第8話 これから

「覚悟を決めたみたいだね」

「…うん」

 アヤネの言葉に、ナホは小さく頷いた。婚礼用の真新しい白装束がサラサラと音を立てる。高価な絹が奏でるそれは本来なら耳に心地よいはずだろうが、今は不快でしかない。

「良かった」

 穏やかにそう告げた彼女を、ナホは上目遣いに睨み付けた。

 何もいいことなんてない。あれからもう何日も経っていたが、気分は一向に悪いままだ。

「そんな顔をするものじゃない」

 そう言ってアヤネはふうっと息を吐いた。そしてナホを真っ直ぐに見据えると、重々しい口調でこう続ける。

「あなたはこれから進む道を選んだ。だから、その道を精一杯生きなければならない」

「わかってる。そう示してくれたのはあなたじゃない。だけど」

 そんなに簡単に割り切れるものじゃない。ナホは心の中でそう叫んだ。

 あれから、まだそんなに日は経っていない。こんな短時間で、現実全てを受け入れられるわけがない。色んな行動で現実逃避をしていたせいもあるのだろうが、まったく地に足が付いている気がしなかった。まるで夢の、とは言ってもかなりの悪夢だが、中にいるようなふわふわした気分だ。

「自分を守るためだけなら、こんなに苦しい思いをしなくてもいいのにね」

「それはどういう意味?」

 アヤネの鋭い視線を受けて、ナホは首を傾げた。

「もしかして、自分が悲劇の主人公になるっていう美談にしていない?」

「そんなこと」こちらが口を開くより先に、刃より鋭い言葉が飛んでくる。

「ぐだぐだ言い訳しても、結局は命が大事なことには変わりないんだから。親を、一族を守りたいって言っても、それだって自己満足だよ。だれもそんなことをあなたに懇願したわけじゃないんだから。あなたはあなたの思いを通すために生を選んだ。それが真実。たしかに私はあらゆる手を使ってあなたの命を助けたけれど、それだって生きようとする思いがほんのわずかでもあったから成功しただけ。生きることを選ぶのは誰だって当然のことなんだから、勘違いしない方がいい」

「…相変わらず、厳しいね。わかった。覚えておく」

 アヤネの言い分に圧倒されて、ナホはそう答えるのがやっとだった。

「ごめん。少し言い過ぎたね」

 彼女がきついのは今に始まった事じゃない。この数日間、心身ともにたっぷり味わわされてきた。

「ううん。いいの。私は、私のために生きることを選んだ。だからそのために最善である道を選ぶ。それが生き地獄になろうとも、ね。これが私の覚悟だよ」

 ナホはそう言って天を仰いだ。見渡す限りの青空が、自分の答えは正しかったと言ってくれているような気がする。遠くに広がる山々の向こうにも、海の向こうにも、彼はもういない。想うだけで涙が出そうになったが、強く瞬きをして振り払った。

「さよならは言わない」

 ナホは広い空に向かって呟いた。

 これは永遠の別れじゃないから。今は少し離れているだけだから。

 私に課された責を果したら、堂々と会いに行く。だからそれまで待っていて。

 

「今朝はずいぶんと清々しいな」

「ええ。久しぶりの晴天ですね」

 アヤネはそう言って、束ねただけの髪の毛先をくるくると指に巻きつけた。正装をしているタケハヤとは違って、彼女はまだ衣服を改めていない。

「結局はすべて思い通りというわけですか」

「その言い方は引っかかる。計略通りと言って欲しいものだな」

「どちらでも同じでしょう。あなたはその力をもってして、国と望む女を手に入れた」

 アヤネの言葉には棘があった。理由は言うまでもない。タケハヤとナホへの不満だ。

 戦の後、出雲の長は自ら進んでその地位をタケハヤに受け渡した。彼が高国との一切の関係を絶つことと、この国の独立を宣言したからである。高志という敵を排して浮かれ気分になっている民たちは、喜んで彼と彼がもたらすであろう国造りを受け入れた。そして新たな指導者の望みに応えて、ナホを『献上』したのである。結局、彼女が人柱になったことには変わりなかったのだ。

