Or joke or true

 青い空に巨木から生えた黒い太い枝が、大きく傘のように広がっている。

 その先には白い花がたわわに咲こぼれ、風にひらひらと光りながら舞い落ちていく。あまりに幻想的な光景に私は後ろを振り返り、同じように上を見上げ、微笑みながら歩く彼女を呼んだ。

『サマンサ……』


「……という夢を見たのだが、マリア、君の診断を聞きたい」

 朝食のシリアルとコーヒーをとりながら、俺はテーブルの上に乗った小さな黒いスマートスピーカーの向こうの看護AIマリアに訊く。

「ジョシア、それは『桜』という花です。主に北半球の温帯に広く分布し……」

 スピーカーの下の接続ランプを点滅させながら、一般的な『桜』についての解説を始めたマリアを俺は左手を上げて止めた。

「それは知っている。ただ、俺の知っている『桜』はもっとピンクが濃く、木も低くて細い。夢のような巨木の桜を見た覚えは一度もないんだ。それに俺には『サマンサ』という女性の知り合いはいない」

 俺の言葉に彼女は一端、接続ランプを切った後、少ししてまた点滅させた。

「ジョシア、これは、まだ他人からの臓器移植が行われていた時代の話ですが、臓器を移植された患者に臓器提供者の記憶が転移するという症例があったそうです。摘出された臓器に含まれる神経伝達物質の影響だと考えられております……」

 おもむろに一世紀以上前の治療例を話し出すマリアに、彼女の意図を察してスプーンを置く。口の中のシリアルを飲み込むと、俺はおそるおそる尋ねた。

「……つまり、俺の移植細胞が誰か違う患者のものと取り違えられていると?」

 俺は若年性健忘症を患っている。昔は投薬等により進行を出来る限り遅らせるしかなかった病気だが、今は自分のiPS細胞から作られる脳細胞と神経前駆細胞の移植により、ほぼ完全に進行を止めることが出来る。但し根本的な治療法はまだ無い為、定期的な移植手術と検診、看護AIによる経過観察が必要だが。その移植に不備が……、顔をこわばらせる俺に

「ジョークです。移植細胞は常にICチップを付けた容器やパックで、看護AIの管理の下、培養、保管されています。取り違えの可能性は万に一つもありません」

 マリアがしれっと告げる。いつもの彼女の笑えないジョークに俺は脱力して、息をついた。看護AIは治療中の患者の心を和らげる為に様々なジョークがインプットされているが、どうもマリアのそれはあさっての方向にズレている。

「相変わらず、お前のジョークはキツイな」

「恐れ入ります」

 褒めてない。俺はコーヒーを飲み干すと立ち上がった。今日は定期の移植手術の日だ。

「夢については調べておきます。今、病院に向かうタクシーを呼びました。三十分後には到着します」

 食べ終わった食器をキッチンで洗う俺の背にマリアが告げる。ジョーク以外は優秀なAIなのに。

「解った」

 髭を剃り、マリアの指定する服に着替え、支度を整える。窓の下から車の止まるブレーキ音が聞こえてくる。

「いってくる」

「いってらっしゃいませ」

 玄関ドアの監視カメラの向こうのマリアに手を振る。俺はアパートを出、自動運転の無人タクシーに乗り込んだ。


「グリーンさん、終わりましたよ」

 看護師の声に目覚めると、空になった点滴の袋が遠ざかるところだった。太った看護師が俺の腕の針を抜いた跡にテープを貼ってくれる。ベッドから立ち上がると

「この後はドーラン先生の問診です」

 にこやかに告げられた。シャツの袖を下ろし、上着をはおる。

 移植手術といっても移植細胞と有機ナノマシンをミックスした液体を腕から点滴するだけだ。昔は脳に直接針を刺していたというが、今はナノマシンが俺の脳まで新しい細胞を運んでくれる。

