僕も由美も閉じ込められたままだ。どこにも行けやしない。

海泡石のパイプをくゆらしながらマスターは静かに語った。

「君たちはまだ若い。時間は充分とは言えないまでも確かにあるんだ。私だって十五、六の時は、時間ってのは永遠と同義語だと思っていたものさ、次に来る明日を待ち望んでいたんだよ、でもねえ、ある日を境に自らの終焉を意識し始めるんだ。人は死ぬために今を生きてるってことを実感するんだね……文明も然り、諸刃の剣だよねえ、文明を築くことによって人類はその終焉を早めてるんだ、皮肉だねえ……」


 裏口の扉が勢い良く開いた。

「あら、お客様。珍しいわね」

ショート・カットの女の子が僕たちを見て人懐っこい笑顔を向けた。

「裏庭の砂の片付けは終わったのかい?」

「ええ、取りあえずね、街の人たちが手伝ってくれたから、明日はパパの番ですからね」

身体中にこびり付いた砂を丁寧にほろいながら女の子が答えた。

 それが終わると僕たちを値踏みし、マスターを肘で小突いた。

「ああ、紹介しなきゃね。私の娘で可音(カノン)と言います。彼女の中には今、狂気とイノセンスが混在しています。十七だからね……私の自己紹介もまだだったね、小糸良平です。娘とこの砂丘で小さなカフェをやってます、まあ、見ての通りだね」

「可音です。パパのカフェはほとんど道楽って感じで、生計のほとんどは私の創作砂時計をネット・オークションで売って立ててるってのが今の現状、は、は、は……」

 可音の言葉にマスターが苦笑いを浮かべた。

まるで吸い込まれそうな大きな透き通るような瞳が素敵でコケティッシュな顔立ち、短く切った髪は、キラキラと光る砂粒が混じって漆黒の闇を思わせるほどに黒い。

「ええと、僕は薫です。こちらは由美……乗ってきたミニがこの先の砂丘でエンコしちゃって……街の灯を頼りに歩き続けて、ここにたどり着いたってわけです」

「一服したら送ってあげようか、街まではまだ相当あるからね。私の四駆なら砂丘越えでショート・カットもできるしね」

「ああ、助かります。この辺って携帯も通じないみたいだし……」

言いながら僕は冷えかかったエスプレッソを啜った。

「たまたまよ、普段は通じるのよ。時たまね、砂嵐の影響だとか、流星群の影響だとかで、通じなかったり、圏外になったりするの」

レコードが終わると、エアコンの音に混じって微かに潮騒の音が聞こえた。

由美はさきほどから興味津々と言った趣で店内を歩き回っていた。壁一面に張られたビートルズだとかストーンズのジャケットに見入っていた。そして、時折潮騒の音に耳を澄ますのだ。

「ここって、毎日砂を欠き出してるんですか、可音さんが……」

「可音でいいよ、薫さん。毎日ね、それこそ毎日砂を欠き出さないと埋まってしまうの、このカフェ」

微かな鼾が聞こえる。

マスターが右手にパイプを持ったままカウンターに突っ伏していた。

「パパどうやらおねむらしいわ、もうかなり遅いし薫さんも由美さんも泊まっていけば? パパは運転無理みたいだしね……」

その言葉に僕たちは顔を見合わせ、由美は間髪をいれずに頷いた。どうやら、ここを気に入ったらしい、由美のやつ……。

「元々、ここペンションにするつもりだったから奥にね四つ部屋があるの、一つは私、一つはパパが使ってる。なんなら、二人で一緒にね、もちろん別々でもいいし……」

 僕は躊躇っていた。僕だってここの居心地の良さにすっかりくつろいでいたのだ。でも、何かが躊躇わせた。どこにもいけやしないんだってマスターの言葉が脳裏を過ぎった。

「……先に言っておきますが、料金とかなら気にしなくていいよ、何か特別なサービスができるってわけでもないし、明日砂を運ぶ手伝いでもしてくれたら充分だから」

 可音の屈託のない笑顔に僕らは結局泊まることにした。何も急ぐ必要などない。夏季の休みは充分に残っているんだし、何より由美の傷心を癒すのが目的のドライヴだったのだから……例えばそれが2、3日になったからって不都合が起こるわけでもないんだ。

 「可音さん、可音さんが作った砂時計見てみたいんだけれどいいかしら?」

由美が尋ねた。

 カウンターに一つだけ置かれた砂時計は絶妙な藍色をしたガラスで作られ見事な一角獣の台座に固定されていた。

由美は先ほどからそれを光に翳したりして、仔細に眺めていた。

「うん、いいよ。パパを寝かしつけてくるから、まあこれでも聴いて待ってて」

言いながら可音は、手馴れた手付きでターン・テーブルにレコードを置いた。

「レーデルって知ってる? フルートの名手で指揮者なの。わたし、彼のカノンが一番好き。パパが大好きなバロックで、ママとの出会いの曲で、わたしの名前の由来でもある曲なの」

