二章 調査開始
Act.榛原道明
赤神探偵事務所から道明の目的地まで海沿いの国道を西に下る。薄暗い高速道路の高架下にある四車線道路を突き進めば二十分とかからずに到着する。しかし今は平日の朝十時過ぎ。完全な渋滞とまでは行かずとも信号二つ越えるだけで止まってしまうような混みようだった。
その中をまるで荒れ狂うサメが泳ぐように車の間を縫い進む一台の黒いバイクが走っていた。
BMWモドラッドS1000RR。乗り手さえも攻撃的な気分にさせるボディラインはまさに獲物を狙うサメ。右側の車体にはサメのエラような廃熱デザインが施されていた。それだけの存在感に見合う排気量 999ccの直列4気筒エンジンの咆吼とそれから繰り出される強烈なタイヤのスリップ音はまさに爆撃のように高架下に響いている。
急制動を繰り返しながら微塵も他の車に触れず走り抜けていくそのバイクに誰もが目を奪われていた。
それもそのはずだ。超一流のハリウッド映画のバイクアクションに匹敵するのが眼前で繰り広げられている。それがまださめやらぬ眼と耳に焼き付けられていた。
道明はそんな暴れ狂いそうになる車体を制御しながらあろうことか上の空だった。確かに絶好調の愛車を乗り回す楽しさもある。だが、その愛車を調教した者に対して考え事をしていた。
(彩加め、とうとう俺よりもいじるのが上手くなりやがって)
道明は自分の愛車に驚いている。自分でいじる際にはもちろん自分の癖を把握していじっている。それは誰でもそうで、道明は特に自分の感覚にぴったりと吸い付くようなチューニングをしていが、今乗り回している愛車はそれを越えている。ピッタリ吸い付く競技用水着どころか、まるで皮膚のようだと彼は感じる。
そして自分が保護者としてどうなのか、と疑問に思っていた。中学二年生ということはそろそろ初恋をしてもいい頃だ。学校に通い、同学年と一緒に勉強や青春を謳歌する。しかし、彩加が選んだ道は、道明や朱夏達を手伝い、機械油まみれになるような生活。
(どこでどう間違ったんだ?)
彼は自問する。
そう言えばと、ふと前に彩加と話していたことを思い出した。
それはまだ道明と彩加が赤神心霊探偵事務所に引っ越してきたばかりの頃だった。部屋は空っぽでキッチンにはガス台すらない。二人して寝袋で寝た次の日に朱夏からテレビは何台でも手に入るから好きな数を注文するといいと言われたことがある。何故か朱夏ビルの部屋はケーブルテレビが全室導入され、不思議に思いながらも道明の好みで世界一過酷なモータースポーツ競技のラリーレイドを彩加と一緒に見ていた。
南米アルゼンチンの首都からチリを周回するコースでアンデス山脈やアタカマ砂漠を越える。走行距離約8600km。人と車のタフネスを問われる荒くれた競技だ。
仕事を抜きにしても車を運転するのが好きな道明は、それを興奮しながら見ていた。隣でじっとしている彩加が不思議そうに道明を見て聞いてくる。
「ここ遠いんですか?」
「行くだけなら飛行機で一日半もあれば十分だな。だが、これは世界一長いモーターレース競技だ。これを完走できるんなら世界の何処だって車で行けるぜ」
「そうですか。運転している人ともう一人は?」
「ん? ああ、ナビゲーターのことか。これは二人でするんだよ。ナビゲーターがタイムとラップや走行計画、あとこれが重要だが修理をしてドライバーと一緒に完走を目指すって訳だ」
「そうですか」
そう返事して彩加がしげしげとナビゲーターを見ていた。道明はそんな会話を忘れて何時間も真剣に番組を楽しんだ。
(まさか・・・あの時のことか?)
回想を思い浮かべながらゴクリと道明は息をのんだ。そうすると何だか彩加の行動が次々と思い出される。
まず最初に彩加がほしがったのはグランドセイコーの高精度クロノグラフ付きモデル。ゴツい男物と少女の細腕が似合わないと思ったが、ちょうどセスナを売った後で資金も潤沢にあり、欲しいもの買ってもらったことが無いんだろうなと道明が思って買い与えた。その次は、道明が車をいじっているとずっと隣にいて彼を手伝っていた。そうしているといつの間にかレイから本をもらって独自に勉強し、今度は自ら油まみれになって道明から整備を教えてもらう。
はぁとヘルメットの中でため息を吐くと何やら無線からセラスと朱夏の話し声が聞こえてきた。道明は自分の役目というものを正しく理解している。雲の上のような会話を聞いても無駄だと思い、自分の仕事に集中しようとアクセルを更に深く握り込んだ。
(この事件が終わったら言ってやらんといかんな。恩を感じて俺の横に居なくてもいいって)
バイクが更に唸り、景色が吹き飛んでいく。
道明は知り合いの家へと道を急いだ。
「藤峰のおやっさんいるかい?」
道明はスタジャンのポケットに両手を突っ込み、とある家の門にいた男へ愛嬌のいい笑みを浮かべながらそう尋ねていた。
平和な住宅街の一角に突如として城塞が築かれている。高い石垣の上には鉄格子が鋭く伸び、威勢を誇るように松がその鉄格子から飛び出ている。門は車がぶつかっても壊れないような鋼鉄製。静かな雰囲気を崩壊させるような邸宅がそこにあった。
「なんだぁあ、てめぇわよっ!?」
明らかに堅気ではない剃髪の大男が唾をひっかける遊びをしているのか、と思うほど顔を近づかせて怒鳴った。
道明にはその男の顔に見覚えがなかった。いつも道明が訪ねると顔なじみの門番が出てきて中に入れてくれるが、今日は最初から男が門前で仁王立ちして道明がバイクを止めるのを警戒していた。
ああ、そうかと道明は納得した。納得したが、門前で立てかけた木の棒のように待つとは頭の片隅にもなかった。
「おやっさんとは顔なじみだ。いつでも来いって言われてるんだな。ってことでよろしく」
さっと、ポケットから手を出してヒラヒラと手を振って中に入ろうとする。男はその行動が自分をからかっていると顔を真っ赤にして、背後から道明の肩に手を伸ばす。手が肩に届き、男が残虐な笑みを浮かべそうになった瞬間――。
「え?」
と、気の抜けた声を自分で聞いた瞬間に側面から衝撃を受けて地面にもんどり打つ。
男が道明に触れそうになる瞬間に、道明は腰を僅かに落としてひねりを加え、裏肘を男の顔に喰らわしたのだ。
「前の門番の方が腕が良かったな、これじゃ」
うずくまる男を一瞥すると、振り返り道明は門に備え付けられた監視カメラに大きく手を振る。
数秒もしないうちに門の向こうから誰かが走ってくる音がして門が開かれる。
「榛原にぃさん! すみやせん! クソしてました!」
地面に頭が着くほど腰を折って紫のスーツを着た男が謝った。道明は大仰すぎる挨拶に頬を掻く。
「ああ、別に良いんだが、もうちょっとマシな奴置いておいた方が良いぞ? 抗争中だろ?」
「ご忠告、痛み入ります! ―――ってごら! ワレ、なにしくさっとんじゃ、竜司! 客人のお顔を覚えろゆうたやろうが!」
紫の男が道明に返事をするとすかさずうずくまっている大男の腹を眩しく光るエナメル靴のつま先で蹴り上げていた。
「ああ、もういいから。時間があまりないんだよ。藤峰のおやっさんと会わせてくれ」
「はい! 組長は今、朝食中です! ご案内します!」
道明にとっては、案内されずとも勝手知ったる知人の家。だが、ここでは客人なのでその厚意を受け取らなければ目の前の男が罰を受けることになってしまう。
道明の背後で他の組員が倒れている大男を回収し、代わりの門番が立った。実に手慣れていて鮮やかな早業である。
道明は男とともに見事な日本庭園を歩く。道明はポケットに手を突っ込んでブラブラと軽薄な笑みを浮かべている。男はときおり道明の方を見つつも影のように庭園を守る男達に目線を向けて、道明が無害であると目で合図していた。
道明はのんびりとした口調で男とポツポツと会話する。一見、何でも無い風な話だが。
(なるほどな、藤峰のおやっさんはかなり機嫌が悪いか)
情報収集しつつ話していた。
現在、藤峰組や他の組は、巷で騒がせている猟奇殺人事件の煽りを喰らい、警官の捜査が各組まで及んでいる。そして近隣繁華街一帯の凌ぎも激減し、何処が下手を打ったのかを探して、お互いににらみ合っている状況だった。
道明はそう頭に状況を書き込みつつ進み、男から邸宅のリビングに通される。
「おぅ、道明か」
不機嫌そうな男が着物を着て、朝の食事をしてた。風貌は中肉中背だが、ピリリとした威圧感がある。
「おやっさん、久しぶり。六月の重賞以来か」
一声で機嫌が悪いことを確認した道明は、藤峰に促されて目の前の席に座る。
何時もなら柔和な笑みで競馬のことを語り合う間柄ではあるのだが、抗争や気に入らないことがあると『鬼の藤峰』と畏れられている。
道明が部屋を見渡すと、以前来たときに自慢された大型テレビがなくなっていた。
「なんの用だ? わりぃが、ちぃと今は機嫌が悪い」
「そうかい、なら邪魔しちゃ悪いな。用件済ませて早いところ帰らないと。ちょっと仕事で調べ物したい」
道明の言葉に藤峰は目を吊り上げる。
「この状況じゃ今は頼み事を聞いてやれる気分ちゃうな」
道明は張り詰めている藤峰の堪忍袋の緒が切れないようにどう言おうか一瞬迷った。しかし、諦める。どうしたところで、藤峰がキレるからだ。諦めて口を開く。
「最近起こっている猟奇―――」
「ワレまでその話するんかぃ!?」
その言葉が終わらないうちに道明の横を味噌汁のお椀が吹き飛んでいく。お気に入りのサングラスに汁が付着するが道明は藤峰の方を見たまま続ける。
「落ち着いてくれ、おやっさん。おやっさんの頭痛の種を取れるんだよ。俺の仕事のついでに」
その言葉に少し顎を突き出し、眉をひそめる。
「なんやと?」
「いま仕事でその一連の事件を終わらせるために調査してるんだよ。必ず解決するから協力してくれ」
じっと藤峰は道明を見て、腕を組む。
「道明の話やからってへいへい、と聞けるもんちゃうな。なんか保証あるんか?」
道明は頭を掻きながら軽薄に笑う。
「ないな。逆に俺が持ってるものを言ってくれ、それを賭ける」
堂々とそう言い切る。それは賭けで空の小切手を渡すようなものだ。負けたら全貯金を奪われかねない。
その言葉を聞いて藤峰は機嫌を取り戻して、僅かに口の端を吊り上げる。
「ええこと聞いたなぁ。できへんかったら、道明。おまえワシの組みに入れ」