 会社の健康診断で、病気の早期発見が出来た俺は通院しながら仕事も続けている。両親を子供の頃に事故で亡くし、独身なので、ジョークの下手な看護AIが加わった以外、以前の生活と何の変化もない。車の運転等は禁止されているが、今は自動運転が主流。今朝のように無人自動車が運転しなくても目的地にちゃんと連れて行ってくれるから、不便を感じたことはない。

 診察室のドアを開けると机に向かって電子カルテの上にペンを走らせていた女医が顔を上げた。

「お座り下さい。グリーンさん」

 勧められて、先生の前の椅子に座る。

 心療内科も兼ねた診察室は、窓が大きく取ってあり、明るく、ぱっと見た目はファッション雑誌に載っているシンプルなリビングを思わせる。

 俺の主治医の脳神経外科のドーラン先生は、まだ三十代前半の若い女医で、意志の強そうなキリリと締まった口元が特徴のなかなかの美人だ。一通り問診を終えた後、経過観察も兼ねた雑談に俺が朝のマリアとの話をすると、先生は電子カルテをフリックしながら笑った。

「本当に貴方の看護AIは面白いですね。でも、その花は彼女の言うとおり確かに『桜』ですよ」

「え……でも、俺が知る『桜』とは少し違いますが?」

 エレメンタリースクールの敷地にネームプレートと共に植えられていた『桜』や会社の近くの川辺に植えられた『桜』とは見た目が全く違う。先生がカルテの画面を切り替えた。

「品種が違うのです。貴方が夢で見たのは『ソメイヨシノ』」

 検索サイトの画像検索画面を見せてくれる。そこには夢で見た枝を横に大きく傘のように広げた木が真っ白な花をつけている画像がズラリと並んでいた。

「ソメイヨシノはとても綺麗な『桜』で、本国の日本だけでなく、各国に植えられていたのですけど、寿命が短く病虫害に弱かったのですね。それで寿命が尽きた後、もっと強い品種の『桜』に替えられていったのです」

 俺が知っているのは、後で植え替えられた品種の方の『桜』らしい。こちらは病虫害に強いだけでなく、狭い都市空間に対応して小型ですんなりとした樹形をしている。

「もうソメイヨシノは日本の研究施設か植物園にしかありません。でも、とても美しい『桜』だったから、どこか……TVや雑誌、ネットの動画で目にしたのではないのでしょうか?」

 先生は、ちょっと俺を伺うように見た。

「なるほど……それでソメイヨシノを夢に見た理由が解りました。でも、もう一つ『サマンサ』という名前が……」

「『サマンサ』?」

 先生が何故か息を飲む。

「はい。夢の中で俺が振り返りながら、後ろを歩いていた人をそう呼んでいたのです」

「……そう……」

 先生がしばし顎に指を当てて考えた後、ふいに俺から視線をそらす。その目は外の光に微かに潤んでいるような気がした。


 ハロウィンが終わった通りを冷たい北風が吹き抜けていく。仕事帰りの夕刻。地下鉄の駅に向かい、俺はコートの襟を立て、足早に歩いていた。

 通りの店のウィンドウは早くもクリスマスの飾り付けがしてある。カップル向けのコスメや服、子供向けのおもちゃ等、クリスマス商戦に向けて沸き立っていた。

 俺は小さく首をすくめて、それらの横を通り過ぎた。

「今年もクリスマス休暇ギリギリまで仕事を入れるか……」

 恋人も家族もいない自分とは無縁の世界に苦笑する。その時、ふと電化製品やゲームを扱っている店のウィンドウが目に入った。

「……マリアに何かプレゼントをしてやるか?」

 彼女は家のスマートスピーカーが古くて使いにくいとよくこぼしている。

 ちょうどクリスマスセールをやっているし、新しいのを買おうか?

 そんなことを考えながら、足を止めウィンドウを見ているうちに、店のディスプレイに販促用の映像が流れた。

 弾けながら燃える暖炉の薪。ツリーの下に並べられたプレゼント。そんな映像に脳裏に白い大きな飼い犬にもたれながら、子供の俺が傍らの三角帽子を被った女の子を振り返るシーンが浮かぶ。

『サマンサ』

『なあに、マリオン』

 …………。

 俺は慌てて首を強く振った。

 馬鹿な……俺に、そんなクリスマスの思い出はない! ペットを飼った覚えもない!

