第7話 別離

「開けてよ。ねぇってば!」

 内側には鍵の類は見当たらない。となれば、外から閉じ込められているのだろう。ナホはドンドンと威勢よく戸を叩いた。ナホがいくら叩いても蹴っても、目の前の頑丈な扉はびくともしない。それもそのはず、戸は普通のものより三倍の厚さがあり、さらに外側には大きな閂が三つほどかけられているのだ。とても女の力でどうにかなる代物ではない。

 気が付いたときには、ナホはこの闇の中にいた。外からの明かりも声も届かない狭い小部屋である。当面の水と食糧が用意されていることは、目が慣れてからようやくわかったけれど、手を付けられる気分じゃなかった。

「タケハヤ、絶対に許さない」

 ナホは唇を強く噛んだ。彼に会った直後に意識を失くし、気が付いたらこの有様だ。あの時、無防備だった自分に腹が立ってくる。

「いつまで、こんなとこにいなきゃいけないの」

 扉に背をもたせ掛けながら、崩れるようにしゃがみ込んだ。外では戦になっていることだろう。

 ハヤヒコは無事だろうか。みんなはどうなった?こんなところに閉じ込められてしまっては何もできないし、何もわからなかった。

 膝を抱えて座り込んでいると、急に足元に涼しい風が当たった。顔を上げてみると、一直線に伸びる光が見える。その出所は小さな穴だった。さっきまでは確かにこんなものはなかったはずである。

「誰かいるの?」

 ナホは這いつくばりながらその穴に近づくと、外に向かってそう問いかけた。

「生きているね。良かった」

 返ってきたのは若い女の声だった。感じからすると自分と同じ年頃かもしれない。ナホは勢い付いて、更に穴に顔を近づける。

「お願い、扉を開けてちょうだい。ここから出してほしいの」

「…それは無理。お前を出すなとの命を受けているから」

「お願いだから」

「事の顛末が見えるまで、そこにいた方が良い。それがお前のためだから」

「あなたは誰? 戦は? ハヤヒコ様はどうなったの?」

 ナホは脈絡もなく、矢継ぎ早に質問を続ける。外界との唯一の繋がりをようやく見つけたのだ。こんな機会を逃すわけにはいかなかった。

「出してくれないのなら、せめて答えるくらいはしてよ」

 必死に訴えるも、なかなか回答は返ってこない。長い間にイライラしたけれど、辛抱強く待ってみる。しばらくしてようやく相手が口を開いた。

「私はアヤネ、タケハヤ様の側近。戦は出雲側の勝利、ハヤヒコは逃亡中」

 こちらからした問いの分きっかりしか、答えはなかった。内容もともかく、簡潔すぎるそれにナホはますます苛立ちを募らせる。

「出雲の勝利?逃亡って、ハヤヒコ様はどこへ?」

「高志軍は早々に酔いつぶれて壊滅。ハヤヒコはわずかな手勢を連れてどこかへ雲隠れしているよ」

「生きているのね?」

「それはわからない。私が把握しているのは、こちらが討ち取ってはいないということだけ。彼がどこかで自害を選んでいれば生きてはいないだろうね」

 アヤネという女は淡々とそう述べた。だからこそ真実味があった。

 ナホはへなへなと床にへたり込んだ。

 出雲が勝利した。この地に住む民からすれば、それはとてつもなく喜ばしいことだろう。長年に渡って積もり積もった恨みを晴らせたのだ。これでもう高志からの圧政から放たれることが出来る。理不尽な苦しみに耐える必要がなくなる。忌まわしいオロチから解放されるのだ。

 だが、ナホは素直に受け入れられなかった。ハヤヒコと生きると覚悟した自分にとっては、息が止まるほどの衝撃があった。故郷を裏切り、捨ててまで彼を選ぶことを決めたのだ。たとえ幸せになれなかったとしても、彼がいればそれでいい。そう思って描いてきた未来が、ガラガラと音を立てて崩れていく。

「ハヤヒコ様…」

 ナホは知らずの内に彼の名を呟いた。

 自分を呼ぶその声が耳元で聞こえる気がする。抱き合った時のその体の温かさが全身に伝わる気がする。彼がすぐ傍で微笑んでいる気がする。

 だが、全てはやっぱりナホの妄想でしかなかった。現実はまだ暗い小部屋の中、一人ぼっちで閉じ込められているのだ。

 ナホはふっと思い立ってすくっと立ち上がった。その気配を感じたのか、アヤネが言葉をかけてくる。

「奴に会いたい?」

「もちろんよ」

 間髪入れずにそう答える。

 ハヤヒコを信じる、そう決めたのだ。彼に会い、彼の言葉を聞くまでは諦めたくはなかった。たとえそれでどんな結末が待っていようと、ハヤヒコと離れるつもりは毛一筋ほどもない。

「わかった。けれど今はまだ夜更けなの。夜が明けたら外に出してあげる」

「それもタケハヤの命令?」

「いいえ。私の独断」

 明るい口調でそう言ったアヤネに、ナホは興味を持った。もう少し何かを話してみたくて、また腰を屈めて穴に近づいた。

「あなたも高国の人?」

「そう、と言いたいけど、少し違う。物心ついたときには高国にいたけど、本当はどこの出身なのかわからないし、両親の顔も知らない。多分、戦に巻き込まれて家なき子になっているのを拾われたんでしょうね」

