キミのお望み通りに

七島新希

キミのお望み通りに

「老いたくない。ずっと若いままでいたい」

 彼女は何かにつけてよくそう言っていた。そしてその言葉と同じくらい

「生きたくない。でも死んで私の存在が忘れ去られてしまうのも嫌」

とも口にしていた。


              ◇


 彼女はまるで猫のように気まぐれで、自由奔放だった。スマートで均整のとれた身体、ざっくばらんとした飾り気のないショートヘアーに、化粧っ気はないけれど不思議と惹きつけられるミステリアスな雰囲気。そして鋭く何かを見通すような瞳を彼女は持っていた。

 真冬。何枚も重ね着し、厚手のコートを羽織っているにも関わらず、僕の身体は寒さに震えていた。露出している顔に冷たい風は容赦なく突き刺さるためじんじんするし、手袋がないため冷え切った手は感覚がなくなっていた。

 僕は大学からやっと辿り着いた自宅の玄関先で、家の鍵をバッグから取り出した。震えて感覚が半ばマヒした指先でなんとか鍵を鍵穴に差し込み、回す。カチッと鍵が外れる音がした。

 僕はドアを開け、家の中へと入った。

 暖かい。凍りかけていた身体が溶けるような、そんな心地良さがした。

 けれど僕は一人暮らし。普段ならば室内といえど、極寒のままのはずだ。僕は家を空ける時にはきちんとストーブは切る。だから今、部屋の中が暖かいということは、僕以外の誰かがこの家にいるわけだ。

 僕はまっすぐダイニングの中央にあるソファーへと歩み寄った。そしてソファーを上から覗き込む。細いスラリとした肢体を抱きかかえるようにし、丸くなって眠る彼女の姿がそこにあった。

 彼女が閉じていた瞼を開いた。ぱちんと僕の目と、彼女の鋭利な瞳が合った。

「ただいま」

 僕は顔を上げながら彼女に挨拶をした。

 彼女は大きく伸びをして起き上がった。目を細めて気持ちよさそうに腕を伸ばすその姿はまさしく猫のようだった。

「おかえり」

 目を手で掻きながら気怠げな視線を向け、彼女は僕に出迎えの言葉を掛けてくれた。もしも彼女が本当に猫だったら、このまま喉をゴロゴロ鳴らしながら毛づくろいでもし始めそうだ。

 彼女は今みたいによく僕の家にいた。その頻度は毎日立て続けにいることもあれば、一週間、二週間、さらに一か月近く来ない時もあり、およそ彼女の気まぐれから決まるものらしかった。

 僕と彼女が知り合ったきっかけは本当に些細なことだった。あの日、一分一秒、何かが違えばきっと僕と彼女の道が交わることはなかっただろう。けれどそのおかげで僕は彼女のことを好きになり、彼女もまた僕に懐いてくれた。

 合鍵を渡していつでも彼女が僕の家へ来れるようにし、二人で時を共に過ごしたりするくらい僕らは深い仲になっていた。









「あなたは私のこと、好き?」

「好きだよ」

 僕はベッドの中でギュッと彼女を抱き締めた。華奢で折れてしまうんじゃないかと思うくらい細く、滑らかで温かな身体。

「愛している?」

「愛しているよ」

 引き続き問い掛けてきた彼女に僕はそう答えた。ついさっきまで身体を重ねていたし、当然のことなのに彼女は僕の愛を疑っていた。

「ずっとずっと私だけを愛している?」

「もちろんだよ」

「ダウト」

「痛っ」

 パチンという小気味の良い音と共に、額に走る軽い痛みと衝撃。嘘、偽りのない本心からの言葉だったのに、彼女は僕にデコピンをしたのだ。

「うそつき」

「嘘じゃない」

「うそ」

 真面目な顔で否定しても、彼女は頑として主張を変えなかった。

「嘘じゃない。僕はキミをずっと愛し続けるよ」

 僕は強く、大きく、そしてはっきりと彼女に言い聞かせる。

「本当に?」

「本当だよ」

 疑念に満ちた彼女の瞳を、僕はまっすぐ見つめた。

「……」

 彼女は僕の腕の中で黙り込んだ。僕も無言のまま彼女を抱き締める力を強めた。

 彼女はたまにこうやって僕のことを試すのだ。そして僕がどんなに真剣に受け答えしたところで納得しないまま黙り込む。そうなっってしまったら何を言っても彼女は反応を返さないから、僕はそっと態度で示すのだった。

