第6話
──夜半。
ぬるい風がしんとした海面を吹き抜けていた。闇夜に浮かぶ満月が、煌々と輝いてあたりを照らしている。もしかすると、提灯すら必要がないかもしれない。
弦之助と鈴千代は、そんな中で小舟に揺られていた。顔には生気が満ち満ちており、或いはその感情を苛立ちと呼ぶこともできるだろう。
結った頭を風が弄ぶままにさせて、弦之介はすうと息を吸い込んだ。
「人魚、来い」
彼としてはあの存在を人魚と呼ぶには、如何ばかりかの抵抗があったが、ともかく彼はあの半魚人を呼んだ。
間もなく彼らは水面近くにまでやってきた。思いのほか順調な登場であったのには、何か理由があるのか。
「始末はつきましたかな」
「うむ、これからつけるところだ」
すらりと侍は刀を抜いた。よどむことない所作に、彼の仮の主は満足げにうなずく。
「早う斬れ。彼奴らの肉、食うてみたい」
「ほう、ほう。なるほど、そういう運びで」
「そうであるとも。いやはや。よくぞ謀ってくれたのう。妾らがそこまで阿呆ならばそれで良かったろうが、幸いにして妾は万能であるからな。主らの思い通りに事を運ばせるわけがないのだ」
いつでも彼女は怒っているか、自信満々なのであった。
不遜な物言いに、魚人は若干ながら不快感をにじませる口調になった。
「陸の者が万に長けると申されますか。ほう」
「ふ、水練ならば我らが上、とでも言いたげであるな」
「左様。いかに」
鈴千代は一笑に付した。
事実、彼女の自信というのは自らの腕を頼んでのことであり、同時に従者の剣腕を見込んでのことでもある。相手の力がどうであれ、最初から彼我の力量に隔絶した差が存在しているのであれば、十把一絡げに判断するのは自然。
「愚か者の考えることは詰まらんな。全くもってスキがありすぎる。隙間風が吹き込んでこちらが寒いわ」
少女の口元がゆがむ。残酷なまでに可憐な顔かんばせに、弦之介のみならず水中の魚人までもがしばし言葉を失った。
――寒気が過るのである。この娘の微笑みというのか、表情というものは大抵突然目に入ると寒疣が立つのだ。それは美意識や嗜好といった次元を超越し、何か生物的生理的な現象であるかのように、不意打つ美貌に心根を鷲掴みにされてしまうのであった。
肝心の弦之助ですらその有様だ。魚人は、彼らの種族的感覚を忘れて月下の狂姫に呆けていた。そのような尋常ならざる現象を引き起こす、非常識な様子なのである。
「とまれかくあれ──妾の民に牙を剥いたのだ。何時までも談笑しておる心算もない。弦之助」
「応」
男がついと舟の淵に足を掛け、一息に海面に向けて降り立った。
立ったのだ。飛び込んで泳ぐではなく、潜るでもなく、平然と海面に仁王立ちしてみせた。侍とはいえ、これは平常の技ではない。即ち美業、弦之介独自の奥の手であった。
意味するところは必殺。業を見せたからには何を置いても殺す。必ず殺す。人に非ずとも滅殺を旨とする意志。
睨み顔に殺気を纏わせ、抜き放った厚手の刀身がゆらりと上段に、凪いだ海面に大股で男が立つ。
吐息が一つ。
無音で迫る、水中へと引き摺り込もうとする怪生の腕を、振り下ろした刃が縦一文字に断ち割った。
きゃあと悲鳴が水中で起きる。続いて銛が股間に迫る──柄ごと切って落とす。驚きの声が上がり、凡その敵の位置を確認できた。
弦之助の口元に喜色が宿る。易し、生兵法が、と呟き水を蹴って加速した。
一つ踏み込めば断末魔、二つ払えば薄い血が海面に溶ける。暗い水底から漂うは驚愕と恐怖、怒りを塗り潰さんとしたその感情を、妖は如何に処するものなのか。
「──聞こえておろう、魚よ」
嗤う娘が呼び掛けた。
「これよ。分かるか。これだ。主らが手向かったのは、こういうものよ」
小舟に孔をあけてやろうと向かっていた魚人たちは、鈴千代が足を踏み鳴らした衝撃で全身を打たれ、堪らず水面に飛び上がる。
飛び上がってしまえば、待つのは刃だ。ただの一閃で見事なひらきが出来上がる。男の背後から掛かろうと、遠方から弓を引き絞っても、問答無用で両断される。
「馬鹿な。なんだ、これは。何だ主らは」
「妾に向かって主とな。全く礼儀がなっておらぬ。それで我妖ぞと踏ん反り返っておったのか?嗤えるのう」
「まことに。畜生の考えることは土台分からぬものですな」
二人が一緒になって笑った。
声を上げて、けらけらと背を震わせる。
血に染まりつつある海の上で、人であるはずの者共が化物のように笑い声を響かせている。
その光景に形勢悪し、と判断したのだろう。鬼のように哄笑する二人に背を向けて、妖は水底深くに逃げようと踵を返した。
「いやはや、これは『尾鰭を返した』とでも言うのでしょうかね」
視界など無かろうに、さも全て視えているかの如く男が嘲笑する。
