第68話「再見!」

 そして翌日。


 早朝、珂惟かい琅惺ろうせいは、上座かみざ以下法恩寺の人々に見送られ、思按しあんに連れられ寺を出た。寺から贈られた、昨日、一日を共にした馬を引いて向かったのは沙州賓館さしゅうひんかん。そこで一座に別れを告げた。

 遅くまで舞台があったにも関わらず一座は皆起きていて、「道中に」と焼餅ナンやら干棗ほしなつめやら干葡萄やら「寒いといけないから」と披風マントやらと次々と礼物を出してきて、別れを惜しんでくれた。

 そこからは茗凛が合流する。一座の熱い見送りを背に受けつつ、兄妹二人に連れられて、珂惟と琅惺は四ヶ月余り滞在した敦煌城市を後にした。

 砂漠を南に進むことしばらく。前方に孤立する黄金色の葉をつけた胡楊樹が近づいてくる。その下では荷物を振り分けた馬と人の集団がたむろしていた。

 思按は立ち止まると彼らを指し示し、

「彼らは瓜州の隊商で今から帰るところだ。同道を頼んである。ついて行け」

 同じく立ち止まった琅惺が、大きく頷く。胸前で合掌すると、

「最後までかように細やかなお心遣いをいただき、本当にありがとうございます。あとは進むばかりですから、お見送りはどうぞここまでで。滞在中は色々とご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした」

「こちらこそ、色々とやっかいをかけた。上座を救ってもらったうえ、すばらしい経典を教えてもらった」

「それは私も同様です。こちらですばらしい講義を、思按さまの尽力で、最後まで受けさせていただくことができました。新しい馬の手配までしていただき、感謝の言葉もございません」

「――こちらで育った馬だからな、暑さ寒さには強い。長安から連れてきた馬のように、途中で倒れたりはせぬ。とはいえ冬はすぐそこだ。できるだけ急ぎ、戻るがいい」

「はい。思按さまも、お体にはどうぞお気をつけて」

 琅惺が深々と頭を下げると、思按も同じく頭を下げて、それに応える。

 そこで琅惺は思按の隣に立つ茗凛の前に立ち、

「茗凛さんにも、色々とご迷惑をかけました。本当に申し訳ございませんでした。ですが貴女のおかげで、敦煌での滞在がとても充実したものになりました。心から感謝申し上げます」

「私も、楽しかったです。ありがとうございました」

 伏し目がちに、そこまで言うのが精いっぱいだった。まして琅惺の背後で控える彼に目を向けることなんて――できそうにない。

「お二人とも、本当にどうもありがとうございました」

 琅惺は丁重に礼をすると踵を返し、馬の手綱を握っていた珂惟の元へむかった。今度は琅惺が手綱を預かると、珂惟は思按に向き直り、大股で歩いてきてその前に立つ。

 同じく胸前で合掌すると深く頭を下げ、

「色々と、ありがとうございました」

 思按は口角をあげ、

「こちらこそ。おまえたちの上座にも、どうぞよろしく。道中の無事を祈っている」

 そう言うと合掌し、深く頭を下げた。

 そして珂惟は、思按の背後に隠れるように立つ茗凛の前に立った。

「元気で」

 彼が近づいてくるまでの僅かといえば僅かだが、長いといえば長い時間、茗凛の心は乱れまくっていた。だけど――笑顔でお別れしよう。それはずっと前から、決めていたことだ。

「気をつけてね」

 茗凛は必死に自分を鼓舞して顔をあげ、にっこり笑って見せた。ひきつってしまうのは隠しようがなかったけれど。

 「ああ」珂惟はいつもどおりの笑顔だった。また明日も会うみたいな。

 そうして手を差し出してくる。こちらを向く思按の目がたちまち険しくなるのが目の端に映ったけれど、茗凛はその手を握った。骨ばった意外と大きな手が、強めに握り返してくる。

「茗凛」 

「なに?」

 答えたときには腕をつかまれて、引き寄せられていた。

「ありがとう」

 珂惟はそう言って、茗凛の頬に口付けた。

「あっ!」琅惺の驚きの声。

「おまえっ!」思按の怒りの声。

 それを笑いながら受け流し、珂惟は足早に琅惺の元に戻る。

「君、なんてことを!」

 琅惺が顔を真っ赤にして抗議するのを、「まあまあ」と顔を赤らめた珂惟がいなし、

「ほら行くぞ。隊商のみなさん、待ってるじゃんか」

「まったく、君ってばもう!」

 珂惟に押されるようにして、琅惺はあたふたと胡楊樹を目指して進んでいく。「押すなよ、馬が暴れるだろ!」「むしろ引っ張ってってもらえよ」などと言い合いながら二人の姿が遠ざかっていく。「賑やかだな」苦虫を噛み潰したように腕組みをしていた思按が、思わず、とばかりに口元を綻ばせた。

 まもなく隊商に合流するな――思ったとき、二人が揃って振り返った。

「ありがとうございました、お元気で」

「再見!」

 その言葉を残し、二人は敦煌を後にする。

「……行っちゃった」

 二人の後姿が砂の海に消えたとき、茗凛は呟いた。自分が泣いていることも、それを思按が見ていることも知っていたけれど、そのままにしておく。

「――おまえは、将来どうするつもりだ」

 ずっと黙り込んでいた思按が、唐突にそんなことを訊いてきた。

「踊りで身を立てるつもりか?」

 思按が更に問いかけてくる。茗凛は頷き、

「そうよ。兄さんは、反対かもしれないけれど」

 しかし意外なことに、思按はそう言ったことは口にしなかった。

「そうか。――しかし、敦煌には数多の踊り子がいる。おまえより巧い踊り子もたくさんいるのだろう。そんな中でも、おまえは身を立てていけるのか?」

 鋭い指摘だった。確かに、いつまで一座が賓館のお抱えでいられるかは分からない。それでなくても座長はいい年なのだ。いつ「一座を畳む」と言い出してもおかしくはない。

「大丈夫よ、ちゃんと勉強するから!」

「だが他の者も勉強する。ただ勉強するだけではダメだろう」

「……」

 なんだってこんな話をしてくるんだろう。よりによってこんなときに! 

「何が言いたいのよ!」

 茗凛が思わず強い口調で兄に言い返すと、思按は妙に思いつめた様子だ。

 どうしたんだろう? と戸惑っていると、思按は困ったように口ごもりながら、

「だから、もっと色んな踊りを勉強したほうがいいな」

「……?」

「おまえが知ってるのは敦煌と、ここに入ってきた西域のものだけだろう? 国は広い。きっともっといろいろな踊りがあることだろう。それを勉強に行ってみては、どうだろうか? ――たとえば、長安、とか」

「え!?」

 そっと右手を頬に当てる。触れた唇の熱が、まだ残っているようだった。

 風が吹く。頭上の黄金色の胡楊樹がざわざわと鳴る。東に目をやれば、群生する紅柳がまるで雲のように紅色に砂漠をけぶらせている。去っていった旅人との名残を惜しむように、しなやかにその身体を揺らし続けていた。

                           

(終)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紅砂の城市 天水しあ @si-a

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