 でも今日の彼女は違った。

「ねえ、私は老いたくない。ずっと若いままでいたい。そして生きたくもない。でも死んで私の存在を忘れ去られてしまうのも嫌。そんな私の願いを叶える方法ってあると思う?」

 彼女はよく口にする台詞を言い、僕にそれが可能か否かを問い掛けてきた。

「あるって言ったらどうする?」

 僕は彼女に尋ね返した。彼女が何かとその台詞を口にするから、僕はそれが可能かどうかを日頃から思案していた。

「うそじゃないなら教えて。どんな方法!?」

 勢いよく彼女は僕の言葉に食いついた。いつも気怠げな彼女にしては珍しく感情的だった。

 僕はとある小説の女賊が行っていたことを彼女に聞かせた。その小説の女賊は、美しいものを手に入れ保存するためにそれを行っていたから、彼女とは目的が違う。けれど、彼女自身にそれを適用させれば『老いたくない、生きたくない、忘れ去られたくない』という願いは叶えられるはずだ。

 ただそれを適用させるにはある条件が必要だったが。

「もし条件が揃えば、あなたはその方法で私の願い通りにしてくれる?」

「キミが本気でそう望んでいたのだったとしたらね」

「あなたが私を心から愛しているのなら、そうしてくれるはずよね。本当にそうしてくれるって確証があるのなら、私はあなたのことを完全に信じることができそう!」

 彼女は僕の返事に満足したのか早口で興奮した調子でそう言い、実に嬉しそうな顔をした。明るい晴れ晴れとした表情で、僕が今まで見てきたどんな彼女よりもご機嫌で輝いていた。










 とある小説の女賊の話をした翌日から、彼女は頻繁に僕の家に来るようになった。ほぼ毎日、間隔が空いても三日に一度は一緒にいた。

「材料、ちゃんと集めてる?」

 彼女は毎回欠かさず僕にそう尋ねてきた。僕が本気で実行する意思があるかどうかを確かめるかのように。

「集めているよ。芯とする金棒とか防腐剤。中に詰める樹脂とかガラス玉、ナイフ、縫うための針と糸とか」

 僕はその度に、実際に購入したりして収集した材料達を彼女に見せた。

あの前提が成立することは、今すこぶる健康な彼女にはありえない。けれどもし彼女が本当にそう望んでいたとしたら、彼女を愛する僕は、確かに実行する気があることを示さなければならない。

そうしなければ彼女に僕の愛は信じてもらえないのだから。











「一応必要な物は全部揃ったよ」

 今日、通販で購入したガラスケースが家に届き、彼女の願いを叶えるのに必要な材料は全て揃ったのだった。

「本当!? 全部出して。並べて見せてよ」

 歓喜する彼女の望む通りに、僕はガラスケースが置いてある寝室で、材料達を全部並べてやった。

 金棒、防腐剤、樹脂、丸いガラス玉、ナイフ、針、糸、ビニールシート、黒いごみ袋、細々としたパーツ等々。それらがズラッと並ぶ様は全体的に武骨で無機質、そしてどことなく使用目的のせいか不穏な感じを僕に与えた。

「本当に全部揃えてくれたのね」

 そんな僕とは裏腹に彼女は感心したように材料達を見つめ、瞳を輝かした。

 これで彼女は満足したかな?

 僕は彼女の様子を眺めながらそう思った。

「ねえ、身体測定しよう」

 ひとしきり材料達を見つめていた彼女は、唐突にそう言った。

「身体測定?」

「だって今のうちに測っておいた方が実際にやる時にスムーズでしょう」

「それはそうだけど……」

 言われてみれば確かに作業する時にやるよりかは、今のうちに測定しておいた方が、効率が良いだろう。けれどそれはあくまであの前提が成り立った場合のみ。病気一つしていない彼女がその前提を本当に満たすとは僕は思っていなかった。

「ね。ほら、メジャーは私、持ってきたの。全身、くまなく測って」

 僕の手にメジャーが押し付けられた。僕は彼女をまじまじと見つめた。にこやかな彼女の目は、子供のように純粋な輝きを放っていたが、それが百パーセント本気だということを示していた。

