ストックホルム症候群

鞍馬 楽

ストックホルム症候群

 その部屋は、とあるテナントビルの三階にあった。


 南側に大きな窓。差し込む日差しを一身に受ける観葉植物。その下に、高級そうな木のデスクと、鈍い光沢を放つ椅子。さらにその手前に灰皿の置かれた長机。挟むように、黒いレザーのソファが二組置かれている。隅には、金庫なんてものもある。


 部屋には、男と女がいた。女は上下青色の作業着、男は紺のスーツ姿と、相反する恰好である。双方とも、二組あるソファには目もくれず、地べたに尻をつけて座っている。


 暖かな陽光の差す、明るい部屋だ。しかしそんな見た目とは裏腹に、室内には緊張の糸が張り巡らされている。


 男が西側、女が東側の壁を背にしている。会話はない。大きなソファを境界線にして、彼らはお互いを監視しているのだ。


 ソファに挟まれた長机には、灰皿の他に、携帯型のワンセグテレビが置かれている。

 報道の音声を聞き逃さないようにするためだ。


「東京都**区、**からの中継です。犯人は依然、人質をとったまま立てこもりを続けています。──見てください。このように現場付近には交通規制が施され、民間人の出入りは不可能になっています」


 画面が、中継映像からスタジオに切り替わり、コメンテーターが意見を述べている。どうやらメディアは、金銭の要求があったことについてはまだ掴んでいないらしい。


「……そんな目で見るんじゃねえよ」


 男が言った。一分の油断もなく構えられた拳銃に陽光が当たり、銃身がぎらりと光る。

 女は男を睨み続けている。顎が痙攣し、上下の歯が擦れて音を立てる。極度の緊張状態にあるのは、例え心理学者でなくとも明らかだ。


「そんなに俺が憎いか。──ああ、そうだろうとも」


 男は自嘲気味に笑う。

 外は気味が悪いほどに静かだ。恐らくパトカーが押し掛けているのだろうが、犯人を刺激しないようにサイレンは鳴らさない、ということか。しかし、こうしている今も、多くの機動隊員が突入のために待機しているはずだ。……逃げ場は何処にもない。八方ふさがりだ。人質をとったはいいが、内臓機能は常に働いている。いずれ空腹がやってくるだろう。耐えるのにも限界が必ずくる。いつまでもここにいるわけにはいかない。


「…………どうして……」


「うん?」


 女が蚊の鳴くような声で囁く。


「どうして……あなたはこんなことができるの。理解できないわ」


「理由なんてねえよ。俺は自分のやるべきことをしているまでだ。ああ、そうだ……理由なんてない。いや、ホントはあったのかもしれないが、忘れちまったな」


 再び訪れた長い沈黙のあと、男が口を開いた。


「……お前、家族はいるか」


「……なんでそんなこと」


「いいから、答えてくれよ」


「妹がいるわ」


「親はどうした」


「死んだわよ。借金だけ残してね」


「……へえ」


 男は表情にこそ出さなかったが、その返答に驚いていた。目の前の女はまだ若い。どこかお嬢様然とした雰囲気さえ漂っている。そんな可憐な見た目に似合わない、過酷な運命を辿ってきているものだと意外に思った。そして、そう思ってしまったら口を閉じることはできなかった。


「幾つだ」


「……なに?」


「妹さんは幾つだ」


「……今年で18になるわ」


「驚いた。俺の娘と同い年だ」


 ふっと息を吐いて、男は頭を左右に振る。


「……娘さんがいるの?」


「ああ。正しくは、だがな。先週死んだよ」


「えっ──」


 女は驚愕に目を剥いた。


「ごめんなさい」


「なんで謝る?」


「……だって、辛かったでしょう」


「辛い? 辛いどころか……世界が崩壊した気分だった。あの瞬間、全てがどうでもよくなった。……ああ、そうか。だから俺は、こんなことしてるんだろうな。自棄になって、後先も考えずに」


 投げ捨てるような語気になった。また沈黙が続く。


「……まぁ、分からんか。あんたはまだ若いしな」


 男が天を仰ぎながら言うと、女はむきになったように顔を突き出した。


「分かるわ」


「気休めはよせ」


「……私の妹は心臓病なのよ。近い将来、必ず死ぬわ。移植手術を受ければ助かる見込みはあるけど、こんな安月給の清掃業じゃ、いつまで経っても手術費は賄えない。……分かる? もう妹は、死んだも同然なの」


 そう語る女の目には、涙が浮かんでいる。男は衝撃を受けていた。思ってもいない返答がきたからだ。


「……気の毒に」


「慰めの言葉なんか要らない」


 女は鼻をすすると、窓の外に視線を投げた。外は相変わらずの陽気で、青い空にはまばらに雲が浮かんでいる。名も知らない鳥が優雅に飛ぶ。青い鳥は幸せをもたらすというが、本当だろうか。


