第6話 戦

 ブオォー。祭の始まりを告げる合図が鳴らされる。ナホは仕立てたばかりの白無垢に身を包み、緊張した面持ちで空を眺めていた。

 日が次第に傾き始め、空は西から紅く焼けていく。付け慣れない宝玉が耳元で立てるサラサラという音を聞く度に、心がざわついた。

 ハヤヒコはもう社にいるのだろうか。

 風の噂で、今回のために相当数の軍勢がこの国に送られたと聞いている。彼らが何のためにやって来たのか、そんなことは考えたくもなかった。思うだけで吐き気がしてくる。

 自分は何を祈ればいいのだろう。

 ハヤヒコを選ぶ決断をしたものの、故郷を失うことはやはり怖ろしい。かと言って、彼の敗北を願う気持ちなんてちっともなかった。いっそのこと、このまま斐川に身を投げてしまえば、辛い目に遭わずに済む。何度もそう考えては、実際に川辺まで行ってみた。けれどその度に足が竦んで引き返して来てしまったのだから、やっぱり自分は弱い人間なんだと思う。

「覚悟は決まったか?」

 聞き覚えのある声で話し掛けられ、ナホは思わずぎょっとした。一度深呼吸をしてから、そちらを振り返れば、既に戦支度に身を包んだタケハヤがいた。

「いつ、いらしたのですか?」

「ついさっきさ。お前の綺麗な格好を見ておこうと思ってな」

 軽口は叩いているが、その表情は凛々しく引き締まっていた。そしてやはり、負けるなどとは微塵も思っていない自信に溢れている。

「ハヤヒコとの別れは寂しいか?」

「別れるなんて思ってません。何があろうと私は彼を信じるし、最後まで添い遂げますから」

「潔いな。そういう女は嫌いじゃない」

 嫌いじゃない、その言葉はタケハヤにとって特別な意味を持つものだった。しかし、そんなことはナホには考えもつかなかったし、今に至っては耳にすら届いていない。彼の言葉尻をとらえる余裕なんてどこにもないのだ。

「ハヤヒコ様は負けません」

「それが何を意味するのかわかっているのか?この機を逃せば、お前たちは永遠に属国という立場から抜け出せなくなるんだぞ」

「国を思う気持ちなら、私だって持っています。だからこそ、たくさん悩みました。でも、それでもあの方を裏切ることなんて出来ません」

 ナホはそう言うと、意識していないままに自分の腹部に手を当てた。それをタケハヤは目敏く見つけた。

 そういうわけか。彼はある事実を察すると、気持ちが更に昂るのを感じた。タケハヤは感情の儘に行動しないよう、一度深呼吸をしてから話を切り出した。

「手荒な真似はしたくない。共に来てくれないか?」

「冗談でしょう?私は慣わしどおり、社に向かいます」

 ナホは彼の頼みを鼻で笑うと、きっぱりそう告げた。

夕闇はすぐそこまで迫っている。紫色の帳が地につく前に、ハヤヒコの待つ社に行かねばならないのだ。

「皆をよろしくお願いします。じゃ、さよなら」

 そう言ってくるりと向きを変えた時だった。ナホの視界は真っ黒に閉ざされ、意識がだんだんと失われていく。その中で、タケハヤの声を聞いた。

 だから手荒な真似はしたくないと言っただろう。

 

 タケハヤは、すやすやと眠るナホの頬にそっと手を当てた。ほっとする温もりが指先に伝わってくる。

 念のために両手は縛ってある。が、ここは誰も寄り付かないような森の中に幾重にも築いた垣の内奥だ。そうやすやすと逃げ出せるところじゃないし、また人目につく恐れもない。武器庫としての役割も多少はあるが、ナホを閉じ込めておくためだけに築いたと言っても過言でなかった。

 なぜ、ここまで彼女にこだわるのか。もはやタケハヤ自身にもよくわからなくなっていた。

 小柄だが手足はすらりと長く、日々労に精を出しているだけあって引き締まっている。目鼻がくっきりしていて、わりかし美人の部類ではあるだろうが、正直そこまで執着するほどの容姿ではない。気の強さに惹かれたというのも何か違う。自分になびかないナホに対して苛立っていたけれど、わざわざこんなに手を込んだことまでして得ようとまでは思っていなかった。そもそもタケハヤの立場であれば、ハヤヒコを討ち倒してから無理やり手中に入れることだってできるのだ。そしてどの道、結果はそうなるのだろう。