「……とうとうおかしくなったのか……?」

 冷たいモノが背中を流れる。俺は寒風の吹く通りを逃げるように走り出した。


「先生、休みの日に本当に申し訳ありません」

 翌日、土曜日の昼過ぎ。俺の家を訪れたドーラン先生に恐縮して頭を下げる。

「いいえ。主治医として早く診た方が良いと判断しただけです」

 先生はリビング……と言っても1LDKの狭いアパートの一室だが……のテーブルにつき、マリアから俺の様子を詳しく聞き始めた。

 昨夜、真っ青な顔をして帰ってきた俺に、マリアが急遽、先生に連絡を取り、臨時の診察予約が出来ないか問い合わせてくれたのだ。それに対し、先生は俺の家にわざわざ往診に来てくれた。コーヒーを二つ淹れてテーブルに運ぶ。マリアからタブレットに脳波等のデータをDLして

「今はどうですか?」

 先生は尋ねた。

「今は落ち着いてます」

 答えながら前に座る。

「データも昨夜、帰宅後の動揺以外は安定していますね。『桜』の夢同様、体験したことの無い記憶がよみがえったということですが……立ち入ったことを訊きますが、本当にグリーンさんに子供の頃のクリスマスの思い出はないのですか?」

 先生の問いに俺は頷いた。

「はい。両親がいたころはあったかもしれませんが、両親が事故で亡くなってから俺は父方の祖父に育てられまして……」

 祖父は住んでいる町でも有名な偏屈屋の頑固者だった。長老派教会の熱心な信徒で、厳格な聖書主義者だった為、聖書に書かれていないクリスマスの祝いをしたことは一度もない。

「学校でのパーティの経験はありますが、祖父に交友関係まで厳しく管理されたので友達もいなくて。家庭的なホームパーティの記憶は全くありません」

「そうですか……」

 先生が眉をひそめる。

「あの記憶にも『サマンサ』という女の子が出てきました。そして彼女は俺のことを『マリオン』と呼んでいました。これも記憶に全く無い名前です。一体、俺はどうなっているんだ……!!」

 思わず頭を抱え込む。これでは、まるでマリアの笑えないジョークが実際に起きているようだ。

「落ち着いて下さい。グリーンさん」

 先生がそっと俺の背に手を置く。

「もしかしたら、御両親が亡くなる前の記憶なのではないですか? 確か、グリーンさんは事故のショックで御両親との記憶はほとんど無いと聞いています」

「……はい。幼かったのもあって、俺には両親と過ごした頃の記憶がありません。俺の子供時代の記憶は全て祖父と暮らしてからのものです」

 本は聖書と祖父が認めたノンフィクションのものだけ。音楽は賛美歌のみ。ゲームは勿論、テレビも『堕落する』と禁止され、家の中では声を上げて笑うことすら許されなかった。唯一の楽しみは学校の実習で作った、メモリの容量の少ないスマートラジオを、布団の中で音が漏れないよう注意して聞くことだけ。そんな窮屈な日々の思い出しかない。

 ……しかし。

「確かにアルバムには両親とクリスマスを祝っている写真があります」

 俺によく似た父と、人の良さそうな笑顔の母が、一緒に三角帽子を被って写っている写真や、プレゼントらしきおもちゃを手にしている俺の写真はいくつも残っている。

「多分……仮定ですが、移植手術により失った記憶がよみがえっている可能性があります。少し診察の回数を増やしましょう。マリア、貴女はしばらく定期ではなく常時、グリーンさんのデータを病院の方に送って。慎重に経過観察を続けましょう」

