World's End Cafe ――待ち合わせは世界の涯てで

@natsuki

砂丘を一つ超えると、街の灯りが見えた。

ぼんやりと霞んだ弱々しいその灯りに向かって僕と由美は歩き続けた。

満月は相変わらず僕たちの背後を追いかけてくる。

まるで、キャラバン・サライの幻影に縋るみたいに。


 「ねえ、薫クンわたしたちいつまでこうやって歩き続けなきゃいけないわけ?」

「まあ、僕は運命論者じゃないけれど、こうしなきゃならないってことならこれをそっくりそのまま受け入れるしか今のところ僕らにできることはないわけだから……」

 僕らの後には僕と由美の足跡が消えかかった涙の跡みたいに点々と続いていた。

いったい、どのくらい歩き続けたのか、それすらももう思い出せない。

「相変わらず頼りないわね薫クンって」

 僕はいつからこの頼りないってレッテルを貼られるようになったんだろう、そして決まって別れ際にこう言われるんだ。

「あなたって最低ね!」

まあ、由美との関係はそこまではいってない……と思うんだけれど、正直分からない。


 「世界の終わりってきっとこんな場所なんでしょうね薫クン」

由美の言葉を僕は頭の中で反芻する。 見渡すと四方は砂だらけだ。時々その砂に見え隠れして文明の名残りが微かにその姿を見せる。例えばピラミッドの頂上だの、朽ち果てたサグラダ・ファミリアだの、エッフェル塔のてっ辺だの、アンモナイトや、シーラカンス、恐竜の頭骨だの、ネアンデルタールやクロマニョンの化石なんかがそこここに散乱している。

僕らはどこにだっていけるけれど、どこにもいけやしないんだとも思う。

だから、世界の終わりにはたどり着けないし、世界の涯てだって見ることも行き着くこともできない。

時々長い長い廊下が永遠に続くんじゃないかと思えたり、降下してるんだか上昇してるんだか分からなくなる気が遠くなるようなエレベーターに乗ってる、世界ってきっとそんな感じなんだと思う。


 ぽつんと灯りが見えた。まるで手招きしてるような灯り。

「カフェがあるよ、なんか飲んでいこうよ、喉が渇いちゃった。わたしたちもうずいぶん歩いたもの」

そのカフェの看板にはこう書いてあった。「World's End Cafeへようこそ」

僕はそのカフェの無用に重い扉を開け、由美を待った。

ゆっくりとスニーカーに付いた砂をほろいながら由美は扉をくぐる。


 そこは妙に懐かしい匂いがした。室内は僕と由美が大学の帰りに足げく通ったカフェにそっくりだった。

初めてのデートは不忍池で乗ったボートだ。

その帰りに僕たちはこれとそっくりのカフェに立ち寄ったのだ。


 同じゼミで一緒だった由美とはそれほど親しかったわけではない。ある日、それは西陽が落ち始めた頃ゼミが終わりなんとなく残っていた僕に由美がこう言った。

「薫さん、お願いがあるの、いい?」

 たまたま二人っきりだっただけだ。たまたまそこに僕がいたってだけだったのかもしれない。

ブラインド越しに西陽をいっぱいに浴びた由美の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「ちよっとだけ胸貸してくれる? ええと五分でいいと思う……」

僕の言葉を待たずに由美は僕の胸に顔をうずめ泣き出した。まるで、南極大陸にたった一匹取り残されたペンギンみたいな泣きかただった。

 きっと普段は泣いたことなんてない、芯の強い女の子の泣きかたのようにも思えた。うまく泣けないそんな感じがした。それが、嗚咽に変わっても僕は由美を抱きしめることすらできなかった。

「離婚するってね、さっきパパからテルきたの……ママからもね、ママ泣いてるのよ……泣くくらいなら離婚なんてしなきゃいいのに」

 どうやら親たちの間では離婚がブームらしい。熟年離婚ってやつ。僕の両親も僕が十六の時に離婚した。僕の高校受験が済むのを待っていたんだそうだ。


 そんな日になぜ不忍池でボートに乗ったのか、今でもよく分からない。僕の両親も離婚したことを告げると、由美は堰を切ったように話し出した。どんなに両親のことが好きだったのかとか、パパとは恋人同士みたいに仲が良かっただとか、家族旅行したハワイやニューカレドニアの旅がどんなに楽しかっただとか、そんなことだ。

ボートに乗ったあと、まだ帰りたくないという由美とカフェに入った。

 扉を開けるとビートルズが流れていた。確か「A DAY IN THE LIFE」って曲……歌詞の猥雑さとサイケデリックな曲調、恐らく最高の中のひとつ、そこでも僕は聞き役に回った。由美の唇からはとめどなく言葉が溢れた。

 それは、まるで一生分の言葉を使い果たすような勢いだった。僕だって両親への恨みつらみをここぞとばかりに吐き出した。

カフェを出ると僕らは歩き続けた。ちょうど今夜みたいに……カフェでの冗長がウソみたいに押し黙ったまま、歩き続けた。なぜそうしたのか、どちらが誘ったわけでもなく歩き疲れた僕たちは池袋の駅に近いラヴホテルに入った。