「ああ、いいぜ。交渉成立だな」
その竹を割ったような返事に、藤峰はクツクツと笑う。
「ええな、その切符のよさ。わかった。ワシもできるだけのことはしよう」
驚くことにたった数分で交渉は成立した。しかも、藤峰は道明の依頼の内容すら聞いてなかった。それは互いに筋を通すのを信用しているが故。
道明は朱夏達から調べるようにいわれた三種の植物の密売がないかを藤峰組に調査してもらえることになった。彼は藤峰達に礼を言って、次の調査場所へと向かう。
◆◆◆
朱夏達が向かう現場までは海沿いに走り二十分ほど。寒い海風が吹く道路は、あまり交通量が多くない。他の埋め立て地の上を飛び跳ねるように柱が立ち、そこをつなぎ合わせるように緩やかなカーブで道が続く。
わかばマークをつけた赤いフォルクスワーゲン・ビートル・タイプ1。コッペパンのようなふっくらとした可愛らしい車体をぶるぶると震わせて湾岸線をゆっくりと走っている。約1600ccの換装したニューノーマルエンジンで古くても時速130kmで走ることができる実用品だ。だが如何せんやはり古い。最高時速を出せばエンジン音がうるさくて会話にならなかった。いまは法定速度よりも遅いスピードなので後ろからやたらと煽られていた。
運転はわかばマークをあと少しで卒業する海斗。助手席には朱夏が冬なのにもかかわらず窓を半分ほど開け、風に髪が乱れるのに舌打ちしている。後部座席ではレイが狭い座席に苦労しながら身体を小さく折っている。
海斗はクラッチ操作のいらない湾岸線を気楽に運転していた。朱夏の愛車はMT。そのためほぼ強制でMTの免許を取ったが、未だに交差点でまごつくことも多かった。
車内はビートルの奏でるご機嫌な音だけが静かに響いている。
『やっぱ遅いねぇ、ビートル。朱夏、海斗にアウディ買ってあげなよ。いいよ、アウディS8』
するとイヤホンの奥からセラスが少しじれったそうな声が聞こえて来た。先ほどから煽ってきている車は黒のアウディS8。セラスと彩加が乗っている車だった。ちなみに彼女が気軽に言った車の値段は1700万円以上だ。財布の紐が固い海斗と万年無駄遣いする朱夏にそんな選択肢はない。
朱夏は髪を抑えながら無線に向かって不機嫌そうに呟く。
「私の趣味だ。薔薇十字団の祖たるホーエンハイム家の令嬢が電子制御の高級車を転がして喜ぶとはな。まさに二十一世紀だ」
『また始まった。朱夏のパソコン嫌いが。こんなに便利なものを錬金術で再現するのは難しいよー』
「ふん、お前の実家は四大精霊理論の提唱者だろ。精霊を利用すれば似たようなことはできる」
『いやいや、あれはちょっと気まぐれすぎるねぇ。まあ、極めれば量子コンピュータ並になる可能性あるけどさ』
気乗りしない声でセラスが答えた。
二人の会話についていけない海斗とレイは黙って景色を見ている。そして、寒いなとコートを閉めていた。その原因を作った本人はそれにまったく気づかず髪を抑えている。
朱夏は閉鎖的な空間を徹底的に嫌う。寒い冬でも雨の日でも車の中では窓を開けて、空気を常に入れ替える悪癖がある。立場上強く言えない二人はコートを分厚くするか、インナーを重ねることしかできなかった。レイは朱夏の車に乗るとは思ってもいなかったのですました顔で紳士然と姿勢正しく座っているがちょっと震えている。
海斗は朱夏とセラスの会話を聞き流していたが、打ち合わせのときの話がずっと気になっていた。
打ち合わせの時に出た薬物の詳細。それは朱夏達、魔術を熟知している女性がそろいもそろってこの事件を魔術師によるものだと断定した。その意味が知りたくて、朱夏達の会話を遮り話しかける。待っていると話しだすタイミングな事件が終わったこと頃になる。
「所長、質問良いですか?」
朱夏は海斗に話しかけられ、無線から目線を外し海斗を見る。
「なんだ?」
「あの・・・I-ヒヨスアミンって何ですか?」
「I-ヒヨスチアミンだ。I-ヒヨスチアミンは天然に存在するアストロピンで、その効果は・・・まあ自分で調べてくれ。サリン事件の治療薬として使われたことがあるのが有名か。I-ヒヨスチアミンは三種類の薬草から抽出することができる。朝鮮朝顔、ハシリドコロ、ベラドンナ。お前なら朝鮮朝顔ぐらいは聞いたことがあるだろ? 早い話が毒草だな。しかし、私達が気にしているのは毒という部分ではない。ここで重要なのはベラドンナという毒草の
朱夏は語りながらコートのポケットから煙草を取り出す。
現代魔術はすべて
海斗は運転しながらバックミラーに目線を投げた。後ろでは窮屈そうにしているレイが真剣に朱夏の顔を見ている。ビートルを煽っていたアウディも無線から話が聞こえたのか、今は気を使って距離を離していた。
海斗は大きく右に湾曲する湾岸線とその先にある出口を意識しながら朱夏に続きを聞く。
「つまり、そのベラドンナが今回の事件でつかわれている魔術の
朱夏は静かに視線を外に向け、手を窓から出して煙草の煙を流していた。
「魔術の核かはわからん。おそらく儀式の
海斗は朱夏の質問に気まずげに言葉を濁す。
「えっと・・・」
「やはり覚えていないか。まあいい。この国で西洋魔術師が少ないのは、この国が神道に傾倒しているからだ。無神論、仏教、キリスト教、新興宗教、様々な宗教がこの国にあるが、やはり日本人の根幹は自然信仰の神道。例え西洋風の教養があろうともその西洋魔術
朱夏は煙草を車内に引き戻し、舌打ちをして深く一服吸い込み、続きを話す。
「あと他にもだな・・・。くそっ、どうしても死者蘇生につなげて虫酸が走る」
朱夏はまるで仇敵を見ているかのように顔をしかめた。苛立たし気に煙草を車の灰皿に押しつけ、座席にもたれると独り言のように呟きす。
「死者蘇生なんておとぎ話を忘れたとしても時期が悪すぎる。悪魔召喚に打って付けのヴァルプルギスの夜は五月。今は何月だ? 十二月だぞ? 四月後半から事件を連続させ、五月につなげるほうが合理的だ。いま露見するということは犯人の制御ができずに失敗したも同然・・・。いや、愚かなのは私か。この国の過去にも益田四郎という成功例があったな。今断定するのは早計だった。この極東で西洋魔術を実践しようとしている奴だ。もしかしたら―――っ!?」
ビートルが埋め立て地につながる吊り橋の真ん中に差し掛かった瞬間、海斗は重い霧に身を包まれたような感覚に驚いた。それは梅雨の時期独特のモワッとして身体に水滴が付きそうな程の湿気。海斗が驚いたのと同じタイミングで朱夏も目を見開き、言葉を失う。
「所長・・・この感覚って・・・」
海斗はこの感覚を一度体験したことがある。それは彼が朱夏の事務所に入る切っ掛けとなった事件。彼の人生がすべて変わった事件で経験した感覚と同じだった。
朱夏は先ほどまでの苛立ちから一変して、魔術師の顔になっている。海斗にも答えず考え込み、じっと橋の向こう側を見ていた。
―――トゥルルルル。
突然、海斗のポケットからプリペイドの携帯電話が鳴り響く。
海斗は携帯が鳴ったことに驚いた。
「彩加だ。貸せ、海斗」
朱夏はそう言って海斗に手を向ける。その顔は海斗も恐怖するほどの雰囲気が漂っていた。
海斗は素直にポケットから携帯を取り出して朱夏に渡す。
朱夏の事務所では無線機とプリペイド式の携帯電話を各社員に配る。その中でも無線機は彩加とセラスが魔術を施し、特定の人物が持つなら通信範囲外の超広域でも交信可能な代物だ。プリペイド式の携帯は外出先で社員以外の者と連絡を取る手段に過ぎない。
つまり、彩加が携帯を使ったと言うことは無線機が原因不明の故障で使えないと言うことだ。
朱夏は携帯を耳に当てて外を見ながら出た。
「私だ。・・・ああ、やはりか。ここは完全に日本ではなくなったか。彩加、ここではお前の魔術は半減し、お前の身体も性能が落ちる。・・・理解しているならそれでいい。セラスにも注意しろと伝えろ。・・・詳しくは現場で」
朱夏はそう言って携帯を切り、海斗とレイに顔を向けた。
「海斗、レイ。訂正する。この事件の魔術師は超一流だ。覚悟しろ」
そういって一旦、話を切ると彼女は表情を変えている。
「―――さあ、楽しい楽しい
赤い魔術師はそう言って、にやりと赤く嗤った。
「朱夏さん、不味い状況ですか?」
朱夏の様子が分かったことに気を揉んだレイが後部座席から彼女に尋ねた。朱夏は周囲の風景を注意深く観察しながら冷淡な声で答える。
「状況は私の予想を超えていた。ここは日本ではない。ここは中世ヨーロッパ、魔女狩り時代に土地が変えられている。もちろん、それは地域地理学的ではなく魔術的にだがね」
「それは・・・深刻ですね・・・」
レイは強ばった顔でそう言った。
彼には朱夏の言葉を少しも分からない。だが、彼女が自分の予想を超えると発言した内容に事態はかなり悪化している、と理解した。
朱夏はレイのその強ばった顔をさらに強ばらせるために口を開く。
「深刻も深刻だ。この規模の悪魔召喚が成功したら、お前の国の後ろにいる
その言葉に海斗もレイも唖然として声を上げられない。
朱夏は二人を心底震え上がらせても特段気にした素振りはみせずに、そのまま顎に手を当てて自分の考えを整理するために話し出した。
「ふむ・・・。この規模の魔術が私の探知から外れていたとなれば、霊脈は利用していないのか? いや、それでは説明が付かない。例え、人の意識で儀式魔術を行使するとしても意識が循環する
突然、朱夏が何かに気づいた顔をすると大きく笑い出す。
「クハハハハ! 面白い! 実に面白いぞ! そうか・・・お前はこれをただの悪魔召喚に終わらせないつもりだな。これは死者蘇生ではない。これはその逆だ。レイ」
「は、はい?」
ブツブツと独り言を言っていた朱夏に急に声をかけられて、レイは放心状態から冷や水を浴びせられたように気の抜けた返事を返していた。
朱夏は後部座席に振り返ってニヤニヤ笑っている。
「現場調査後に行く場所が決まったぞ」
「どこですか?」
「教会だ。ここの教会にいって神父に会う。時間を作るように手を回せ。絶対に逃すな。逃すと今の世界が崩壊する」
朱夏の信じられない言葉にレイはゴクリと唾を飲み込んだ。
「わ、わかりました。すぐに手配します」
レイはそう言って慌てて携帯電話を取りだしどこかへと連絡をとる。