 僕は彼女の指示に従い、彼女の全身を測定して記録した。僕はその前提が本当に成り立つとは考えていないから冗談半分なところがあるけれど、彼女が至極真面目にそれを望んでいるのなら、万が一条件が満たされてしまった時には実行しようと心に決めた。











 相変わらず厳しい冬の寒さを一身に受けながら、僕は普段通り大学から自宅へと帰ってきた。

 厚着をしているにも関わらず身体に寒さを突き付けてくる外気。容赦なく僕の顔を突き刺し冷たさを通り越して痛みを与えてくる風。

 僕は感覚のなくなった、何も覆う物がない裸の手で鍵を掴む。そしていつもと同じく、若干苦労しながらロックを外した。

 ここ数日、彼女は毎日僕の家に来ていた。だからきっと今日もまた部屋を暖かくして僕の帰りを待っているだろう。彼女に会えるという嬉しさ、凍死しそうな程の寒さからすぐに逃れられるという期待から、高揚とした気分で僕はドアを開けた。

「寒っ」

 僕の身体はブルリと一際強く震えた。寒さからの解放を期待して緩んでいた身体は宛てが外れて、より一層打ち震える羽目になった。

 家の中は外に勝るも劣らず冷え切っていた。ストーブが稼働している様子もなかった。

 今日はここに来なかったのかな?

 もともと彼女は気まぐれだったのだから珍しいことではないのだが、僕は拍子抜けしてしまった。

落胆した気持ちを拭えないまま、僕はダイニングへと歩いていく。

 そして気づく。

 彼女がいたことに。

 けれど彼女はいつものようにソファーで丸くなって猫のように眠ってはいなかった。柔軟性に富んだ肢体は見る影もなく、彼女は床に不自然に強張った姿勢で俯けに倒れていた。

 僕は急いで彼女に駆け寄り、抱き起した。

 冷たい。僕が腕に抱えているのが彼女では、いや人間ですらないのではないかと錯覚してしまうくらいぬくもりというものが全くなく、無機質だった。

 僕は彼女の表情を見て、顔をしかめた。目はカッと見開かれ、頬は引き攣り、口は血と唾液の痕を残しだらしなく開いたまま。彼女は苦悶の表情をくっきりと残したままだった。

 僕は頭ではもうどうなったのか理解していたが、彼女の体温が消え去った手首を掴み、脈を取ってみた。予想通り脈拍はなかった。

 つまり、彼女は死んでいたのだ。

 僕は手首を放すと、とりあえず大きく見開かれたままの彼女の両目を閉じてやった。醜く歪んだままの顔を晒し続けることはきっと彼女が望むことではないだろう。

 引き攣った頬と口は死後硬直でも起こしているのかどうにもできなかったけれど、瞳を閉じた彼女の表情は少しだけ安らかになった。

 僕は彼女の身体を抱えたまま茫然としていた。

 彼女は本当に、本気で僕に願いを叶えて欲しかったのだ。なぜなら、彼女は僕があの日聞かせた方法の前提条件を見事満たしてしまったのだから。

 彼女の『老いたくない、生きたくない、忘れ去られたくない』という願いを叶えるのに必要な前提条件。

 それは彼女が死んでいることだった。

 僕はテーブルに散らばる薬と床に転がったコップを見た。そして腕の中の、ただの器と化した彼女に視線を戻す。知らず知らずのうちに、僕の手に力が込められていた。

 彼女は自殺という手段で、見事にそれを実行可能状態へとしてしまったのだ。

 しばらくの間どうすることもできずに、僕はただ彼女を抱きかかえていた。











 僕はソファーやテーブルを部屋の隅に移動させ、大きな空きスペースを作った。そして作ったスペースにビニールシートを敷き、その上に彼女を横たわらせた。

 僕は彼女のために集めてきた材料を並べた。

『もし条件が揃えば、あなたはその方法で私の願い通りにしてくれる?』

『キミが本気でそう望んでいたのだったらとしたらね』

 彼女の問い掛けに僕はそう答えた。そして今条件は揃い、彼女は本気でそれを望んでいた。

 僕は彼女を愛している。けれど彼女は常に僕の愛を疑っていた。

『あなたが私を心から愛しているのなら、そうしてくれるよね。本当にそうしてくれるって確証があるのなら、私はあなたのことを完全に信じることができそう!』

 あの日、目を輝かせて無邪気にそう言っていた彼女。

 僕はビニールシートに微動だにせず横たわる彼女を見つめる。今はもう閉じられてしまっているけど、もし彼女の瞳が僕を見ているのなら、きっと射抜くような鋭さを持っているだろう。