 ナホが返事に詰まっていると、彼女はからからと笑い声を立てた。

「変な感情を持たないでくれる?別に不幸だとは思ってないし、今の暮らしに満足してるから」

 一呼吸おいて、彼女はこう続ける。

「私はね、タケハヤ様の姉君に救われたの。あの方はどこにも行く当てのない幼子の私を拾ってくれたばかりか、年頃になるまで手元で育ててくださった。たとえそれが何かを意図してのことであれ、こうやって生きてこられたんだから感謝してる」

「けど、どうして女の身で戦に?」

「女だからこそ、出来ることがある。自分で言うのもなんだけど、見目は良いし、腕も立つ。利用価値はいくらでもあるよ」

 アヤネは自信たっぷりにそう言ったが、正直ナホには理解できない話であった。彼女とナホでは生きてきた環境が違いすぎるようだ。戸惑っていると、彼女の方からこう問いかけられた。

「お前は?何で国を裏切ってまで、ハヤヒコを選んだの?」

 興味があるんだよね。そう続けたアヤネの口調には、単純な疑問以上のものはなさそうだった。ナホは差し込まれる一筋の光を見つめながら、ふうっと息をついた。

「…あの方をお慕いしているから。それだけ」

「へぇ。それだけで故郷を敵方に差し出せるんだ」

 彼女の言葉はぐさりとナホの胸に刺さった。だがそのきつさの割には非難めいた色はなく、驚きというか感心しているかのような口ぶりだ。

「私は愛だとか恋だとかには興味がないからわからないけど、そんなもんなんだね」

「タケハヤは?その対象じゃないの?」

 まさかと言ったアヤネは、さもおかしそうにけらけらと笑った。

「冗談はやめて。あの方に付き従っているのは、姉君様からそう命じられたから。タケハヤ様が私を見込んで頼み込んだらしくてね。それで彼に下げ渡されたの」

「それじゃまるで物みたい」

「言ってくれるね。あなただって人柱、いわゆる高志への貢物じゃない。たまたま相手が望み通りになったってだけでしょ。所詮、この世は力在るもののためにあるようなもの。弱いものは彼らの手駒として生きていくしかないんだから」

 そう告げる彼女の言葉には重々しさがあった。きっとナホには想像もつかないような経験を数多くしてきているのだろう。今いる距離は壁一枚を隔てているに過ぎないけれど、随分と遠い存在のように思えた。それが何だか寂しくて、少しでも近づこうとナホは外にいる彼女と背を合わせるようにして腰を下ろした。

 しんという静寂がまたナホを包む。アヤネの気配は感じられるけれど、彼女はあれきり口を閉ざしたままだった。それでも近くに誰かがいるということだけで、かなり落ち着けるものらしく、さっきまでのように不安に押しつぶされそうになることはない。

「ねぇ、一つ教えて」

 しばらくして不意にアヤネが口を開いた。何を、と聞き返す前に彼女はこう言った。

「タケハヤ様はあなたを思ってここに閉じ込めた。そんな彼の想いに応える気はある?」

「ない」

 ナホは即答した。

「私はハヤヒコ様と一緒にいるって決めたから」

「それは彼に何かあれば、後を追うということ?」

「…考えたくもないけど、そういうこともあると思う」

 服の裾をぎゅっと握りしめながら、自分の気持ちを確かめる。それを受けたアヤネは一拍置いた後、淡々とこう言った。

「敗者は勝者に従わねばならない。その掟は絶対だと思うけど」

「そうでしょうね。でも、やっぱり私には出来ない」

 ナホは誰に見せるわけでもないが、頭をぶんぶんと振った。ずっと属国の中で生きてきたのだから、強者に虐げられる苦しみは十分にわかっている。そして逆らうことの難しさも身に染みて知っている。敗れた者に選択権などなく、ただひたすらに這いつくばることしか出来ない。もうそんな生き方は嫌だった。

 ナホは心の内のモヤモヤを吐き出すように大きくため息を吐いた。するとアヤネはくすりと笑い、そして静かにこう告げた。

「…さっき、一つだけ嘘を吐いた。私もね、一度だけ恋したことがあるの」

「え?」

「相手は敵方の将。タケハヤ様の命令で彼の懐にもぐり込んで、互いに心を交わした。もちろん騙すつもりだったけれど、途中から私の愛情に偽りはなくなってた。本当に優しい人で、このままずっとそばにいたいとさえ思ってたのに、結局は命を奪ってしまった。彼は私の腕の中で最期を迎えたの。その時の、裏切られたと知った時の彼の瞳は忘れられない。憎しみはどこにもなくて、悲しみでいっぱいだったの。それなのに私は涙一滴さえ流さなかったから、きっと本心は伝わってない。心がずたずたになっていたのに、彼にはそんなことはわからないだろうし、非情で狡猾な女だったとしか映っていなかっただろうね」