一方、朱夏とレイのやり取りを聞いていた海斗は、事態が自分の理解を容易く超えて、何がなんだか分からなくてため息をついた。
ビートルは冷たい海風に揺れながら、呑気な音でぶるぶると現場にゆっくりと急行する。
一同は現場に到着した。
立ち並ぶマンションの間から海風が吹き込み、葉を落としきった街路樹の枝が揺れている。人通りはなく、ときおり見かけるのは警官やマスコミの人間しかいない。まるで乗客だけが忽然と消えたメアリー・セレスト号事件のような雰囲気に到着したばかりの海斗の背中に鳥肌が立つ。そんなただならぬ雰囲気の中で、第一の犯人の犯行現場である十階建てマンションの玄関の駐車スペースに海斗が赤いビートルを停めるとすかさず黒いアウディも同じように停まった。
「朱夏、ここは聖域化して神殿が形成されているよ。しかもここの・・・霊脈が原因かはわからないけどこの土地は中世ヨーロッパに書き換えられている。土地自体にもかなりの
セラスは犯行現場のマンションに車を止めるとすぐさま彩加と一緒に降りて朱夏に声をかけた。いつもの無邪気な笑顔は消え去って、声は落ち着いているが、その真剣さはまさしく研究に向かう錬金術師の顔。
海斗は電話をしきりにするレイの横で、久しぶりに見るセラスの顔を眺め朱夏の方を見た。彩加も海斗の隣に立って彼女を見ている。朱夏はビートルの車体に寄りかかりながら観客の前で頷く。
「ああ、ここまで完璧に準備されているとは思ってもみなかった。犯人の魔術師はよほど入念に準備したんだろう。その上、これはここが着工される前、都市計画の段階から仕込まれている。今から四十年よりも前ぐらいだ。セラス、ここの土地を書き換える
朱夏の言葉にセラスは少し驚いて声を上げる。
「何故分かったの? 確かに、ここまでの聖域を確保するには十分の
セラスは否定しつつも理由を考えている。
ヘレフォード図。中世ヨーロッパで製作された
ただ、それを使うと言うことはこの場所をすべてキリスト化してしまう。異端である悪魔召喚には致命的なデメリットにしかならない。
朱夏はセラスに首を振って否定する。
「いや、その悪魔召喚自体が奴の狙いではない。実に手が込んでいて効果的だが・・・セラス、島原の乱を思い出せ」
「あの江戸時代に起こった一揆?」
「そうだ。島原の乱、益田四郎が擬似的なキリスト、天草四郎となって生誕したあの乱だ。あの当時、キリスト弾圧と飢餓に苦しむとういう環境が宣教師たちの魔術を成功させる要因となっている。ここもそれを違う形で模倣しているんだ。魔女狩りを再現し、悪魔に恐怖する住人達。彼らは何を望む? 誰もが同じ事を思うはずだ、救世主という存在をな」
「あっ」
セラスは朱夏の話にハッと気づき、小さく声を上げた。朱夏はそれを見ながらなおも語る。
「この事件は魔女の悪魔召喚を隠れ蓑にしたキリスト生誕。メディアを使って日本人の意識を悪魔召喚へ導き、ヘレフォード図を使って中世ヨーロッパの土地に書き換えて場を整え、住人達が報道被害や悪魔の存在という恐怖から逃れるためにイエス・キリストという救世主を望む。そして、暦は十二月十五日。あと十日で魔術は完成する」
その話はセラスにとっても異様にしか映らなかった。
イエス・キリストの生誕。確かにそれは神生誕という魔法だ。しかし、それは教会として余りにも理屈に合わない。
セラスはでも、と声をかける。
「それはおかしいよ。教会が望むのはキリストの生誕じゃない。私達が望むのは主の
そう、教会が何よりも望むのは主の復活とその後に来る神の国の建国という魔法。黙示録が成し遂げられて、信仰者達を神の国へと誘うことだ。
それに、とセラスは思う。例え生誕を目的とした魔術でもそれは成功しない。天草四郎が本当のキリストにならなかったのと等しく。さらに江戸時代とはちがって科学が何よりも信仰されている現代で、人の意識を操作して霊脈に変えた魔術は完璧なものにはならない。
むしろ―――それこそ悪魔になってしまう。
キリストという神のイメージに科学を尊ぶ、敢えて言うならば合理主義や資本主義、個人主義といった敬虔なキリスト教徒以外の意識が混交するとただ超常の力だけを持つ悪魔が召喚される可能性だってある。つまるところ、この魔術が成功しても神を生み出すという魔法にはならない。ただ異能をもった人の子が生まれるだけだ。人の原罪を、人の器では背負いきれない何かを秘めた子供。
教会が制御できない並外れた化物の子供が生まれても教会側にとってそれはデメリットにしかならない。
このときセラスと朱夏は同じ思いだった。
この魔術師の真意が分からない、この一点で二人の思考が重なる。
ここまで入念な計画と莫大な資金を準備して、計り知れないほどの貴重な
一体、この魔術師の目的はなんだ、と二人は逡巡する。
逡巡し、朱夏はため息を吐く。
「それは私にもまだわからない。だが、最終手段は用意しなければならない。こっちもあれを使い、魔術が完成する前にここを沈める」
その朱夏の発言にセラスはああ、と小さく呟いた。
「そうか・・・あれは私の私物なんだけど・・・仕方ないか」
「悪いな。魔術がどう発現するかはわからないが、完成を許してしまえば、この国全体の意識が変容する。それは現在の国家間の関係を崩してしまう恐れがある。日本のキリスト化なんて何が起きるかわかったものではない」
「そうだね、わかった。どのみち私がもってきた道具は威力が半減するんだ。現場調査が終わったら一旦戻って準備を整えてくるよ」
そのセラスの言葉に朱夏は頷く。
「ああ、そうしてくれ。彩加」
彩加は呼びかけられると真剣な顔で頷く。
「私は・・・道明さんと行動を一緒にします」
「正解だ。ここではお前は使えない。道明を手助けしてやってくれ。おそらくだが、二十二日にここの橋が落ちる」
「はい、分かりました」
そう朱夏達が話し合っていると電話を終えたレイが近付く。
「朱夏さん、今、現場担当の刑事が来ます」
「わかった」
朱夏は短く返事をすると、車から身体を離し、マンションの入り口から逆の道路に目を向けると、その目線の先には、二台の黒い乗用車がこちらに向かってきている。
朱夏は担当刑事を待つ間もひたすら思考を巡らせて、この事件について考えている。
真犯人の目的、この魔術師は魔女狩りの悪魔召喚に見せかけてキリストの生誕を目論むような超一流。
魔術には二通りある。一つは自らの意識、精神の内奥を変容させ人の存在から解脱すること。もう一つは、人々の意識を変容し、自らを神として信仰させて神の位へと上昇させる魔術。
キリストの生誕は、明らかに後者の方法をつかい、自分ではない者を神の位へと上げる手段だ。だがそれは矛盾している。魔術師は自らを高めることを目的として魔術を研鑽する。自らでは成し遂げられない場合はその遺産を子に継承させ、血統全体で目的を達成するために系統樹の歴史を刻む。
この事件の真犯人は超一流ではあるが、魔術師としては欠陥品だ。自らが神へ到達するために動いていない時点で魔術師からは外れる。
ならば、と朱夏は思考を消去法に切り替える。
これは魔術師ではなくキリスト教の聖職者として考えれば・・・このような矛盾したやり方はしない。儀式の暦を復活祭にあわせて、生誕ではなく復活をしようとするだろう。それを削除。
次に考えられるのは子供が自分の血縁だということだ。子供に異能を与えてより上位の存在へと血統の位をあげる。だがこれもキリスト教の洗礼を受けすぎた子供となり、自らの魔術系統樹からは外れることになる。
魔術師は存在自体が人の理から外れる。名のある名家であればあるほど人の系統樹から外れて別の存在へと近付いていく。簡略的にいえば、魔術師は別途の進化あるいは退化をした霊長類なのだ。別種の存在になるため、一歩一歩地道な世代継承を経て自らを変容させているのに、制御不能なやり方で変容を促すことはあり得ない。
故に削除と、口ごもり朱夏は苛立つ。行き止まりになった思考を捨ててポケットの煙草を取り出して火をつけた。
ゆっくりと口に味わうように煙を溜めて、零れるように煙を吐き出す。苦い煙が朱夏の思考の良薬となる。
だが間が悪いことに、朱夏が煙を吐き出した瞬間に刑事が到着したのだ。到着した早々、朱夏から煙を浴びせられることになった刑事は額に青筋を浮かび上がらせた。
「赤神・・・ご機嫌な挨拶じゃねぇか」
部下を引き連れたヤクザのような刑事は声を低くして脅すようにそう言った。声をかけられて初めて刑事に気がついた朱夏はもう一度煙を刑事に吹き付ける。
「ふむ。君か、轟刑事」
「警部だ。てめぇ、echoで喧嘩売ってるのかよ?」
『echo』。朱夏が愛用する煙草で、旧三級とも呼ばれる日本で最も安価な煙草である。しかし高級ブランドのスーツを身につける朱夏はこの煙草を何故か愛用している。そしておっさん臭い煙草なのにどうしても彼女に相応しい高級シガレットにみえていた。オレンジ色の小ぶりなパッケージに茶色のストライプの銘柄表記。赤を好む朱夏も気に入っているグラデーション。
煙草の話題を出され、朱夏は珍しく口の端を緩めて微笑む。
「なるほど、echoで喧嘩とは実に浪漫溢れるな。場所が大衆酒場とくればなお私好みだ」
威嚇しているのに笑われて、轟警部はさらに青筋を立てていた。
しかし、彼も今回は出てきそうになる罵詈雑言を飲み込んだ。
彼はすでに朱夏がどのような立場でここにいるのかを知っている。決して手出しできない本庁からの通達だ。レイのアドバイザーに十分な計らいをしろという強制に心底うんざりしていた。
彼は舌打ちをして皮肉を返す。
「一体幾つ肩書きをもって現場を荒らせば気が済むんだよ。ムカつく奴だ。しかも第二次世界大戦のソ連軍のコートのレプリカだぁ? 気取ってんじゃねぇよ」
罵詈雑言を飲み込んだのにもかかわらずこの悪態は、彼の精一杯の我慢だった。
朱夏はその言葉に嬉しそうに呟く。
「生きるのに必要な分だけさ。ククク・・・それにしても一目で分かるとは君を過小評価していたよ轟警部」
皮肉も軽く流されるどころか、むしろ楽しまれた轟警部はまた舌打ちをして大声で言い捨てる。
「てめぇの顔なんて見たかねぇ! ささっと終わらして戻るぞ。おぃ! てめぇら何ぼさっとしてんだ!」