 戦場に引きずり出さないことで、少しでもナホの気持ちを楽にしてやりたかった。国土が踏み荒らされ、血が流れるのを見せたくない。出来る限り辛い思いをするのを避けてやりたい。そう考えた結果がこの監禁だった。

 もちろん、戦における利もある。人柱であるナホの姿がなければ、当然相手方は怒り、強く叱責する。そうなれば出雲方は相手への憎しみを惜しみなく発揮することが出来、より戦意が高い状態で開戦できるだろう。そして何より総大将のハヤヒコが冷静さを欠くことになる。

 大量の援軍が駆けつけていることで、高志軍はただでさえまとまりを失っているに違いない。経験の少ないハヤヒコにそれを束ねるのはほぼ不可能だ。加えて不安定な精神状態と来れば、まともな戦になるかどうかさえ怪しい。

 仮に、彼の下につく各将達が上手く連携を取って往年の高志軍の戦い方を見せれば勝機はあるかもしれないが、物見たちから得た情報によればそれもないだろう。将達はそれぞれ己の利権のことのみに興味を示し、いかに相手を出し抜くかということしか頭にないらしい。出雲を軽んじていることもあって、今のところは本気で勝負に挑んでくる様子はうかがえない。

 何をどう考えても、タケハヤが負ける要素はどこにもなかった。

 勝利を前提としてナホの今後の心配をするなど、傍から見れば傲慢この上ない。我ながら大胆不敵なものだと思うが、戦の前に負けを考えたことは今まで一度もなかった。危なそうだと思ったらその都度計略を練り直して、決して危ない道は渡らない。戦はあくまでも過程であり、その後の処理をどうするかの方がよっぽど大事なのだ。


「大丈夫。落ち着いてください」

 イチタに耳元でそう囁かれ、ハヤヒコははっと我に返った。

煌々と燃える篝火の向こうでは、今宵の儀式の始まりを祝う踊りが披露されている。歌と楽も喧しいほどに鳴り響いている。それなのに何も見えず、何も聞こえなかった。

「よほど緊張しているらしいな」

 自嘲的に告げた言葉に、イチタが微かな笑みを返してくれる。

「そのようですね。もう少しで娘が現れる頃合いですよ」

「ああ」

 ハヤヒコは視線を注連縄の張られた二本の大木へと移した。

 人柱は姿を真っ白な布で隠されたまま輿に載せられ、あの間から現れる。それが通常のことだが、今宵ばかりはどうなるのかが予測できなかった。タケハヤという男が何を考えているのかはわからないが、開戦を宣言している手前、素直にナホを連れてくるとは思えない。

「ナホは、自分が隠されると言っていた。そう思うか?」

「ええ。おそらく」

 イチタは迷わずそう答えた。ニタもそれに同意する。

「タケハヤが彼女に告げたことは事実でしょう。策の一部を、わざわざ我々に知らせるために」

「だろうな。けれど、私にとってもナホがこの場にいない方が都合がいい。奴の狙いがわかるか?」

「これはあくまで予想でしかありませんが、御方の攪乱が狙いかと」

「私の攪乱?」

「はい。戦が長引くほど、御方は彼女の安否が気になり出すでしょう。そうなれば当然、終結を急いで決断が早くなり、その誤りも多くなる」

「御方が戦の総大将を務めるのは初のこと。それ故、各将達は己が利ばかりを気にしていて、纏まりは欠けております。実力伯仲の者ばかりが集まっておりますから、尚のこと。足並みが上手く揃わず、御方が戦況不利に追い込まれることを見込んでのことでしょう」

「随分と見くびられたものだな」

 ふんっと鼻を鳴らしたハヤヒコに、イチタが重々しく忠告する。

「相手は高国のタケハヤ。百戦錬磨の武人です」

「かの国が西方一帯を押さえたのは、彼の実力に依るところが多いとか。どうぞ、軽くみませんように」

 二人の側近にそう告げられては、ハヤヒコも気を引き締めるほかなかった。

 国長である父が太鼓判を押して、ハヤヒコに付けてくれた腹心の臣たちである。イチタとニタの他にあと二人。幼い頃から行動を共にしているから、実の兄達よりもよっぽど信頼していた。彼らは賢く、常に冷静である。今度の戦も、各将達の甘い見解とは違って、厳しめの結果を予測している。

