第四章
4-1『シェリーⅠ』
「ねえ、サミー」そう僕の名を、シェリー・ピアースは呼んだ。
僕は、微笑んでから答えようとしたが、彼女の翠色の瞳を覗きこんでいるうちに引き込まれ、シェリーの身体を引き寄せて、その唇に自分の同じそれを、そっと重ね合わせる。そのまま僕たちは幾度か短い口づけを交わすと、後はただ、舌に愛情と快楽とを絡ませて、互いの気持ちを求め合っていった。
王都ブラウニングから少し離れた、王族の狩り場である森の片隅で、『あの日』の僕は、満たされた時間を過ごしていた。
シェリー・ピアース。
彼女にとっても、僕にとっても一七歳の時に決められた許嫁であり、それはまた、当人である僕たちの気持ちなど微塵も汲まれてはいない、政略結婚のための許嫁でもあった。
その政略結婚の意図は、サミュエル・ブラウニング、すなわちスティーブン王の長男であり「王権を継ぐ第一子」である僕の立場を、貶めるために決められたものだった。
僕の母は、僕が八歳の時に病に倒れてしまい、もうこの世にはいない。
その後、王である父は、今の王妃であるメアリと再婚するのだが、彼女の家であるハーヴィル家は、宮廷の貴族たちが色めきだつほどの高貴な家柄であり、僕の母親の家とは比べられぬほどの政治的影響力を持っていた。ほどなく、二人の間に子供が、それも双子の男児が産まれると、彼らは、王位継承権の立場を見定める必要に迫られる事となった。
もっともそれは、決して難しい賭けではなかっただろう。
長男とはいえ、すでにこの世を去った、しがない家の母親から生まれた僕と、文字通り王妃の立場にある、立派な名家の母親から生まれた双子の弟たちとを比べれば、答えは明らかであり、むしろ、彼らにとっては、二人の男児のどちらを選ぶべきかの方がずっと難題だっただろう。
実際、二人の弟たちへは、まだ成人前にも関わらず、様々なしがらみが息苦しいほど巻きついていたが、一方で僕には、全くといっていい程、そういうものに縁はなかった。
それに僕にとっての義理の母であるメアリは、とても優しく尊敬できる女性であり、辛くあてられたことなど一度もなかった。それは弟たちも同じで、僕に対する変な対抗心など全くといっていいほどなかったし、むしろ、年の離れた弟たちへ変な気を遣わせてしまうことも多く、僕の方が申し訳なく思うことも少なくなかった。
王である父もまた、僕が幼い時こそ厳しかったが、母がこの世を去り、さらに僕が――人質に出てからは、その厳しさも完全に消えてしまった。自分の後継者の話など、父の口からは……少なくとも、直接的に言葉にされることはなかった。
だがそれ以前に、僕には権力などというものに全く興味がなかった。ましてや自分が、父の跡を継げるような王の器であるとも思わなかった。そんな僕の態度は、周りの人間にとっては周知の事であったし、一部の人間の不興を買って、食事の後に喉をかきむしるような羽目に陥らない為にも、僕には、そういうことに無頓着である必要があった。
そもそも王位継承権の選択など、ブラウニング家が――王家が望めるものではないのかもしれない。
確かに国王には、後継者を選択する権利が授けられている。
だが同時に、王都にある宮廷には、領地を実際に統治する諸侯――公や伯爵たち自身が、あるいは信頼する、その家族たちが集っており、最終的に下される王の政治的な判断に、様々な提言を行う政治体制が敷かれていた。そういった彼らの意思を、王が王の都合だけで無視したりすれば、過去の歴史を引くまでもなく、国内の騒乱を引き起こすことは必死だった。
特に王位継承権などというものは、王の意思だけではなく、宮廷にいる貴族たちの意向を、大きく反映したものになるのは暗黙の掟でもあった。
そんな彼らが望んだものが、ピアースという家であり、僕の許嫁となるシェリーだった。
ピアース家とブラウニング家は、古くから、悪い意味で因縁のある関係で、長く愚かな争いを続けて来ていた。
だが、僕の祖父にあたるケニーが、ジョセフ・チャールトンと王位を争う為の戦いの直前には、仇敵という関係に違いはなかったものの、すでに両家の力には大きな差が生まれていた。
当時のピアース家の当主はニール。
ピアース家は王位を争う戦いの際、当然、ジョセフの側につくと思われたが、ニールは意外にもここで中立を貫いた。
結果的に、この戦いで祖父ケニーは、ジョセフを倒し、自らの手でブラウニング家の血に、王のそれを注ぎ入れることとなった。
ピアース家が中立を貫いたことが全てではなかったが、重要な転機になったことは、誰の眼にも疑いようがなかった。