轟警部は若い刑事に吠え立てた。朱夏やセラスといった美人に見とれる刑事達は驚いて姿勢を正す。中には彩加に見とれていた者も気まずげな顔をする。
「ほら! 行くぞ!」
「「了解であります!」」
刑事達は敬礼して轟警部に付いて行く。朱夏達もそれに従った。
列を作ってマンションに入る一同。その列の後ろで海斗はレイに話しかける。
「レイさん、安藤警視は来ないんですか?」
海斗は轟警部の上司である安藤警視の顔を思い出しながらそう聞いていた。
安藤警視は轟警部よりも一回りも歳が下だがキャリア組で、何よりも朱夏達に理解がある。科学捜査に拘らずあらゆる手段を使って事件を解決しようとする合理的な安藤警視の下であれば、こういった衝突もなく平和的に過ごせると海斗が期待していたからだ。
レイは海斗のその質問に苦笑する。
「すまない。安藤警視は捜査本部で指揮に当たっている。見ただろ? 報道陣の数。いつ通り魔が現れて彼らを傷つけるかわからないから本部から出てこられないんだ」
その答えに海斗はため息をついた。
「それは・・・幸先が悪いですね・・・。レイさんだって知ってると思いますけど、所長、何しでかすかわかりませんよ?」
レイもそれを熟知しているので、うっ、と息を詰まらせて顔を取り繕いポーカーフェイスで笑う。
「海斗。私は君の得意先だからね」
「はぁ・・・報酬分は働きますけど今回の事件はどうも所長が張り切ってますから・・・努力します」
「努力は尊い。とはいえ、結果は伴ってもらわないと」
「レイさんって所長が絡むと途端にダメになりますよね」
海斗の物怖じしない率直な意見にレイはウィンクして微笑む。
「女神の信者だからね。君もその内わかるさ」
「いえ、絶対にわかりません」
ハッキリと海斗が断言し、朱夏一同はエレベーターではなく階段を使って犯行現場に向かった。
第一の犯人の犯行現場は何処にでもあるようなファミリー向けの2LDKマンション。八階部分の通路で海風に当たりながら朱夏達は轟警部達に連れられていく。彼らが入るマンションの一室の前には警察官が見張りに立っていた。
轟警部が手を上げると彼はさっと横に退いて敬礼する。
中にはいってまず最初に海斗が感じたことは吐き気だった。
鳥肌なんて生温い。あまりにも強烈すぎて目眩で倒れそうになる。
溢れている人の顔、顔、顔、顔。その全てがこちらをみて微笑んでいた。
今朝食べたものが喉の奥にひっかかり、何とか我慢できるレベル。ふらつきながら海斗が玄関の靴箱に寄りかかる。
つん、とした臭い。形容しがたいが何かを拭き取ったような薬品の残り香。
ああ、これは血を拭き取った薬品だと海斗は茫然と感じた。余りにも大量に使われすぎて、事件が終わった後でも残り続けている。
「大丈夫かい?」
隣のレイが気を使って海斗の顔を覗き込む。
「すみません。調書で見ていたのですが」
「しょうがないよ。ここは異様だ。私だって魔法の力を信じてしまいそうになる」
レイは海斗の肩を叩き励ました。
海斗とレイが話している間に、朱夏はカツカツと土足でフローリングを横切り、ベランダの窓をがらりと開ける。ふわっとカーテンが舞い込み新鮮な潮風が鬱積した部屋を駆け抜けた。ザワザワとそれになびいて顔がはためく。
海斗はこの時ばかりは朱夏の悪癖に助かる思いをした。新鮮な空気を吸って生き返ったかのように胸を反らせて立ち上がった。
カチッ、と朱夏が煙草に火をつける。
その姿に轟警部はまた青筋を立てる。
「赤神! 現場で煙草吸ってんじゃねぇ!」
朱夏はその声を無視して、煙草をくわえたままカツカツとリビングの中心に立つ。ぐるりと見渡してから、この時に轟警部の顔を見た。鼻を膨らませる彼を無視して尋ね出す。
「さて、轟警部。ここで第一犯人が見つかったと聞いてる。見つかった当時の様子を情感たっぷりにかつ煙草が消えない内に教えてくれ」
朱夏はまるで挑発するようにそう言うと目を閉じた。
その様子にとうとう轟警部がキレる。
「も、もう我慢ならねぇ!」
コートを脱ごうとするのを他の刑事に取り押さえられ、彼らは口々に轟警部を宥めだした。
「ふむ、評価を上げたところだったんだが・・・まあいい、レイ頼む。一分だ」
「わかりました。事件は十一月三日、被害者中山一家へ宅配物を届けようとした宅配員が、中山の部屋と加害者須藤明子三十四歳の部屋を繋ぐ廊下で、引き摺ったような血痕を発見、即座に通報、巡査二名が中に入ったところ、加害者が、部屋でソファに座っているのを発見」
朱夏は目を閉じながら想像している。
彼女の前にあるのはソファ。加害者が当時座っていた場所だ。そしてテーブルを挟み、テレビが台の上に乗っている。
「加害者須藤明子は、テーブルの上に三人分の食事の用意をして、電気を入れていないテレビに向い―――」
調書の証拠写真には僅かな隙間から白い大きな皿が使われていたように思えた。銀のフォークとナイフを左右において、二つのワイングラスと、小さなジュースを入れるコップ。それはすべてある色で塗りつぶされている。
「―――失ったご主人と一人息子に話しかけていたそうです」
無数の写真。それは全て家族の写真だった。公園や幼稚園の教室、どこかの旅行先、その家族の過去がすべてここに存在しているようだった。
その顔はすべてファインダーの人物に笑いかけている。つまりこの写真を見ている全員に向けて。
写真には女性の顔は少ない。趣味が写真だと調書にはあった。
だからこれはすべて、犯人が撮ったもの。彼女の幸せだった全て。
ぐっと襲い来る彼女の感情に海斗は口元を抑える。
朱夏はもうすでに灰が落ちきった煙草を握っている。
レイは続ける。
「そして・・・加害者の食事は・・・被害者の内臓・・・。彼女が抜き取った被害者の内臓を生で食べていたそうです・・・」
俺の目に過去の情景が明滅する。自分のものではない誰かの強烈な感情。
失ったものの大きさに押し潰され、孤独感にぐしゃりと潰される。異様に時計がチクチクと音を立てていた。
過ぎ去る日々、めくり繰る空虚な時間、それが何故だか温かな日差しに溢れる。
情景はまっさらな部屋、そして増えていく写真の数、電気の付いていないテレビに向かって語る女性の姿。写真の数と比例して彼女の身だしなみが乱れる。何日も何日も・・・。
そして、声が聞こえた。
真っ暗な画面の向こう、自分の影が、誰かよく知っている二人の影に見える。
『お母さん、生き返らせて』
『明子、会いたいよ』
その声を聞いた瞬間、俺―――わたしは――。
バチンっ!
「おい! しっかりしろ! 馬鹿ものが! あれほど瞑想の練習をしろと言っていたのがまだ理解できないのか!?」
頬を叩かれて茫然としていた海斗は驚いて朱夏の顔を見た。
目の前には怒りを露わにしている朱夏の顔がある。
「思念喚起に当てられたんだ、お前は。ここは非常に強力な思念に縛られている。簡単にいうと地縛霊だ。まだ死んでないが、もう間もなくそうなる。ちっ、海斗、お前は外に出ろ。頭を冷やしてこい」
朱夏の不機嫌な声でも海斗は少しぼうっとした頭で聞いていた。
「彩加、海斗を頼む」
「分かりました」
彩加は呼びかけられてそう頷くと海斗の身体に優しく触れて、なにやら口で少し呟いた。
海斗はふっと身体と頭が軽くなり、彼女に連れられて外に出ていく。
その様子を見送った朱夏はレイと刑事達に向かった。
「では続けるぞ」
そうして犯行現場の調査が進んでいく。
神栖海斗は良く朱夏に叱責される。
心霊現象が多い仕事柄、彼は強い想念を持った霊を視てごくたまに強烈なフィードバックを受け気を失っていた。それを防ぐためには瞑想をしろと怒られる。朱夏はアストラル体を鍛えろだの、霊とはエーテル体とアストラル体がいるだのと色々聞いていたが、彼は基本的に覚えていない。彼自身はそういったことを覚えるのが非常に苦手で、何故自分を現場に連れて行くのか疑問視すらしていた。それでも朱夏は海斗を現場に連れて行くのを止めなかった。外で休憩を取らせて、現場を観察させる。
第一犯人の部屋と犯行現場を調査した後は、一度コンビニによって朱夏の煙草とこの地域の地図を買い込み、次の現場に行く。
次の第二の犯人の部屋も同じように調査する。
朱夏が中に入ると玄関が閉まらないうちに窓を開け、煙草を吸いながら事件当時の様子を聞く。海斗は入り口付近に立って、それを見ていた。オーケストラの指揮者、その演奏が始まる前のような雰囲気で彼女は目を閉じ煙草を燻らせ耳を傾ける。
白い煙と閉じた目が線香と黙祷を捧げる指揮者のような表情。
彼女の耳はその場に残ったほんの僅かなアストラル体の言葉に傾けられていた。
アストラル体。それは肉体とエーテル体の上位にあたるエネルギーのことだ。肉体が物理的な界層で、エーテル体が想念やイメージに近い。手を動かすというイメージが肉体が動かすときに生じる意識のようななもの。肉体とエーテル体は密接な関係をもち、エーテル界上のエーテル体も肉体とほぼ同一の形を持っている。そして、アストラル体は、自我。個人を特定する自我を持った精神エネルギー。
つまり彼女はいま、加害者本人と対話していることになる。しかし、一般の人間がアストラル体を残すことはほぼ無い。生きているのにアストラル体だけが切り離されれば、幽体離脱になってしまう。
それにも関わらず、犯人の部屋で線香の代用として煙草を燻らせ場を清め、他人から事件当時の話を聞きアストラル体を呼びだしている。
それはまるで、もうこの世に犯人が居ないと言っているようだった。
「ちっ、こいつも大したことは言わんな。意識が混濁させられている間に何かされたな」
朱夏は上がらない成果に舌打ちした。
「まあいい、次だ。犯行現場に行く」
そう言って朱夏はセラス達や刑事を引き連れて隣の部屋へと向かった。
その後ろを追いかけて、朱夏の仕事を見てきた海斗は聞く。
「所長、なんで降霊術を?」
「お前もようやく覚えたか。そりゃ、死者と話すんだ降霊術だろ」
朱夏は隣で歩く海斗とともに犯行現場に入って、海斗が代わりに窓を開けた。
開けながら考える。
死者。今亡くなっている人は被害者と犯人の婚約者だ。犯人の部屋で降霊したということは、必然的に犯人の婚約者となる。
第二の犯人富山健治二十八歳。彼は独身だが婚約者がいて、その婚約者は三ヶ月前にこれも事故で亡くなっている。