「前線にはサンタとヨンタがおります。そう易々とは崩されませんよ」

 ハヤヒコの顔色が曇ったからだろう。ニタが励ますようにそう言った。

「我らとて負ける算段はしておりません。自信を持って戦われますよう」

「わかった」

 吐き出すようにそうは言ってみたものの、途方もない緊張感は消えそうになかった。実戦の経験など殆どないのだ。こんなことならもっと積極的に戦場へ出ていくべきだったと、今更後悔の念が押し寄せてくる。

『我らがいれば十分に事足りますので、御大将はどうぞ幕の内に』

『あまりご無理をなされぬよう。父君も兄君達も心配なさっておりますぞ』

 本国から遣わされてきた将達は、皆口々にハヤヒコにそういった言葉を浴びせかけてきた。彼らの意図は全て同じだ。余計なことをするなと言っているのである。

 出雲寄りの政を行えば、どうしても高志には不利を与える。それを認めてくれる者は側近を除けば誰もいなかった。何度となく叱責の使者は遣されるし、お目付け役のような者まで送り込まれてきた。これまでの自由を奪われた高志の者達はあからさまに不平を漏らし、それを罰則で締め付けるほど反抗を露わにしてくる。そしてその捌け口は出雲の民となり、彼らの憎しみは更に募っていくという悪循環だ。

 本国としてはこの機に徹底的に支配を強め、ハヤヒコを失脚させる要因を作りたがっているのだろう。だがここで弱みを見せて、追い落とされるわけにはいかなかった。まだまだすべてが始まったばかりなのだ。

「纏まりは薄いといっても、兵の実力は本物です。その気になれば、あっという間に相手方を蹴散らしましょう。それに本国の意図がどうであろうと、あなたが大将であることは事実。変に思い悩みますな」

 イチタはそう言ってハヤヒコの背をぽんと叩いた。儀式用の装束の下に着ている背当てがカシャリと音を立てる。

「楽の調子が変わりました。いよいよ輿の登場ですよ」

 ハヤヒコがそちらに視線をやると、重々しい足取りで白布で覆われた輿が現れた。一歩ずつ踏みしめるように、ゆっくりとこちらに向かってくる。

「何が入っているのだろうな」

 ハヤヒコの問いに、側近の二人に緊張感が走った。戦の当の本人、タケハヤが乗り込んでいる可能性だってあるのだ。突然飛び掛られた時を想定して、ハヤヒコも腰の刀に手を当てる。

 だが、予想外なことに出てきたのは線の細い女性であった。俯いているために、顔の判別はつかないが、ナホでないことはわかる。女は慣例通り、人柱が置かれるべき場所に腰を下ろした。

「誰でしょう?」

 イチタは素直に疑問を口にする。

「さぁな。とりあえず様子を見ようか」

こちらが替え玉と見抜いた時点で場が荒れだすことは必至。ハヤヒコは方向性を定めるまでは静観することにした。

「貢が出そろったぞ。これからが真の祭だ」

 高志方の将の一人が高らかにそう叫ぶと、兵達は一斉にそれに応じた。ものすごい勢いで酒樽が次々と割られ、皆の杯にどくどくと注がれていく。彼らはさも愉しげに勢いよく飲み干していき、一帯はすぐさま酒場と化した。

「酒は禁じていたはずだろう。どういうことだ?」

 ハヤヒコはイライラしながら彼らをねめつける。

「これで襲われたならばひとたまりもない」

「敵方の気配も無ければ戦闘の兆しもない。気を引き締めろと言う方が無理かもしれません。ですが、今ならまだ間に合いましょう。替え玉を訴えるのです」

 イチタにそう助言され、ハヤヒコはさっと立ち上がる。そのままずんずんと人柱まで歩を進め、俯く女の被り物を乱暴に引き剥がした。

 白い布切れがはらりと落ちる。

「お前は誰だ?」

 姿を見せたのは見たことのない娘だった。顔立ちからして出雲の者ではない。彼女は灰色がかった瞳でハヤヒコを見つめてきた。自らの立場を理解し、落ち着き払った態度だった。