「そこまで想っていたのに、どうして?」

「命令だから」

 アヤネは悔しそうに言った。

「私が彼に近づいたのはタケハヤ様の命を受けてのこと。その事実を無しにすることなんて考えもつかなかったから」

 ナホは思わず絶句してしまった。

彼女は何も間違ったことをしていない。主に忠実であっただけだ。けれど人として、女として正直な生き方とは思えなかった。

「上からの命令に逆らうことなんてどうやって考えつく?だって、それが当然としてずっと生きてきたんだよ?どうしてそれに反しようなんて思えるのかがわからない」

 アヤネの気持ちは痛いほどに伝わってきた。ナホだってずっと同じ思いを抱えてきたのだ。それが力弱きもののさだめだと、泣く泣く受け入れてきたのである。

「自分らしくいたい。それが私の一番の願いだから」

 よくよく考えて絞り出した言葉だった。

誰もが皆、どんなに辛かろうと生を選ぶ。好き好んで死を選ばない。けれど、ナホにはそれが正しいことだとは言い切れないと思えた。押し付けられた人生を歩んでも幸せになんてなれないのだ。

「お前は変わっているね。不思議な娘だ」

「そうかもしれない。でも、自分に嘘はつきたくないから」

 ふうん。アヤネはそう言って、再び黙り込んだ。

 それからどれくらいの時が経ったのだろう。相変わらず室内は暗いままだったが、壁のわずかな隙間からうっすらと光が差し込んできた。夜明けのようだ。

「そろそろ行こうか」

 ようやく口を開いたアヤネは、何かを決意したかのようにそう言った。ナホは彼女がずっとこの場にいたことにも驚いたが、それよりも彼女の行先の方が気になった。

「どこへ?」

「今、出してあげる」

 ナホの問いかけに答えはなかったが、代わりに戸口でガチャガチャと音が聞こえた。ナホは弾かれる様に立ち上がって、そこにぴたりと体を寄せる。

 開いた瞬間を逃さない。そのことだけに集中していたせいで、飛び出す際の体勢までは意識が行き届いていなかった。結果、ナホはアヤネが戸を引いたのと同時に外に転がり出る羽目になってしまったのだった。

 体はどさっと地面に倒れ込み、したたかに顔面を打ち付けた。

「痛い」

 ナホはジンジンと痛む額や頬をさすりながら、のろのろと立ち上がる。そうして目を上げた時、初めてアヤネの姿を見た。

 整った顔立ちに線の細い体躯、赤みがかった髪、そして印象的な灰色の瞳。女のナホが見てもぼうっとなってしまうくらいの容姿の良さだが、甲冑を纏ったその装いは似つかわしくなかった。

「何?」

 思わず見とれてしまったナホに、彼女は怪訝そうに問う。ナホは小さく首を振った。

「いえ、何でも」

「いつまで転がっている。早くして」

 手を貸してくれる風でもなく、むしろ若干イライラしながらそう言われて、ナホはすばやく立ち上がった。

「あの、出してくれてありがとう」

 アヤネはナホの顔を真っ直ぐに見据えると、念を押すような言い方でこう問いかけた。

「ハヤヒコの所へ行く。一緒に来るでしょ?」

 答えなんか決まっている。ナホは、もちろんと大きく頷き返した。


「取引?」

 タケハヤはつまらなそうに使者に問い返した。

 何となく寝所に行く気になれなくて、櫓の上で夜を明かしたのだったが、朝日が昇ると同時に聞かされた言葉がこれだった。

「もはや奴らに勝ち目はない。こちらが譲歩する必要がどこにある?」

「どうもハヤヒコと高志の領土を引き換えにしようと画策しているようでございます」

「そうきたか」

 タケハヤは髭の伸びた顎を撫ぜた。

 国長にハヤヒコの命をちらつかせて、高志から領土を分捕る。悪くない提案だった。しかし国長がそんな話に乗ってくる可能性が高くないのも、また事実。いくら息子とはいっても、重視する属国をむざむざ失った責を負うべき将である。見捨てることも、自らが処罰として手を下すことも考えられる。いや、むしろ国長ならば、そうすべきだろう。それに父がいくら庇いだてしたところで、既に政権に食い込んでいる兄達はそんなことを許さないはずである。この機を逃すことなく、弟を蹴落としにかかるに決まっている。

「まぁいいだろう。とりあえずは相手方の言い分を聞いてやる」

 タケハヤがそう告げると、使者は深々と礼を取って櫓を降りていった。その姿を目で追いながら階下に視線を移すと、ぴんと張った陽の光に照らされた草草が緑色に眩しく映った。社の森の向こうでは、斐川の水面もきらきらと輝いている。こんな状況でなければ、清々しいほどに気分の良い朝だ。

 話し合いなど建前に過ぎない。くだらない時間になるであろうことはわかっている。だが、一度はハヤヒコという男と正面から話してみたかった。ナホをあれほどまでに慕わせる男、それがどんな人間なのかが知りたかった。

 そんなことを思案している最中、どたばたと駆け上がってくる音が聞こえてきた。ぜいぜいと息を切らしている所からすると、余程急ぎの用らしい。

「も、申し上げます。アヤネ様が姿をくらましました」

 タケハヤの眉が釣り上がる。

「アヤネが?一人でか?」

「い、いえ。監禁していた娘もおりません」

「あいつがナホを連れ出したということか?」

「おそらく…」

 見張り番を仰せつかっていた彼は、痛々しいほど青ざめながらそう告げた。

あの女、何を考えている? タケハヤは指で床を打ちながら、ナホの監禁場所の方角を見やった。

 連れ出した先は考えずともわかる。ハヤヒコの元だろう。だが、その目的はわからなかった。アヤネがナホの懇願に負けたとは考えにくい。彼女はそんな情にもろい女ではないのだ。となれば、単純に自分を裏切るためか、もしくはハヤヒコに意を通じていたのか。命令には忠実だが、奔放なアヤネのことだ。その真意を諮るのは難しい。