 彼女は僕のことを試しているのだ。僕が本当に彼女のことを愛しているのかどうかを。

 僕は彼女に、確かにキミのことを愛していると証明する。

 僕は彼女の服に手を掛け脱がし始めた。

 僕があの日、彼女に聞かせたとある小説の女賊は美しいものが好きだった。宝石等の貴金属とか絵画、とにかく美しいものはなんでも好きで、それらを手に入れるために手段を選ばなかった。

 これだけなら普通の悪人と大差ないだろう。しかしその女賊の特筆すべき点は美しい人間をもコレクションしていたことにあった。

 女賊は美しい人間を剥製にしていた。

 そう、女賊は美しい人間を剥製にすることで、その美を保存していたのだった。

 彼女は

『老いたくない、生きたくない、忘れ去られたくない』

と願った。彼女を剥製にすれば、若さを半永久的に保てる。心外だが死んでいることを条件とするから、彼女の生きたくないという願いも、そして剥製化した彼女を僕が毎日眺めその存在を刻み続ければ、忘れられたくないという望みも、僕が彼女を完全に覚えていることで叶えられる。

 彼女を全裸にし終えると、僕は息を吸って吐いた。目を一回つぶり、再び開け、覚悟を決める。

 僕は彼女の望みを叶える。

 僕はナイフを手に取り、強く握った。そして彼女の均整のとれた身体に、その鋭利な刃物を入れた。

 彼女は死んでいたが、赤黒く変色した血が僕の予想より遥かに多くビニールシートの上を飛び散り始めた。僕はナイフを操り、彼女の内臓を取り出していった。医学の心得などない僕にはどれが何という名称の臓器なのか検討がつかなかったが、とにかく彼女の中身を次々取り除いていった。真っ赤に染まった取りたての人間の臓器は生々しくて吐きそうだったが、僕はグッとこらえる。

 僕は彼女の望みを叶えて、愛していることを証明しなければならない。

 僕は歯を食いしばり、作業を進めた。

 徐々に厚みがなくなっていく彼女の身体。ビニールシートの上に増えていく彼女の中身と血溜まり。

 僕は彼女の内臓を取り除き終えた。

 次に僕は彼女の骨を解体して取り去り、代わりに金棒を入れていった。金棒は所謂骨格だから、慎重に組み立てていった。

 鉄臭く生々しい独特の臭いが鼻につき、周囲は血塗れ、身体中がベトベトしていた。しかしこの頃になると、僕は一心不乱で作業に没頭していた。

 彼女の筋肉だとかとにかく肉という肉を全て取り除き、代わりに樹脂を彼女の中に詰めていった。この時、身体測定の数値を参考にして、正確なスリーサイズ、腕、足の太さになるようにして詰め込んでいった。

 彼女の中身を全て腐らない人工物に入れ替えた。骨は金具に、はらわたは樹脂に。

 そして……。

 僕は彼女の瞼を開けた。今はもう瞳孔が開き切っているけれど、気怠げだったり何かを見透かすようだったり、時折無邪気に輝く、綺麗で僕を魅了していた瞳。僕は彼女のそんな目が好きだった。

 僕はしばらくの間、彼女の瞳を凝視し躊躇した後、意を決し瞼を思い切り開き、その眼球を両方共くり抜いた。ピンポン玉より少しだけ小さい、変な柔らかさを持ったそれの代わりに、僕は人形用のガラス玉を入れた。けれどそれは彼女の瞳の色と似ている物を選びはしたものの、無機質な人工物でしかなく、やっぱりあの目のようにはならなかった。