 気に食わない。敵方の余裕を見せつけられたような気がして、無性に腹が立った。

ハヤヒコは彼女にくるりと背を向けると、ありったけの声量でこう叫んだ。

「皆の者、よく聞け。出雲は人柱を違えた。これは我国に対する裏切り以外の何物でもない」

 ハヤヒコがそう怒りを露わにすると、それまで酒に興じていた者達はぴくりと動きを止めた。何だかんだといっても、さすがは強国の武人達である。戦とあれば瞬時に対応が切り替わる。

「属国の反逆を赦すな」

 その言葉を合図に、将達は鬨の声を上げて立ち上がった。兵達もそれに続く。だが、全員の動きはとてつもなく緩慢だった。

「どういう事だ」

 まだ酔いが回るほど、呑んだくれていたとは思えない。それなのにもうへべれけにも近い状態だった。

 ニタが樽の酒をぺろりと舐める。

「辛い。かなり濃い酒ですよ。一口でも危険かもしれない」

 しまった、遅かった。ハヤヒコは悔しさに唇を噛んだ。そうしている間にもどこからか大勢の足音が響いてくる。

「敵襲です」

 イチタに言われて音の方を向いてみれば、農具を手にした出雲の男達が怒涛の如く押し寄せていた。その手に持っているのは武器と呼べないような代物ばかりだというのに、その気迫は凄まじく、まるでよく訓練された軍兵の大軍のようにみえる。彼らはここぞとばかりに今までの恨みを晴らそうと、雄叫びを上げながら攻め込んできた。

「かかれぇ」

 おそらくタケハヤの手の者と思われる、敵方の前衛にいた将校がそう声を張り上げる。すかさず、イチタとニタがハヤヒコの前に回り込んだ。

「お前たち、邪魔だ」

 ハヤヒコがそう叫ぶのを余所に、二人はその身を盾にするようにして防御を固める。

「先に打って出るのは、部下の役目。まずは御身を護ることをお考えください」

「どけ。私が斬りこんでやる」

 まるで去年の出来事の写しのようで、ハヤヒコは頭に血が上った。押し退けようとするも、二人は鉄壁のように動かない。仕方なく、ハヤヒコは打ちあがったばかりの鉄剣を抜いて来るべき時に備えたが、その時は意外にもすぐに訪れた。

「あれだ。あいつを狙え」

 やはり一年前の再来だ。怒号と共に、ハヤヒコを名指す声が辺りに響く。大勢の農兵たちが一挙にハヤヒコの周りに集まった。

「御方をお守りしろ」

 ニタがそう叫ぶも、呼応する声はわずかだった。高志方の兵達は気合を入れて剣を振り上げようとするものの、その後が続かない。酒の効果によるものか、彼らの体はまるで自由がきいていなかった。そうこうしているうちに出雲方はかなりの優勢になり、動けないでいる高志の兵達はどんどんと打倒されていった。辺り一帯に人の体が殴られる鈍い音が響き渡り、怒声と悲鳴が混じり合う。

 依然としてハヤヒコは二人に守られる形のままであったが、それでも踏み込んでくる相手には自らも必死に剣を振るった。夢中ではあったが、人を斬る感覚はやっぱり慣れない。どうしても初めのうちは相手の血を見るたびに心臓がバクバクしてしまったが、それでもだんだんと麻痺してくるもののようで、次第に気持ちも落ち着いてきた。むしろ、気分が昂揚して、感覚がおかしくなってきたといった方が正しいのかもしれない。

「その調子です。気を抜かずに」

「ああ。わかってる」

 多少数が減ってきたところでイチタにそう励まされ、ハヤヒコはどうにか頷いた。

 だが、戦況は最悪だ。

 戦陣を組む余裕もないままに味方の兵達はばたばたと倒されていき、あっという間にそこら中が地獄絵図のようになっている。何とか応戦はしているものの、それも時間の問題のように思えた。こちらもかなりの数の兵力を擁していたというのに、それらはまるで木偶のように倒れていくばかりなのだ。

「あの酒、何か仕掛けがあったのでしょう」

 イチタが苦々しげに呟く。それを聞いて、ハヤヒコは唇を思い切り噛んだ。

 戦になることはわかっていたのだ。こうなることだって予測できたはずである。ゆるりと様子見などせずに、初めから武装してかかるべきだった。それもこれも結局はハヤヒコの読みの甘さが原因だ。もっと用心すべきだったことを悔いて地団駄を踏んでももう遅い。今更手遅れだった。

「相手の大将を、タケハヤを潰しにいく」

 ハヤヒコがそう告げると、即座に二人が首を振る。

「落ち着いてください。今はまず軍を立て直すことを考えましょう」

「立て直す?今更どうするのだ?」

 苛立つハヤヒコをなだめるように、イチタは一語一語をかみ砕く様に言う。

「こちらにはまだ、あなたという総大将がいらっしゃいます。残っている兵を集めて指揮を取れば、まだまだ勝機はありますよ」

「サンタたちもおそらくは無事でしょう。彼らと合流するのです」

 二人に言い含められて、ハヤヒコは渋々首を縦に振った。今の自分に出来る最善の策は、彼らに素直に従うことだと判断したのである。

 途中、襲い掛かってくる敵兵を斬り倒しながら、ハヤヒコたちは斐川の上流に向かった。今回の本拠として構えた、たたら場近くのそこにはサンタたちが率いるハヤヒコの手勢が陣取っているはずである。

はたして無事だろうか。

 今さっきの奇襲で受けた痛手が大きくて、嫌な予感ばかりがハヤヒコの頭の中をよぎる。事実、本国からあれだけの兵を送り込まれてきていたというのに、こうして付き従ってくるものはわずかだ。もちろん自分達を逃すためにあの場にとどまることになった者も数多くいる。だが、それを抜きにしても軍は瞬時に壊滅状態になったと言っても過言ではなかった。精鋭と呼ばれるに相応しい働きができなかった彼らが情けないということもあるだろうが、その責任は気を緩ませた自分にある。自分の無能さが悔しくて、ギリギリと奥歯を噛みしめた。

 前を行くイチタの手にある小さな灯りが、ちらちらと夜の闇に浮かぶ。極力目立たないように行動しなければならないのはわかっているが、昼でも鬱蒼とした林道を夜目で歩くのはなかなか難しい。獣道とまではいかないけれど、足元はごつごつした岩や木の根っこで溢れかえっている。すぐ下を流れる斐川はここらで淵を成しており、普段は深い緑色をしているのだが、今は底なし沼のように真っ黒な闇に見えた。

 ここを越えれば、たたら場まではもうすぐだ。一縷の希望を抱いて、ハヤヒコは一歩ずつ慎重に足を運んでいった。

「甘かったか」

 イチタの悔しげな声を受けて、ハヤヒコは思わず卒倒しそうになるのをぐっと堪えた。目にした光景が信じられなくて、言葉が出てこない。隣にいるニタも同じの様で、荒い息遣いが聞こえてくるばかりである。

 本陣は跡形もなく崩されていた。襲撃からだいぶ時が経っているようで、踏み荒らされた土や何かは既に固まっている。血で汚れた高志軍の屍がごろごろ無造作に転がっており、見るも無残な姿だ。幸いなのかどうなのかはわからないが、そこにサンタ達の姿はなかった。

「どうする?」

 イチタがニタにそう問いかけるのが、ハヤヒコには他人事のように聞こえてきた。

「サンタはどうしたのだろうか?」

「わからない。敵の手に落ちたか、それとも逃げ果せたのか。この状況では判断が難しい」

 イチタはそばにいた数人に命じて、辺りを探しに行かせる。

「何か手がかりでもあればいいが」

「…いずれにせよ、ここで策を練るしかあるまい。攻め込むにしても闇雲に行っては、ここの二の舞だ」

 ハヤヒコは二人の会話を黙って聞いていた。割り込む気力もない。こういうときにこそ指揮を執らねばならないのが総大将の務めだというのに、経験値でも知識でも、はたまた精神的にも何の力にもなれそうになかった。

「朝までここで待とう。こうなってしまっては、陽が昇ってからでも遅くない」

「諦めるつもりか?勝つためには夜に紛れての奇襲しか」

「相手の兵力を見ただろう。この人数ではとても敵わない。御方自らが敵方の大将と打ち合って、和睦に持ち込むのが一番だ」

「そんなことをすれば、むざむざ命を差し出すようなものだろう」

「無論、交渉には私が当たる。御方には一切の犠牲を払わせない」

「それは土台無理な話だ。敗戦の責は将が負うのが通例。御方を引き渡せと言われるに決まっている」

「交渉で高志の領土を餌にする。奴らの狙いはそこなのだろうからな。御方を生かしたまま人質にしておけば、国長との駆け引きの材料になる。そう話をもっていけば、最悪の事態は回避できよう」

