ディストピアの始まり

@natsumi_kagari

第1話 接触のない世界へ

「高校へは行かないって…あなた、何だってわざわざそんな自分の人生を棒に振るような真似をするの?」

「だから、高校へは行くと言ってるじゃないか。」

「でも貴方ね、通信制って、それはつまり、自分に人格なり社会的な問題があると告白するようなものよ。貴方みたいに優秀な人間が行く所じゃないわよ。」

「母さんの時代…00年代生まれの人間にとってはそうだったのかもしれないね。」

少女、七海は言う。

「けれどこれからは違うよ。優秀な人材ほど、通信制教育を選択するようになる。だって合理的な判断じゃないか。今更高校へ行って何になる?歴史や微分積分、古典文学や地学について、わざわざ何時間もの貴重な時間を費やして、講義を聞けって言うのかい?そんなの僕にとってはもう自明の事実だ。そんなことのために生命を切り売りするくらいならば、適当に課題をこなして、あとは自らが本当に情熱を注げる研究にのみ時間を割けばいい。母さんだって…いや、母さんだからこそ知っているはずだ。僕と言う人間の知能が、人類にとっていかに有用であるかを。そんな人間を、“平均的な人間”を養育するための制度に縛り付けておくのは実に馬鹿げているじゃないか。」

「だからって…人との交わりの中で生きるというのは、人間にとって尊いことよ。ねぇ、あなたはまだ10代なのよ。そんなに急ぐことないじゃない。」

母親の言葉に七海はため息をつき、首を横に振る。

「世間体…か。確かに前時代までの人間には非常に尊ばれていた観念だ。」

愛娘に侮蔑されたことに気が付いて母親…望月藍佳は狼狽した。

「世代が違うというのはこれほどまでに悲しい齟齬を生むのだね。実に残念だよ、母さん。」

七海は続ける。

「僕の選択が理解できなくとも、この気持ちは母さんにだって痛いほどわかるだろう?どこの馬の骨ともしれない、顔も知らない男の子供を身ごもることについて、貴方の母上も難色を示したと言うじゃないか。」

七海の言葉に藍佳は目を見開いた。

一度もそんな話を七海…娘にしたことはなかった。なのになぜ、彼女がそのことを知っているのだろう。

「気に病むことじゃないよ。」

七海は言った。

「僕が嬰児だったころには、確かにまだ倫理とかなんとか言って、人工授精による赤子の存在は多少珍しかったかもしれないが、今となっては、生まれてくる子供の大半はそうして生まれた試験管ベイビーだ。むしろ、少子高齢化と言われていた日本社会を救う革新的技術としてもてはやされているじゃないか。」

茫然自失としている母に向かって七海は言った。

「1900年代ごろからディストピアという概念が流行ったね。行き過ぎた管理社会の総称だったり、最大多数の最大幸福のために少数を犠牲にする社会形態だ。」

藍佳は淡々と話し続ける愛娘の姿を見つめ続けた。

これは“本当”に私の娘なのだろうか、と。

「前時代の創作におけるディストピアと言うのは権力者によって恣意的に生み出されたものだった。まぁ、50年、100年前の人類にとっては、そう考える方が自然だったろうね。ソヴィエトとかナチズムとか、そういう不条理を実際に目の当たりにした世代だから。けれどね、現代を生きる僕らにとってはそれは違うよ。超管理社会も、コミュニケーションが遮断された社会も、それは、一人一人の小さな意志の積み重ね。個人の決断が積み重なって、数十年単位でゆっくりと形成された社会なんだ。」

激しく狼狽え、傷ついている母親を憐れむかのように、その身体を少女はやさしく抱きしめた。

「侮辱されたと感じているのなら、勘違いしないで欲しい。僕は母さんのことを心から尊敬しているよ。地球はいま、過剰なほどの人口を抱えて破綻せんとしている。現に、地球の大部分では、人が飢え死に、予防可能な病でどんどん死んでいってる。ぼくら豊かな国の人間が、健やかに天寿を全うし、肥えていくためにね。貴方は、地球外への植民を促すということで、我々の惑星を持続可能なものにしようとした。だけれど、それは叶わなかったね。」

母親から身体を離したかと思うと、少女は今度は、額をつけて母に向き合った。

「極限まで追い込まれた人々は、それまでにないスピードで子をなしたから、地球の食糧事情は一向に改善されていない。火星や他の惑星に移住した人類も、結局は豊かな国の連中ばかりさ。」

「大人しく少子高齢化に任せて、人口を減らしていけばよかったものを。わざわざ人工授精という形でまで“日本人”の数を維持することになった社会の総意で、今や日本は技術大国でありながら、未曾有の食糧危機まであと一歩と言うところまで来ている。高校を卒業して、大学を出て、など悠長なことを言っていたら、その間に飢饉が起きて暴動が起こるよ。闘争と飢饉によって多くの人命が失われるだろう。日本という国家はもはや解体せざるを得ないところまで追いつめられるかもしれない。」

「僕に任せれば問題ない。貴方が、人類の惑星外植民に大きく貢献したように、僕は地球の食糧事情を改善することができる。こうした天才はね、人工授精によって、優秀な遺伝子ばかりが残された世界にとっては珍しくないんだよ。僕の“兄弟”たちもきっと同じ選択をするに違いない。そうして、人間同士のコミュニケーションがどんどん希薄になって、貴方がたの世代が恐れたディストピア社会が訪れたとして、それはニンゲンという種を保存するための、最善の策だったんだ。」

「あなたはそんな社会を望んでいるというの?」

ようやく藍佳が口を開いた。

「いいや。」

七海は答えた。

「望んでいるわけじゃない。でも、そうすることは現在不可避であり、最も合理的な手段だとは考えているよ。」

「いずれにせよ、この惑星は滅亡を免れないというのかしら。」

「いつかはね。生まれてきたからには終わりがなければいけないんだ。人も、惑星も。だけどその期限をいっぱいまで遅らせることはできるかもしれないよ。それが神に似せて作られたという人間の生業さ。」

「貴方みたいな合理主義者から神の名が出てくるとは意外だわね。」

「実にね。けれど、全てを科学によって説明しようとする時代もまた終わりを迎えているんだ。前時代の人々は科学を盲信しすぎたね。確かに科学は素晴らしいものであるけれど、それだって万物を説明できるほど万能ではない。何事も行き過ぎは禁物だ。どこかでしわ寄せがくるものだ。」

「私たちはやはり滅びるべきだったのかしら。」

「さぁね。けれど種の保存と言うのは生命の最も根底にある概念だ。“滅びるべきか否か”という問いは自然界からは相容れない法則であり、科学に毒された人間が考えそうな典型的な問いだとも考えられる。」

「人類はずいぶん遠いところまで来てしまったのね。」

藍佳は一層表情を曇らせて呟いた。

「技術の革新がそれを可能にしたからね。昨日最先端だったものが今日は古くなる。そういう時代だ。物事が数年単位で動いていた母さんの世代の人間にとってはそう感じられるのも無理はない。けれど僕たちにとっては、それこそがリアルであり、標準的な時間の流れさ。」

「もういい。わかったわ。」

藍佳はこれ以上もう聞きたくないという風に話を打ち切った。

「認めたくはなかったけれど、私はもう時代遅れの人間だったのね。貴方は私なんかよりずっと聡いし、これからの世の中を正確に見据えているわ。あなたの好きなようになさいな。」

「ご理解感謝するよ。母さん。」

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