禁書読書家
ほしのかな
禁書読書家
人は一冊の本とともに産まれてくる。
母の胎内に命芽吹いたその日から、死して灯が消えるまで。人の傍らには必ず本があった。相方となる人間の性格・行動・感情・過去・未来・死期に至るまでが克明に記されているその本は、過去においては一切の秘密を許さず、未来については決して
人の全てを暴き、命の価値が明確になるその本を、人々は畏れを込めてこう呼んだ。
──「禁書」と。
* * * * *
「孝彦君は長生きしますよ。亡くなるのは92歳8ヵ月、すい臓ガンですね。闘病中は苦しみますが最期は眠るように安らかに逝けるようです」
分厚い禁書を読み上げると、赤ん坊を抱いた母親が安堵した様子で息を吐いた。先ほどまで強張っていた表情も柔らかくほどけ、穏やかな微笑みを浮かべている。
「
母親はまるで聖母のような微笑みを浮かべて赤ん坊の頭を撫でている。
その姿を僕はどこか冷えた気持ちで眺めていた。
子供の事を大切に思っているように見えても、僕の所へ禁書を持ってくる親の心の内など底が知れている。『自分の望む未来を持った子供』という保証が欲しいだけ。『自分の望むように育たない』という免罪符が欲しいだけ。どちらも真の意味で子供の未来を思ってなどいない。親という権限を振りかざして、子供の人生を手に入れたいだけのどうしょうもない人間だ。
まあ、人の人生を盗み見ることで高い対価を得ている僕が言えた義理ではないのだが。
心の奥底の
「いえいえ、読書だけが私の取柄ですから。先生などと呼ばれる立派なものではありませんよ」
「まあまあ。先生の様に禁書を読める人がいるからこそ、私たちは平和でいられるんですわ。とっても立派なお仕事ですのに」
「ありがとうございます」
確かに、禁書を読める人間は限られている。普通の人は禁書に書かれた文字を言葉として認識する事すら出来ないらしい。読書家の中にもジャンルの得手不得手があるのだが、どういう訳か僕は幼少の時分から大抵の禁書をスラスラと読む事が出来た。ただ一点を除いては。
「怖くはないのか」
壁に寄りかかるようにして立っていた、子供の父親がポツリと零す。日に焼けた精悍な顔立ちが、訝しげな色を浮かべ一層険しくなっている。
「……何が怖いのですか」
「先が全部わかっちまう事がさ。先生は自分の禁書を読んだことが?」
「無いですね。僕はジャンルの不得手がない代わりに血が濃い禁書は読めないんです」
昔一度だけ、将来への不安を感じて自分の禁書を開いてみたことがある。本を開いたとたんに文字は本の中を泳ぎだし、一切の意味を僕から隠した。それ以来僕は自分の禁書を手にしたことは無い。
「血が濃い……と言うことはご家族の禁書も読めないんですの? それはご不幸ですわね」
憐みの表情を浮かべて母親が言う。その様子に父親はうんざりした様に息を吐いた。
「俺はいっそ羨ましいがな。こんな本に縛られずにすんでよ」
そう言って父親は禁書から目を反らした。
──禁書に縛られる。
そうだ。禁書は鎖だ。禁書を読める人間が出てきたその日から、人はたった一冊の本に囚われている。それに疑問を抱く人が今の世界にいったいどれくらいいるだろう。
「読まない、という選択肢は誰もが持っているものですよ」
意地が悪い事を言っていると自分でも思う。
禁書に頼る事も操られる事も怖いと思っていたとして、一体どれだけの人がその完璧な予言を読まずに居られるのだろう。
僕だってあの時に読めていたなら、きっと自分の物語を最期まで読了していたのではないか。
「ほらあなた、先生に失礼なことを言うんじゃありませんよ」
そそくさと帰り支度をしながら母親が言う。
「先生。今日は本当にありがとうございました。お代はこちらに」
禁書よりも厚い風呂敷包が机の上にそっと置かれる。
「確かに。また何かお困りのことがあったら、気軽にお越しくださいね」
満面の笑みを浮かべる母親とは対照的に、父親は苦虫を噛み潰したような顔のまま部屋を出て行った。
あの父親はさぞかし生きにくいだろう。それこそ禁書を読まなくてもわかるくらいに。
まっとうな精神を保っていれば今のこの世の中がどれだけ異常なのかわかるはずだ。そしてどう抗っても太刀打ちできない程、禁書が人々の生活に入り込んでいることも。