──海流の変動、ぶつかる波の音、水を掻き分け進む音、全てが解る。一目散に逃げ回る畜生どもが滑稽だ。精々媚びておけば捨て置いたものを、何を勘違いしたか逆らうとは。
べん、と弦を弾く音がした。
三味線に似た音色であった。無論、誰も弾いてはいない。ぎりりと糸を引き絞る音と、空を引き裂く無形の音色が続き、弦之助の五指が鉤爪のように折れ曲る。
「冥土の土産に教えてやろう。向う千里の天竺と、彼方万里の彼岸を繋いで引き裂く我が美業──」
海面が徐々にせり上がってきた。違う、せり上がっているのはその下である。海中深くに潜もうとした、数多の人魚どもが何かに捕らわれ急速に引き揚げられているのだ。
飛び散る水飛沫、宙に放り出された者たちを掬い上げたのは、目に映すことすら難しい無色の生糸で編み上げられた大投網であった。
それもまた、適切な表現ではあるまい。
正しくその網は、巣であった。
不可視の蜘蛛糸である。
絡め取る粘糸に切り裂く鉄糸、それらの操り組み合わせ、虚空に巣網を張り巡らせる力こそ弦之介の秘中の秘──、
「──即ち、
鈴千代が呟く。それを合図に舞い上がった人魚が独りでに賽の目にぽろぽろと崩れ始めた。
絡める糸と切り刻む糸、それらを編み上げた網の目が無惨に生体を裁断していた。
弦之助が船に戻り、いつのまにか手にしていた皿に大量の刺身を乗せて鈴千代に差し出した。
「さぁ、終わりましたぜ」
仕損じはなかろうな、と彼女は尋ねない。
男の腕を理解していた。故に、万に一つもそのようなことが起こり得ぬと識っていた。
「よしよし、生きがいいのう。彼奴らめ、何が起きたのかすら解っておらんだろう」
「そりゃ当然」
「調子に乗るな」
「はいはい。さ、醤油が……あったあった。酒もある。いやぁ、こりゃ長生き出来ますぜ」
ざばっと荒く醤油を全体に振りかけて、きらきらとした切り身を箸で摘み上げる。
中々脂がのって旨そうだ。捌きたてで鮮度に申し分はない。本国の都ですらそうは手に入らない逸品だろう。
彼がその切り身を口に入れる前に、鈴千代が軽く脛を蹴飛ばした。彼女にとっては軽かったが、弦之助は皿を放り投げないように必死で悶絶した。
「な、に、をするんですかね。このお姫様は……!」
「愚か者め。妾よりも先に食らおうとは何事か」
「毒見ですよ、毒見」
「捌いたばかりのものに毒を入れる方法があるか。あの漁師を見れば、肉に毒がないことは明らかだろう」
いいから寄越せ、と彼女は口を開けて待ち構える。
どうせ毒が効くようなお方ではない。
それに、この餌付けを待つ雛鳥のような姿は、何とも言えない愛らしさがある。悶えるような庇護欲を掻き立て、口元に吸い込まれそうになってしまう。実際やれば海に突き落とされるだろうが。
仕方ないと諦め、弦之助は人魚の刺身を鈴千代の口に運んだ。
「……どうですかね」
「ふむ……良いぞ。食うてみよ」
意外と淡白な反応だ。
少しばかり疑問を抱いたが、まぁ良いかと二、三切れを同時に口に放り込んだ。
結果は悲惨だった。
「う、不味ッ!?不味いってもんじゃ、なんだってんだ!!」
顔が蒼白になるほどのエグみと、全く口の中で溶けない脂が喉に張り付いて剥がれない。生臭く鼻が曲がるような風味が、目の裏にまで回って落涙を誘うほどである。
どうしてあの漁師はこんなものを平気で食べたのだ。不味いというか、もはや毒だ。舌がおかしくなる。
「ふ、はははは!馬鹿め、馬鹿正直に食いおったわ!こんな不味いものを妾だけが食うなど耐えられんからなぁ!」
おえーと鈴千代は顔を青くして海面に何かを吐き出した。
「こ、このへそ曲がりの鈴千代どのめ!根性捩くれて元に戻らなくなってしまえ!」
彼女よりも数段醜い様子で弦之助も海に向けてえづいた。
「誰がへそ曲がりか!貴様こそサクッと捌けば良いものをねちねちねちねちと念入りに追い詰めおって!こんな不味いもので時間を無駄にするでないわ!」
怒鳴って、吐く。
「は、舟の上で踏ん反り返っていただけの鈴千代どのに言われたくありませんなぁ!」
そして吐く。
汚物量産機であった。
先ほどの武勇はどこにいったのか。見目麗しくとも、これでは台無しだ。二人とも酷い有様だった。
「大体何じゃあの口上は!何が天竺から彼岸を繋ぐ──だ。精々が一里半であろうが」
「わざわざ繋いだ得意満面の鈴千代どのが仰られますかね!?そもそもこの件──」
醜い言い争いは海流で船が岸辺に辿り着いてもまだ続き、最終的には以前人魚を釣り上げた漁師が、
「あんな不味いもんよく食いなさった。たぶんありゃ焼いて食う魚だよ」
とせっかちな二人に留めを刺して終わった。
サムライ・ロリィタ・ランペイジ 御倉院有葉 @Neco-Neco
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