彼の部屋は先ほどの須藤明子よりも写真の量こそ少ない。しかし現場の証拠写真には部屋の中央にクマの大きなぬいぐるみが置いてあった。それも口の周りに血が付着しており、海斗はそれを思い出して顔をしかめる。あれもきっと婚約者の代わりとして犯人と一緒に肉を食べていたのだろう、と思うと吐き気をもよおす。
海斗はその振り向きざまに自分の疑問を口にする。
「所長、でも婚約者に聞いて何が得られるんでしょうか?」
朱夏は少し首を傾げていたが、なるほどと納得する。
「海斗、勘違いしている。婚約者と交信しているんじゃない。私は犯人と交信しているんだ。今収監されている犯人達の魂はもうこの世にはいないよ。彼らは魔術師に魂の抜け殻にされ、目的を持った人形として生きているだけにすぎない」
「え?」
海斗は小さく声を漏らし、レイや刑事達も訝しがった。
―――トゥルルルル。
そんな朱夏とセラス、彩加以外の者達が気味悪がる中、電話の着信音が鳴り響いた。
海斗はびくりと身体を震わせてその着信音の方へと目を向けた。
「ああ、俺だ。 なにっ!? 須藤明子が自殺しただと!?」
怒鳴るような声で轟警部が叫び、場の空気が凍り付く。
立ちすくむ刑事達を尻目に、朱夏はさも当たり前のように聞き流しながら現場調査を始めて行く。
「おい、赤神。 てめぇ何をしやがった? いや、何を知ってやがる!?」
轟警部が朱夏の腕を掴みかねない勢いで近付くと声を荒らげて聞いた。朱夏はそれを面倒くさそうに振り返る。
「君に言ったところで無駄だが・・・悪魔と契約した者の末路だよ」
「またオカルト話かよっ」
吐き捨てるように轟警部は苦々しい顔でそう言った。
それが癪に障ったのか朱夏は轟警部を鼻先であしらう。
「ふん、オカルトではない。これはれっきとした学問。君たちのような刑事には縁もゆかりもない学問だ。まあいい、現場調査を進めるぞ」
朱夏はそう言って、セラスを呼び出し、二人で犯行現場を検分していく。
調査を進める朱夏達、それを怪しむ刑事達。
海斗はレイの横で思う。
犯人達は自らの魂を捧げてまで儀式を執り行い、満足したものは得られたのだろうか、と。犯人や被害者の誰もが平和な日常を暮らしていて突如、狂気に犯された事件に巻き込まれた。彼らの魂は、一体どこにいくんだろうか。
そう彼はやるせない思いでその犯行現場を見つめていた。
朱夏はパタパタとはためく地図を車内で読んでいた。第二犯人の現場調査が終わり、赤いビートルは最後の犯人の部屋へと向かっている。
住人は見当たらないが、正午前の日差しは温かく、平和そのものの町並み。
海斗は、地域の情報紙に記載されている地図を助手席で読んでいる朱夏を見て、観光旅行のようだと目眩がしていた。
情報誌には娯楽施設の案内をポップなフォントと軽妙な文章で紹介され、写真に写っている人達はみんな笑顔。それが空虚で、不気味に見えた。
朱夏は地図を読みながら突然レイに話しかける。
「レイ、先に言っておくが、二十二日にここの大橋が落ちる。可能性は低いが爆弾を探しといてくれ」
そんな飛んでもない話を気になったからついでに、という風な口調で言われたレイは次の言葉を失った。朱夏はすでにそれを口にしていたが、レイは電話をしていて聞かされていなかったのだ。
なんとか頭を切り換えたレイが聞き返す。
「ちょっと待ってください・・・捜査するにも上にあげる理由がいりますよ」
レイは当たり前なことを焦りながら言った。
レイは朱夏達の依頼人で、警察と彼女達を結ぶ交渉人という立場だ。朱夏達のあり得ない捜査をバックアップするために非常に苦労をしている。犯行予告もない爆弾の存在を、ただ言われただけ、という理由で探すのはありえない。そんな簡単に何事も回らなかった。
朱夏は仕事をすると、思考を優先して、聞かれなければその理由を話さない。結果のみをポンと言われた者に気遣うような優しい性格ではなかった。
少し面倒くさそうに地図を見ながら彼女は理由を話し出す。
「魔女のサバトが執り行われる最大の時期は五月。だが、彼女達は様々な土着宗教の信仰者だと言ったな? つまり、様々な祭事の暦が彼女達のサバトになるんだ。そして、一番近いサバトの時期は十二月二十二日、冬至。それに冬至はある意味でこの儀式にとって最高の暦でもある。太陽の日照時間が最も短くなり、次の日から長くなり出すこの暦は、生と死の狭間、境界としての
戦闘と聞いて、焦っていたレイは息を飲んだ。
現代の戦闘、つまり銃が作り出す
海斗は自分を落ち着かせて朱夏の話を頭の中で考えていた。
冬至が魔術的な意味を持つのはわかるが、朱夏は救世主との戦闘となると断言した。
しかし、二十二日にはまだ救世主は誕生しない。
生まれていない者と戦うという朱夏の言葉が間違っているのかと思ったが、その先にまだ自分の知らないことがあるのでは、と勘ぐる。
海斗は運転をしながら振り向かずに朱夏に聞く。
「所長、おかしいですよ。その日に救世主はまだ生まれていません」
この時朱夏は初めて地図から目線を逸らして、海斗を見た。
その表情は教師のように小さく笑っている。
「ほぅ。いい質問だ、海斗。この話はだな、救世主が生まれる陣痛みたいなものだ。私は知らんが、この痛みは魔術汚染を加速させる。先ほど冬至の話はしたな。太陽が短くなり、次の日から太陽は燦然と長く光り出す。この魔術の
海斗はそう言い切った朱夏を見ながら、その奥に潜む魔術師に恐怖する。
それはただの駒だ。住人達は魔術師に利用され、人形のように役割をこなすだけの存在に成り下がっている。
朱夏がこの事件を引き起こした魔術師を超一流と笑った。つまり彼女はそうすることが優れた魔術師だと認めているようなものだ。
人を人形のように弄ぶのが、優れた魔術師たる証明と言われているような気分がして、彼は沈痛な面持ちになる。
その彼の顔を見ながら朱夏は笑みを消す。
「なるほど。それは海斗、お前が私達の側にいる理由だ。忘れるな。確かに、私を含めて魔術師は壊れている。彼らの願いは
海斗の心を見透かすように朱夏は言った。
しかし、海斗はその話を必死に否定する。
海斗にとって朱夏は恩人だ。自分の命よりも大切なものを守ってくれた恩人。
その人が残虐非道な事件を起こすこの魔術師と同じとは、断じて思いたくない。
彼が唇を噛みしめながら何かを言わまいとする姿を、黙って朱夏は見ている。
彼女はしばらく海斗を見つめて、何も言わずにまた視線を地図に戻す。
「あ、あのぅ・・・朱夏さん、戦闘ということは私は何を準備したらいいのでしょうか?」
気まずげな雰囲気を黙って聞いていたレイはなんとか発起して仕事の話を進めるために声をかけた。
「・・・、いいか―――」
朱夏は一瞬海斗のことを気にして目線を投げたが、レイへ指示を流し始めた。
ビートルは冬の晴れた道路を走り、次の目的地に到着して一同は犯行現場に急いだ。
第三の犯人、萱間秀夫二十三歳の部屋に入った瞬間、海斗は何かが違うと思った。
よくある独身男性のワンルーム。あまりにも狭くて、朱夏とセラス、轟警部だけが中に入り、海斗は外から覗くしかない。
犯人は犯行中に逃走したのでこの部屋にはあの消毒液の臭いがしなかった。
いや、それではないと、海斗は確信する。
朱夏も眉をひそめて窓を開け、先ほどしていたような降霊術をしようとはしない。ただじっと犯人の部屋を見ているだけだった。
この部屋は、前の二人のように吐き気がしない。視えはしないが目眩がするほどの想念の塊がないと海斗は感じていた。
「・・・ここの奴はまだ死んでいないな。悪魔とはまだ契約の前の段階だ」
そういって朱夏は当たりをキョロキョロと見回した。その後ろで様子を見ていたセラスが朱夏の肩を叩く。
「朱夏、ここだよ」
指さした場所は窓のすぐ側にある部屋の角だった。そこだけがゴミに埋もれていない。
「流石だな、セラス。よくこのレベルで視覚化できる」
「そんなのいらないから。ここに住んでた人は悪魔を召喚してないね・・・いやどちらかというと、自分で半端な奴を生み出した感じだよ」
「ふむ・・・」
そう言って朱夏とセラスは考え込みだした。
視覚化。それは呼吸法と合わせて魔術の基本である。
朱夏とセラスが見ているのは犯人が呼び出した悪魔の残滓であり、アストラル界に残る痕跡。
犯人達はそれぞれ悪魔召喚の媒体を使用していた。第一犯人はテレビの画面に映る自分の影、第二犯人はぬいぐるみ。彼らはこれを見つめ続けて、アストラル体にまでそれを克明に焼き付けている。焼き付けられたその媒体物は凄惨な儀式により自らのエネルギーの抑制を剥がし、悪魔を召喚する。それは自らの精神を魔力に変えて命を注ぎ込む儀式。本来なら普通の人間では魔力を精製できないが、彼らは薬物と術式を埋め込む洗脳によって魔力の貯蔵庫、悪魔召喚の生け贄として改造されている。
考える二人の後ろにいた轟警部は不審そうな目で彼女達を見ながら、早く戻りたいと口の中で小さく舌打ちする。その音が聞こえているのか、聞こえていないのか、朱夏は轟警部に振り返った。
「轟警部、萱間秀夫の部屋だけコカインを使用した注射器が見つかったんだな?」
不意に聞かれて、彼は自分の舌打ちが聞こえたのか少し驚くが、へん、と鼻を鳴らして答える。
「ああ、このホシは常習犯だったからな。ばっちり押収したぞ」
朱夏はそうか、と言いながら頷く。
「つまり、萱間秀夫は真犯人の意図しない場所でコカインを使用したと言うことだな。制御下を離れて、彼は勝手に悪魔を呼び出したに過ぎない。ふむ、ただの数合わせかもしれないな」
朱夏は顎に手を当て、考え込もうとするが、轟警部が叫び声を上げてそれが遮られる。
「おい! 赤神、真犯人たぁどういうことだっ!?」
あまりの大声に朱夏は顔をしかめて轟警部を見る。
「五月蠅い。少しはそのエネルギーを頭に回せないのか? 真犯人とは君たちに分かりやすいようにと選んだまで。警察もこの一連の事件に黒幕がいることぐらい考えているだろうに」
「だから聞いてんだろが! こっちもその線で辿ってんだよ!」
なおも食いつく轟警部に朱夏は嫌そうな顔を隠さない。あまりに近付くので朱夏もとうとう折れる。
「ちっ・・・いいだろう。この事件は暗示だ。集団パニックを起こそうとしている奴がいる。それを調べに来ているんだ、私達は」
朱夏が轟警部に分かりやすいように説明すると、彼は初めて真剣な顔をする。