「ひとつ……昔話をしよう」


 女の反応がないのもお構いなしに、男は独白を続ける。


「ある男が、女と恋に落ちた。とびきりのいい女さ。彼らは結婚し、娘が出来た。だが、順風満帆な生活とはいかなかった。男はいつ命を落としてもおかしくない、危険な仕事をしていたからだ。女は、男に仕事を変えるよう頼んだ。……だけど、男は聞く耳を持たなかった。ちっぽけなプライドが、それを許さなかった。愛想を尽かした女は、ついに物心つく前の娘を連れて家を出た」


「それって……」


 女は目の前の男を、心底憐れに思った。馬鹿だとも思った。けれど何故か、蔑む気持ちにはなれなかった。


「なあ、約束してくれねえか」


「約束?」


「俺がこんなこと言うのはおかしいって分かってるが……妹さんを、諦めないでやってくれ。死んだも同然だなんて、言わないでやってくれ。どんなに助かる見込みがなくても、辛くても、最期の瞬間まで、そばにいてやってくれねえかな。俺は、そんなことすら出来なかったからさ」


「……ありがとう。約束するわ」


 女の目は赤く腫れている。男も同じだった。そしてまた、二人は言葉を発さなくなった。


 男はしばらくの間考え込んでいた。かぶりを振ったり、目を泳がせたり落ち着きがない素振りを繰り返し、ついに意を決したのか口を開く。


「なあ、その……一緒にここを出ないか? 俺なら、手術費を出してやれる」


 女は困惑した様子で眉をひそめる。


「あなた……本気なの?」


「勘違いしないでくれ。下らない情に絆されたんじゃない。いつまでもここにいても、何も変わらないだろ。なあ、最後に俺が出来なかったことを、させてくれよ。お願いだ。頼むよ……」


 女の顔が綻ぶ。頬には一筋の光が伝う。

 同時に、ワンセグからは騒がしい音が聞こえる。

 今、機動隊が窓からの突入を試みています! 運命の瞬間が始まろうとしています!

 ──なんだって!?


「まずい!」


 男がそう呟いた瞬間、


「来ないで!」


 女の叫び──いや、怒鳴り声が部屋を揺らした。

 その声が外にまで伝わったのか、機動隊は一旦撤退の判断を下したようだ。


「……お前」


「いいの。私、大切なことに気づかせてもらったわ。ここであなたに出会えて良かった。……さぁ、あなたの好きなようにして」


 男はその言葉に頷くと、緩慢な動作で立ち上がる。

 閉ざされた扉に向かうと、鍵を外し、開放した。


「そこにいるんだろう。さっさと来い」


 廊下に響くほど大声で言うと、機動隊員とみられる男が困惑した様子で走ってくる。


、お疲れ様です」


「確保しろ。もう抵抗する気はないようだ」


 機動隊員は敬礼すると、力なく壁にもたれ掛かる、そっと手錠をかけた。


「犯人、確保しました」


 独り言ではない。無線で上司に連絡をしているようだ。


「ふう……」


 男は黒いソファにどかりと座って、女が部屋から連れ出される様子を眺める。

 ワンセグは、今もやかましく騒いでいる。


 あ! 見てください! 見えるでしょうか? 犯人が今、機動隊員に連行されていきます! どうやら、人質になっていた刑事が、彼女の説得に成功した模様です! なんということでしょう! 大手柄です!


 あまりに五月蝿いので、男はテレビの電源を切った。今は、静かな環境で物思いに耽りたかった。


 全ての発端は、女がこの部屋の金庫を漁っていたところを女性社員に発見されたことだった。

 女性社員は、テナントを借りていた企業の事務員。清掃員である女は、妹の手術代を工面するため、金庫を前々から狙っていたというわけだ。

 見つかってパニックに陥った女は、ペン立てに入っていたカッターを武器に事務員を人質にとり、立てこもったのだ。


 我ながら、仕事は完璧だったと思う。確かに、というのは無茶だったかもしれないが、それも自信があってのことだ。計画通り、冷静に対処することが出来た。でまかせを並べ立て、しんみりとした雰囲気を醸し出し、相手の同情を誘う。そうして同じ目線に立つことで、いかに凶悪な犯人といえど安心し、張り詰めた心に緩みが生じるのだ。


 男が、取調べのときによく使う手段だった。「泣き落としのケン」の異名は伊達じゃない。

 しかし、いつもと違うことがひとつあった。

 彼女の顔が、頭に焼き付いて離れない。彼はずっと、ソファに背中を預けながら、たった今捕まえたばかりの犯罪者について考えていた。


 ──さて、裁判所でどう証言すれば、彼女の罪を軽くできるだろう。

 確か、心臓病と言っていたな。……医療費は、俺のしがない預金残高で間に合う額なのだろうか。


「こんなことを考えている俺は、刑事失格なんだろうな」


 そう呟いて、男は誰もいない部屋で笑う。自嘲の笑みではなかった。心の奥底から、むずがゆいような、こそばゆいような、それでいて温かいような……そんな感情がせり上がってくるのだ。笑みを浮かべずにはいられなかった。


 ──いや、そうじゃないさ。きっとこれは、病気。そう、病気なんだ。

 あったじゃないか。被害者が犯人に過剰な好意を抱いてしまうという、変な病気が。

 名前は……ええと、なんていったっけな。



 〈了〉

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