第67話「最後の舞台」
鳴沙山から
「おまえ、今日の舞台に立つかい?」
神妙な面持ち。これは「本気」の顔だ。
夜の舞台に出ていいなんて、たとえ賑やかしの一人としてだって一度も言われたことはない。まして独り舞台なんて――茗凛はひどく驚いた。
それに今日は一日出歩いてくたくたで、お尻と足がすごく痛くて、横になったらすぐさまぐっすり眠れそうだ……なのに。
「はい!」
茗凛は、しっかりと頷いていた。
「じゃあすぐに準備しな」というおかみの言葉に、慌てて踵を返す。
そこへ
「では私たちはこれで失礼します。本日は帰りが遅くなってしまい、大変申し訳ございませんでした。また急な頼みを快くおききいただき、本当にありがとうございました」
思按がおかみに深々と頭を下げる。おかみは眉を寄せ、
「まあまあ思按さま。じき舞台が始まりますから。休憩がてら、ぜひ。お茶を用意させますから」
その提案に思按は首を振り、
「せっかくのお言葉ですが、十戒(出家者が守るべき最低限の規則)には『歌舞を観聴してはならぬ』という一項がございますゆえ。申し訳ございません」
そう言うと、またしても深々と頭を下げた。琅惺と珂惟もそれに倣う。
ゆっくり頭を上げた思按は、「では行こうか」と傍らに立つ琅惺に声をかける。そこでふと、思いついたように珂惟を振り返り、
「おまえはまだ行者でしかないから、我々に従う必要はない。これまで散々世話になったようだし、何かしたいというなら、それを果たしてから帰るがいい。ただし舞台が終わったらすぐに戻るように。よいな。――では私どもはこれで」
珂惟に念押しすると、思按はまたしても再びおかみに丁重な礼を残し、琅惺だけを連れて歩き出した。
茗凛の脇を通りかかった思按は足を止め、
「明日の出立は早い。無駄に引き止めてはならんぞ。舞台が終わったらすぐに珂惟を帰すように」
じろりと妹を見た後、背筋を正して足早にその場を去った。琅惺は苦笑しながらその後を追っていく。
「ほら急ぎな」
おかみにどやされ、茗凛は急いで、今度こそ踵を返す。
「何か手伝います」と珂惟の声。
それに対し、「いいから、今日はしっかり観ていっておくれ」と応えているのが聞こえた。
茗凛が舞台に立ったとき、舞台前の長椅子には多くの観客が座っていた。珂惟は最後列に一人立っている。暗がりなのでその姿はおぼろげだが、穏やかな表情でこちらを見ている気がして、茗凛は小さく頷いた。
彼は、本当にたくさんのものを私にくれた。私自身が知らなかった私を教えてくれた。この、言葉では言い尽くせない感謝を、伝えたい――ゆるやかに交差する両手は、ただ一点を目指して延べられた後、ひそやかに彼女の胸元に返る。それは祈りの姿に似ていた。
やがて舞台を終えていた霞祥が小皿と、注ぎ口の細い水瓶を盆に載せ、しずしずと舞台に現れる。用意された小皿を茗凛が軽快に頭上へと積み上げると、霞祥が優雅に水瓶を高く引き上げながら、一番上の皿に水を満たしていく。
観客がどよめく。
どよめきは茗凛が旋廻を始め、その回転数が上がっていくにつれ、楽団が床を踏み鳴らす音を掻き消すほどに大きくなっていく。
ダンッ!
楽団が両足で強く床を蹴って音を止めたと同時に茗凛も止まる。ゆるやかに舞台の前に進み出て、頭上から小皿を取り上げ、水を零して見せると、「おおっ」という歓声と盛大な拍手。茗凛は頭上に小皿の山を残したまま、大きく両手を開くことで、その声に応えた。拍手喝采はいっそう大きくなり、観客は立ち上がって「好!」と声を上げながら、大きく手を打っている。
いつしか前に進み出ていた珂惟が、惜しみない拍手を送ってくれるのが見えた。優しげな表情で頷いて見せた彼に頷き返したとき、涙がこぼれた。
それからも歌や踊りが続いたが、やがて「ついに最後の演目となりました」と座長が現れた。
「ええーっ」というある種儀礼的なあいづちに丁寧に頭を下げると、
「これからやります演目は、『動物の踊り』という、こちらでは大変著名な踊りで、身近にいる動物の動きを真似て作られたものです。非常に簡単、かつ楽しい動作のものばかりですから、どうでしょう? 一緒に舞台に上がって踊りたいという方はおられませんか?」
舞台に上がってくれる観客を募ったとき、
「はい、はい。俺やりたい!」
そう勢いよく手を上げたのは、珂惟だ。
「いいぞー兄ちゃん」「行け行けー」葡萄酒ですっかりいい気分になっている観客たちが、陽気な声を上げる。その温かい? 歓声に応えるように、手を振りながら軽やかに舞台に駆け上がった珂惟は、茗凛の側によると、耳打ちした。「綺麗だったよ」
最後の舞台は、かつてないほどに盛り上がった。
最初こそ「どうやるの?」と戸惑いを見せていた珂惟だったが、すぐにそれを覚えてしまうと、動作を大げさにすることで観客の大爆笑を誘い、客を次々と舞台に上げては、一緒にでたらめに踊り、歌い、大声で笑う。「あいつ、酒でも飲んだのか?」といぶかる三兄から鼓を奪って軽やかに叩いて見せたのち、茗凛の手をとって一緒に踊った。
そうして賑やかなうちに舞台は終わった。
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