「おい、赤神。具体的に言え、何か掴んでんだろ?俺達もこの事件をただの通り魔とは考えてねぇよ。宗教臭ぇんだ」
その質問に朱夏はうんざりした顔をして、彼をじらすようにポケットから煙草をゆっくりと取り出し火をつけた。
轟警部はその様子を見ていても青筋を立てず、真剣に待っている。
朱夏は二服すると煙草を口から外し答える。
「この地域に宗教なんぞ一つしかあるまい。正教会だよ」
その言葉を聞いて、轟警部ははあ、とため息をついて朱夏から離れた。
「てめぇも同じか・・・」
「ああ、そうだ。で、捜索はしたのか?」
その質問に轟警部は少しうなだれながら首を振る。
「いや、まだだ。ガサ状がでねぇんだよ。それどころか話すらできねぇ」
彼は何度も本部に掛け合い、調査の必要性を訴えていた。本部もそれを認めて令状を取ろうとするも、その更に上の方から圧力がかかり、話すらできていない状況だった。元々、教会は警察があまり手を出したくない場所だ。それに加えて、その教会は異常なほど守られていた。
その答えに朱夏はふむ、と鼻を鳴らして、レイに目線を投げる。
「レイ、時間は取れたか?」
その質問を受けて、レイは待ってましたという心を極力見せずに
「ええ、もちろん」
その言葉で初めてレイの存在を認めたように轟警部は彼を見て悔しそうに唸り、赤神に振り返った。
「ぐっ・・・。おい、赤神。俺達も連れて行け」
「断る」
にべにもなく朱夏は即答するが。
「・・・と言いたいところだが、今後警察の協力は必須だ。話す時間を半分分けてやろう」
その言葉に轟は満面の笑みを浮かべる。
「よし! なら決まりだ。早いところ次の犯行現場を見ろ!」
その掌を返したように笑う轟警部を見て、朱夏は少し笑った。
「意外と分かりやすい男だな君は。落ち着け、まだ途中だ」
「おぅ! 分かったゆっくり見てけ!」
この時、海斗はその光景を見ながら胸をなで下ろす。
何とか朱夏が刑事達と協力体制を引いてくれると思ったからだ。とは言え、それで終わらないのが朱夏の朱夏たる所以。
海斗は胸をなで下ろしつつ、事態がどうなっていくのだろうと少し不安になった。
こうして、朱夏達は犯行現場の調査を終えて、教会へと向かった。
そこはこの人工島の中心だった。この島最大の公共交通機関であるモノレールのすぐ横にあり、その場所を中心にして全ての建物が配置されている。
正方教会の聖堂。ヨーロッパの村にあるような小さな聖堂ではない。十分に祭事が執り行えるだけの大きさがあり、その収容人数は数百人にも上る。
海斗が駅近くのパーキングに車を停めてその場所で一番最初に受けたのは、重苦しい重圧だった。いや、異様と捉えるのが正解だ。
感覚は、犯人の部屋に入ったときに感じた背筋を這うような悪寒。
その聖堂は豪華な二本の塔を持ち、碧い空へつながっているようだった。
大聖堂は三つの通路とドームがあるバシリカ様式で、その様式は古代ローマまで遡る古風奥ゆかしいものだ。
しかし、その荘厳な雰囲気の下で、暗い顔をしながら多くの人々が入り口にたむろしていた。
その暗い顔の瞳には強い希望のような相反した感情が渦巻き、一種の熱狂と暗澹がそこを支配して、まるで視線が聖堂を汚しているかのようだった。
その雰囲気で海斗はうっ、と口に手を当てる。
「ここは仕方がないな。魔力濃度が高すぎる。私達でも感覚が狂いやすい。ちょっと待て、海斗」
朱夏が後ろから海斗を呼び止めると、コートのポケットからナイフを取り出して、自分の指先を少し突く。ぷつり、と小さな血の滴が膨れあがった。
朱夏はそれを海斗の額にこすりつけて、何かを呟く。すると、海斗は気が楽になり、ため息をついた。
「所長、ありがとうございます。何したんですか?」
海斗は手で額をさすりながら朱夏に聞いていた。
「これは呪いだよ」
そう言って海斗が驚くのを見て朱夏は楽しむ。
「ちょっと・・・何してるんですか・・・俺を呪ったんですか?」
「ああ、そうさ。目には目を、だよ、海斗。一時的にお前の魔力を上げて、ここの魔術に当てられなくしている。効果は短いが終わるまで保つだろう・・・ああ、それ以上は擦るな、呪いが消える」
そう言って朱夏は海斗の腕を取って止める。
「ごめんごめん、朱夏。パーキングが一杯だった」
そこに彩加を引き連れたセラスが到着してそう声をかけた。
「刑事は・・・まだか」
「みたいだね」
朱夏はそう聞きながら教会の反対側を見渡し、セラスに顔を向けて聞く。
「ところで、お前はここが正教会だということをどう考える?」
珍しく朱夏は他人から意見を聞こうとしていた。
朱夏はキリスト教についても詳しい。それは西洋魔術が教会と切っても切れない関係だからだ。長いヨーロッパの歴史の中でカトリック教会や正教会は強い影響力を揮ってきた。それは人の精神の探求者である魔術師もその支配下に置かれている。
そして、彼女が今一番疑問に思っている事。
それはここの教会がカソリックではなく正教会だという事実だ。
ローマ・カソリック教会と東方正教会。初期キリスト教から大きく袂を分かつ二大キリスト教は日本人からしたら同じように感じるが、その実多くの事柄が異なっている。
朱夏は、この事件がこの埋め立て地の開発計画の段階から仕込まれたと考えている。
ならば、日本人に馴染みのあるカトリック教会ではなく、正教会が建てられていることにも意味があると踏んでいた。
そして、そのキリスト教について自分よりも遙かに詳しいセラスに意見を聞いていた。
セラスも同じ事を考えていたのか頷きながら答えている。
「うん。私も考えていた。基本的にカトリックと正教はぜんっぜん違うからね。例えば、聖母マリアの無原罪の御宿り。あと分裂の一因にもなったフィリオクェ問題かな」
その最後の言葉に朱夏は反応する。
「セラス・・・。フィリオクェ問題は三位一体の話だったな?」
朱夏に聞き返されて、セラスは首を捻りながらしばし考えて、あっと声を漏らす。
「そうだよ、朱夏! その可能性は高いよ!」
セラスが嬉しそうにはしゃぐ姿を、全く分からないという顔で海斗は首を捻っていた。
レイは何やら記憶の片隅にあるのか必死に思い出そうとして、彩加は思い当たるのか頷いている。
海斗はその疑問を口にする。
「所長、セラスさん、フィリオクェ問題ってなんですか?」
それに答えようとした朱夏を遮ってセラスが口を開いた。
「海斗、フィリオクェ問題ってのはね、教義上の問題なんだ。カトリック側はそうとは認めてないんだけどね」
嬉しそうに喋っているセラスの横で朱夏はつまらなさそうに煙草を吸い出した。
セラスが続ける。
「三位一体は知ってるかな? 父と子と聖霊の御名において、ってやつね。ああ、正教会なら聖神だった。それはいいとして、カトリックは聖霊は父と子、つまり神とイエスより発せられるとされているんだけど、正教会は父のみから聖神が発せられているってなってるんだよ。聖霊は神の息吹あるいは存在感。そこに子、人でもあるイエスが、神の息吹を吹けないというのが正教会の立場なんだよ。私にとっては神と人の子イエスも父たる神も同じでいいとおもっているんだけどね」
セラスははぁと生返事する海斗に苦笑した。
「まあこの辺はいいや。で、重要なのはこの正教会の立場、聖神は父のみ、つまり、子の力よりも上位だという考え方なんだよ。ああ、そんな顔しないで。もっと分かりやすく言えば、今生み出されようとしている救世主、そのお父さんがいればそっちにも魔術が作用する」
少し考え込みながら海斗はセラスの期待する目を見た。
「つまりですね・・・父親の魔術的な何かの力が上がるとかですか?」
「そう! その通り! よくできました!」
セラスは嬉しそうにパチパチと手を叩くが、海斗は首を捻りながら更に質問した。
「でも、聖母マリアって処女受胎なんですよね? 父親がいれば魔術は完成しないのでは?」
セラスは海斗の質問をふむふむと満足そうに頷き、答える。
「ほほぅ、海斗は良い質問してくれるね。正教会ならこれにも抜け穴があって、聖母マリア、えっと正教会では
ふむと海斗は考える。
簡単に言えば、正教会の教義を利用して、作り出そうとする救世主の遺伝的な父親が彼の力をまるごと盗むつもりだということか、と海斗は納得する。
「なるほど、よく分かりました、セラスさん。ありがとうございます」
「いえいえー」
セラスは頭を下げる海斗ににっこりと笑った。
「説明は済んだか? 済んだなら行くぞ、来たようだ」
二本目の煙草を燻らせていた朱夏が海斗達へと小走りに来る黒いスーツの刑事達を見てそう言う。
海斗達はわかりました、と言ってから全員で教会の中へと入る。
―――生神女福音大聖堂。
信者が迎えられる広い聖所には赤いビロードの絨毯が敷き詰められ、イエスとマリアが描かれた
荘厳で神聖。しかし、その雰囲気は何かに犯されている。
百人以上入ることのできる聖所に溢れるほどの信者たちが赤い絨毯の上で跪き、一心不乱に祈りを捧げ、聖職者達は豪華な祭司服を着込み、至聖所を守るように立っていた。
その中で、最も華美な服装と
その語り口調は奇跡を目撃し、熱に浮かれた一人の敬虔な信者として朗々と声を上げていた。
「さまよえる子羊たちよ、聞け! この福音を共に喜びで迎えようではないか。 昨晩私に天使ガブリエル様より神託が下された。魔女により苦しむ我らのために救世主を遣わすと。それはまさしく『ルカによる福音書』のザカリアの預言と等しきお言葉! 我らの神の憐れみによって、曙の光が我らを訪れ、魔女がもたらした暗闇と死の陰に伏す我らを照らし、我らの歩みを平和の道に導かんがため! そして見よ! 神が我らに遣わした聖神の御子を! 清らかな天道マリアの胎に宿りし神の奇跡を! 彼女は私に御言葉が下る前は処女であり妊娠もしていなかった。だが、今朝、彼女は身ごもった状態で起き上がったのだ。そして彼女にも天使ガブリエル様の御言葉を授かっている。さあ、さまよえる子羊たちよ、安心しなさい。暁は訪れるのです。共にその日を祈ろうではありませんか、救世主の生誕を!」
海斗や朱夏達は入り口近くの聖所でその演説を聴いていた。
この大聖堂の主教。前主教の息子であり、主教の最低年齢三十五歳でこの大聖堂を任されているエリート。ミトラを被ったまだ若々しい黒髪を香油で後ろに流し、神経質な目を爛々と見開いて、熱弁を揮っていた。