「手伝おうか?」

マスターを起こそうとしている可音に声をかけた。

「ううん、大丈夫。いつものことだから」

 寝ぼけているマスターを起こし、肩を貸した可音が裏口から消えるのを見送った。

僕と由美とパッヘルベルのカノンだけがこの部屋に残された。

ニ小節のテーマがカノンで何度も繰り返されるだけの単純なバロックがなぜこれほどまでにポピュラーになったのか、分かった気がした。

 それは、きっと、この場所とこの時間とそれらを共有する由美と叙情的に流れる旋律があって始めて分かる。そういった類のことなのかも知れない。


 


 暫くして戻ってきた可音が僕たちを手招きした。

――可音の砂時計工房[部外者は立ち入ってもいいけれど、自己責任だから――と殴り書きされたダンボールが無造作に貼り付けられた扉を開けた。

 地下室に通じる階段は薄暗く、湿っていた。所々に配置された豆電球が頼りなげな光を放っていた。

可音はかなり勾配のきつい階段をなんの躊躇もなく下ってゆく。その後ろを手すりに掴りながら僕も由美もおっかなびっくり付いてゆくしかない。

 モルタルの壁の奥からはひっきりなしに砂の流れる音が微かに聞こえた。

下るに従って周りの空気がひんやりとしてくる。やっと地下の地面がうっすらと見えた。


 「ここがわたしの工房。わたしのお城、手作りの砂時計を作るところよ」

言いながら可音は手探りで壁のスイッチを押した。天井の蛍光灯が順番に光を放つ。

薄く色の付いたなじみの形をしたガラスが四方の棚いっぱいに並んでいた。

どれ一つとして同じ形のものはなかった。どれも微妙に上下の大きさが違ったりするのだ。

部屋の真ん中には不釣合いに大きなマホガニーの机。

その上にはデルのパソコン。その隣のオール・イン・ワン・タイプのプリンターからはひっきりなしに注文書らしきものが吐き出されていた。

一方の壁には紺色の羅紗のボロボロの一人がけのソファが二つ。一目で座り心地がよさそうだと思えるような、充分に使いこなれ年季の入ったそんなソファだ。

そして、ソファの上にはバスキアの短い生涯を描いた「バスキア」って映画の特大ポスターが無造作に飾られていた。ジェフリー・ライトの快演と画家であり生前彼の友人でもあったシャナーベルの映像美が心に残る、確かWOWOWで見たんだっけ。

 この映画にひとつだけ教訓があるんだとしたら、それは善人は早死にするってことだ。僕はそう確信し、きっと僕も早死にすると思ったものだ。


 「はあ、忙しい。ネコでも犬でもペンギンでも、なんの手でも借りたいくらい」

どうやら小樽のガラス工房からの注文らしかった。可音一人でやってるらしく五個や十個の注文でも大変らしい。

「砂時計ってなんだか時を閉じ込めてるみたいでしょ、時々ね永遠を閉じ込めてる気になったりするわ」

「クロノスの怒りを買わなきゃいいけどね」

「は、は、は、こっちが悠久を切り取った三分計の棚、で、こっちが永遠を五分に詰めた棚」


 二十畳ほとのスペースに、フライス盤だの旋盤だのが所狭しと並んでいた。工房というよりも小さな町工場のようだ。

 可音は由美の質問に丁寧に答えていた。

「砂って見れば見るほど不思議なの。一粒、一粒は、地球が何十億年もかけて生んだものだからほとんど球体に近いの、だから、砂時計は成立するとも言えるんだ。球体に近い方が落ちる速度が一定だからね、砂とかは一般的に粉粒体と言われているの、つまりね、動いている時は、液体のような性質を持ち、動きが止まると瞬時に固体に変化するのね……」