 僕は彼女が彼女じゃなくなったような気がしたため、再びすばやく瞼を閉じてやった。今、そんな事実を認識してはいけない。

 僕は針と糸を準備した。いよいよ大詰めだ。

 僕はぱっくりと、中が見えるように開いている彼女の皮膚に、針を刺した。そして縫い目があまりわからないように、慎重に縫い合わせていった。

 ここまでの作業にどれくらい時間が掛かったかはわからない。もしかしたら何時間、何十時間と過ぎているかもしれない。その間、僕は一度も休まずに作業に励んできた。

 彼女の望み通りにするために。

 全ては彼女のため。そして彼女に僕の愛を証明するため。

 僕は歯を食いしばる。一息つくわけにはいかない。

 今休んでしまえば、きっと僕は彼女を剥製にする作業を投げ出してしまうだろう。

 僕は彼女の身体が元通りになるように針を操ることに意識を集中させ、黙々と縫い続けた。











「ハアハアッ」

 僕は息を吐いた。真冬、しかも彼女の身体の腐敗が進むのをなるべく避けるため、ストーブを付けず極寒の中作業していたにも関わらず、僕の顔には汗が伝っていた。

「ハアハア、ハアッ」

 僕は荒々しく息をする。ビニールシートの上に横たえた彼女を見る。

 均整の取れた生前と変わらない身体の彼女がそこにはいた。もっとも中身は全て人工物に代わってしまったが。

 終わった。

 僕は彼女の全身を見つめて思う。

 終わった。彼女の身体に施す処理が全て終わった。

 中身の入れ替え。縫合。防腐処理。これらの作業が完了した。

 でもまだこれで終わりじゃない。彼女を綺麗にしてあげないと。そしてきちんと身なりを整えてやってガラスケースに納めなければならない。

 僕は血等で汚れてしまった彼女の身体をタオルで拭いてやった。そして僕自身も彼女を再び汚してしまわないように、自分の身体をタオルで拭いた。

 本当はシャワーでも浴びてきた方がいいのかもしれない。でもそうしたら僕はきっと気力を保てない。

 僕は血塗れのシャツだけ脱ぎ捨て、彼女を抱きかかえ、寝室へと運ぶ。寝室の片隅にガラスケースは置いてある。通販で買ったあのガラスケースが。

 僕は彼女を寝室まで運ぶと、ひとまずベッドに降ろし、寝かせた。

 僕は一人で数歩歩き、クローゼットを開けた。

『もしあなたが私の願いを叶えるなら、その時はこの服を着せて欲しいの』

 そう言われて僕が預かっていた女物の下着、彼女にしては可愛らしい服一式。

 僕はそれらをクローゼットから取り出し、彼女が横たわるベッドへ持って行った。そしてその下着と服飾を彼女に着せていった。

 全て着せ終わると、彼女はただ眠っているだけのように見えた。今にも起き上がって、気怠げな瞳を僕に向けてくれるんじゃないかと期待したくなる。

 僕は彼女を再び抱えた。異常な軽さと熱のなさが、彼女を生きていない別の物と化したことを、嫌という程僕に突き付けてきた。僕は唇を引き結び、彼女を部屋の片隅まで連れて行った。

 僕はガラスケースの横に彼女をなんとか立たせた。

 瞳を閉じたまま、まるで眠っているかのように立っている彼女。バランスの取れた肢体、ざっくばらんとしたショートヘアーに不思議と惹きつけられるミステリアスな顔立ち、滑らかな肌、ふっくらとした唇。その綺麗な立ち姿を、彼女はこれから永遠に保ち続けるのだ。

「……」

 僕はそんな彼女をしばらく見つめた後、身を乗り出した。本当は劣化を早めるから、してはいけない。けれど僕は……。

 僕は彼女にキスをした。軽く、唇に触れた。

 何の反応も熱も返ってこなくてひどく空虚なものだったけれど、これが彼女と僕の最後の繋がりだった。

 僕は彼女にガラスケースを被せた。これで本当に全部終了した。

 僕が細心の注意を払って管理し続ければ、彼女は半永久的にこの若さと美しい姿を保ったままだ。

 僕は約束通り、彼女の願いを叶えたのだ。

 彼女に僕の愛は伝わったかな?

 僕はガラスケースに収まった彼女を眺めた。美しく、眠ったように安らかな顔をした彼女。

 僕は確かに彼女の望み通りにできたのに、どうしてだろう?