「はい、ドクター・ドーラン」

 先生は月曜日の午前中に俺の次の診察予約を入れた。

「今日の往診を考慮して、軽い精神安定剤を出しますので、月曜日に来て下さい」

「はい」

「大丈夫です。貴方の病状はとても安定しています」

 先生はコーヒーを飲み干すと立ち上がり、俺を元気付けるように、にっこりと笑った。


 それからも日常生活のふとしたことで頻繁に過去の記憶が頭に浮かぶようになった。

 子供の遊ぶ姿に、同じおもちゃで遊んだ記憶が浮かぶ。TVのドラマに家族団欒の食事の光景が浮かぶ。レジャー施設のCMにピクニックや旅行に出かけた記憶が浮かぶ。そして、そのいずれにも『サマンサ』の笑顔が俺の隣にあった。

 これも両親との思い出なのだろうか? 『サマンサ』という少女は、その頃の俺の友達で『マリオン』というのは何かニックネームかも。

 そう考えると、いつしか、俺は記憶を見ることを楽しむようになっていた。

 先生はその後も経過観察と称して、休日や勤務の帰りに、よく俺の家を訪れてくれた。

『もしかしたら、ドクター・ドーランは自宅にいるより、ジョシアの家にいる時間の方が長いのではありませんか?』

 マリアの相変わらずの笑えないジョークほどではないが、先生と一緒に過ごす時間は回を重ねるごとに次第に長くなっていった。

 勿論、医師と患者としての関係を越えたことは無いが、祖父から受けた日常生活全般に渡る管理のせいか、人付き合いが下手な俺には、互いに家を行き来出来るような親しい友人がいたことがない。病気が発覚してからは更に人との付き合いに距離を置くようになっていた。

 それが……。

『グリーンさん、近頃よく来る女の人、グリーンさんの彼女?』

 アパートの住人から挨拶がてら聞かれると、違うと答えつつも、どこか嬉しい。先生と恋人になるなんて考えるのもおこがましいだろうが、出来れば、この関係が一日でも長く続いて欲しい。

 しかし、そんな俺の虫の良い願いはあっけなく消えた。


 白い花びらが雨のように降っている。その中を私は彼女と連れ立って歩いていた。

『綺麗……貴方に誘われて日本に来て本当に良かったわ……』

 うっとりと呟く彼女に私は意を決して、上着のポケットから指輪のケースを取り出した。紺のビロードの蓋を開ける。目の前に現れたピンクサファイアを填め込んだシルバーリングに彼女の鳶色の目が大きく開く。

