数学 = 君
出会いは、衝撃的だった。
お兄ちゃんの忘れ物を届ける為に向かった大学の研究室で、異臭を放って倒れ込む男の人。
神山 聡一郎。
あの時の衝撃は、想像以上もので自分でもどうしていいのか分からず、異臭を放って倒れる人間を放って研究棟の正面玄関まで走り逃げた記憶がある。
それが、今では私の目の前で(相変わらずの異臭だが)弁当をかっ喰らっている神山教授。
「先生、あんまり急ぐと喉に詰まりますよ。」
「はっ!こんなにうまい飯をっ!オボブビデ!グベブガ!!」
「…先生、食べるか、喋るか、どっちかに」
「はっ!?」
神山教授は、何かが閃いたのか急に立ち上がって弁当を持ったまま数字とアルファベットの広がる深緑の板の前に向かった。
白い棒は床やら、机やら、至る所に転がっているが、弁当と箸を持つ手では拾い上げることができない。
弁当を置く。
という概念が今は抜け落ちていて、食べながら数式を解く為にはどうすればいいか。という考えしかないようだ。
あの人は、本当にどこまでも数学バカだ。
遠くで予鈴の音が聞こえた。
私は、夢中で深緑の板の前を左右に揺れる神山教授に(聞こえていないだろうが)「授業行ってきます。」と伝えて研究室を後にした。
衝撃的な出会いから早4年。
あの時、高校1年生だった私が、今は大学2年だ。
兄の恩師である神山教授は、日本でも、世界でも、数学会ではかなりの有名学者。
ただ、数学バカ過ぎて変人扱いもされているらしい。
気になる事があれば、直ぐに所構わず答えを出そうとする。
だから、お風呂に入ったり、家に帰ったり、ご飯を食べたり、服を着替えたり。という人間の日常の行動をすっぽりと忘れてしまうらしい。
だから、私が初めて彼に会ったあの日も人間の日常の行動を忘れた結果らしい。
「あんたも物好きよね。」
「え?」
「え?って…あんな変人教授のどこがいいわけ?」
授業の合間に軽くコーヒーを飲んでいる私に、友人の茜が呆れた顔でうんざりしている。
「んー…どこかなぁ?」
「千代!あんた、顔はそこそこいいし、スタイルだっていいのに、野良犬相手にご飯あげてる暇があるなら外に出会いを求めなさいよ。」
「野良犬って」
確かに、野良犬に近いかもしれない。
そろそろ、先生にお風呂を忘れていることを伝えなければ。
最後に家に帰ってたのは、3日前だったし。
2
「ちーよっ!」
先生のお風呂の事を考えていて、茜にまた呆れた顔を向けられた。
「あはは、ごめん……なんていうかさ、先生って私のご飯をすっごく美味しそうに食べてくれるんだよね。バカ正直にこんなに美味しいご飯を放っておけない。とか言っちゃうし。」
そう…
先生はいつだって正直なんだ。
美味しいものは美味しい。
綺麗なものは綺麗。
好きなものは好き。
直球の褒め言葉が、私の今の夢に繋がっている。
先生が私に夢を目指す勇気をくれた。
「それに!先生を好きにならなければ、茜にも会えなかったしね。」
そんな私に、茜がため息を吐いた所で授業の始まる予鈴がなった。
「せんせー。そろそろお風呂、入りませんか?」
「…いや、この定義ではAに辿り着けない……かと言って別の道では…」
あー、ダメだ。
聞こえてないぞ。
もうすぐ閉門だしなぁー。
そろそろお風呂に入ってもらわないと、確か明日はインタビューが夕方から入ってたはず…
数々の本の下敷きになっているカレンダーには、しっかりと明日の日にちに「17:00〜 理系出版 本田 会う」と記してある。
どうにかして風呂に入れなければいけない。
「せんせー…明日は大事な日なので、帰りましょー?」
「…はっ!ここで素数に対しての働きをあそこに繋げれば!」
んー、こういう時は仕方がない。
最終手段だけど、こうするしかない。
スマホで黒板と研究室全体を撮影して、夢中な先生の後ろから隠れている部分もしっかりと撮っておく。
これをした後数日は口をきいてくれないけれど、これ以上待っていては朝日が昇ってしまう。
「えいっ!!」
「そうなると、ここから…いや、待てよ…」
「…おりゃ!」
「…素数定理ではここからの直線が…いやいや、違うぞ。」
「とぉーーーーーーーっ!?」
「ちが……?!」
