第2話 父のない子供たち

この家の敷居を跨ぐのは、実に数年ぶりだった。望月藍佳は緊張したようにため息をついて、玄関のチャイムを鳴らす。

「はい、どちらさまで。」

記憶にあるのと異なる音声に、藍佳は戸惑う。

訪問客が私と気付いていないからか、それともしばらく会わないうちに老け込んでしまったのだろうか。

「ただいま、お母さん。私。」

「藍佳?」

そう声が聞こえたかと思うとばたばたと音がして玄関ドアが開けられる。

「ただいま。お母さん。」

「お帰り、藍佳!なんだ、帰ってくるなら言ってくれれば良かったのに!今日はゆっくりしていけるの?」

「うーん、でも暗くなる前に帰るよ。明日も早いんだ。」

時刻は15時を回っている。母はあからさまに残念そうな顔をする。

「そうなの?久しぶりにお夕飯でもできたらいいのに…。」

「ごめんね。仕事忙しくてさ。」

千葉県にある実家は、藍佳の勤める筑波研究学園都市からそう遠くもないが、気軽に帰れるほど近くもなかった。

「仕事じゃ、しょうがないわね。」

悲しそうに母は微笑むが、子供の頃から何をやらせてもとびぬけて優秀な藍佳は、母の自慢であった。

居間に上がって、椅子の上に鞄を置き、ジャケットを脱ぎ掛けた。

「日本茶でいい?コーヒーにする?」

「うーん、お茶にしようかな。」

「ちょうどね、近所の掛川さんにもらった羊羹があるのよ。食べるでしょ?」

「うーん、そうだね。」

藍佳は、タブレットで送られてきたメールの返信をしつつ母の問いかけに曖昧な返事を返す。

しかし母は娘のそんな様子などお構いなしといった様子で、嬉しそうにお茶を淹れ、羊羹を差し出す。

目の前に置かれた羊羹を見て、藍佳はタブレットを脇に置き、

「わ、随分いいやつだね。いただきます。」

手を胸の前で合わせて、藍佳は楊枝で羊羹をひとつつまんで口に入れた。

ねっとりと甘い味覚が口の中に広がり、それを緑茶で流し込む。

母は近所の誰とかさんがどうとか、公園の花が咲いたとか、

そんなことを熱心に話している。

少し長いこと、一人にしすぎたな…。藍佳は心の中でつぶやいた。

年を取ってきて、一人で過ごす時間の長い人間と言うのは大体こうなる。

生活の幅がどんどん狭まり、同じ話を延々と繰り返す。

いつまでたっても終わりそうにないので、ちらりと腕時計に目をやると、母はきまり悪そうに口をつぐんだ。

「ごめんなさいね。何か用事があってきたのよね。」

「あぁ、そうそう、それなんだけど。」

いかにも今気が付きました、と言うように藍佳は言った。

「私来年子供産もうと思うのよね。」

「…は?」

唐突な藍佳の言葉に母は固まり、目を左右に動かしてから、ようやく、

「そうなの、おめでとう。」と言って再び固まってしまった。

「いや、それでさ…「それで…」

藍佳が口を開くのと母が口を開くのはほぼ同時だった。

「あ、ごめんなさいね…」

「いいよ、何?」

この親子の主導権は完全に娘にあるようだった。促されて母は言う。

「相手の方は…」

「相手…相手ねぇ。一応目星はつけてるんだけど、お母さんが思ってるようなのじゃないよ。人工授精で子供作ろうかと思って。」

「…じんこう…じゅせい…」

母は言葉の意味を確かめるようにゆっくりと言葉を紡いだ。

この反応は想定の範囲内だ。

「ほら、私もそろそろいい年でしょ。恋愛はいくつになってもできるけど、妊娠出産はやっぱり年齢制限…あるからね。早めに産んでおきたくてさ。」

「えぇとでも…藍佳ちゃんは、その、つまり、どこの誰だか顔も知らないような人の子供を身ごもって育てることになるのよね…?」

昔から母は、娘が何か良くないことをした時だけ、“藍佳ちゃん”、と言って窘める癖があった。つまり、この選択に対する母の答えは、ノー。と言うことになる。

まぁ、無理もない。藍佳とて最初からわかってもらえると思ってきたわけではない。

「そうなるね。最近そういうサービスあるのよ。ニュースとかで見たことない?昔からお見合いでさ、男性の収入とか学歴とかで条件絞って旦那さん探すでしょ?それと同じことを遺伝子提供者でやろうってわけ。大丈夫。ひとり親でも育てていけるだけの収入はあるよ。」

「それはそうでしょうけど…あんたはそれでいいの?まだ若いんだし、そんなに焦らなくても…そのうち良い人が出てきて、その、ちゃんと…」

母は藍佳の顔色を窺うように見つめてくる。

「良い人、ねぇ。」藍佳はため息をつく。彼女も片親だった。

思い合って結婚しても、その先も家庭を維持していけるとは限らない。

子供は好きだ。きっと可愛がれる。でも男性に対して藍佳はどこか、恐怖症に近いところがあった。そうしたわずらわしさなく、子供が授かれるなら、良いことじゃないか。言いたいことは山ほどあるが、そんな風に言って母を悲しませることを望んできたわけではない。できるだけ傷つけないよう、短い言葉に置き換えた。

 「まぁ、わかってもらえなくても仕方ないけど…。」

そう言って目を伏せると母は慌てた。

「いえ、藍佳ちゃんがそう言うなら、お母さんは反対なんてしないわよ。なんてったってもう大人だしね。」

可愛そうに母は、藍佳に見捨てられるのが怖いのだ。

「産後はベビーシッター雇ってできるだけ早く仕事に戻るつもりなの。でも、お母さんにも何かと助けてもらうこと出てくるだろうから、早めに話しておきたくってさ。」

「えぇ、えぇ、わかったわ。お母さんにできることならなんでもするから。」

「ありがとう助かる。じゃあ…また日取りとか決めて連絡するね。」

そう言うと名残惜しそうにこちらを見上げる母を残して、藍佳は帰り支度を始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ディストピアの始まり @natsumi_kagari

現在ギフトを贈ることはできません

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る