海斗は洗川主教の話を聞きながら朱夏の向ける視線の先を辿った。
司祭や輔祭達が祈りを捧げている至聖所には一人の女性が台の上に横たわっている。
女性は年若い。十八歳から僅かに歳を重ねただけの少女と女性の間の年頃。
彼女は白い貫頭衣を着て、黒くて長い髪を流れ落ちる水のように大理石の台に広げている。
騒がしい聖職者の間から彼女だけが切り取られたかのように時間が止まり長い睫の目を閉じていた。
その貫頭衣は下腹部が盛り上がっている。それは彼女が妊娠している証。生まれ来る嬰児が眠る聖櫃。
海斗はざらりと、皮膚に何かが這う感覚を覚えた。
それは氷と水のように同じものなのに全く違う様相を帯びている。静かに眠る彼女は生まれる胎児を母の愛で包むような微笑みを浮かべていが、その周囲はその子を呪われた自分たちを導く何かだとして待望していた。
同じ喜びなのに全く違う温度がその雰囲気の不気味さを物語っている。胎児を胎児として喜ぶのではなく。それを自らが助かる地獄に伸びる糸のように喜ぶ有様。
(―――なんて醜いんだ)
海斗は心の中で呟いた。
誰からも求められて生まれるというのが、ここまで醜いものだなんて彼は思ってもみなかった。子供のが生まれる、それが母と父、そしてその周囲の人達の喜びであれば自分は同じように微笑みで見つめることができた。
だが、いま目の前で繰り広げられているのはそんなものではない。助かる手段として求められる。それがどれだけ醜く見えるのか、彼は痛ましく思う。
もしこれが、聖書の生誕するイエスと同じ状況だったのであれば、彼は神に祝福をうけたのではなく呪いを受けたのだと、海斗は顔を暗くする。
「洗礼者ヨハネの
ぽつりと海斗の隣にいた朱夏が呟く。
彼女は洗川主教を見つめて眉を寄せている。難解な数学の証明に、何か言葉にできない食い違いを見つけたような顔。
海斗は顔を上げて、小声で朱夏に尋ねる。
「どうしたんですか、所長?」
「ん? 奴の名前は洗川義道。その名には―――」
朱夏が海斗に振り返って説明をしようとしたその時に声がかかる。
「そこの啓蒙者達よ、退出しなさい。ここは聖所、話は別室で聞きます」
人の間から洗川主教は厳しい口調でそう言って朱夏達を鋭くて見ていた。話の途中から彼女達に気がついていたが、彼は区切りを待って注意したのだ。
「・・・」
朱夏はその目を見返し、海斗や刑事達と共に黙って外に出る。
退出する直前、海斗はもう一度至聖所に振り返ると、胎児を身ごもった穏やかな母は信者達の間で、ゆっくりと呼吸していた。
刑事達のことを聞いていなかった協会側とすこしの諍いの末に面会時間を短くすることで何とかまず朱夏達が応接室のソファに座った。
日は高く、光溢れる外から温かい日差しが差し込むが、淀んだ静謐が支配するその応接室に緊張の糸と息苦しい何かが張り巡らされている。
「お前は
開口一番、朱夏が洗川主教にそう言った。
洗川主教は不機嫌な顔を隠そうともせず眉を寄せる。
緊張の糸がさらに張り詰めるのを見ながら海斗は、洗川主教を迎えてからずっと彼の足下が気になっていた。
目を凝らさなければ見えない埃のように黒いガス状の糸二本が彼の足に纏わり付き、それが床の下へと繋がっているように見える。
「灰色とは何か存ぜぬが、神の機密を執行する者として信者を魔女の誘惑から守るのは当然だ。特にお前のような異端者からな」
洗川主教はこの年下の魔術師を睨んでいた。自分よりも更に上の大主教より時間を作るようにと言われ、無理矢理作ったこの面会の時間に刑事などを連れてきたこの魔術師を憎らしげに思っている。
救世主の生誕、自らの父の代より計画されたこの聖なる計画。そこに紛れ込んだ邪魔者に対して苛立ちが沸々と腹の底で煮えたぎり、その熱いほとばしりが目と口から漏れ出ていた。
祓魔師。
彼らは朱夏のような様々な魔術書を読み、その一族独自の研鑽してきた魔術師ではない。教会の学問として流布する一つの教え。彼らは異教を信仰していた者が改宗する際に生じる
だが、ここで彼女は世間に知られていない祓魔師と向かい合っている。それは元々魔術師の家系であり、特別な魔力を持ち合わせていた者達。キリスト教に改宗すると彼らはその役職で多くの成果を上げて、教会内部の確固たる地位を築き上げている。その集団は教会の深奥に潜み、教派の枠組を越えたキリストの影の守護者達。
魔を狩り、魔を駆逐する聖なる暗殺者集団『灰色の祓魔師』。
白い神と黒い魔の境界上に立つ者、どのような高位聖職者であってもその執務執行時には灰色の修道服に身を包み、赤き血をそれに啜らせる。
洗川主教は、朱夏が放つ魔力の威圧を苦々しく見ている。
朱夏はその顔を無表情に受け流し更に言葉を重ねる。
「この大聖堂の隣にあるのは馬屋だな」
一瞬、洗川主教の目が赤く染まる。燃え上がる火が瞳に光り、朱夏を鋭く切り返した。
洗川主教は最近住み着いた隣の魔術師のことを調べていた。
その経歴を調べても特にこれといった情報は見当たらず、霊脈の確保もただ管理しているだけという杜撰なものだ。
今回の魔術の性質上、ここらの県一帯の霊脈は必要ない。西洋の魔女狩り時代を再現するために不純物である日本の霊脈は極力使用しないという方針だった。
それにと彼は思っている。
この魔術に対抗し得る勢力などこの日本にいない。なぜならここは日本ではないからだ。この魔術を破壊するような魔術を組み上げるのに最低一ヶ月。外国から破壊しえるだけの長距離西洋魔術攻撃を行おうとしても日本の領地を通過するには魔術の減衰は必定。故にこの魔術に対抗し得るためには二倍以上の規模を構築しなければならない。
日本に存在する東洋魔術師では西洋の土地が再現されているこの地では半分の力になる。
外からの攻撃を受けても胎児が生まれるという魔術と次の魔術を成功させるのに一ヶ月あれば十分である。その後自分は大いなる力を手に入れて、あの場所へ立ち戻れば全てが完成する。
魔術は内外ともに盤石の計画で進行している。たとえ三人目の男が自分たちの予想よりも早く行動に出てしまったのは誤算だが、この魔術に正面から挑もうとする者などいない、そう彼は考えていた。
つまり、この時点で彼が朱夏から威圧を込めて脅されているのは、大事業が成功する前、大事な仕事の目的地へ車で急いでいる目前に道路から飛び出た忌々しい牝鹿の集団にしか移らなかった。
それだけなら轢き殺せばいいが、その牝鹿が魔術でもっとも神聖な場所を指摘したのだ。汚らわしい畜生が自らの大事なものを言い当てて、彼は飛び出しそうになる雑言を飲み込み、努めて冷静にしようと自らを諫める。
「あれは倉庫だ。お前達に何か関係があるわけでもあるまい」
彼は並々ならない努力でそう答えるだけに留まった。
朱夏はその答えを聞き、海斗が見ている場所と同じ所をちらりと見て、洗川主教を無表情に見つめ返す。
「なるほど。では生誕まで盗まれないように注意しといた方が良い」
その言葉で洗川主教が立ち上がり、怒鳴る。
「異端者よ、去れ! その身が滅びぬうちに改悛し元の巣へ戻るが良い!」
「そうしよう。だが私はここのバベルの塔へと向かうがな」
「―――っ!?」
立ち上がって睨みながら言った朱夏の一言に洗川主教の顔色が変わる。
それは自らの企みが筒抜けになっている者の驚愕の顔だった。
何か言葉を告げようとする洗川を遮るように朱夏は海斗達に振り向く。
「もう十分だ。行くぞ」
その言葉で海斗は話し合いの途中でも見ていた黒い靄から目を外し彼女を見て、立ち上がる。
彼が気になっていた黒い靄。
それは洗川主教の感情によってその濃淡を激しく変えていた。彼が感情を高ぶらせると細い繊維の束、緩やかに漂っていたものがより合わせた綱のように太く地面と繋がる。
その動きはまるで洗川主教の興奮を楽しんでいるようだった。
海斗は朱夏に尋ねるまでもなくソレを悪魔だと気づいていた。
人の感情をあざ笑い、堕落と魔へと突き落とすこの世ならざる存在。
魔を払う者に取り憑く悪魔をみながら海斗は、幽鬼のように睨む洗川主教とその息苦しい部屋を後にした。
教会から出た朱夏達はセラスの準備もあり、事務所付近で打ち合わせを兼ねた昼食をとりに戻った。
中華街の一角。有名な広東料理出す老舗だ。オーナー兼料理長がビルを所有しているので一階と二階は普通の中華料理店。三階は夜のみ営業で、オーナーの趣味で始めたジャズと広東料理を出している。
一階と二階はよくあるリーズナブルな中華料理店だが、三階は大きな窓に面して黒いグランドピアノとコントラバス、ドラムセット、天井まである巨大なレコード棚。木材がふんだんに使われ、演奏セットとバーカウンターが印象的でモダンな店構えとなっていた。
朱夏は店のオーナーと共通の趣味、ジャズで仲良くなって、時たま食事をしに行ったりしている。
今日も朱夏がオーナーと気軽に挨拶すると、彼はビルの三階へと案内して朱夏一行の貸し切りとなった。
店内にかかるレコードはニーナ・シモンの名盤。ジャズという枠組にはまらない彼女の低く艶のある歌声が魂を揺さぶるような荘厳さと強烈な個性で室内を支配していた。
ちなみにこの店で客はリクエストできない。店内でかかる曲は招き入れた客の印象をもとに彼が決める。朱夏が訪れた日はニーナ・シモンの名盤しかかからない日となる。それを彼女が苦笑しつつも私に相応しいと喜んでいたことを海斗は思い出していた。
連絡を受けて、少し遅れた道明が入って来て、打ち合わせがスタートする。
海斗がトマトジュースを飲んでいると道明が席に着いたのを彼女が確認していた。
「よし、そろったな。では今回の事件の推理と今後の対策をしよう」
演奏セット近くのテーブルで、それぞれが好きな飲み物をもって話していたところに朱夏がそう切り出した。
「今回は悪魔召喚に見せかけた救世主誕生の儀式。そして目的は子の誕生を起点として子の父である自らが神へと至るためってことだね」
そうセラスが声を上げると、朱夏は頷く。
「ああ、その通りだ。二十五日にある
そこまで朱夏が説明すると海斗が首を傾げる。
真犯人の一人、と彼女が断定した意味が分からない。
何故彼女は洗川主教だけが起こしたと考えなかったのだろうか?