 「ここ、こんなに硬くなってるね」

ホテル備え付けの趣味の悪いピンクのバスローブを来た由美の胸元から蕾のような小さな乳房が見え隠れしていた。

首筋にはシルバーのオープン・ハートが揺れていた。ティーン・エイジの最後の誕生日に父親から貰ったプレゼントなんだとついさっき由美に聞いた。

僕はそれには答えず鏡で覆われた天井を見つめていた。

天井に写った僕と由美、お互いに趣味の悪いピンクのバスローブを着て、それがこの世界の全てだ。

申し訳なさそうに由美は僕のペニスを摩り続けていた。

「ごめんね、歩いてる時にね、そのね、きたみたいなの、ドバッとね、ナニがね……」

ボクサーの上から由美の掌が僕の勃起したペニスを触っているのを、天井一面の鏡を通して見ていた。なんだか、他人事みたいだ。

「あのね、よかったらでいいんだけれど、手とかね口とかでやったげようか……別にバージンって分けでもないしね」

微かにエアコンの音が聞こえた。交じり合うようなB・G・Mは名前すら知らない安っぽいポピュラー・ソング。

「いいよ、何もしなくていい。朝までね抱きしめていてあげるから……それでいいんだよね」

そう言うのがやっとだった。成り行きでこうなったけれど、何もかもが安っぽく嘘くさかった。

由美の感情も僕の感情もどこかに置き忘れたように虚ろで、とりとめのない寂寥だけがこの場を覆っていた。

「ありがと……」そう言うと由美は唇を近づけた。

舌と舌が交じり合い、歯と歯が絡み合い、小さな音を立てた。暫く僕らは夢中で唇を重ねた。まるで明日世界の終わりが来るみたいな枯渇した井戸みたいなキス……。

そして、この日由美が僕の胸で流した涙が両親の離婚だけが原因でないことを後から知った。

その日はきっとそのことのほうが彼女が一人になりたくなかったことの大元なんだと言うことも後から分かった。

 女の子が好きでもない男とラブホテルで一夜を共にするということにはそれなりの理由が必要なのだ。


いつの間にか由美は僕の胸にしがみついて密かな寝息を立てていた。

小さく縮こまった由美の寝息は夜が明けるまで僕の胸に降り積もった。


 あの日から僕らははたから見れば恋人のような日々を過ごした。はっきり分かっていることは、僕が好きなほど由美は僕に関心がないということだ。僕にはそれが分かっていたし、一緒にいても由美の心はどこか別のところにあるような気がしていた。

 何度か由美は僕の部屋に泊まったけれど、一度も僕を受け入れようとはしなかった。

僕がどうにも我慢できないと言うと、彼女は手か口で僕をいかせた。

 彼女は寂しかっただけなのかも知れなかった。唯一つ言えることは彼女の中には間違いなく僕以外の男がいるんだということだけだった。

 それでも僕は辛抱強く待った。なぜなら僕の胸で彼女が泣きじゃくったあの日から僕は間違いなく由美に恋していたのだ。

我侭で、理不尽で、ひらぺったい胸で痩せすぎな由美に恋していたのだ。

 いつかはきっと振り向いてくれることを信じて、何も言わず、何も訊かず、ただ待ち続けた。

自分でも呆れるくらい従順に、まるでよく訓練された盲導犬のように由美の心が振り向いてくれることを待ち続けた。


 「子供堕ろしてきたの」

待ち合わせの場所で車に乗り込んですぐに由美が消え入りそうな声で言った。

「それで、一月も音信不通だったてわけ」

いたって冷静な自分に驚いていた。

「薄々は気づいてたんでしょ? 違う? ゼミの朝倉教授の子よ、彼、病院まで付いてきてくれたわ、費用も彼持ち……帰りは、責任は果たしたって顔でさっぱりしてたわ」

「頼りない僕にはなんの相談もなしなんだ。付き合ってたんじゃなかったっけ、僕ら……」

「何かできた? あなたに……」


 行くあてなどなかった。ただ闇雲に車を走らせていた。車内を重たい沈黙が支配していた。

無意識にコンポのスイッチを入れた。この沈黙に耐えられそうもなかったからだ。

偶然に由美が持ち込んだCDが流れた。オムニバスのラヴ・ソングばかり集めたCD……由美の肩が小刻みに震えていた。

僕はそんな由美に慰めの言葉すらかけることができなかった。

由美が僕を愛してなんかいないことは分かっていたつもりだった。

由美と教授の会話の中になにか特別なものがあることも薄々気付いていた。

だから、由美が中絶したと言ってもさして驚かなかった。


 どこをどう走ったのか……気が付くと一面に砂丘が見えた。夏場に旧式なミニでドライブは自殺行為に等しい。案の定、車は段々に力がなくなり砂丘の脇の駐車場までの最後の数十メートルは、ほとんど惰性だった。

 陽炎が揺らめいていた。由美と二人で灼熱のアスファルトを車を押し続けた。

「車は諦めよう。取りあえず近くの街まで行ってどうするか考えよう……」

「携帯も全然通じないわ」吐き捨てるように由美が言った。


 潮の香りがした。渚はすぐそこにあったのだ。

二人で渚を歩いた。

身体中に取り付いた汗が嘘のように引いた。

 とりとめのない足跡が波間に浮かんでは消えた。


 「さっきはごめんなさい。きついこと言って、多分、あなたがいてくれてずいぶん楽になったと思うの。わたしが辛い時、いつもあなたがいてくれる……わたしは、いつもそれに甘えてるだけなのかもしれない」

「時々ね、時々思うんだよ……僕は由美、君のなんなんだろうってね」

言葉はそこで途切れた。

 言い忘れたことがいっぱいあるような気がした。由美との会話はいつも一方通行だ。由美が一方的に切り出し、僕のことなどお構いなしに途切れるのだ。

 いや、何かを言いたかったとしてもそれは潮騒にかき消されるたぐいのものだったのかも知れない。


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