 僕たちは可音に部屋に案内され、シャワーを浴び、可音が整えてくれた清潔なシーツに横たわった。もちろん、由美とは部屋を別にした。

僕たちは付き合っていたのか、おそらく由美も僕と同じ気持ちだっただろう。

 うまく眠れなかった。窓の外では蠢き続ける砂丘を風紋が横切る音が絶えず鳴っていた。耳障りなわけではなかった。

むしろ、心地よささえ憶えるような微かな音、それは、虫の羽音にも似た密かな音だった。

ドアを遠慮がちにノックする音が聞こえた。

「薫クン、もう寝た?」

「いや、起きてるよ」

「入っていい?」


 ギンガム・チェックのパジャマを着た由美がドアの隙間から覗いた。どうやら可音に借りたらしい。

「横いい? うまく眠れなくて……」


僕の言葉も待たず由美はベッドに入ってきた。

「なんだか色々なことがあったからね、僕もうまく眠れないんだ」

「最近変なのよ、わたし……泣かなくてもいい時に泣いてみたり、泣かなきゃって思ってもうまく泣けなかったり、今もうまく眠れないし……」

言いながらシーツの下で由美の腕がもそもそと緩慢に動いた。

僕のペニスはその動きに合わせてまるでパブロフの条件反射みたいに勃起する。今更ながら男の本能って単純なんだと思う。

「そ、そんなことされたら尚更眠れなくなるよ……」

「……不思議ね、あなたのペニスを触っているとなんだか落ち着くんだ。……ファザコンとかね、したり顔で言わないでね、薫クン。フロイトなんて当たるも八卦みたいなもんなんだからね。あなた時々、なんでも知ってるんだって顔してわたしをバカみたい扱うんだから、わたしの人生はファザコンって認識の上に成り立ってるんだから……と、とにかくペニスっていう突起物を触ってると妙に落ち着くのよ、安らかな眠気がやってくるんだ」

 そこまで言われると僕は結局なにも言えずに、こういう状態を耐えるしかないじゃないか、こんな拷問みたいな虐めを平気でやったりするんだ、由美は……。

 結局、由美は僕を射精に導く寸前ではぐらかし、自分が眠りにつくまで、触り続けるのだ。

 「教授と寝たのよ、あなたの父親のような年齢の教授とね、何度も、何度もね、そんな私を許せる、薫クン……そんなわたしに触られて平気? 薫クン……」


 開いたカーテンの隙間から満月の光が差し込んでいた。死んだ光は僕と由美をこの世のものとは思えないほどの優しさで包んだ。

「このまま砂に埋まってしまえば、その質問がどんなにつまらないものかってことが君にも分かるよ、きっと……」

由美はそれには答えず、勃起したペニスを暖かで神秘的なその場所へあてがった。


「砂漠はその底に脈々と水を湛えているから美しい。けれど、見ようとしなければ、見えないもの……わたしが見える? 薫クン?」

この世の中にほんとに美しいものがあるんだとしたら、それは由美、今の君だよ。押し殺した呻き声を上げ、真正面から僕を見つめ、絶頂に上りつめようとする君の苦悶の表情こそが、きっと僕が捜し求め、愛し続けた薔薇の一輪の花なのかもしれない。


 小刻みに震える由美の肢体を月の光りが妖しく包んでいた。それは、夢と現実の狭間を、どうすることもできない僕たちの関係を、一瞬でカタルシスに変える行為そのもののようにさえ思えた。

 この世界の不条理は由美という実体に包まれることで、なにもかもが明白なものとなって僕に襲い掛かるのだ。

由美は僕の背後の父親を犯し、教授を犯し、そして、自分自身を犯すのだ。


 由美の深く長い吐息の末に堪らず僕は彼女の華奢な腰を持ち上げ、射精した。

しわくちゃのシーツの波間に精液が飛び散った。

シーツに倒れこんだ由美が乱れた髪のすきまから僕を見ていた。そんな由美の視線と絡んだ。

「わたしを見ていてね、薫クン……ずっと見ていてね」

言うと寝返りを打ち、すぐに密かな寝息を立てた。

取り残された僕がいた。

 裸のままの由美のうつ伏せの肢体を暫く眺めていた。

 由美の背中からお尻までの曲線は見事に整った砂丘を思わせた。いったい、どれほどの愛を抱えたら由美は潤うんだろう。


 潤うことのない、渇き、飢餓感を抱えながら、それでも砂漠は凛としてそこにありつづけるのだ。いや、むしろ、増殖してゆくのは砂漠のほうなのだ。いつか、人も、文明も、時間すらもが、それに飲み込まれてしまうのだ。人が創造したもの、あらゆる文明は、いずれ、死を迎える。これほどはっきりとしていること、すべてのものに、必ず死は訪れる。好むと、好まざるとに関わらず、それは確かなことなのだ。

 そう、悠久の時間という概念ですらそれは免れない事実……。


                                

 その日は不思議な夢を見た。

時を切り取り砂時計に詰めてゆく可音。そして、どこまでも続く砂丘には、その時を切り取った砂時計が、まるで屍のように累々と横たわっていたのだ。その屍は世界の涯てまで続いていて、僕は汗をかきながらその延々と続く砂時計の屍を拾い続けるのだ。


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