「彼女の決断が気に入らないか」

「…ええ」

「ナホは誰しもが望む答えを出した。それの何が不満だ」

「ハヤヒコの後を追うという選択肢もありましたけど」

 そうは言ったが、アヤネは自分の気持ちが矛盾していることもわかっていた。この数日間、何度も命を絶とうとしていたナホにそれをさせなかったのはアヤネ自身なのだ。

 泣き叫ぶ彼女から刃物を取り上げたり、毒をあおろうとするのを妨げ、食事をとらない彼女の口に無理やり食べ物を突っ込んだ。ぼろぼろになっていくナホに終日張り付き、何度も説得した。そうしてようやくナホに『生きること』を約束させたのだ。

「おかしなやつだ。こうなったのはお前の力あってのことだろう?」

 タケハヤはそう言って軽く笑った。その顔には晴れやかさしかない。見慣れたものだというのに、なぜだか今日は眩しく思えた。

 彼は負けを知らない男だ。これまでも、きっとこれからも。自信と活力に漲った彼なら、この国の礎となる存在にまでなることだろう。

 

 タケハヤがナホに目を付けたのは、初めはもちろん策あってのことだった。敵の大将絡みの女を押さえておくのは、戦の常套。だが次第に彼はそれとは別の感情に突き動かされてしまった。純粋にナホに惹かれ、得ようとし始めたのだ。

 ただ、アヤネにはそうなることは何となく想像できた。身分も性格も容姿も何一つ似たところはないけれど、どことなく、生まれもった素質というような漠然とした点では姉君様に似ている気もしたからである。

 でも、そうなるとタケハヤの思い通りにはしたくなくなった。

 彼は姉君様を毛嫌いしているように見えて、心の奥底では想いを寄せている。それは実の姉に対して抱いていい感情ではない部類のものだ。タケハヤは否定するだろうが、近くにいたアヤネには察せられた。そして当の本人、姉君様もそれには気付いている。それでいて良い様に利用をしているのだ。一見冷たいけれど、実は弟想いの姉という役を演じ、タケハヤを手の上で操り、彼に気付かれぬように自分に必要となる仕事をさせているのである。

 もちろん今回の国外追放だってすべて計算づくだ。アヤネを手放したことも彼女の策の一環。

「必要とあれば、殺せ」

 彼女はアヤネが国を去る直前にそう言った。そこには弟への感情などちっとも籠められていなかった。国土の拡大と自らの権の強化、彼女にとってはそれが全てであり、妨げるものがあれば怖ろしいほどに容赦をしない。

「理由もなくお前を奴に下げ渡したわけではない。お前は私の刃なのだよ」

 姉君様は妖艶な笑みを浮かべながらそう言ったが、その瞳は氷のように冷たい色をしていた。

「判断は任せよう。我が利にならないとお前が認めた時には、ためらうことはない」

 アヤネの頬に触れる彼女の指先は温かかったのに、強烈な寒気に襲われた感覚ははっきりと覚えている。彼女にとってはタケハヤとて、アヤネと同じただの使い駒。なんだかんだいっても彼女の美しさに魅入られている彼には、その真意までは読み取れないのだろう。彼の目にはきっと彼女が作り上げている仮面の部分しか映っていない。そうやって都合の良い所しか見えていないのだから、想いを断ち切ることなんて出来るわけもないだろう。だから代わりを必要とするのだ。

 結局のところ、タケハヤはナホ自身が欲しいわけじゃない。彼女にちらついて見える姉君様を欲しているのである。叶えられない想いを遂げるために、ナホに生き地獄を味わわせようとしているのだ。それをわかっていながらも、アヤネにはどうしてもナホが自ら死に向かうことを良しとすることは出来なかった。

 生まれ落ちたからには、何があっても生きねばならない。ナホの意思に反しようが、その処遇を託された以上はアヤネの信念に従ってもらうしかなかった。

 アヤネはぎゅっと目を瞑った。瞼の裏には一人の若者が映る。武器で、毒で、これまで何人を手にかけてきたかなど覚えていないくらいだというのに、彼の最期だけは鮮明に覚えている。アヤネの生まれて初めての、そして最後の恋だった。想いが叶うことはないとわかっていたのに、彼を失った時は身が切られるように辛かった。いっそ消えてなくなりたいとまで思ったけれど、そんなこと出来るわけもない。どんなに苦しい思いをしようと、上からの命令には逆えない。従うことが生きるために必要だからだ。