産婦人科では専属の読書家を雇い、凶悪犯罪者の出生を処理している。それにより犯罪率は著しく低下し、軽犯罪者もまた産まれた時から犯罪者として登録・管理されるようになった。受験の合否も産まれた時から決まっているので、今では受験自体が無くなった。結婚も葬式も日付まで明確にわかるので、業者への依頼や準備も滞りなく進めることが出来るようになった。
禁書が与えた世界への変化は、数え上げればキリがない。
「バカみたいだ」
決まった通りに生きるだけならコンピューターのプログラムと何ら変わらない。誰がどんな人生を生きようと同じことだ。
「僕は自分の意志で生きている」
そうつぶやいた言葉に意味などなかった。
自分の禁書が読めない代わりに、他人の禁書を読み漁って金を稼ぐ。依頼者を
──そうだ。禁書に縛られているのは僕も同じなのだ。
* * * * *
家路を急ぐと、遠くに見えるわが家へぽつんと明かりが灯っているのが見えた。
藍に染まる夕暮れに、柔らかな光が温かく溶けている。すさんでいた心がじんわりとほどけた。
里帰り出産を終えた妻が戻ってきたのだ。思った以上に心が浮足立つ。何かお土産を買っていこうか。そう思ったが足は既にわが家へ向かって走り出していた。
久しぶりに妻に会える。忙しくて会いに行けなかった我が子にもだ。可愛い男の子だと聞いている。仕事の疲れや葛藤が洗い流されていくように、自然と足取りは軽くなった。
「ただいま」
玄関を開ければ、僅かな沈黙。
「おかえりなさい」
一階の奥の和室から妻、仁美の返事が聞こえる。
「ごめんなさい。今手が離せないの」
赤ん坊に乳でもあげているのだろうか。久しぶりに聞く仁美の声は少し気だるげだった。僕はいそいそとたたきに靴を脱ぎすてると、仁美と赤ん坊の待つ部屋へ向かった。
「ただいま」
もう一度声をかけながら和室のふすまを開ける。薄明りの下で仁美は布団に寝かせた赤ん坊の頭を撫でている。
「なんだ眠ってしまったのか」
「ええ、ついさっき」
仁美はささやくようにそう答えると、少し疲れた顔で笑った。
赤ん坊の顔を良く見ようと近づくと、仁美が僕の服の袖を掴んで言った。
「片づけを手伝ってくれる? さっき戻ってきたばかりで、まだ荷物すら手をつけられていないの」
「それは大変だったね。片づけは僕がやっておくよ。君は少し休んでいるといい。産後直ぐにそちらへ行けなくてすまなかったね」
ねぎらう様に頭を撫でると、仁美は静かに睫毛を伏せた。
「いいのよ」
そう言うと仁美はそれきり黙りこくってしまった。
やはり怒っているのだろうか。仕事に追われ、気が付けばこんなに時間が経ってしまっていた。彼女には酷なことをしてしまったと思う。
「それじゃあ僕は片づけをしよう」
重くまとわりつくような空気を、明るい声音で無理やり払いのけると、大き目のボストンバッグからタオルや衣類を取り出した。見慣れないよだれかけや子供服が新鮮だ。
「そうだ。今度の休みは三人でこの子の服を買いに行こうか」
何気ない言葉を投げてはみたが、仁美はちらりとこちらを一瞥しただけで視線を床に戻してしまった。
これはかなりまずい状況だ。修復にはかなりの時間がかかるかもしれない。いや、仕方がない。それだけの事を僕はしてしまったのだ。
僕は固唾を飲んで、次の荷物へ手を伸ばした。
ヘアブラシなどの小物が入ったそのトートバッグの中を分別していると、薄い布にくるまれた一冊の本が出てきた。
禁書だ。
それもずいぶん薄い。異常なほどに。
「これは……」
禁書の厚さは人の寿命に比例する。職業柄嫌というほどわかっていることだ。でもその薄い禁書が何故ここにある。
恐る恐るその本を手に取ると、異様な軽さに肌が泡立った。
これはこの子の禁書か? まさか。何か病気でも──。
自分には読めないことはわかっていたが、無意識に手がページを捲ろうとする。
その瞬間。
「やめて!!」
仁美が金切り声を上げて僕の手から本を奪い取った。
「この子の禁書は──この子の人生は勝手に読まないって二人で決めたでしょ」
青白い顔をした仁美は本を抱えて小さく震えている。とても普通の様子では無い。
「確かに約束しました。どちらにせよ僕にはこの子の禁書は読めないんです。落ち着いてください」
なだめる様に仁美の背をそっと手を置いた。その途端、仁美が驚いたように僕の顔を見上げた。
「そ、そうだったわね。とにかくこの子の禁書は読まずにしまっておきましょう。この子が大きくなった時に、自分の判断に任せればいいわ」