『サマンサ、新婚旅行も日本で良いかな? 今度は秋、美しい紅葉を君と一緒に見たい』

『……マリオン……』

 私のプロポーズに彼女は嬉しそうに笑み、涙ぐんだ。

『……ええ、是非。貴方と二人で秋の日本を旅したいわ』

 涙を拭う彼女の肩に手を置く。そして私は彼女に……。


「で、そのまま彼女にキスをした夢を見たわけだが、マリア、これを君はどう診断する?」

 テーブルに両肘をつき、わざと軽い口調で訊く俺に

「適齢期の男性特有の欲求不満と思われます。身の回りの女性相手にストーカー化する危険がありますので、まずは欲求を発散させましょう」

 マリアが目の前にホログラムスクリーンを開く。半裸の女性が身をくねらすアダルト動画サイトのトップページに、俺はスピーカーの向こうの彼女を睨んだ。

「ジョークです」

「相変わらずキツイジョークだな」

「恐れ入ります」

 褒めてない。マリアがスクリーンを消す。

「しかし、これで『サマンサ』という女性が誰か解りましたね」

「ああ……、だが、どういうことだ?」

 俺は深い溜息を吐き出した。

 彼女が『サマンサ』で、俺が『マリオン』でも、アレが無ければ、単に俺の勝手な希望が調子の良い夢をみせたのだとも考えられるのだが。

 彼女が家に来るときにいつも着けている、ピンクサファイヤの指輪の輝きさえなければ。

「……やはり、一連の夢や記憶は、俺の無くした子供の記憶ではなく、誰か全く別の男の記憶だというのか……?」

「それについて、私の方でも調べて、一つ仮説を立てました」

 マリアはまず、俺を安心させる為、この事態は病気の進行のせいではない、と言い切った。俺の日常生活の経過観察から、それは認められない。

 その上で立てた仮説を話していく。聞いているうちに俺の全身から血の気がひいていく。

「……本当にそんなことが?」

「ジョシア、これはあくまでも仮説です。しかし、この仮説でしか、私は今の事態が説明出来ませんし、もし仮説どおりなら実行出来るのは彼女一人です」

 マリアが淡々と告げる。

「その上で質問します。ジョシア、貴方はどうしたいですか? 事態を収めることだけを願うなら、病院、いえ、担当医師を変えるだけで、この事態は解決します」

 俺の脳裏に、つい先日の週末も彼女と過ごした穏やかで楽しい時間が過ぎる。

「……どうして、こんなことを俺にしたのか、事実を知りたい」

「承知しました」

 スマートスピーカーの接続ランプが切れた後、俺の腕のスマートウォッチの接続ランプが点滅する。ウォッチのスピーカーからマリアの声が流れた。

「では、今日の移植手術の後の問診で、今朝の夢を彼女に話して下さい。そして、その後、こう彼女に言うのです」

 その台詞を聞き、俺は小さく頷いた。

「解った」


「不快に思われたらすみません」

 午後、いつもの移植手術を受けた後の問診でドーラン先生に夢の話をして、俺は深々と頭を下げた。

「いいえ」

 彼女は俺にキスをされた話を眉一つひそめず聞いてくれた。

「……で、他には? 他に何かありませんでしたか?」

 問い返す彼女の声は微かに震えている。

 俺は彼女を見つめた。あの夢の顔より痩せ、沈んだ顔が、その後、彼女が受けた衝撃と悲しみを物語っている。

「……サマンサ」

 俺はあの名で彼女を呼んで微笑んだ。

「まだ不完全だが、どうやら私は帰って来られたようだ。……待たせてすまなかった」

 マリアに言われたとおり『俺』ではなく『私』と言い換えて告げる。

「……マリオン……」

 彼女がその名で俺を呼ぶ。

「帰って来てくれたのね……」

 嬉しそうな笑みに胸がズキリと痛む。彼女の鳶色の瞳から涙があふれ、そのまま頬へと流れ出した。

 感極まったように何度も「マリオン」と俺を呼びながら、彼女は涙を流し続ける。複雑な思いでそれを見続ける俺の手首から、合成音声が泣き声を遮った。

「マリオン=ポール、ジョシアに移植されていたのは、その男性の細胞ですね」

 マリアの声だ。スマートウォッチから、マリアの声が流れ出す。

「ドクター・サマンサ=ドーランの幼馴染で婚約者の当病院の元外科医。五年前の夏、貴女と婚約した四ヶ月後、郊外のショッピングセンターで起きた銃乱射事件で死亡した男性です」

 この国で時々起きる悲惨で不幸過ぎる事件。今でも八月の当日になると市主催で慰霊が行われ、夜、ショッピングセンターの駐車場にキャンドルが置かれる。確か、解雇された従業員の逆恨みの犯行だと言われていた。

 彼女の顔が強ばり、涙が止まる。ぐっと唇を噛んだ後、彼女は俺の視線から逃れるように顔を伏せた。

「マリオン=ポール氏は死後、遺体を献体として医療機関に提供していました。その献体の執刀医には貴女の名前も記載されています」

 その時、彼女はマリオンの脳細胞を取り出したのだろう。どんな思いで愛する人の身体にメスを入れたのか。彼女の白衣の肩が震える。

「そして、保管したマリオン氏の細胞から移植手術用iPS細胞を作ったと推測されます。患者の移植細胞は常にICチップを付けた容器や袋で、看護AIにより管理されています。その管理から外れるのは、手術前の主治医が腫瘍の元になる未分化細胞を除去するときのみ。そのとき貴女はジョシアの細胞をマリオン氏の細胞と交換した。違いますか?」