「ハヤヒコを探し出せ。一刻も早く」

 タケハヤは唸るような声でそう命じた。ぐだぐだ考えても仕方がない。主要人物を一堂に会するために一番手っ取り早いのはこの方法だ。アヤネの言い分は後から聞くことにして、今は戦に重きを置くことにしよう。


「ハヤヒコ様」

 か細い声がどこからともなく聞こえ、ハヤヒコはふっと顔を上げた。ぐるりとそこらを見渡してみると、斜め後ろの方に人影があった。

「あれは、サンタか?」

 隣にいたイチタにそう問うと、彼もまた目を見開いて驚いている。

「間違いありません。彼でしょう」

 ハヤヒコが彼に向かって手招きすると、サンタとヨンタが滑るように林の中を降りてきた。彼はハヤヒコの前に現れるなり、地面に額をめり込ませるようにして額づく。

「此度の失態、申し訳ございませんでした。すべて、我らの油断が原因でございます」

「一体、何があったというのだ?」

 ハヤヒコに代わって、イチタが詰問する。サンタは頭を下げたまま、急襲にあった事情を説明しだした。

「ちょうど、祭が始まった頃合いのことでした。突然、四方から敵兵が襲ってきたのです。その数は多くありませんでしたが、とにかく強かった。相手は一、対する我らは数人がかりで相手にしていたというのに、次々と倒されたのです。こちらとて精鋭と言える手勢で臨んでいたというのに、その力量には歴然たる差がございました。あれが噂に名高いタケハヤの軍勢なのでしょう。無論、万全を期したと思っていた陣取りに隙があったのは事実です。けれど、どんなに防御を固めていたとしても、あの戦い方では我らに勝機は見出せなかったでしょう」

「聞き苦しい言い訳だな」

 イチタが吐き捨てるように言う。それをハヤヒコは視線でそっと窘めた。

「…申し開きの言葉もございません。我らも出来る限りの応酬はしたのですが、結果はあの通りです。その後ですが、このままでは壊滅すると見切りを付け、幾人かでしたが、生存者を引き連れて陣を捨てました」

「その者達は?」

「実は、その件でご報告がございます。しかし、あくまでもこれは私の独断でしたことですので…叱責は後ほど甘んじてお受けいたします」

 ヨンタは更に深々と頭を下げると、一呼吸おいてから口を開いた。

「此度の祝言に合わせ、さらなる増援をひそかに国長様にお願いして本国より手配しておりました。生き残った者達は、既にその軍勢と合流させております。相手方よりは多少数は見劣りしますが、何とか正面切ってぶつかることが出来るかと」

「…勝手に負けを想定していたということか?」

 イチタが怒りを露わにして問う。その一方で、ハヤヒコは事情を飲み込むのに数秒を要していた。

 新たな援軍。藁にもすがる思いである今の状況において、それは天からの恵みに他ならない。先の先を見越して手配してくれたヨンタには、感謝の気持ちしか湧かなかった。けれど、イチタの言い分も尤もであり、手放しで喜んで見せるわけにもいかなかった。

「申し訳ございません。ですが、今はその責を言い争っている場合でないのも事実。現状を打破した後で、然るべき処罰をお受けいたします」

 ヨンタの言葉に迷いはなかった。やり方が多少強引だったとしても、今回ばかりはどう考えても彼の手柄だ。イチタとてそんなことは十分にわかっていようが、ハヤヒコを国長から第一に託されている彼にまで秘めた策を立てていたことが、納得いかないのだろう。これでは自らの力量を過小評価されていたことにもなるのだ。ハヤヒコはそんな彼の心情を汲みながら、ようやく言葉を告げた。

「わかった。今はとにかく、目前の敵を討つことを考えよう」

 自分でも驚くほどに弱弱しい声だった。総大将の威厳なんてどこにもない。肩書き頼りの飾りものであることは自覚していたつもりだったが、ここまで何も出来ない情けない男であるとまでは思っていなかった。自己嫌悪に潰されそうになったが、そんな甘えを吐いている時ではない。形だけでも強く在らなければならないのだ。

 

 ガサッ。近くの藪から響いた物音に一同が身を硬くした。獣か敵方か。とっさに全員が刀に手を伸ばす。

 夜襲、奇襲は珍しいことじゃない。むしろ、確実な勝利を収めるためには欠かせない策ともいえる。

 姿の見えない相手に、ハヤヒコは背中に冷たい汗が伝うのを感じた。こんな状態で攻め込まれてはひとたまりもない。せっかくの機会を生かすことも出来ずに命を落としたくはなかった。せめてタケハヤと対峙して、彼に一太刀でも浴びせてから最期を迎えたい。

 ドクン、ドクンと心臓が早鐘を打つのがわかる。緊張で神経がはち切れそうだ。

「何者だ」

 ハヤヒコは低い声で相手に問い掛けた。

 姿を現したのは獣でも、敵でもなかった。予想外の人物に、今度は別の意味で心臓が止まりそうになった。そこにいたのは白無垢を身に纏った、ナホ本人だったのである。

「どうして、ここに」

 驚いているのはハヤヒコばかりではなかった。全員が目を点にして彼女を見つめる。と、同時に彼女の少しばかり後方にいた女を見た。

「お前は敵方の、采女と偽った女ではないか」

 イチタが小さく叫ぶ。するとアヤネはくすりと笑んでみせた。

「覚えていてくれて光栄だ。けれど、こうしてナホを連れて来てやったのだから、もう少し快く出迎えてくれてもいいだろう」

「バカをぬかせ。おい、女を捕えろ」

「バカはどちらだ。そう簡単に敵の手に落ちるものか」

 アヤネは快活にそう言うと、素早い動作でナホの首元に鋭い切っ先を突きつける。

「ナホがお前に会いたいと言うから、私もわざわざ危険を侵しているんだ。自らが危うくなれば、当然我が身の保全は図らせてもらう」

 刃先が喉元に当たる感覚に、ナホの額には脂汗が浮かぶ。敵方でありながら、親切にもここまで案内してくれたアヤネのまさかの行動だった。恐怖で声が喉に張り付いてしまう。彼女はそんなナホの感情などお構いなしに、ハヤヒコにこう迫った。

「ナホを手元に置くか、それとも手放すか。さぁ、どうする?」

 彼女の問いを受けて、ハヤヒコとナホの視線がぶつかる。

傍にいたい。ナホは全力でそう伝えたつもりだったが、ハヤヒコの顔には明らかな迷いが浮かんでいた。

「早くしろ、時間はそうはない」

 アヤネがそう急かすと、ハヤヒコは目を閉じ、それから大きな深呼吸をした。何かの決断をした合図である。ナホはもちろん、部下達も緊張しながら彼の答えを待った。

「馬鹿馬鹿しい。私は高志の大将だ。そんな陳腐な取引に応じるとでも思っているのか」

 息の詰まりそうな空気を切り裂くように、ハヤヒコは明瞭な声でそう告げた。彼は剣を抜いてアヤネに対峙すると、忌々しげにこう続ける。

「その女を捕えろ。タケハヤに突き返してくれる」

「なるほど、私情では動かないというわけか。ずいぶんと男気溢れる回答だな。いいだろう。ではナホはこのまま連れ帰らせてもらう」

「無事に戻れるとでも思っているのか」

「ああ。もちろんだ」

 アヤネは綺麗な微笑を浮かべながら、余裕綽々の様子でそう言った。

「逃すな」

 イチタの怒りに満ちた声が夜の闇に重々しく響く。敵方の主要と思われる人物を捕えられる好機である。これを逃す手はないとばかりに兵達は一斉にアヤネとナホに向かってきたが、突如湧いて出た煙幕に目をやられて全員がその場に膝を付いてしまった。

「戦場で会うのを楽しみにしている」

 アヤネは愉しげにそう告げると、呆然とするナホを引っ張って速やかにその場を離れた。


「残念だったね」

 アヤネにそう言われて、ナホは目をぎゅっと瞑った。あっさりと見捨てられたという事実に苛立ちもしたけれど、それより何より悲しくて仕方がなかった。

「彼の判断は将として妥当なもの。お前欲しさに我を通すような器ならば、あんなに優秀な部下を率いることは出来ないよ」

 アヤネなりの慰めの言葉に頭では納得出来るものの、感情の整理はすぐにつかない。こんな生と死の狭間のような状況下で、ハヤヒコが自分を求めてくれなかったことは、ナホにかなりの大打撃を与えたのである。

「で、どうする?そろそろタケハヤ様も気付いた頃合いだけど、またあの垣の内に戻る?」

 今にも泣き出しそうなナホに、アヤネはそう尋ねた。

 実際に会うまでは、ハヤヒコを信じる思いは揺るぎないものだと思っていた。けれど、憔悴しきった彼を目の当たりにしてみれば、戦局がいかに悪く、彼が追い込まれているのかがわかってしまった。勝てないかもしれない。正直、そう思った。だからこそ、どんな形であれ最期を共にしたかったからこそ、彼が自分をそばに置くことを望んでほしかったのだ。

「弱気になるのはまだ早いだろう?負けたわけじゃないぞ」

「それって、あなたが言うこと?」

「もちろん、私だって負ける気はない。だけど、どんなことがあっても勝負の世界に絶対は存在しないからね。己の勝利しか考えていないのは、タケハヤ様くらいなものだ」

 とても敵方とは思えないアヤネの発言に、ナホは少しばかり冷静さを取り戻した。淡々とした言い方だったが、ものすごい説得力があったのだ。

「ハヤヒコだって、お前のためにも負けるわけにはいかないだろう?死ぬ気で誰かを護ろうとする人間はとてつもない力を発揮することがある。護られる側のお前が、彼を信じられなくてどうするの?」

 アヤネは今度は優しくそう言うと、そっとナホの肩に手を当てた。じんわりとした温かさが、やたらと心に染みてまた涙がこぼれそうになる。けれど心の方は幾分軽くなったようで、ナホは弱弱しいながらも微笑むことができた。

「ありがとう」

「礼を言われる筋合いはない。なんだかんだいっても、私は敵だから」

「そうだったね」

 ナホは手で乱暴に涙を擦った。

 大丈夫。ハヤヒコは負けない。勝って、必ず私の所に来てくれる。自分に言い聞かせるようにナホは小さく呟いた。


 東の空はすっかり明るくなっていた。澄んだ空気は秋の香りを纏っていて、呼吸をする度に心が洗われるような気分になる。雲一つない青々とした空は、いつもより一段と高く見える。今日はまぎれもない晴天だ。

 そんな天の模様とは反対に、地上では重苦しい息遣いが立ち込めていた。

「お前がハヤヒコか」

 タケハヤの呼び掛けに、少し距離を置いた場所で向かい合っていたハヤヒコは頷いて見せた。

 さすがは名を馳せるだけの男だ。こうして対峙するだけでもひしひしと威圧感が伝わってくる。ハヤヒコは気をのまれないように、どうにか自分を奮い立たせた。

「余所者が、我が領土で随分と勝手な振る舞いをしてくれたものだな」

「我が領土、か。この地をそう称するのを聞くのはこれが最後だな。今後はそうはならない。お前たちには出ていってもらわねばなるまい」

 タケハヤは堂々とそう宣言した。勝ちを確信したその口ぶりを含め、これからの戦は無意味であると告げられたようなものである。斐川を間に挟んだ両者の睨み合いが激しさを増した。

 兵数ならほぼ互角。とは言え、相手は農兵や雑兵が多数を占めている。将の数もこちらに分があった。ただ、大将の力量では比較しようもないほどに劣っている。それがどこまで影響してくるのか、ハヤヒコには予測する手立てがなかった。

「気を静めてください」

 緊張からカッカしてきたハヤヒコに、イチタがそう助言する。

「戦の勝敗は蓋を開けねばわかりません。どうか落ち着きますよう」

 わかっている。ハヤヒコは呟くようにそう返した。

 わかっているが、逸る気持ちは抑えようがなかった。己の未熟さが明らかなせいで、相手に更なる余裕を与えている。そう思えてならないのだ。だから、一刻も早くそれを払拭したかった。

「降伏するなら今だぞ。余計な犠牲を増やさぬことを考えるのも将の務めだ」

「それはそちらも同じこと。余所者は即刻自国へ帰るがいい」

「交渉決裂。いいだろう。やはり結論は力比べで出そうか」

 タケハヤはそう言ってゆっくりと剣を振り上げ、鬨の声を上げたのだった。

 両軍が一斉に動き出し、相手軍へと通じる橋へと駆け出した。矢の打ち合いも始まり、すぐさま激しく入り乱れる。押し留めようとする部下達を振り切ってハヤヒコも先陣を切った。今回ばかりは絶対に譲れなかった。自分にとって一世一代の戦に違いない。

 何らかの指令が下っていたのだろう。ハヤヒコはすんなりとタケハヤの元に行きついた。

 向かい合ってみれば、身体つきの違いに気圧される。百戦錬磨の将と聞いてはいたが、そのたくましい体躯や太い腕をみれば一目瞭然。それらすべてが、これまでの戦を勝ち抜いてきた証なのだろう。

 ハヤヒコはごくりと生唾を飲み込んだ。怖気づいている場合ではない。この男を破らなければ、勝機は一筋も見えないのだ。まだ諦めるわけにはいかない。自らが鍛えた剣を構えて、切っ先を彼に向けた。

「高国とて、結局は我が国にすり替わろうと言う腹だろう。それではいつまでたってもこの国の民に、自由は無い」

「勘違いしないでもらおう。吾は一からこの国を造る。もちろん、民と力を合わせてな」

 正直、この男なら出来るかもしれない。そう思ったのは事実だった。初対面だというのに、彼にはそう思わせるだけの何かが感じられたのだ。ハヤヒコがそう考えていた一方で、タケハヤもまた自分を評していたようだ。

「不運としか言いようがないだろうな。もう少しお前が早くに生まれていたら、執政に取り組むのが早ければ、この国はきっと救われた。こんな戦などせずとも」

「どういう意味だ?」

「そのままさ。お前のことは調べてある。本国に逆らってまで、国の立て直しを図っていたようだな。その若さでそれだけの手腕があるとは大したものだ。さすがは国長の秘蔵っ子といったところか。もう少しこの国に体力があれば、お前の改革も成功したに違いない。吾が最初にこの件を持ち掛けた時、反対派もかなりいたことは確かだ。お前のことを慮ってのことだろう。だが、それでも積年の恨みに勝るものはない。そしてもう民たちは限界を迎えていた。新たな革命に耐えるだけの気力は失われてしまっていて、最後にはやはり、高志を憎む気持ちが勝ったようだ」

 ハヤヒコには返す言葉が見つからなかった。自分のしてきたことの方向性には自信があった。けれどそれを第三者にこうも高く評されるとは思わなかった。タケハヤは悠々とした態度でこう続ける。