先生は徐々に消えていく白い文字に気付いたのか、全ての人間の動きを停止させてしまっているようだった。
「先生、今日は帰りましょう?これはすべて夢なので、一先ず目を覚ますために家に帰りましょう。」
「………」
コトッとチョークを置いて、ブツブツと呪文のような数式を呟きながら研究室を後にする先生。
先生の荷物と、研究室全体の写真を撮ってからトボトボと歩く大きな猫背を追いかけた。
✳︎
3
先生に夕食を食べてもらってる間に39度のお風呂を用意する。
ついでに着替えと髭剃りとシェービングも用意。
お風呂に入った先生を見届けてお兄ちゃんに連絡。
「お兄ちゃん、今どこ?」
〔教授の研究室。黒板、書き直しておいたからな。〕
「ありがと!さすが、先生の助手だ!ついでに迎えに来てー!」
〔分かってるよ。教授、風呂入ったの?〕
「4日ぶりくらいかな。そろそろ臭いとヒゲやばかったし、明日インタビューらしいから、無理矢理。」
電話の向こうでチャラチャラと金属がぶつかり合う音が聞こえる。
そろそろ車に乗るんだろう。
私も先生にそろそろ帰ると伝えておいた方がいいかもしれないなぁ。
「そろそろ帰る準備して、あっ」
ぽたぽたと落ちる水滴と手から取られたスマホは、腰にバスタオルを巻いた先生の手の中。
「君たちには本当に…千代くんは今日はうちに泊まってもらいます。明日、僕を起こしてもらわないといけないし、飛鳥くんは帰りなさい。……知りませんよ。それから、飛鳥くん。明日のインタビューとやらには君も出てもらうからそのつもりで。では。」
通話の終わったスマホを差し出されて、こんな事は初めてでさすがに思考が付いていかない。
当の本人はまだ無精髭のままで、私を一度だけ見てからお風呂場に戻っていこうとしているし。
何がどうなっているのか。
いつもなら、お風呂に入ってる先生に「帰りますー」と挨拶をしてお兄ちゃんの車で帰って、翌朝また先生を起こしに来て、3人で朝ごはんを食べて学校へ行く。
というのが定番のコースだったはずなのに、帰る必要がなくなってしまった。
また、お風呂場から水の音がし始めて、肩に掛けていた荷物をまた床に戻した。
このあと、私はどうしたらいいんだろうか。
というか、どうする事が正解なのか。
「ど、どーしよ…」
いつも気付くとあの子は帰ってしまう。
帰るな。とは言っていないし、ここは僕の家だから、あの子が自分の自宅に帰るのは当然の事だが、それではいつまでたってもこの関係が変わらないではないか。
縮まらない距離に歯痒さを感じるようになったのはいつか。
世の中から、変人の扱いを受ける僕に甲斐甲斐しく世話を焼く女は彼女くらいのもんだ。
始めて飛鳥くんに連れられて出会った彼女の笑顔に、答えの出ない迷路に入った気がした。
それまで一つの答えを探す事が生活の一部だったのに、一つにならない答え。
だが、僕が彼女に魅了されるのは、僕にとっての数学だからだと思うことにした。
惚けている彼女の後ろ姿に、好きだと直球を向ける勇気のない僕は、彼女には難しい問題を出す。
「千代くん、問題だ。」
「…え、へっ?」
「“もしも数学が美しくなければ、おそらく数学は生まれてこなかっただろう。人類の最大の天才たちをこの難解な学問に惹きつけるのに美の他にどんな力があり得ようか。”」
「え…数学?美し…え?」
「誰の言葉で、君にとってどんな意味の言葉と取れたか。数日考えてレポートを作ってきなさい。いつでも構わないよ。」
ポカーンと、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔で私を見つめる彼女。
可愛らしいが、彼女の答え合わせはまたの機会にしよう。
しっかりと考えて、僕へのレポートを作ってもらわなくてはいけないからね。
クスリと笑って、ヒゲを剃りに戻る僕。
それから、僕の背中を眺める彼女。
若干スローペースではあるが、彼女との関係に一つの答えがでますように。
君 = 数学 ,fin.
徒然なるままに。お好きな様に。 灰ノ路 麻子 @amno104
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