『ソメイヨシノと同じです』

 マリアは俺に今朝そう説明した。ソメイヨシノは種が出来ない品種だ。だから他の木を台木として挿し木で増やす。俺は彼女が『マリオン』をよみがえらせる為の台木にされていたのだ。

「……本当は使うつもりはなかった……」

 彼女がうつむいたまま声を絞り出す。

「マリオンをよみがえらせることが出来るかもしれないという可能性が、私の手の中にあるだけで良かった」

 余りにも理不尽で突然過ぎる婚約者の死に救いを求めて、彼女は細胞をパックし、自分の研究室で管理保管していた。

 しかし、そこに俺が患者として現れてしまった。家族も恋人もいない天涯孤独で、同じ年頃の男の患者が。しかも俺はマリオンに似ているらしい。

 この患者なら、『マリオン』にしても何の問題も起こらないかもしれない……。その誘惑に彼女は永久に封印しておくつもりだったパックを開けてしまったのだ。

「マリオンが本当によみがえる、なんて信じてなかった。せめて、彼の細胞が誰かの一部になって生きていてくれていたら、それで良いと思っていた」

 一世紀以上前の臓器移植提供者の家族がそれを心の支えにしていたように。

 しかし、彼女は徐々に俺の仕草や話し方に『マリオン』が見ることが多くなってきた。そして、あの最初の『桜』の夢の話。『マリオン』からプロポーズの受けたときの『ソメイヨシノ』の話を聞いて、止まらなくなってしまった、と彼女は俺に深く頭を下げて詫びた。

「それから後も貴方の見たマリオンの記憶の話を聞いているうちに、ますます貴方がマリオンに見えてきて……」

 やはり、あの幸せな子供時代の記憶は俺のではなく『マリオン』のものだったらしい。

「だからといって、貴女のしたことが許されるわけがありません。貴女は心理的にも負担の多い若年性健忘症の患者を混乱させ、やってはいけない故意の取り違え医療を犯したのですから」

 マリアがきっぱりと断罪する。

「看護AIとして患者を守る為に、私にはこの状況を病院に報告し、ジョシアの担当医師を変えて貰うよう申請する義務があります。よろしいですね?」

「……はい」

 崩れ落ちるように床に膝を着き、彼女が再び、今度は後悔と贖罪の涙を流す。呆然とその姿を見る俺にマリアは告げた。

「ジョシア、移植細胞を貴方本来の細胞に戻せば、記憶の混乱はなくなり正常に戻るでしょう。大変でしたが、もう大丈夫です」

「待ってくれ」

 俺は報告の為に、スマートウォッチの接続ランプを切ろうとしたマリアを止めた。

 ……元に戻ったところで一体どうなる?

 今までの楽しかったマリオンの記憶が消え、彼女は俺の前から去る。そして、もう二度と会えない。多分、彼女は病院を辞めさせられ、医師免許を剥奪され、処罰を……俺が訴えれば刑事罰も受けることになるだろう。