 どんなことをしても生き延びる。それがアヤネの信条であり、自然の道理だとも思っている。だからナホが『生命』をあっさり捨てようとすることが不思議でならなかった。なぜハヤヒコの最期と自らのそれを重ねることを当然とするのか。彼女にとって一番大切なものは何なのか。考えても、考えてもわからない。

 結果としてナホは生きることを選んだけれど、そう決めた今でさえ、生と死というどうしようもない壁を必死に越えようと足掻いているように思える。きっと心の奥底では自分で出してしまった答えと葛藤しているに違いない。何の取り柄も無さそうなただの村娘だと言うのに、その芯の強さにはいつも驚かされる。理不尽に怪我を負わされようと、人から後ろ指を指されようと、決してハヤヒコへの想いを揺るがすことのなかった強さ。それこそがタケハヤを惹きつけた部分なのだろう。

 たしかにナホならば、彼の目指す国造りに力を貸す存在になるかもしれない。

「ところで、だ。そろそろお前に処分を下さねばなるまい」

 タケハヤは不意に話題を変えた。内容に相応しくない明るい口調だ。

「わかっております。いかなることも覚悟の上ですから」

 ナホを勝手に連れ出したこと、ハヤヒコの居場所を知っていて報告しなかったこと、その他諸々の単独行動についても、今まで彼は触れてこなかった。まずは勝利、その後は敵方の処分と、考えるべきことがたくさんあったから後回しにされていたようである。

 自分の手足となる部下の反抗を彼は決して許さない。今までのやり方は嫌と言うほど間近で見てきた。相当に軽くて追放、通常なら自害、重ければ斬首だろう。

「お前は今後ナホに仕えよ」

「は?」

 予想だにしなかった言葉に、アヤネは思わず首を傾げた。タケハヤはその反応を面白がるかのようにけらけらと笑った。

「聞こえなかったか?お前は今後も我らの傍らに居てもらう」

「私を生かしておくのですか?」

 アヤネは目を見開いたままそう問い返した。彼がそんな甘い処分を下すことなど、有り得るわけがない。全く信じようとしないアヤネに、タケハヤはゆっくりとこう告げた。

「ただ、一度だけ姉君の元へ行ってもらう。吾の遣いとしてな」

「用件は?」

「この剣を渡してくれ。出雲をおとした証として」

 タケハヤはそう言って、腰に差した剣を大事そうに撫ぜた。磨いてはあるようだが、柄にはうっすらと赤色が残っている。

「大した剣だ。しっかりと作り込んである」

元の持ち主へと思いを馳せたのか、タケハヤの言葉にはいつにない重みがあった。

ハヤヒコの体からそれを外したのはアヤネだ。ナホに渡そうかとも思ったけれど、間違いなく彼の元への道筋を辿る道具と化すと判断してやめたのだった。

「吾の手元に置いておきたいところだが、色んな面でいい影響を及ぼしそうにないからな。それにこれだけの質のものを献上するのだから、吾の反省も伝わるだろうよ。それが終わったら必ずまた戻ってこい。この地に根ざして生きていくのも悪くなかろう。お前もいい加減、平和というものを知った方がいい」

「へいわ…」

「そうだ。我はこの国を一から築き直すつもりでいる。信頼できる部下は何人いても足りん。戦の最中の行動は褒められたものじゃないが、ナホの件では十分すぎるくらいに働いてくれた。それで帳消しだ」

 そう告げるタケハヤは、あの戦以来別人のように違って見えた。言葉にはしづらいが、あえて言うならば度量がかなり広くなった。感情に任せて行動するということはなくなっているし、考え方も柔軟になっている。部下達も一様に驚いていたから、アヤネの偏見というわけではなさそうだ。

「いまに見ていろよ。姉に負けない国を造り上げてみせる」

 タケハヤは自信漲る表情でそう言うと、快活な足取りでナホの待つ場所へと進んで行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

オロチ退治 @mukumimihana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