乱れた髪をかき上げながら、仁美が早口で捲し立てる。視線はそわそわと左右に泳ぎ、明らかに動転した様子だ。何かがおかしい。
「じゃあ僕が書庫に片しておくよ」
何とか理由をつけて仁美の手から禁書を受け取ろうとすると、逃げるように一歩後ずさった。
「ごめんなさい。急に動くから驚いてしまって。あなたの手を煩わせるまでも無いわ。この本は私が保管しておくから」
「仁美、こちらを──僕の目を見て話しなさい」
強く名を呼んでも、仁美は目を伏せたままだった。睫毛に涙を溜めて、かたかたと震えている。
一体何をそんなに怯えているのか。何をかたくなに隠しているのか。
『読まない、という選択肢は誰もが持っているものですよ』
何故か先ほど客に投げつけた言葉が脳裏を過る。
けれど。
逡巡は一瞬だった。
僕は強引に仁美から禁書を奪い取ると、一思いに表紙を開いた。
重苦しい空気の漂う部屋に、ページを捲る音だけが静かに響く。
「ごめ……なさ……」
消えそうな声で仁美が呟く。
「……何故、読めるんです」
目の前で無常に物語を晒す禁書と、震える仁美の姿を交互に見る。
読めないはずの禁書が──何故。荒ぶる感情が僕の視界を赤く染める。力が入り震える指先がページに皺を寄せる。
「何故」
無意識に口をついて出たその疑問の答えはすべて、手元の禁書に記されていた。読みたくも無いのに、逃れようもないほどハッキリと。
「僕の子では、ないのですね」
「どうして読んでしまったの! ああ、いえ、違う。違うわ。ごめんなさい。私寂しかったの。あなたは禁書ばかりに夢中で、私寂しかったのよ。ごめんなさい」
取り乱して泣き崩れる仁美を見下ろす。
身を喰らうほどの怒りは熱くたぎっているのに、心のどこかが凄まじい速度で冷えていく。
何が違うというのか。禁書に間違いは一つも無いというのに。
「僕だってこんなもの読みたくなかった」
思わず吐き捨てると、僕の足に仁美が縋り付いた。
「相手の男性とはもう会っていないわ。しっかり片付けたし。もう二度とこんなことはしないから。お願い許して」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で仁美は僕を見上げる。許しを請うその瞳がいっそう僕の怒りを駆り立てた。
頭の中がぐわんぐわんと音を立てる。
「やめてくれ」
まとわりつく仁美を蹴り捨てると、派手に音を立てて壁へぶつかった。その振動で、棚の上の家財が赤ん坊の方へ一気に
「危ない!」
禁書を投げ捨てると赤ん坊へ駆け寄る。
赤ん坊をかばう様に覆いかぶさると、その違和感に心臓が凍った。
自らの心臓の音ばかりが耳を穿つ。
「どうして……」
僕の体の下で、赤ん坊は目を閉じたままくったりと横たわっていた。
「どうして泣かない」
そのふっくらと柔らかな頬に触れる。
温かい。
片手ですっぽりと収まる小さな胸に手を乗せる。
その途端、仁美が癇癪を起したように笑いだした。
トクトクと僕の手に触れるはずだった鼓動は、少しも感じられなかった。
まだ温かいのに、眠っているだけの様に見えるのに。
もはやそこに生は無かった。
「私しっかり片付けたの。だからもう一度最初からやりなおしましょう。ね、あなた」
虚無を見つめたまま仁美が笑う。
「どういう……ことですか……」
子供用の布団の脇に落ちた薄い禁書が、その答えへと僕を
これ以上見てはいけない。どこかでそうシグナルがなっている。
けれども僕の指は考えるよりも早く、禁書のページを辿っていた。
『行年0歳1ヵ月。死因、他殺。6月1日18時04分、不貞発覚を恐れた千頭和仁美により絞殺される』
* * * * *
人は一冊の本とともに産まれてくる。
母の胎内に命芽吹いたその日から、死して灯が消えるまで。人の傍らには必ず本があった。相方となる人間の性格・行動・感情・過去・未来・死期に至るまでが克明に記されているその本は、過去においては一切の秘密を許さず、未来については決して違うことがない。
人の全てを暴き、命の価値が明確になるその本を、人々は畏れを込めてこう呼んだ。
──「禁書」と。
禁書読書家 ほしのかな @kanahoshino
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