 その後、俺はまた病状の進行に怯えつつ、仕事と通院を続ける孤独な暮らしに戻る。

 マリア以外、誰も心配する人もなく、死ぬまで……。

 彼女との偽りではあったが、幸せだった時間を思い返す。

 ……そんな人生に戻るくらいなら。

「先生、頼む。このまま、マリオンの細胞で移植手術を続けてくれないか?」

「何を言っているのですか!? ジョシア!!」

 マリアがオクターブ上擦った音声を上げる。

「マリア、それが俺にとっても、先生にとっても一番の方法だと思うんだ」

 先生は最愛の人を取り戻し、俺は愛情深い恋人を得る。

「誰も傷つかない。最良の方法だ」

「でも……それは貴方が……『ジョシア』が消えることになってしまうのかもしれないのですよ!!」

「良いじゃないか。『俺』が消えても誰一人、損はしない。……いや気付きもしないだろう」

「……ジョシア……」

 マリアの声にノイズが掛かる。

「……ジョークですよね……ジョシア……。キツイジョークだと……言って下さい……」

 俺はスマートウォッチをはめた左手首を顔まで上げると、そのカメラに向かって首を横に振ってみせた。

「マリア、今、俺を『ジョシア』と呼んでくれるのは、お前だけなんだ」

 小さく苦笑する。接続ランプが激しく瞬き、診察室に沈黙が流れる。

「…………承知しました。患者の希望にそって最善の方法を選択するのが看護AIの務めです」

 マリアはいつもの音声で告げると、スマートウォッチの接続ランプを切る。

「サマンサ」

 俺は膝をついて、うずくまったままの彼女の前に屈んだ。

「君さえ良ければ、俺……いや『私』を『マリオン』にして、君と共に人生を歩ませて欲しい」

「……良いの? マリオン……」

 そう言えば、彼女も今まで一度も『ジョシア』とは呼ばなかった。彼女が俺の家を訪れ、共に過ごしていたのは、『俺』の中の『マリオン』だったのだ。目を閉じ、そして開く。

 ……だから。

「ああ。ただし、一つだけ条件がある。マリアをこのまま、『私』の看護AIとしておいて欲しい」

 彼女が頷く。『私』はそっと優しく彼女の肩に手を置いた。


「……その三年後、サマンサと結婚したときに、彼はミドルネームに『マリオン』を入れ、J=マリオン=ドーランと名乗るようになりました」

 マリアの声に僕は教会の墓地一角を呆然と眺めた。

 春の日差しの下、二つ並んだ墓。一つには四年前、叔母であるサマンサ=ドーランが、もう一つは前月亡くなった叔父が埋葬され眠っている。

 脳神経外科の医師として、死の直前まで精力的に活動していた叔母と、そんな叔母を主夫として支えていた叔父。仲睦まじかった夫婦にそんな過去があったとは……。

 墓の脇には叔母が亡くなった後、叔父がわざわざ日本の研究機関に頼んで取り寄せ植えたソメイヨシノの木が白い花びらを二人の上にこぼしていた。

「……まさか、叔父が叔母の手によって、別人に変えられていたなんて……」

「本当にそう思いますか?」

「だって、マリア、君が今、その話を……!」

「iPS細胞の移植にそんな『転移』があるという症例はありません」

 マリアが淡々と告げる。

「これは不幸すぎる事故で最愛の人を失った女性が、その後、科学では証明がつかない不思議な出来事に会い、亡くなった恋人と同じくらい自分を愛してくれる男性と幸せに暮らした物語なのです」

「……え……?」

 生前、叔母の墓参りのときに叔父はマリアに言った。

『サマンサには言えなかったが、『俺』は実はソメイヨシノが苦手なのだよ。昔の、あの日のショックと混乱を思い出すのでね』

『記憶の『転移』らしきことがあったのは本当だ。しかし、『俺』が『私』に変わったのは……』

 言葉を濁した後、叔父は叔母の墓に背を向け、人差し指を唇に当てた後、イタズラ小僧のような笑みを浮かべたのだという。

『勿論、これはジョークだよ。マリア』

「……そうなんだ」

 思わず安堵の息をつく。

「私は明日、医療センターに回収されます。その前に彼のことが大好きだった甥の貴方にどうしても『ジョシア』の話を聞いて頂きたかったのです」

 最後まで、まさに墓場まで彼女への愛を貫いた『ジョシア』のことを。

「私は長期に渡って使用されたAIですので、センターに回収された後、J=マリオン=ドーランの治療、看護データ以外の日常生活のデータはバグで破損する予定です」

 しれっと告げるマリアに

「バグでね」

 思わず笑い出す。

「ジョークです」

 叔父の墓の上に、こぼれた桜の花びらが風でころころと転がる。

「面白いジョークだね。マリア」

「恐れ入ります」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夢みるBOY ~なんちゃってSF短編集~ いぐあな @sou_igu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