ブラウニング家に貸しを作りたかったのか、長年の両家の争いを友好的に終わらせたかったのか、あるいは、温存された力をブラウニング家へ向けることだったのか、ニールの真の意図が何であったのか、今もってよく分かっていない。
だが、中立を決断した時期が遅すぎたことと、十分な交渉を、というより根回しを怠った為に、その判断が双方から誹られることとなった。チャールトン家に味方した者たちからは裏切り者と罵られ、ブラウニング家に味方した者たちからは臆病者とあだ名された。
それでも結果的には、白眼と引き替えに戦力を残した形のニールだったが、戦争の終結直後に高熱で倒れると、何の弁明もせぬままこの世を去ってしまう。
主の突然の死と、有能な後継者にも恵まれなかったこともあって、ピアースの家は蓄えた力を上手く使うことが出来ぬまま、この機会を逸することとなった。
時が経ち、僕の父であるスティーブン王の治世。国内では新たにマクリーン公爵家が、その力を誇示して、王権を脅かすまでになっていた。父は戦争を起こさぬために、何とか事を治めてきたが、その頃にはいつ衝突が起きても、おかしくはない雰囲気が漂い始めていた。
僕が、十六歳の時のことだ。
父は戦争を食い止める為に、両軍の有力な諸侯たちが戦争に加わることがないよう、交渉を重ねたが、どうしても首を縦に振らぬ家があった。
それがピアース家だった。
この頃にはピアース家の「過去に何もしなかった」という不名誉は、ニールが黙したままこの世を去ったことと、ブラウニング家との過去の因縁が相まって、「いつしか復讐する」のだという、反逆の旗印のようなものに取って代わっており、その旗の色こそが、ピアース家が今日まで生きながらえてきた理由でもあった。
実際のところ、誰の目にもピアース家がブラウンニング家に反逆できるほどの力がないことは明白だった。しかし、ピアース家の名を担ぎ出せれば、反逆の結束を促すことは出来るはずだった。
交渉が重ねられ、ピアース家が動かぬ見返りに、長男でありながらも微妙な立場の僕と、ピアース家の娘との婚姻の話が持ち上がった。父は断固として拒否したが、宮廷の貴族たちは突如に沸いたこの話に、大いに興味を示した。僕がピアース家の女性と結婚すれば、ピアース家の過去と現在からのあらゆる呪縛から逃れられる上に、何より、僕の後継者としての価値を確実に失わせることが出来るからだ。
ブラウニング家に連なる家々からすれば、「あのピアース家」の人間が王妃になることなど絶対にありえないことだった。すなわちそれは、僕の王位継承権の消滅であり、それは憎悪を
シェリー・ピアースは、こうして僕の前に現れた。
父と僕の意思に反して、婚姻の段取りは宮廷の人間たちによって着々とまとめられていった。
しかしこの頃には、王位を狙うマクリーン公爵家は煮え切らぬ態度のピアース家を見限って、単純な武力でそれを簒奪しようと試み始めていた。弓を引いた以上、マクリーン家もまた、それを下ろすことは出来なくなっていた。
戦争は、避けられぬ情勢となりつつあった。
しかし、戦端を開くのであれば、ピアース家をそのまま放置するわけにはいかない。そこで父は、王位継承権を持つ僕を、ピアース家に預ける事に決めた。それはブラウニング家の人質としての役割だった。
父は、その条件をピアース家に話す前に、もちろん僕に事情を話してくれたし、頭まで下げてくれた。弟たちはまだ七歳だった。僕がやるべきだと思った。
婚姻の話まであった僕を、ピアース家は拒むことは出来なかった。
だが戦時と言うことで、僕の婚姻の話もまた、戦後まで引き延ばされることにもなった。
そこで僕とシェリーは引き合わせれるはずだった。だが、戦争を避ける為にシェリーは、領主であり父であるハリーによって地方の修道院へと送られていた。
何の期待も僕にはなかったが、僕はシェリーと顔を合わせることのないまま、奇妙にも、人質として身を置くピアース家の中で、その
――私は、あなたに指一本触れられたくありません――
シェリーとの最初の出会いは――手紙が出会いというのであればだけど――その一通の、そしてその一行だけの手紙から始まった。
シェリーは、最初から僕を嫌悪していたが、かと言って、全てを台無しにするような感情的な言葉があったわけでもなかった。それらは絶妙なさじ加減と、語彙の限りを尽くした知的な拒絶だった。それらは書物からの引用や『最初の本』からの警句で始まり、「僕がどうして嫌いか」という冷徹な散文、相当な時間をかけて練られたであろう「僕をいかに嫌いか」という韻を踏んで書かれた詩、果ては「見たこともないが僕の顔を想像した」という、どう読んでも人間の形を保っていないだろう斜め上からの空想を、物語風かつ叙情的に語ったものなど、多様な形式を駆使して書かれており、しかもそれらは、僕の嫌悪感など簡単にねじ伏せる修辞、自分が貶められていることが分かっていても思わず頷いてしまう叙述、だが何より、素直にため息の出るような美しい文を以て、シェリーはひたむきに――そう、あれは確かにひたむきな姿だった!――僕の「悪口」を手紙で書き続けてきた。