 達成感のような高揚とした気持ちにはなれなかった。代わりにぽっかりと穴が空いたような空虚な感覚と、むなしさだけが僕を支配していた。











 僕は手間取ったが、彼女の中身を詰めたごみ袋や血痕の付いたビニールシートや道具達をなんとか処分し、いつも通りの生活に戻った。

 変わったことと言えば、毎朝、起きたら彼女に向かって

「おはよう」

と口にする。

 大学に行く時には

「行ってきます」

と彼女に告げる。

 帰ってきたら

「ただいま」

と彼女に言う。

 そして寝る時には

「おやすみなさい」

と彼女に挨拶する。

 何か異常がないかチェックしたり、暇な時には色々話し掛けたりと、僕の生活には常に彼女がいるようになった。

 彼女の望み通りにした僕は、確かに愛しているんだと毎日証明し続ける。

 老いることのない変わらない永遠を手に入れた彼女。

 毎日その存在を自身に刻む僕。

『老いたくない、生きたくない、忘れ去られたくない』

 そんな望みを全部叶えられた彼女は、きっと幸せなんだと思う。僕も彼女が幸せなら嬉しいし、愛していることを信じてもらえるのなら、それはとても良いことのはずだ。なのに僕の心ば穴が空いたような感覚のままだった。

 空虚。

 毎日彼女と一緒にいて、今もこうして眺めているのに、僕は嬉しくも楽しくもなかった。幸福感も充足感も何一つなく、心に空いた空洞は埋まらなかった。むしろスース―と不自然に空気が漏れていき、しぼんでしまう風船のように、何かが僕の中から減り続け崩壊していく感覚がなくならなかった。

「キミは望みを叶えられてきっと幸せなんだよね。僕もさ、キミが喜んでいるんだったら嬉しいよ。嬉しいはずなんだ。でも僕は……」

 ガラスケースの中の彼女の姿が一瞬ぼやけた。僕の頬に涙が伝い始めた。

「僕はなぜか悲しいんだよ」

 僕はガラスケースにもたれかかった。こつんと額が当たった。腕が、全身がワナワナと震えた。

 何の反応も返さなくなってしまった彼女は一ミリだって動かず、変わらない姿を僕に晒すだけ。美しく若さを保ったまま、ずっと変わらない姿を、毎日僕に見せ続けるだけ。僕はそんな彼女に毎日変わらない愛を捧げ続けるだけ。

 変化のない同じ、永久不変とも言えるかもしれない、彼女の姿と僕の愛。

 彼女は生きている時、様々な表情を見せ、色々なことを僕にしてくれた。僕はそんな彼女と時間を過ごし、様々な感情を覚え、また新たに知った。

 彼女は僕に変化を与えてくれていた。

 僕もきっと彼女にとって似たような存在だったはずだ。お互いの気持ちを揺り動かし、共有し合っていた。

 様々な想いは良くも悪くもお互いに作用する。そして時間と共に少しずつ、確実にその感情は変化していく。その中には確かに刹那的なものだってあるだろう。

 彼女はきっとその変化のうちに、いつか愛がなくなると恐れ、嫌っていたのかもしれない。だから剥製になることを選んだのだろう。

 変わらない自身を手に入れるために。それからそんな自分を僕に、ずっと変わらない想いで愛させるために。

 死者は生者にとって神格化されるものだから。故人の評価は生前を思い返すしかなく、思い出は美化されやすく、そしてそれ以上、その人と紡ぐ時間など存在しないのだから、変化することはない。

「キミは変わらないことを求め、変わらない愛を欲しているのかもしれない。僕はそんなキミの望み通りにしたよ。けれど僕は……」

 今こんなにも冷たく空虚で、ガラスケースにもたれ泣いているのはきっと……。

「僕は老いたとしても、もしかしたら少し想いが変わったとしても、キミと一緒に、お互いの間に変化がある日々を二人で生きていきたかった」

 そして二人で道を歩んで、変わっていく中でも根本的には変わらない、恒久的な愛を、僕はきっと彼女とわかち合いたかったんだ。

 彼女と僕の望みは違ったのだ。だからこうして彼女の願いを叶えたのにも関わらず、僕はむなしくて嗚咽を漏らしている。

 でも僕は彼女の望みを叶えた。叶えてしまったんだ。

 僕は涙でグシャグシャになった無様な顔で、彼女を見上げた。彼女は変わらず、やすらかにまるで眠っているように、ガラスケース越しに、ただただ僕の前で佇んでいた。

 僕は自分の目を拭った。いくら僕自身が悲しくて虚ろだったとしても、彼女を剥製にした以上、これからも変わらない愛を捧げなければならない。これは僕が決めたことで、僕の使命なのだ。

 だから僕は明日も、明後日も、明々後日も、生きている限りずっと、彼女の望み通りに愛を捧げ続けるのだ。











END.

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