そう思って彼は朱夏に尋ねる。
「所長、何故犯人が二人だと?」
「海斗、私は二人とは言っていない。少なくとも二人だ。洗川が言っていた処女受胎した天道マリアだがな、あれは双子だ。おそらくここの大学病院の誰かがこの事件に関わっている」
「え? 何故双子だとわかったんですか?」
海斗やレイ達も少し驚きながら朱夏を見た。朱夏は煙草を取り出して火をつけ煙を一つ吹く。
「天道マリアは昨晩、天使の声を聞いて身ごもったんだろ? 人間が一日で妊娠後期の身体になるわけがなかろう。この魔術は生まれてくる胎児に力を与える魔術で、魔術的な受肉させるほどの力は無いよ。それこそキリストのようにユダヤ人全体の願い、民族全体で執り行う魔術規模しなしなければな。つまり、仕込んだ奴がいるんだよ。現代医学じゃ、膜を破らずに受精させるのは朝飯前。それに双子だと隠して、一人をどこかで育てる。そんな事ができるのはそれなりの病院ぐらいしかあるまい。大学病院は打って付けの場所だ」
断言する朱夏に海斗だけは不満気に声を上げる。
「所長、それは乱暴すぎる推理です。証拠はまだありません」
その海斗に朱夏は笑った。
「いいぞ、海斗。疑問を持つこと、それが生命に与えられた神の叡智だ。だがな、私は魔術師だ。神に与えられたものでは満足しない。私は
言葉の最後、朱夏は燃え上がるような赤い瞳で海斗を見据えていた。だが、言い終わると少しその表情を崩す。
「まあ、安心しろ。根拠はある。ちょうどこれから話そうとしていた今後の対策に関わってくる。これを見ろ」
そう言って朱夏は持っていた地図をテーブルの上に広げた。
海斗は納得のいかない顔をしつつもセラス達と一緒にその地図を覗き込んだ。
それは埋め立て地の地図。
街の中心に正教会の大聖堂が描かれている。
朱夏はその中心を指さしながら説明を始める。
「まずは根幹。この大聖堂だ。ここの側に倉庫といった馬屋で生誕の儀式を執り行うのだろう。キリストが生まれたのは聖地エルサレムより少し南に外れたベツレヘム。ヘルフォード図では東にあるとされたエデンの園がヘルフォードの北にあたるので、この地図では右側に来ている。駅側だな。そして街の主要な建物はヘルフォード図に従っているんだ。大聖堂より上のホテルはこの街最大の高さを誇っている。高さの
三つの場所を指で指した朱夏は中心の大聖堂の馬屋を指で弾き、そう言った。
それぞれが考え込む中、海斗はあることが気にかかっていた。
子供が普通の子供として生まれることは素直に嬉しい。
だが、それは誕生の瞬間を解決するという意味だ。それまでの十日間、住人達はどうするのだろうと疑問に思った。
彼は魔術的なことはわからない。しかし、助けを求めているのが子供と母親だけではないことに気がついている。
この魔術に巻き込まれて、日々不安に過ごす住人達の存在を見捨てることはできなかった。
海斗は朱夏に聞く。
「所長、証拠の話はまだ納得していませんが、それは子供だけが助かるのですよね? クリスマスまでには十日間もあります。すぐに魔術を壊して・・・力が流れている場所を破壊して住人達を早く助けることはできないんでしょうか?」
その質問に朱夏はやはり笑う。
その質問自体が嬉しいのではなく、あまりにも普通で、凡庸で、人間らしい海斗を愛おしんでいた。
「ああ、私は彼らを切り捨てる―――」
その言葉に海斗は言葉を失った。
ニーナ・シモンの歌声が響く。罪人を追い立てるように、どこまでも救いがないと責め立てるように。
午後の明るい日差しが差し込む中、海斗が見た朱夏の顔は、お前は悪魔のもとへいけと言い渡した神のように、美しく微笑んでいた。
◆◆◆
「朱夏、なんで海斗にちゃんと説明しなかったの?」
西日が事務所をオレンジ色に染めている中で、セラスは椅子に座っている朱夏にそうたずねていた。
事件の参考になりそうな本を読んでいた朱夏は目線をあげて、真剣な顔をしているセラスを見る。
「なんのことだ?」
「昼食の時、住人を見捨てるって言ったことだよ。あんな言い方しなくてもさ。第一、今魔術式を破壊すれば住人の精神に致命的な傷跡を残すよね。それこそ一万人規模の集団自殺が起きかねないよ」
朱夏は本を机の上に置いて、煙草を掴む。
「見捨てることには変わらんだろ。私は住人達にかかっている魔術を解呪するのではなく、この事件の魔術師を倒そうとしている。その間、彼らを見捨てることになるんだ」
カチン、と煙草に火をつけて煙を吸う。
セラスはその姿を少し悲しそうに見ていた。
「そうだけどさ・・・。私達には時間が少なすぎる。普通は魔術、それも大魔術を解呪するなんて一ヶ月はかかる大仕事だよ。それを十日でするんだからさ、海斗も説明したら分かってもらえるよ」
「それが何の慰みになる? 確かに海斗なら理解は示そうとするだろう。でもな、セラス、私達と海斗は違う。私達は目的のために犠牲が出ても仕方ないと切り捨てられる人種だ。しかし海斗は何も持っていないからこそ、多くを求める。ならばハッキリと示すべきだ。助けられない、とな」
「そうだけどさ・・・」
セラスは言いよどんだ。
彼女は朱夏が言いたいことを切なくなるほど理解している。
魔術師とは
それでも彼女はその生き方に疑問を持ち、今ここにいる。だからこそ朱夏の言葉を素直に頷きたくなかった。
その表情を見た朱夏は小さく笑う。その意味は、セラスが海斗と共に過ごし、彼女なりに得たもの、その大きさを誇るように微笑んでいた。
「あとはだな・・・これは誰にも言うなよ。私は少し羨ましいんだ、海斗が」
「どういうこと? 朱夏が誰かを羨むなんて考えられないよ」
「何を言うか。私だって時に羨むさ。海斗は私達の反対、
その言葉にセラスは深くため息をつく。
「朱夏、やっぱりそれは悲劇的だよ。それじゃいつまで経っても海斗と朱夏は交わらない。ずっと平行線を辿ってどこか彼方へ消えてしまう・・・って待って、もしかして私達が一と全、その間を繋ぐ媒体ってこと?」
セラスは首を傾げながら朱夏にそう聞いていた。
朱夏は煙をゆっくり吐き出しながら、楽しそうに話し出す。
「ふむ、ようやく気がついたか、錬金術師。私はただ
セラスは煙草を吹かしながらそういう朱夏を疑り深い目で見ていた。
「まさかさ・・・そんな風に言ってただ単純に面倒くさいから私に丸投げしようとしてない?」
「バレたか。まあ少し真面目に言うとだな。今回は人の生き死にが関わっている。それも都市規模でだ。私達やレイだと利益に見合うならそれを見過ごすが、海斗は別だ。アイツは誰かを助けようとする。自分が何もできないと分かっている癖にヒーロー気取りなんて馬鹿らしいが・・・私はそれを好きにさせようと思う」
セラスは少し驚く。
「いや・・・好きにさせるって言っても不可能だよ。朱夏も私も、道明や彩加だってすることがあるんだよ? 残った桜花に頼むの?」
「桜花は温存する。アレに暴れられて、神宝なんぞ使われたら私の計画が台無しになる。そこでセラス、あの五月蠅い女を呼べ」
朱夏がそう告げると、途端にセラスが嫌な顔をする。
「げっ・・・。アイツを呼ぶの? 腕は一流だけど・・・なんでか私にやたら対抗心燃やして突っかかってくるんだけど」
顔をしかめながら不満を言うセラスに朱夏はくっくっくと笑った。
「似たもの同士だからな、お前達は」
「何処が似てるのさ? 似た所なんて全くないよっ」
「名家で魔術師としての血統もよく、腕も一流。それに何より実家を出ている放蕩娘ってあたりがまさに同じだ」
「放蕩娘って・・・。ちょっと、私を引っ張ったのは朱夏じゃない」
「事実はそうでも世間はそう見ない。実家から独り立ちして、自立している。それにホーエンハイム家の方が魔術師としては格上の家名だ。現代魔術師の粗たるあの女が対抗心を燃やすのも頷ける。歳も近いしな」
「良い迷惑だよ。こっちはそんなこと考えてもないし。私は静かに彩加から東洋魔術と仙術を学びたいだけ」
「お前もそう言ってすげなくするからだろ。西洋魔術の大家が東洋で単身学んでいる。その辺もあの女は気に喰わないんじゃないか? もしかしたらその内私達の事務所に転がり込んでくるかもな」
その一言にセラスは特大の苦虫をかみつぶしたような顔で朱夏を見た。
「やめて・・・。想像もしたくない。五月蠅すぎて研究に集中できないよ」
「まあ、そう言うな。命令だ、連絡しろ。困っているの一言で飛んでくるぞ」
はぁ、とセラスは大きくため息をついた。
朱夏の命令で苦手な人物を呼び出すのは彼女としても決してしたくはない。
だが、それでは海斗を守る者がいなくなってしまう。朱夏は一度決めたらテコでも動かない頑固な性格。彩加や道明は事件の地域で活動はしない。そして、自分は拠点作りと対策に追われて一週間は缶詰状態になる。
日本にいる東洋の魔術師が当てにならないとならば、無所属の彼女は打って付けだと冷静な自分が判断している。
それに戦力を増強するのは賛成だ。
そこまで自分を納得させる理由を何個も考えて、彼女はため息と共に頷いた。
「わかったよ。仕方ない。でもあの子も予定があるかもしれないから期待しないでね」
一縷の望みを託してセラスはそう言った。
「ソレはあり得ない。あの女ならセラスのお願いを断るはずもなかろう。いいか、もう一度言うぞ、困ったと言え」
「・・・言えば良いんでしょ。言えば。連絡してくるから部屋に戻る。ホテルは自分の車で行くから待たなくていいよ」
セラスは不機嫌そうな顔でそう言い残し、事務所から出て行く。
その後ろ姿を朱夏は、可笑しそうに笑って見送った。
『おい、勝手に決めるな。そもそもアイツを事件から外せば良いだろうが』
突然、声が部屋に響いた。
朱夏はその声がした方向、西日が差し込み少し日に焼けたワインレッドの絨毯に映った自分の影へと向く。
「ふむ、起きていたか」
朱夏は特段、驚きもせずにその声の主に向かってそう言った。
『あれだけ気持ち悪い魔力に当てられたんだ。そりゃ起きない方がどうかしてる』
その声の主は思い出したくもないとでも言うように不機嫌な声をあげる。
「違いない。で、あそこでは動けそうか?」
『ああって話を変えるな、朱夏。私は海斗を外せっていってるんだ』
「もう遅い。海斗はもうすでにこの事件に入っている。止められないよ。命をかけてお前を助けたように、あの異界にいる者達を助けようとする。海斗のことだ。首謀者を探して、説得するつもりだろ。どうせ」
『・・・ちっ! アイツはホント馬鹿だ。そんな所にノコノコ出て行ったら死ぬだけだろうが!』
怒りと苛立ちを含んだ声が部屋に響いた。
その声を受け流し、朱夏は口を開く。
「確かにその可能性は高いが、意外と私達が見つけられない真相を見つけるかも知れない。保険として影は開いておこう。もし何かあればお前が助けろ」
『結局、私かよ。尻ぬぐいを私に押しつけるのはいい加減にしろ』
怒りを込めた低い声が朱夏に向けられた。
朱夏はそれに毅然と応える。
「それが使い魔の役割だ。私の魔力を喰らっている分、しっかりと働け」
『・・・』
ふてくされたように黙り込む影をしばらく見つめて、朱夏は机の置いてあった読みかけの本を読み出す。
カラン、とブラインドが風に吹かれて、打つ音だけがそこに響いた。
次章予告 『三章 魔術師達の胎動』
※ 小説家になろう 様にて掲載分をまとめてお届けしております。作者名とタイトルは共通です。もし気になった方はそちらで最新話をお楽しみください。
心霊探偵赤神朱夏の事件簿Ⅰ 死者蘇生の魔術 三叉霧流 @sannsakiriryuu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。心霊探偵赤神朱夏の事件簿Ⅰ 死者蘇生の魔術の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます