一章 探偵事務所の朝

「所長、起きてください。そろそろレイさんとの約束の時間ですよ」

 朝の爽やかな空気と言えないほど冷たい風が入り込み、窓のブラインドを叩いていた。西の窓にはまだ日差しが入り込まないといっても眩しい光がくっきりと格子線を飴色の執務机に作っていた。

 声をかけられたこの建物の主は厚手のコートを引き寄せて少し身を震わると、目を細く開けた。

海斗かいとか。もう朝・・・。悪いけどもう少し寝かせて」

 ため息を吐いて、ねだるように声を上げた朱夏しゅなつに、海斗は断固たる意思でそれを拒否する。その並々ならぬ意志からは、取り立てに身を置く金貸しのような表情にみえた。

「ダメです。夜更かしした所長の自業自得です。今日はレイさんが、わざわざお仕事を持って東京から駆けつけてくれたんですよ? この事務所にちゃんとしたお仕事があって忙しければ考えなくはないですが、如何せんここ三ヶ月閑古鳥が鳴りっぱなしです!」

 バンと机を叩くように海斗はホットコーヒーを入れてある保温水筒を置いて、目を怒らせていた。

 嫌そうな顔で朱夏は海斗の話を聞き流し、机の上の煙草とライターを握りしめて火をつける。

 一服、二服と紫煙を燻らせて朱夏は寝ぼけ眼のまま海斗に不満を漏らす。

「いや、ほら・・・君が営業して仕事を持ってきてくれるのはいんだけど、持ってくるのが生き霊に取り憑かれたから除霊して欲しいとか死に別れた兄を探して欲しいとか・・・なぁ?」

 言わんとしていることがわかるだろ、と目線を向けて彼女はそう言った。その彼女の表情に海斗は腕を組み、見下ろす。

「仕事に卑賤はありません! 今この事務所の会計簿はどうなっていると思います? 真っ赤かです! 仕事をえり好みするまえに社員の生活を保障する必要があると思いますけどね!」

「ああ、わかったからがならないで。耳が痛い」

「そりゃそうでしょうよ。耳が痛くなるのは。こうして喚いている俺も心が痛みますよ」

 ぶつくさと不平を零す海斗を尻目に朱夏はマイペースにコーヒーをお気に入りのマグカップに入れていた。

「で、時間は何時だっけ?」

「九時ちょうどにレイさんが来ます。朱夏さんの知り合いで時間通りに来るのはあの人ぐらいですからね」

 海斗はレイという人物に好印象をいただいているのか、少し嬉しそうに顔を崩した。それもそのはずで、朱夏の事務所にいる社員達、一人は社員ではなく社員の保養者なので除外すると、ほとんどの者が時間の規律が甘い。そのことに苦心している海斗はビジネスパートナーであるレイに少なからず親近感を覚えていた。

 ちらりと朱夏は古ぼけた腕時計に目をやって時間を確認した。

「八時四十五分か。私は身支度をするよ。海斗は下でレイを待ってて」

 その言葉にほとほと安心した様子で海斗は頷く。

「分かりました。レイさんが来たら連れてきますね」

 朱夏は煙草をくわえたまま海斗の言葉に手をヒラヒラとさせて返事をする。その物臭な仕草でも海斗は安心していた。朱夏は仕事として依頼者と顔を向き合わせると別人に変貌する。彼女が時間を確認したということは仕事として彼女が認めたことなる。

 海斗はそのまま事務所を後にした。



赤神心霊探偵事務所は古ぼけた建設途中のビルの一角にある。その立地条件は余りにも特殊で、中華街の奥まった場所で事務所のビルをまるで隠すように四方に他のビルが建っている。港町の有名な中華街は賑わいを見せているが、裏路地のようなビルとビルの隙間を入ってくるような闖入者は珍しい。よく見ると石畳みで、両脇には観葉植物が整然とならんでいるため、ちょっとした隠れた名料亭のような通路だ。だが、事務所のビルの前に立つビルには少しばかり、いやかなりいかがわしい雑居ビルで敢えてそこに入ろうとする者はいなかった。

 ビルは地下一階がある六階建て。最上階は建設途中で放棄されたために鉄筋むき出しのコンクリート柱が廃墟のような印象を与える。

 地上階は洒落たガラス張りの喫茶店で内装は異人館が建ち並ぶ港町に相応したアンティークな雰囲気で統一されており、ビルとビルの隙間を利用してちょっとした庭園の美しい様子を眺めながらコーヒーを飲める場所となっている。二階と三階は赤神心霊探偵事務所の社員寮で、四階は朱夏が集めている骨董品の倉庫、五階が事務所と朱夏の部屋、六階と言う名の屋上だ。

 本来なら一介の私立探偵ならまだしも、胡散臭い心霊探偵なる朱夏がビル丸ごと貸し切るなどとは分相応に過ぎるだろう。だが、分相応な理由もこの建物と土地自体の所有者が朱夏とあらば、話は別である。朱夏は家賃収入など頭の片隅にも思い浮かべず、ビルの所有者であることを思うがままに利用して譲り受けたビルを好きに使っていた。

 その一番の例は地上階にある喫茶店である。人が増えたし、美味しいコーヒーを飲みながら打ち合わせをしたいとの理由だけでとんでもない資金を投じて喫茶店を拵え、そしてその経営自体を海斗に丸投げした。その上に一々下に降りて打ち合わせるのが面倒だと言って、打ち合わせはもっぱら事務所になっている。

 その気ままな我が儘のしわ寄せを全て受けたのは唯一の常識人である海斗だった。大学を途中退学して入社した海斗がまず始めに勉強したのは事務所経営と飲食店経営。涙ぐましい努力でコーヒーの入れ方、料理、植物の世話を甲斐甲斐しくしても喫茶店の利益は雀の涙よりも少ないが。

 その喫茶店『赤い月レッド・ムーン』の分厚い扉を開けて、一人の外国人が訪ねてきた。

 すらっとした長身で、ブロンドの髪を綺麗に整え、碧い瞳でご婦人方を歓喜させるような微笑みを浮かべている。ハリウッドを賑わせる大物俳優のような気品と外見を持ち、目のくらむほどの高級スーツとコートを着て帽子を被ったその男は、海斗を見つけると、艶のある革のアタッシュケースを持つ反対側の手を上げる。

「おはよう、海斗」

「あ、レイさん。おはようございます。待ってましたよ」

 もはや日本人と同レベルの日本語でレイは海斗と挨拶を交わす。

 レイ・ハロルド。

 もっとも海斗が招きたい常連客ナンバーワンの座を彼は更新し続けている。海斗は彼がアメリカの外交員として日本政府の公安で働いていると聞かされていた。しかし、海斗はそれだけではないと勘ぐってはいるものの、依頼してくる案件は苦しい収入の事務所には涎が出るほどの依頼料のため気づかない振りをしている。

 レイはさっと赤い月レッド・ムーンの店内を見渡すと海斗に尋ねる。

「海斗、朱夏さんの機嫌はどうかな?」

 レイは微笑んではいるが、その質問に答える海斗をマジマジと見ている。そこにはハッキリとした恐怖が覗いていた。厳しい教師に会いに行く生徒のような様子のレイに海斗は曖昧な顔をした。

「あー。不機嫌ではないですよ? ちゃんと話は聞いてくれるみたいですし」

 その海斗の言葉にレイはほっとした顔を見せる。

「それは良かった。今回の案件はちょっと手に負えなくてね。朱夏さんに断られたらこちらの打つ手がなくなってしまうから。海斗も私のバックアップは任せたよ。ちゃんとそれ相応の報酬は約束するから」

 海斗は獲物を見つけた蛇のような瞳をチラリと見せて微笑んでいる。

「全身全霊でバックアップしますよ」

「それは頼もしい」

「では事務所に行きましょう」

 海斗がそう言ってレイを促すと、彼と共に事務所へと向かった。



コン、コンと音を立てて海斗がノックをして、中に声をかける。

「所長、レイさんがお越しになりましたよ」

「入れ」

 その声で海斗とレイが中に入ると朱夏は事務所にある十台のブラウン管が映すニュース番組に目を向けていた。無数に重なり合うキャスターの音声はノイズと変わらない。だが、朱夏はノイズにしかならない情報の奔流を正しく理解している。

 朱夏は入り口に立つ二人に目も向けず手を上げて、そこで待てと合図する。

 海斗は依頼主に対して無愛想な朱夏にため息をつき、レイはそれを慣れた様子で待っている。その手にはコートと帽子を持ち、客人として礼儀を守るレイを海斗は盗み見てまたため息を吐く。彼の胸中では何度礼儀に対して注意しても改善されないあきらめと、諦めてはダメだという真面目さの葛藤が渦巻いていた。

 赤神心霊探偵事務所は形容しがたい雰囲気がある。まず始めに巨大な本棚が襲ってくると錯覚してしまいそうになる。朱夏の執務机の三方の壁という壁は本で埋め尽くされている。正しくは、一方の壁はこれまた古ぼけた煉瓦の暖炉があるので二方と表現した方が適切ではあるが、その暖炉部分を除くとやはり本が埋め尽くしているので三方となる。古今東西、あらゆる言語の古書や写本、そして何故か数年前の少年誌から少女漫画、果てはいかがわしい雑誌までと所有者の気ままさが如実に表れたラインナップだ。本の他にも用途の知れない古い機具や羅針盤、時計、何かの神像といったがらくたも本の間に紛れている。暖炉と執務机の間の天井からは空中植物のようにブラウン管が生えている。どれもインチは小さく、なるべく邪魔にならないようにとされてはいるもののさすがに十台となれば圧迫感がある。

 転じて、入り口近くだけを見るとよくある事務所にしかみえなかった。社員の安い業務机が四台。うち三台は空っぽ。朱夏の執務机と一番近い席は海斗の席で、ここだけはレターボックスや契約書類のファイル、電卓、ノートパソコン、筆記具が整然とならび主の几帳面さを嬉しそうに誇っているようだ。社員の机が並ぶ場所の横には間仕切りで仕切られた応接スペースがあって、これも適当な業務用のソファとローテーブルが申し訳程度に備えられている。その事務所の雰囲気は雑然としつつも西洋の埃っぽいアンティーク調と普遍的な日本の事務室調が混ざらない油と水のように漂っていた。

 どこに区切りがあるのか分からないが、満足したようにうむ、と頷くと朱夏は二人に目を向ける。

「よし、レイ。話を聞こう」

 朱夏は立ち上がり、すかさず海斗はレイを応接スペースに通す。

 海斗が朱夏を起こしに来た時に用意していたコーヒーポットとカップにコーヒーを注ぎ、レイは鞄から書類をテーブルに置いた。レイと向かい合って朱夏と海斗が対面する形。

 準備が整うとレイが口火を切った。

「今日はお時間をいただきありがとうございます」

「挨拶はいい。依頼内容を聞こう」

 横柄にそう言い切った朱夏はコーヒーで口を濡らす。

 朝に海斗と話していた人物とは思えない貫禄と言葉づかい。彼女はプライベートでは女性らしい表情や可愛らしい一面を見せるが、向き合う仕事となれば、人格が変わったようにスイッチが入る。目つきが鋭くなり、表情の癖まで変わってしまう様子に海斗は猫かぶりの達人だと呆れていた。

 レイは緊張した面持ちではあるが、爽やかな笑みを浮かべて用件を切り出した。

「詳しい内容は書類に記載してありますが・・・。おそらく朱夏さんもご存じの埋め立て地で起きている猟奇殺人事件です」

 そう言ってレイは書類を朱夏と海斗に渡す。

「やはりか。まあそうだろうな。連続猟奇殺人ならお前もこんなに早く私の所には来ていなかっただろう。この事件の特異性は群を抜いている。する猟奇殺人事件なんてまさに私好みだ」

 朱夏は口を僅かに吊り上げて笑い、そう言った。それを見てレイは頷く。

「ええ。仰るとおり、これはただの連続猟奇殺人ではなく、別々の犯人が起こす連続発生した猟奇殺人」

 海斗は説明するレイと悪巧みを楽しむ悪人のような顔をした朱夏を見て、またかと、うなだれそうになった。

 朱夏のこの反応は不味いと海斗はよく理解している。朱夏が気に入らない依頼を袖にすることを一万歩譲歩して許しても、気に入った依頼をほぼ無償でしようとすることを許してはならないと海斗は腹に決めていた。気に入らなければ、どれだけ海斗が焚き付けても微動だに朱夏は動かない。ならば、せめても動こうとする依頼だけはしっかり料金をせしめなければ、事務所と海斗の将来は霧の中どころか奈落に墜ちてしまう。

「で、レイ。お前が来ずとも私が動くと理解しているお前が、何故アポイントを頼み込んでまで来た理由を話してもらおうか」

 その鋭い指摘にレイは背中に冷や汗をかいていた。彼の目には赤い口を開くドラゴンがみえている。彼の上層部と日本の霞ヶ関に挟まれている彼はどこまで実状を漏らせば良いか考えを巡らせて、口を開く。

「私共は日本政府との関係を今のまま維持したいと思っております。今回の一件は直々に政府から頼み事として話を持ちかけられており、そこで私共の優位性を披露しなければなりません」

「つまり、お前達のくだらない権力争いに利用されるというわけだな」

 そのにべも無い言葉にさーっとレイの血の気が失せたが、周りに悟らせないポーカーフェイスで笑い、海斗が何か口にしようとする前にレイが話し始める。

「それが何か関係ありますか? 私共は依頼する、朱夏さんは依頼を解決して依頼料を手に入れる。私共は結果だけを望んでいます。それをどう使おうが私共の勝手であり、報酬を支払った対等な取引です」

 理路整然と落ち着いて話すレイを見ながら朱夏は実に楽しそうに笑う。

「確かに。くだらない質問だったな。だが、状況は理解した。必然的にこちらの行動も自由が利くんだな?」

「はい。本庁から出向組に混じった私の外部アドバイザーとしてお願いする形になります。現場の調査の立ち入り、調査内容の共有、聞きこみ、現場の人員数名を補佐として使っていただいてかまいません」

「十分だ。期間は?」

「今日から約二週間、これ以上かかってしまうと本来の専門機関へ移譲されます」

 その調査期間の短さに朱夏は少し機嫌が傾く。

「ふん。随分と私達を高く買ってくれたものだ。警察が解明の糸口さえ見つけられない事件を二週間で解決しろというのか」

 その朱夏の不機嫌な顔に肝が冷える思いをしながら、レイは微笑みを絶やさずに、朱夏の言葉を待っていた。

 朱夏はそんな胸中のレイを尻目に書類に目を通し始める。ペラペラとただ紙をめくる音だけが事務所に響いていた。

 海斗はそのやり取りを眺めながらどうしようか迷っていた。自分が口を挟んでレイを擁護しよと思ってはいるが、朱夏は仕事の話に口を挟まれることを嫌う。下手に口を挟むと彼女がへそを曲げて、頑なに拒否し出すことを危惧していた。この事務所は朱夏なしには何もできない。普通の探偵事務所なら海斗も仕事を覚えれば、自分だけでも仕事をこなせると思ってはいる。だが、心霊探偵となると彼にとっては全くの専門外で、何をすればいいのかさえ皆目見当が付かない。

 海斗はじっと朱夏が書類を読んでいる横顔を観察しつつ、今日は大丈夫だと小さく頷き、朱夏に話しかけた。

「所長、この話を受けましょう。お金とかは・・・関係ないとは言い切れませんが、レイさんには彩加ちゃんのことでもお世話になっています。もし、レイさんの仕事が上手くいかなくて左遷でもされたら彼女が悲しみます」

 海斗の擁護にレイは苦笑を返す。余りにも現実的な話に彼は、左遷されたらいっその事仕事を辞めて、こっちでのんびり転職しようかと思いつく自分自身に驚いていた。祖国を守ろうと必死になっていた自分の心情変化は彼にとって驚くべきことであった。

 海斗の言葉に朱夏は彼に向いて目を細くする。表情では余計な事を言うなと語っている。しかし、レイに振り返ったときには僅かな微笑みをたたえている。

「わかった金額がまとまり次第引き受けよう。こちらは社員全員で調査を行う。もちろん私と桜花も出る。後は任せた海斗」

 そう言い残すと朱夏は書類を持って自分の机と戻っていった。

 その様子を見送るとレイは海斗にウィンクをする。

「ありがとう、海斗。これでなんとかなりそうだよ」

 朗らかに安心した笑みを浮かべるレイに海斗は、ポーカーフェイスで笑いながら、心の中で舌舐めずりする。

「良かったですね。でもこれで貸し一つですよ。ではその貸しを使って料金の交渉しましょうか」

「ああ、これに関しては満足してもらえると思うよ」

 そう返事をして海斗とレイは料金交渉に入った。

―――三十分後。

「レイさん、ありがとうございました。明日中に契約書作ってお渡ししますね」

 ホクホクとした満足顔で声を弾ませた海斗はレイにそう言う。

「よろしく頼むよ。でも、海斗は金額交渉になると鬼になるね。いい銀行マンになれそうだ」

 レイは苦笑した。

「おいおい。うちの社員を誑かさないでくれ。レイは朝食は食べたのか? もし食べてなかったらご馳走しよう」

 古書を読んでいた朱夏がそう言うと、海斗は目を鋭くして朱夏に返す。

「ご馳走なら所長のお給料から天引きしておきますね」

「・・・。それは経費になるんじゃないか?」

 古書から顔を覗かせて朱夏が顔をしかめていた。海斗は首を振って否定する。

「なりません。レッドムーンの売り上げで泣きそうなのに、なんで事務所の経費を回すなんて悲しいことをしなきゃならないんですか。これから個々の打ち合わせ代は全て各社員の給料から天引きします」

「おい、レイ。この四角四面な奴に社会の暗黙のルールを教えてやってくれ」

 古書の奥から漏れるため息交じりの声にレイはどうしたものかと、困った顔を浮かべて曖昧に言葉を濁す。

「人様の事務所の経営に口を挟むほど偉くないですよ・・・なので朝食はこっちが領収書切ります」

「このエリートが何を言うか。たく、無粋な奴・・・と言ってしまいたいが、財布を握られた私も弱いからな。すまない、レイ」

 その朱夏の言葉に海斗が鼻白む。

「所長。一つ言っておきますが、事務所とレッドムーンの売り上げは所長の財布ではありません。そこのところ勘違いしてませんか?」

「ああ! わかった。もう良いから海斗、早く朝食の準備だ。私は後で行く。レイは好きにしろ」

 五月蠅いとわめくように朱夏がそう言うと、不満そうな顔のままだが海斗はそれ以上彼女を追求せずにレイと共にレッドムーンへと向かった。



 赤神心霊探偵事務所には社員四人と社員の非保養人一名を加えた総勢五人がいる。その一人の非保護人はまだ中学生二年の女生徒だが立派に戦力として数えられているものの労働法に抵触するということで海斗が働くことを禁止しようとしている。しかし、心霊探偵を務める逸材として本人が進んで動くためにもはや諦め混じりで彼も黙認していた。

 神栖かむす 海斗かいと。赤神心霊探偵事務所の古参社員の一人であり、事務所の経理とレッドムーンの店長を務める苦労人。どんぶり勘定と使途不明の請求書の山を抱えて悪夢にうなされる日々を過ごしていた。性格は、朱夏が言うには四角四面の唐変木。実際には穏やかで気配りの効く好青年で中華街の人達にも人気で時たま広東語を近くの老人達から教えられている。特に赤神ビルの前にある色気たっぷりの女性達からは人気があり可愛がられていた。

 凡庸と無害を掛け合わせて人の顔に貼り付ければ出来上がるような風貌だが、どこか人を安心させる雰囲気と気づいたら心の隙間に住み込んでいる存在感を持ち合わせている。それは今住んでいる街から一時間足らずで着く秘境の温泉街で育ったこともあるだろう。森の中の行き止まりのような場所にわき出す温泉街の旅館の息子として育った彼は、旅館を訪ねるあらゆる人達と話す機会に触れて、その独特の魅力を育んでいた。

 日本料理の腕前はプロ顔負けで、いつでもお店を開けるが逆に西洋、レッドムーンの雰囲気にあった料理は一から覚えることが山のようにあった。元々、凝り性な彼は日夜料理とコーヒーのドリップを学び、今や政令都市の飲食店として遜色のない腕前を持っていた。客が来ればの話だが。

 暖房で温かいレッドムーンで彼はピシッとアイロンの効いたシャツに紺のベストと赤いストライプのネクタイに身を包み、いっぱしのマスターの風貌でモーニングを手早く作っている。

 レイもその様子をカウンターから眺めて、海斗が入れたコーヒーを楽しんでいる。レイは交渉事が上手くいった営業マンの肩の荷が下りて、重圧から解放された安堵の表情をしている。

「おはようございます、海斗さ・・・。レイさん来てたんですね、おはようございます」

 そこに一人の美少女が丁寧に挨拶をしてレッドムーンに来ていた。元はレッドムーンも住居ビルとして建設された地上階。二階と三階の社員寮から直通の階段から彼女は降りてきている。

 社員の被保護人である中学二年生の安部あべ 彩加さいか

 黒い髪を肩まで伸ばして、フリルのついたシャツと紺のジャケット、デニムといったカジュアルで動きやすい服を着ている。その顔はまさに息を飲むような美少女で、透き通るような白い無垢な肌と精巧な人形のように綺麗な顔立ちをしている。その手には分厚い本とノート、筆記用具を持って彼女は自分の席へと座った。

 カウンター席は全部で五席。それぞれの場所に誰が座るか決まっており、最年少である彩加の席は店の入り口近くにある。

 レイと彩加が挨拶を交わしているのを見ながら海斗は彼女の後ろに目をやって、彼女に尋ねる。

「おはよう、彩加ちゃん。道明さんは一緒じゃないの?」

 その問いに彩加はすこし憮然としつつ、自分の同室で保護人である道明の行方を答えた。

「道明さんは昨日、セラスさんと遅くまでお酒を飲んでいたのでまだ寝ています」

 彼女はその場所に自分がいられなかったことを恨めしく思いながらも何時ものように本を開こうとしてハタッと気づいたようにレイを見た。

「レイさん、この本を届けてくれてありがとうございます」

 折り目正しく礼を言う。

「ああ、彩加のためならお安いご用さ。私も囓ったことがあるけどそこまで専門的になるとお手上げでね。本を贈ることしかできなくてすまないね」

「いえ・・・これは私の趣味ですから」

 そう言って少し恥ずかしそうに笑った。

 彼女が手にしている本は機械工学の専門書だ。大学院レベルの高度な内容で、その手の学生が名著をとりあえず持っておいて御利益に預かろうとするような類いの物。それも日本語訳ではなく英語の原著。

 彩加は通信制の中学に通っており、普段はこうしてレッドムーンで勉強をしている。彼女はすでに中学どころか、高校課程の内容を終わらせて、今は自分の目的のために専門分野を勉強していた。

 恥ずかしがる彩加を見ながらレイは微笑み、思わず口にしている。

「彩加みたいな頭が良くて美人に慕われてアイツほど果報者はいないよ。それなのにレディをエスコートもせずに惰眠を貪るとはね」

 レイは腕を組み、その人物に眉をひそめている。彩加はさらに顔を真っ赤にしてふるふると頭を小さく振った。

「美人なんて・・・」

「いや、君を美人だと認めない奴は私が目玉を抉るよ。あと、彩加、一応聞くけどもあの話はどうかな? 君ほどの才覚があるならあっちの大学で歓迎されると思うし、私も支援するよ」

 レイは親ばか特有の発言をして、ちょっと彼女の顔色をうかがうように尋ねた。彩加は申し訳なさそうな顔をする。

「すみません・・・。私はやっぱり皆といる方がいいです・・・」

「そうか。いいんだ、気にしなくて。あっちの教授がやんややんやと五月蠅くてね。一応聞いておかないと思っただけだから」

 そうやんわりとレイが言う。彼はここで話は終わりだと切り上げて、他の話へと切り替えて彩加と海斗達と談話しはじめた。

「おはよー、おっ今日は珍しくレイもいるのか」

 三人が楽しく談話していると階段から一人の白人女性がはきはきとした声を上げて降りてきた。

 セラス・ヤズィード・ホーエンハイム。

 レイと同じような白人で、これまたハリウッドの大物女優と言っても通用しそうなショートカットの美人がいた。顔立ちは二十代半ばとしてみえるが実際には二十代にギリギリならない年齢だ。服に頓着しない彼女は安いファーストファッションブランドのセーターとデニムに身を包んでいても長身で均整の取れたスタイルがそれを高級ブランドにみせていた。しかし、整った顔立ちに一点、彼女の印象を変える物がある。

 それは左目の眼帯。病院で一時的な処置として巻かれるガーゼではなく、黒い革製の眼帯でそれを隠すように左目の前髪が長かった。彼女は店にいる者と挨拶を交わして、カウンターの一番端に座る。

「なるほどね。レイがいるって事はお仕事かな。最近はずっと工房に籠もりっぱなしだったから久しぶりに探偵業もしたいところだ。海斗ー、今日のパンは?」

「今朝はロッゲンミッシュブロートに挑戦してみました」

 得意気に笑う海斗にセラスは目を輝かせる。

Ichうれ binしい froh!ね! いやー、日本の米も美味しいけどやっぱり朝はパンに限る」

 セラスは嬉しそうにそう言うと海斗の用意していたコーヒーを受け取った。

 セラスはドイツ出身だ。ドイツ人のパン消費量は世界一で街には朝早くから焼きたてのパンの香ばしい匂いが溢れている。そんな彼女はやはりパンの味にもうるさかった。日本の食パンは酸味のパンチがないと言って遠くのパン屋まで足を運ぶ彼女を見ていた海斗は、余って仕方が無い時間を費やしてパン作りに専念している。

 海斗はセラスがかなりの良家の令嬢だと朱夏から聞かされている。家柄的に朱夏の下で働くような人物ではなく、デパートで服を買うように準大手企業を買収できる財力があり、その上朱夏にとっては無くてはならない技術屋だ。朱夏は事務所の将来を考えるなら何としてでもセラスを側に置いておけと海斗に命じて丸投げしている。

 そこで海斗は苦心して考えた末に少しでもここでの生活が気に入るように餌付けをせっせと試していた。おおむねこの試みは成功と言えるだろう。

「レイ、それで何の仕事? なんとなく分かるような気もするけど」

 コーヒーを飲みながらセラスはレイに尋ねる。

「最近、ここの近くを賑わせてる事件ですよ」

「ああ、やっぱしね。朱夏が喜びそうなことだな。私も興味あったし出番あるといいな」

「全員で調査にあたるといってましたよ」

「お。そいつはいいね。なら新開発した試作品を試してみるかな。ふふふ、けっこう自信作で彩加から教えてもらった式神の―――」

「セラスさん、レイさんが困ってますよ。俺達にその話しをしても到底、理解できません」

 ペラペラと話し出したセラスの言葉を遮り、とうていを強調しつつ海斗がそう言った。

「そうだった。ごめんごめん。お仕事なら今回は自由に動けるといいなー。前回はがっちがっちに行動制限されていたから調べづらかった」

 率直に物を言うセラスにレイは申し訳ない顔をする。

「あのときはすみません。あそこまでああも拒否されるとは思ってもいなかったからですね」

「別に責めてるわけじゃないよ。あれはあれで楽しかったからね。行動を制限されてクリアするアクションゲームと一緒だね。難易度が高いほど燃える」

 セラスがぐっと拳を突き出す。

 彼女が最近目覚めたのは日本のテレビゲーム。閉鎖的な旧家の城でそういった娯楽を与えられなかった彼女は日本に来ると、今までの時間を取り戻すように日本文化を吸収している。海斗がそれを教えていたが、吸収が行き過ぎて、テレビゲームのアルゴリズムを解析しだしたあたりで海斗は彼女とゲームをしなくなった。もはやボタンを入力してゲームを楽しむというレベルではなく、ゲームを作り出すことのできる人物と遊んで何が楽しいのか海斗には分からなかったのだ。

 レイ達が会話している目の前で海斗が鮮やかに朝食を並べていく。ちょうどその準備が終わった頃を見計らったように二人の人物が降りてくる。

「おー、おはよー」

 軽薄そうな男が気だるげな挨拶をした。その風体は、黒いレザーのスタジャンの前を開けて赤いアロハを見せ、デニムを履き、銀縁の丸いサングラス、髪は癖毛で鳥の巣のようにもじゃもじゃしている。普通なら昔の俳優を真似たコスプレという印象を受けるが、その彫りの深い顔は愛嬌があって妙な魅力を帯びていた。社員の誰もがそのファッションを好まないが、彼が着ると何故かそれしかないと思わせる格好だった。

 榛原はいばら 道明みちあき

 伝説の逃がし屋として日本のある一部の者達から絶大な信頼を得ていたが、とある事件から赤神心霊探偵事務所の雑用兼ドライバーとしてアルバイトをしていた。彼だけがアルバイトなのは完全に逃がし屋を引退したのではなく、時たま副職としてレイの依頼を受けているからだ。社員に副職を禁じている海斗が彼をアルバイトとして雇用してはいたが、待遇は社員と大して変わらなかった。

 その道明の気だるげなと格好を頭からつま先まで見たレイは眉を吊り上げる。

「道明、またそんな格好しているのか。この前贈ったスーツはどうした? 彩加の保護者としてジャケットぐらいは着てくれ」

 レイのたしなめる声に道明は頭を掻きながら大きく欠伸をする。その涙のにじんだ顔で面倒くさそうに口を開く。

「服ぐらいは好きにさせてくれ。お前が呑気に朝飯を待ってるって事は仕事だな。また面倒くさい話を持って来たんだろ?」

 道明はそう言いつつレイの隣に座り、海斗からコーヒーを受け取った。

「まあ、厄介な仕事だとは自覚しているがな。それよりもだ、道明。スーツと一緒に渡した美術館のチケット、あれまだ見に行ってないんだってな。彩加にもっと芸術に触れさせる機会は必要だろう。何故行かないんだ?」

 レイは顔をひそませるだけだが、整った美形にそう迫られると威圧感があった。それを何処吹く風と受け流しながら道明はコーヒーを口につける。

「スーツ着て美術館だぁ? レイ、俺がそんな柄じゃないってわかってるだろ?」

「お前の事は腐ったミカンよりもどうでも良い。何よりも優先すべきは彩加のことだ」

 二人がやり合う姿を海斗とセラスは苦笑しながら見ていた。彼ら二人がやり合うのは何時ものことだ。顔をつきあわせれば口げんかを始める二人に誰も取り繕わない。

 ただ彩加だけは別だった。おろおろと不安そうな顔をして二人の間に入る。

「あ、あのう・・・レイさん、私は大丈夫ですから・・・」

 レイは彩加を道明越しに見て微笑む。

「彩加、遠慮することはない。この不良保護者はパチンコか競馬か車いじりしかすることがないんだからね。それに最近はガーデニングときてもはや呆けが始まるのが目に見えている。今のうちに行きたいところをねだると良いよ」

 道明ははいはい、と受け流しながらコーヒーを飲み、競馬新聞を広げる。

「そろったか」

 のどかな雰囲気の中を切り裂くような鋭い声が響いた。カツカツとハイヒールの音をさせて海斗達の主が登場し、その場の全員の視線が主に向いた。

 赤神あかがみ 朱夏しゅなつ

 黒い絹のようなサラサラとした髪を首の辺りで切りそろえ、鋭く切れ長の大きな目が雌の猛禽類を連想させる。彼女がひとたび道を歩けば通行人が思わず姿勢を正してしまいそうなほどの研ぎ澄まされた美しさと鋭い気品は、否が応でも彼らに近寄りがたい存在だと認識させるものであった。彼女はただ煙草をくわえて社員を見渡しているが、彼女の身を包む服もその身に相応しいだけの価値を燦然と誇っている。光沢感のある黒いカシミア生地で作られた高級パンツスーツ、胸には同色のネクタイを結び、古ぼけたカーキ色の軍用ロングコートとストールを手に持っていた。

 そして、髪と白い首の境目にチラリと光るルビーのイヤリング。彼女は自らの名に誇りをもち、その名の色に関した装飾品を一点加える趣向がある。小粒でも大粒でもない、彼女に相応しいアンティークのアクセサリーは赤と朱に光りながら揺れていた。

 社員達は久しぶりに見た彼女の仕事モードの服に、今から始まる依頼に胸を膨らませた。彼女は、事務所にいる内だと滅多にビルから出ないが、一旦仕事で外に出ると満足が行く成果が上がるまで帰ってこない。つまり、彼女が外にいる間に突然振ってくる無理難題を処理するために社員達の休息はなくなる。期待に胸を膨らませつつ、社員達はそれを覚悟する。

 赤神心霊探偵事務所のメンバーはどれもその分野のトップランナー。各分野の一、二を争う彼らの中でただ一人浮いた人物が首を傾げて朱夏に呑気な声をかけていた。

「あれ? 所長、朝食べたら出かけるんですか?」

 朱夏は自分の席に座りながら返事する。

「ああ、朝食と打ち合わせを同時にして終われば現場に行く。運転は任せるぞ、海斗」

 そう言って朱夏は煙草に火をつけて紫煙を燻らせる。はぁ、と気のない返事をしながら海斗が灰皿を渡していた。

「だったらお店、閉めなきゃならないですね・・・また売り上げが・・・」

「夕方まで営業しても売り上げなんてなかろう。こちらが優先だ」

「それはそうですけどね・・・店長だからやっぱり売り上げは気になりますよ」

 うなだれて言う海斗に朱夏は迷惑だという顔で答える。

「あっても困る。客に居られては落ち着いてコーヒーも飲めないからな」

「それよく言ってますけど、なんで喫茶店なんかしたんですか? こっちは営業許可書とるのにも四苦八苦したんですよ」

「ふむ。言ってなかったか? 理由は、偶々見ていたドラマが面白かったからだ。そんなことよりも朝食にする。いただきます」

 朱夏はくだらないとでも言うように理由を言い捨てると、意外にも手を合わせてそう言った。

 それに合わせて社員とプラス二名が和唱して朝食が始まる。

 この日何度目かわからないため息を吐いた海斗は折りたたみ椅子を組み立てて、まだ見ぬもう一人の社員に思いを馳せていた。

 草薙くさなぎ桜花おうか。ぶっきらぼうなの幼馴染みとはもうかれこれ三ヶ月は会っていないな、と彼は少し寂しさを含ませてコーヒーを飲む。しかしすぐに、近々会えるんだったら彼女が好きなとびっきり美味しいサラダを作ろうと、心に決める。そうすると彼は自然に微笑んでいた。


◆◆◆


 事件の発端は十一月に入ったばかりでそろそろ冬物の服を買おうかという季節、街の人達が心地よい風に吹かれてゆっくりと歩くような夜だった。

 翌日の朝、自室でテレビを見ていた海斗はその事件の凄惨さに顔をしかめていたことを思い出す。錯乱した女性が同じマンションの隣の部屋に住んでいた一家を惨殺したと報道され、その事件が自分の街からすぐ側にあると知り、嫌だなとしか思わなかった。事件はその異常な殺害方法から報道で詳しい話は省かれているが、ネットではより詳しい話を調べることができる。

 ネット曰く、犯人はその一家の人達の腹を生きたまま裂き、贓物をほじくり出していたと。

 ネットはお祭り騒ぎで匿名の書き込みに溢れており、その事件を楽しんでいるように海斗は感じていた。でも、海斗にはそれが全く楽しく思えない。怪事件を調査する海斗はその職業柄そういったものを見たことがある。

 苦痛に歪む被害者の顔。惨殺現場の凄惨さ。むせ返るような肉が腐る臭い。被害者の身体を蝕んでいくウジ虫。

 死んでもなお、悲鳴をあげ続ける光のない瞳が、こちらを見ていないにもかかわらず、ずっとこっちを見つめ助けを呼んでいる。

 犯人はすぐに逮捕された。自白や逃亡もせずに自分が殺した死体の隣の部屋で茫洋と過ごしているところを警官に逮捕されたのだ。尋問を受けて犯行を認め、常軌を逸した言動から身体検査と精神鑑定を受ける。

 結果は薬物反応。犯人は薬物の使用だけは否認し、犯人の部屋を捜索しても薬物は見つからなかった。でも、科学的な身体検査から出た薬物反応によって彼女は麻薬中毒者の烙印を押されて事件は解決―――したかのように思われた。

 それから事件がニュース番組から消えかけたときに別の猟奇殺人が起きる。しかも同じ地域で、同じような犯行。今度は男性で隣の部屋の住人は独身男性だった。

 最初の事件とその男性が起こした事件を関連付けたのは至極当然。誰もが固唾を飲み、犯人達よりもその地域にスポットが当てられる。

 その地域は海斗達の事務所から電車で三十分のところにある。たった一本の橋で本土とつながっている埋め立て地。開発当初は海上文化都市として建設され、都心からほど近く二十一世紀に向けた高度情報化社会に適応した近未来都市となる計画だった。だが、交通網の不便さから思ったように計画が立ちゆかず計画は凍結され、中途半端に開発された状態で今に至る。

 その地域で起きた一連の猟奇殺人事件はその地域性と共に大きく報道される。中でも橋を落とせばたちまち孤立する人口の孤島に一部の人達はこう言って面白がった。

 まるで都市規模の不完全な密室殺人と。

 れっきとして橋は存在する。犯行自体は密室殺人なんて大それた物ではなく薬物中毒者の通り魔殺人と同じだ。しかし、人の想像力がそれを越えて、その不可解な事件により怪奇性を持たせていた。

 ニュースのコメンテイターは地域における麻薬の汚染性について言及し、実際に警察も調査に乗り出していた。

 一番の被害者はそこに住む住人達。人口は激減しているとは言え、平和に暮らしていた彼らが突然、全員が麻薬中毒者のように批判される。報道は過熱し、メディア自体が独自に調査するまでに至った。

 でも、麻薬なんて一向に出てこなかった。売買の実態も、若者や大きな繁華街もないその地域であるはずもない。

 メディアも警察も空振りに終わり、犯人達は都心で薬物を購入・使用に至り、帰宅した後に犯行に及んだと解釈された。

 その第二の事件から一ヶ月。ニュースからは事件の話題が消え、ネット上だけに事件がくすぶっていたつい三日前、また同じような犯行が行われる。

 その犯行は早期発見となった。偶々巡回途中の警官二名が悲鳴を聞きつけて、現場に駆けつけると作業着を血で真っ赤に染めた男が隣の部屋の住人を解体していた。狂ったようにもがき、襲われた警官は二人がかりで何とか取り押さえようとするも異常な力で警官を振り払い逃走。一時、百台以上にも及ぶパトカーの捜索でレジャー施設に侵入していた男が発見され逮捕。

 その第三の事件によりニュースを見ていた者達にはもはやこの事件があることにしか思えなくなっていた。


◆◆◆


「やっぱり悪魔の儀式なんですか? 今回の事件って」

 ぽつり、と呟くように聞いた海斗の言葉でその場にいる者達は黙り込んだ。先ほどまで一人で事件のあらましを客観的に説明していたレイは海斗が見ている方へと同じように目を向ける。

「調査もしていない段階で断定は避けるが、何かしらのそう言ったことが関係している可能性は高い」

 朱夏は曖昧に言うが確信している様子で目を向ける海斗達にそう答えていた。

 朝食が雑談で終わってしまったため、仕事の話はレッドムーンの奥にあるテーブル席で行っていた。レイが警察の調書のコピーを朱夏達に配り、事実のみを説明し終わったところだった。

 さきほど海斗が質問したようにいまあらゆるメディアはこの事件を悪魔の儀式と呼んでいる。さすがにお堅い新聞紙はあまり使わない見出しだが、スポーツ紙や週刊誌は大きな見出しで書き連ねている。

 第一、第二の事件まで事件の凄惨性からそう言った話もあったが、第二の事件では犯人が自供する際に錯乱し、供述が得られなかったために犯行動機がハッキリとは報じられていなかった。しかし、第三の逃走した犯人を捜索している混乱状態の中、不用意に警官がメディアに口走ってしまったため第一の犯人と全く同様の犯行理由であったことが漏れ、騒然となった。

 犯人が口々にする犯行理由は『死者を生き返らせる』というあり得ない物だった。

 これを各メディアは悪魔の儀式と報じることになる。

 裏でカルト宗教が糸を引いている。サブカルチャーによって幻想と現実を混同している。はたまた実際に中世で行われていた悪魔崇拝の儀式を引用して、魔女の存在を訴える者も出始めた。魔女に関して海斗は存在を認めている。少なくとも首を左右に振るだけで三人は発見できる。

「まあ、レイもいることだし、ついでだ。少し説明しよう」

 社員がペラペラと調書を読んでいる中で朱夏は何気なく話し始める。

「悪魔の儀式とは言っても抽象的すぎる。カバラ魔術、召喚魔術、呪術、密教といったものだな。死者を復活させるのであればブードゥーや死霊魔術があげられる。現段階では特定はできない。しかし・・・。海斗には昔教えたことがあるな。そう言った儀式魔術に必要なものはなんだ?」

 朱夏はレイから目線を外し、教師のような口調で海斗に問いかけた。

 海斗もこの約二年の間、様々な経験をして少しは魔術のなんたるかを記憶できるようになっていた。

「霊脈です。風水では地脈、龍脈と言われています」

 その答えに朱夏は頷く。

「その通りだ。儀式で必要な魔力を得るために霊脈からマナあるいは気を取り込まねばならない。ここで問題になるのは事件が起きているのが埋め立て地ということだ。本来、埋め立て地は人工的に作られた土地で、最近では霊脈を人為的に引くなんて殊勝なこともしない。そんな土地に好き好んで魔術師は住み着く訳がなかろう。もしこの事件が降霊ではなく死者蘇生というイエス・キリスト以来の超大魔術が目的なら、それこそサハラ砂漠全部を使って稲作をするようなものだ。とは言え、埋め立て地に霊脈が通らないという訳ではない。。例え人工的に作った土地でも数万年も経てば自然に霊脈が通る」

 朱夏は顎に手を当てながらそう語っている。その仕草は霊脈のない土地で死者蘇生が不可能であると自分に言い聞かせているようにもみえた。レイは感心したように聞いていたが、海斗は朱夏の様子を目聡くみて首を傾げる。

「所長、もしかして時間以外の方法があるんですか?」

 海斗の指摘に朱夏は少し目を細めて驚いていた。

「ほぅ。よく分かったな。海斗、私が良く口にする捜査の第一段階はなんだ?」

 彼は朱夏の隣でそれを何度もしてきた。魔術が関わっている可能性があると疑えば一番始めにする大事なこと。

「週刊誌、新聞、ニュース番組で事件の報道に注目し、世間の噂を調べることですね」

 朱夏の質問に海斗は淀みなく答えた。

 噂や都市伝説。真偽は別として世間でその事件がどのよう伝えられているかだ。それが魔術が関わった怪奇事件を調査するための最重要事項。

 魔術は秘匿されるもの。一般的な魔術師がまず始めに習う。だが朱夏はそれはどうでもいいと言う。確かに、魔術は秘匿すると効果を増強できる。しかし、それは魔術のほんの一面。秘匿にとって一番重要なことは魔術を行使する術者の管理下に置くことだ。噂は容易く術者の管理を越えて魔術を変容させてしまう。

 朱夏は手元の煙草を一本くわえて、火をつけ紫煙を燻らせる。

「では話は長くなるぞ、覚悟しておけ」

 朱夏は海斗とレイに向けて講義を進める。

「噂とは魔術師にとって諸刃の剣。一例をあげるならば、中世末の魔女狩りだ。皮肉なことにこの事件が悪魔の儀式と言われるのはある意味、的を得ているかもしれないな」

 朱夏は皮肉な笑みを浮かべて、ふぅと白い煙を吐き出した。

「話を戻すと、もともと魔女狩り時代の悪魔の儀式と呼ばれたものは土着宗教崇拝。悪魔ではなくその土地に土着していた神をただ信仰していただけに過ぎない。それを悪魔に仕立て上げたのはカトリック教会だ。彼らは自らの神を信じるあまり、異教の神を悪に仕立て上げて噂を流布させた。そして、実際に悪魔になったんだよ。この話の重要なところは噂が悪魔を作り上げたことにある。弾圧されて純粋な異教を信仰していた魔女達は絶叫の中で火あぶりにあったが、反面一部の魔術師達にとっては最高の黄金時代となった。それは召喚魔術師達だ。有名な魔術書グリモアールにソロモンの諸書があるが、それはソロモンの原典をもとに中世末の魔女狩り時代で書かれたもの。まあ何が言いたいかと言えば、噂の流れに押し潰されたら火あぶり、波に乗ることができたら大魔術を作り放題ってことだ」

 海斗が頭を捻り、レイは話についていけないのかポーカーフェイスで笑っている。それを見たセラスが苦笑して口を開いた。

「朱夏、分かりにくい。海斗、レイ、要は噂を利用すれば死者蘇生なんて超大魔術ではなくとも大魔術ぐらいはできるってことだよ。事件の裏で糸を引いている奴がいれば、噂を利用しようとしているかもしれないって朱夏は言おうとしているのさ。そこでまずすることは、噂が操作されていなかを調べること。ほら、朱夏見てみなよ。海斗達もやっとわかったって顔をしているじゃん」

 そう言ってケラケラとセラスが笑った。事実、レイと海斗はやっとわかったと安心した生徒のような顔をしている。それを見て朱夏は少し不機嫌そうに煙草を灰皿に押しつけた。

「私は教師ではない。講義のまねごとなんことに時間を割く無駄をした」

 ぶつくさ呟き、朱夏はレイに鋭い目を向ける。

「レイ、確認することは二点だ。一つは地域の住人達の様子。二つ目は検出された薬物の詳細だ」

 鋭く見つめられてレイは緊張しながら記憶を辿り話し始める。

「住人達はさきほど説明したように異様だと聞いております。閉鎖的になるのはわかりますが、第三の犯行があった際、被害者の悲鳴にも反応せずただ部屋に閉じこもってたそうです。普通なら警察に通報するんですが・・・。刑事の調査によると住人達は誰も調査に応じず、なんとか強引に聞き込みをしたところ、その住人達は悪魔を見たものは悪魔になると信じ込んでいます。となりで殺人が行われようと耳を塞ぎ、ただ怯えるだけ。その証言は噂としてその地区全員が信じ込み、ベテランの刑事でさえ、押し黙る住人を気味悪がっているみたいですね」

 腕を組みレイの話を聞いていた朱夏はふむと頷く。

「もしかしたら土地に縛られているかもな。そうであれば、より魔術の関与の可能性が高い。で、薬物の方はコカインだけか?」

「調書に麻薬のコカインだけが記載されていますが、実際にはI-ヒヨスチアミンつまりアストロピンが大量に検出されいるみたいですね。あと、複数の成分…これはハーブなどの薬草に似た成分がごく微量ではありますが検出されています」

 レイの答えに海斗と道明以外の者が何かに気づいたような顔をする。

 この打ち合わせの間中、道明は基本的に話を聞いていない。朱夏達は、彼が話を熱心に聞くよりも直感に従わせたほうがいいと理解していた。

 考え込む朱夏の代わりに彼女の考えをセラスが代弁する。

「これはあれだね。まさに魔女の悪魔崇拝・・・サバトだね。真犯人は女性かな? よくやるよね、こんな極東で中世末のサバトを再現するなんてさ。ドイツ生まれの私に喧嘩売ってるのかな?」

 セラスは笑って言っているがその目は怒りに燃えていた。

 それもそのはずで魔女狩りで最も犠牲が多い国はドイツだ。そして魔女狩りが収束したのも同じくドイツで1755年の魔女裁判で最後となっている。

 祖国の暗い歴史を思い出し怒りを滲ませているセラスを朱夏は見ていた。

「セラス、お前には因縁深そうな事件だな。お前の祖国のためにこの事件を解決させろ」

「うん、期待してて、朱夏」

 セラスが力強く頷く。

 朱夏は少し椅子にもたれながら宙に目を向けて自問するように呟く。

「ふむ、考えさせられるな。魔女狩りの終焉は、魔術が科学に敗北させられた証明。産業革命であらゆる魔術師達は科学という強力な魔法によって・・・いや私からしたら科学という噂で変革させられたからな。まあいい」

 朱夏はそう呟くと今度は姿勢を正して、尖った目線を社員に向ける。

「レイ、御苦労。説明は十分だ。道明、お前は昔の伝を使ってアストロピンの出所を探せ、特に朝鮮朝顔、ハシリドコロ、そして一番可能性が高いベラドンナの3種類の植物を扱っている店と人物リストの調査。セラスと彩加は私と海斗、レイとは別の車で現場に向かえ。現場の確認が済んだら儀式の痕跡を調査しろ。もしかしたら地域全体、あるいは住人達全員が儀式の魔法陣になっているかもしれんぞ。何時もの通りにしてくれればいい。レイ、忠告しておくが、たかだか七人程度の被害者で死者は蘇らん。おそらく犯人はまだ出てくる。私と共に来い。では各自準備のために一旦解散、支度は15分だ」

 矢継ぎ早に朱夏が指示を出すと社員達は了解と口々に頷く。

 この瞬間、世界でもまれな才能の持ち主達は自らの力を発揮するために動き出した。

 そんな中でただ一人、海斗はたっぷり入った経費で久しぶりに法人用のクレジットカードが使えて楽ができると喜んでいた。処理をいっぺんにできる法人のクレジットカードは朱夏の事務所で滅多にできない贅沢だったのだ。

 

 朱夏達の予想は当たり、そしてそれ以上に大きく裏切られることになる。

 この事件はただの一地域に止まらず、世界をも震撼させる脅威になりつつあった。

 赤神探偵事務所の威信をかけた調査がいままさに幕を開ける。


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