「いずれにせよ、お前のやり方を貫けば、いつかは本国とやり合うことになったろう。その時、お前はどう判断を下す?自国を裏切り、この国に骨を埋める覚悟はあったか?」

「…もちろんだ。民にだけ痛みを伴わせるつもりは、露ほどもない」

「やはり失うには惜しい男だ。もう一度聞く。降伏する気はないか?」

 否。ハヤヒコはそう短く告げた。

 もしタケハヤと組めば、理想とする国造りができるかもしれない。けれど、そうなったときに真っ先に消し去るべきなのは、今まで出雲を覆っていた高志という暗い影だ。ハヤヒコが存在する限り、それが晴れることはない。彼と共に在ることは、どうあっても出来ないのである。

「たとえいつかは本国に牙向くことになろうと、目下の敵はお前達だ。打倒して、今一度この国を救う手筈を整えよう」

「残念だ」

 ハヤヒコはその言葉を聞き終えるなり、彼に向かって突進していった。まだまだ周囲のざわめきは落ち着いていない。

ここで彼に勝つこと。それがこれからのことを考えるための第一条件だ。


「八本杉のところだ。止めは刺していない」

 それを聞くなり、ナホは一目散に走り出した。とめどなく溢れてくる涙は、頬を横に伝っていく。

 自分の意志で再び垣の内に戻り、戦場に赴くアヤネと別れを告げた後、ナホはひたすらハヤヒコの無事を祈っていた。相変わらず光の届かない場所だったが、昼間である分だけ何となく明るく感じられたし、番兵と思われる男たちの会話もちらほら聞こえてきたから、夜のうちに感じたあの押しつぶされそうな孤独感はなかった。だが、耳にする戦況の行方はナホにとっては芳しくないものばかりだった。

 勝ったぞと言う声が聞こえてしまってからは、ほとんど記憶がない。タケハヤがアヤネを伴ってやって来た時、ナホは全身の血が凍るような感覚に襲われた。二人ともほとんど衣服に乱れがない。

 コノフタリガブジデイル。ナラ、ハヤヒコハ?

 思考はそれくらいしか考えられないくらいにほとんど止まりかけていたが、彼を案じる思いがナホを突き動かした。無我夢中とはこういうことをいうのだろう。

息せき切ってたどり着いた場所には、タケハヤの言葉通り、ハヤヒコが横たわっていた。

 タケハヤが命じたのか、周りには誰もいない。ナホは滑り込むようにして彼の隣にいき、すぐにその手を取った。

 冷たい。体を見れば、そこかしこから出血しており、顔にも血の気はない。ナホは触れるとぞくっとするほど冷えた彼の両手を、しっかりと自分の手で包み込んで胸に抱いた。

「完敗だった。何もかも」

 ハヤヒコはひゅうひゅうというおかしな息を吐きながら、途切れ途切れにそう言った。その姿に、またナホの目から大粒の涙が溢れだす。

「そんなことどうでもいい。あなたが生きていた、それだけで十分だから」

「それすら奴の情けだ。本当ならとっくに死んでいる」

 ハヤヒコの声は覇気がないどころか、生気すら薄らとしか感じられない。彼がこのまま遠くに行ってしまうような気がして、ナホは手に力を込めた。

「お前に会うだけの時を残してくれた。感謝している」

「あなたをこんなにしたのはあいつじゃない。私は絶対に許さない」

 ナホは涙でぐしゃぐしゃの顔を彼に近づけた。ハヤヒコの表情は穏やかだった。それが不吉な予兆にしか感じられなくて、心臓がばくばくと高鳴った。

「力も技も知識も戦術も、何一つ及ばなかった。奴なら、お前を幸せにできる」

「バカなこと言わないで。私はあなたとずっと一緒にいる。そう決めたんだもん」

 ナホの手の内からそっと手を離したハヤヒコは、それをナホの頬に添えた。涙を拭ってくれる指は、少しだけ温もりを取り戻している。

「結局、幸せにはしてやれなかったな。すまなかった」

「これからしてもらう。だから、そんなこと言わないで」

 ハヤヒコは昔のような、妹を見るような目でナホを見ると、ふっと笑んだ。

「会えて良かった。お前はたくましく生きろ」

 その言葉を言い終えるなり、ハヤヒコは残っている力を全て振り絞って、ナホを突き飛ばした。よろけたナホが態勢を整えている間に、彼は腰に在った短剣で自らの胸を突き刺したのだった。

「いや、いやぁぁぁ」

 ナホの絶叫が辺りにこだました。首を横に振りながらハヤヒコの体に取り縋る。

「嘘、嘘、嘘だあ。何で、どうして」

 動かない彼の体を何度も強く揺さぶったが、既に彼の意識は無かった。胸からは鮮血がじわじわと湧き出てきており、元々汚れてしまっていた軍服を更に汚していく。ナホは夢中でそれを抜きさると、すぐに自らの服を破いて止血した。

「止まんない。どうしよう」

 必死に力を込めて押さえつけても、出血量は増すばかり。そのうちにナホの手も衣服も真っ赤に染まり出した。

「お願い。助かって」

 半狂乱になりながらやり続けていたが、不意に肩を掴まれて後ろに倒された。ばねのように起き上がるも、またすぐに体を抑えられてしまう。反射的に相手を睨み付けると、そこには誰よりも憎らしい相手がいた。