僕も最初こそ返事をださなかったが、からかい半分で出した一通をきっかけにして、手紙を重ねるようになっていった。僕はいつしか、この定期的に送られてくる手紙を楽しみにしており、それに気がついた時には、この偉大な「悪口」の書き手に興味を募らせ、いつしか、この政略結婚の許婚である、シェリー・ピアースへ会いたいとさえ思うようになっていた。
「すでに、恋に落ちていた」とまでは……言えなかったと思う。
けれど振り返ってみれば、すでにこの時の僕は、その深い穴の淵でうずくまり、その深淵を、まだ見ぬ
こうして二年の月日が経った。
父であるスティーブン王が、国内を大きな混乱に陥れることなく、最小限の戦いでマクリーン家を封じ込めるまでの間、僕はピアース家で人質としての日々を送った。
シェリーの義理の父親である、ハリー・ピアースこそ意地の悪い男だったが、それ以外は、ほどほどの自由もあり、覚悟してきた程の苦痛はなかった。シェリー自身も父親を嫌っていることを手紙の中で知って、ほっとしたし、その頃には筆の上だけとはいえ、シェリーとの関係が良くなっていたことも、僕には心の支えとなった。
戦争は終わりを迎え、数日の
それは意図せずにだけれど。
彼女が、もうすぐここへ帰ってくるということは、手紙の内容で知らされていたが、僕はやっと見張りから解放され、城を抜け出して一人で街を歩いていた。
シェリーもまた、久しぶりに自分の街へと帰ってきて、侍女一緒に抜け出して街を見て回っていたのだと、後から聞いた。
その女性は、長く伸びた赤毛の髪を編み上げており、とても珍しい
どうして彼女に声を掛けたのかは、良く覚えていない。
もうすぐ陽の落ちる頃合いで、城へ帰る道が分からなくなり、少し焦っていたのは確かだったけれど、もしかしたら、美しい長い赤毛の髪が目に留まって、その
「あの……教えて下さい。一番大きな通りに出るのは、あっちでしたか?」僕は指を差しながら道を尋ねる。彼女の額にある珍しい疣に、目を奪われながら。
僕の声を聞いた彼女は、その大きな翠の瞳で、少しの間、僕の顔を見つめていた。それから、短く首をかしげてから口を開いた。
「えっ……い、いえ……全く……真逆の方向ですけど?」
「……えっ?」と、指を真逆へと差し直す、僕。
なぜか憂いを含んだ瞳のまま、ゆっくりと、だが確実に頷いてみせるシェリー。
次の日、僕たちは、それぞれの名を持って顔を会わせたが、前日の偶然と、お互いの手紙の内容が相まって、短い間に打ち解けることが出来た。ただそれでも、他人が決めた婚姻という現実は、最後の砦のようにして、僕たちの間に横たわっていたが、結局は、その壁が崩れるのにも――そう時間はかからなかった。
こうして僕たち二人は、他人だけの恣意と欲望だけによって出会いを迎えた。
互いに何も望んでいなかったし、望まれてもいなかったが、それが恋に落ちない理由にはならなかった。
婚姻のそもそもの理由であった戦争は終わったのだ。すなわちそれは、僕たち二人が結婚するという意味も失われたということだった。
国にも王都にも戦争の軛から解放され、明るい雰囲気に包まれていた。
誰の目にも政略結婚と分かる僕とシェリーのそれを、今更、強引に推し進めることは、そんな空気に水を差しかねないものだった。
何も進まないまま、一年の時が過ぎた。
婚姻を推し進めていた宮廷の貴族たちも、戦争中のピアース家の保身的な態度や、その後の、脅しににも似た態度を間近に見て、自分たちの利益の為だけにやろうとしていた事の現実を見た思いに駆られたようだった。
シェリーこそ王都の宮廷に入っていたが、彼女にとって、決して居心地の良い場所だろうとは思えなかった。何一つ不満を言わなかったことも、ある意味で僕を苦しめたていた。
時間が経ち過ぎていた。そして自然な流れの中で、この婚姻は破談になろうとしていた。ここでも当人たちの気持ちは無視され続けていた。
そんな中で、僕たちをお互いを支え合っていた。不安だったが、自分たちの出自から考えれば、互いの想い人が、目の前にいることだけでも、本当に、幸運なことだと思えた――。
優しい騎士にしかできない、誰も幸せにしない選択 あか つかさ @RLL
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