「もう無理だ」

 ナホはそんな言葉は無視して、ハヤヒコの傍に向かう。けれど、今度はがしっと体全体を封じられてしまった。

「諦めろ。元々治る怪我ではなかった」

「…誰がこうしたのよ。あんたじゃない」

「我らは正々堂々打ち合った。その結果、ハヤヒコが負けた。それだけのことだ」

 怒鳴りつけるナホに、タケハヤは静かにそう告げた。

「離して」

「奴の意を汲め。助かることは微塵も望んでいなかっただろう」

「そんなの知らない。私は助けたいの」

 ナホはそう言って無理やり彼を跳ね除けると、また元の位置に戻った。同じようにハヤヒコの体に触れたのだったが、さっきとは明らかに体温が違った。焦って色んな箇所をペタペタ触りまわしたが、どこも似たようなもの。顔の青白さも増していた。

「ハヤヒコ様…」

最悪な結論に辿り着いてしまった。ナホは力なくその場に崩れ落ちる。

頭の中は真っ白、もう何も考えられなかった。


 気が付いたときは自分の家だった。

 体を起こすと、ズキンっと頭に鋭い痛みが走った。その箇所に触れようとして手を上げると、そこに赤い血の跡を見つけた。

「夢じゃ、なかった」

 そう気付くと同時に涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。

 ハヤヒコが負けた。彼はもう、どこにもいない。二度と会えない。

 とてもじゃないが受け入れられなかった。

「はい、これ」

 不意に横から竹筒が差し出された。白くて細いその腕の持ち主は、アヤネだ。

「虚ろな目をしている。今にも死んでしまいそうだね」

 彼女はそう言いながら、ナホの頬にそっと触れてきた。

「いっそのこと、殺してくれれば良かったのに」

 ナホは言いながら頬に熱い涙が伝うのを感じた。

 何で自分は生きている? ハヤヒコとずっと一緒に在ると決めたものを、一人だけ生きながらえたくはなかった。

「勝手なことをいうものじゃない。せっかく助かった命をどうして無駄にしようとする?」

「助けてなんて頼んでない」

「ですって。どうなさいます?」

 アヤネは戸の向こう側にそう話しかけた。外では長身の影がゆらゆら揺れている。

「俺は頼まれたぞ、ハヤヒコからな」

 タケハヤはそう言うと同時に姿を現した。既に汚れた軍服は身に着けておらず、身綺麗にしている。アヤネは彼とは入れ替わりにさっと出ていってしまった。

 彼はナホのすぐそばにどかりと腰を下ろすと、明るくこう告げた。

「吾はここに居を構える。ナホ、お前を娶ってな」

「…」

「冗談で言っているわけではない。吾はこの国が気に入った。国力を高め、他国に付け入る隙を与えないようにする。そのためには、まずは食を制すことが重要だ。灌漑を整え、民が稲作で食っていけるようにしてやる」

「それで、なぜ私が?」

 声が喉に張り付くようだった。文句をいう気力なんてどこにもない。そう問うだけが精いっぱいだった。

「無論、寝首をかかれる覚悟はある。そうしたいならすればいい。だが、それでもお前のことを見捨てるわけにはいかないのだ。ハヤヒコは吾にお前を託すと言い、我もそれを受けた。そう約したからには、必ず守る」

「そんなこと、私には関係ない」

 ナホは吐き捨てるように言った。たしかに出雲を救った英雄かもしれないが、ナホにとってはハヤヒコの仇である。彼には恨み以外の感情がない。タケハヤに娶られるくらいなら、今すぐにでもハヤヒコの元にいった方が何万倍も幸せだ。

「まぁ、すぐに決断できるわけがないのもわかる。ただな、お前がつまらぬ我を通そうとすることで不幸になる者も出てくることを忘れるな。お前一人の感情のせいで何人が苦しむことになると思う?大方は国を裏切ろうとしたお前のことを許すまい。そうなれば、お前の縁者までもが辛酸をなめさせられるに違いないぞ。下手をすれば最悪のことも考えられる」

 言われて、真っ先に頭をよぎったのは両親のことだった。これまでに何度となく味わってきた恐怖がまざまざと蘇る。さらに顔が蒼白になったナホに、タケハヤはふっと軽い笑みを漏らした。

「と、こういう駆け引きを持ち出すと、また卑怯者と誹られるか」

 タケハヤは姿勢を正すと、真っ直ぐにナホを見つめた。

「安心しろ。これから行うのは新たな国造りだ。恨みを増やすような始まり方はしない」

「新しい国なんてどうでもいい。ハヤヒコ様は、もう」

「ああ、そうだ。奴はもういない。この地にはこれからを生きる者しか存在しない。勝者には生きる権利も、義務もある。それをむざむざ放棄するのは大罪人であり、とんでもない大馬鹿者だ。勝者としてお前を無理やり手に入れることも出来るが、奴と約束した以上、それはしたくない。お前の意志で吾と共に生きることを選んで欲しい」

「けど、私は」

 ハヤヒコと生きたかった…。

 あまりに辛すぎて、この想いを口に出すことは出来なかった。まだ彼との別れを、その死を実感できていない。たとえ事実だとしても認めたくなかった。

「時間がかかってもいい。お前がどんな結論をだそうと、取るべき道は一つだけだ。いつまでも待っているよ」

 タケハヤはいつになく穏やかにそう告げると、微笑んで見せた。

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