 イチタが力強くそう言いきると、ニタはぐっと詰まった。確かにここまで追い詰められては、そうするのが最善に思えた。用いてくる手管を考えてみても、相手方はかなり周到で狡猾だ。たとえ奇襲が成功したとしても、幾重にも防護を張っている可能性は十分にあった。

「よろしいですか?」

 ニタは黙り込んだままのハヤヒコにそう尋ねた。

 今更よろしいも何もない。ハヤヒコは当然の答えを出した。

「お前たちに任せると言っただろう。ただ、一つ条件がある」

「はい?」

「交渉には私も同席する。そして仮にその場で何かあっても、手を出さないでほしい。敗戦の責は私にある。これは命を賭して贖う必要があるものだ」

 イチタは数秒の後、首を縦に振った。おそらくは嘘であろう。ここでハヤヒコと不毛な言い争いをするほど、彼が愚かではないだけだ。もし何かあれば、イチタ達は全力でハヤヒコを護ろうとするに違いない。そんなことはわかっていたが、とりあえず口約束だけでも取り付けておきたかった。自らの覚悟を伝えておきたかったのである。

『すまないな。ナホ』

 生きて会うことは、きっと叶わない。約束を守れない自分を彼女はどう思うだろう。


 タケハヤは櫓から下界を眺めていた。雑兵たちが敵の残党と戦っているのを、文字通り高みの見物をしているのである。

 勝負の大勢はとっくについている。今更自分が先頭に立って剣を振るい、皆を勢い付かせる必要なんてなかった。敵方にこれから戦況を巻き返すだけの力はないだろう。統率を欠いた兵達は敵ではないし、彼らを指揮する将達も既に残っていない。

 今回の戦は、正直つまらなすぎた。猛将と評判の高志の武人たちとは、まともに打ち合うこともなく終わってしまった。全てが上手く行き過ぎだ。もちろん勝利を収めるために最善策を取ったのだから、この結果は当然と言えばそうなのだが、どうにも物足りない

 相手に気付かれぬうちにたたら場近くの陣を叩いておいたことが、相当な功を成した。なかなか手強かったところからすると、彼らが高志方の隠し玉だったようだ。もし、彼らが万全の状態で本隊と合流していたならば、こうも簡単にはいかなかったかもしれない。

 だが何といっても一番の功労者は、アシナとテナ夫妻であろう。彼らが用意してくれた酒、これが勝利をもたらしたと言っても過言ではなかった。ありったけに強いものを頼むとは言ったものの、あそこまで出来の良い物を作ってくるとは思わなかった。強い度に反して飲み口が柔らかだったせいで、奴らも油断したのだろう。タケハヤも一度試してみたが、一杯だけでも足元がふらついた。二杯目、三杯目と飲み進めるうちに思考は完全に止まり、気が付いたら朝になっていたのである。自分は決して酒に弱い方じゃない。むしろ国では上位を争うくらいの強者のつもりであったのに、あれにはすぐに参ってしまったのだ。

 まるで毒のような代物だから、戦の前にあれを口にするのは愚か極まりない振る舞いだ。いくら祭の場であったとしても、これから一戦交えようとする者がする行為ではない。それを止めなかったのは大将であるハヤヒコの落ち度だろうが、間者からの報告では彼とその側近たちは口をつけていないらしい。そして今はいくらかの手勢を連れて逃亡中だ。本陣から逃げ果せた数名と彼が、今後どんな行動に出てくるのか、それが多少気掛かりだった。

「追手は差し向けないのですか?」

 いつの間にそばに来ていたのか、灰色の目をくりくりさせながらアヤネがそう問いかける。

「行きたいのなら、行けばいい。吾はしばらくここで様子を見る」

 ぶっきらぼうにそう答えると、彼女はぶすっとむくれた。

 本当に変わった娘だ。その美貌から、敵を誑かすにうってつけと姉が手元で育て上げたが、ここまで戦好きになるとは想像もしなかった。今回のナホとの入替の件についてだって、ためらいもなく二つ返事で引き受けたのだ。ハヤヒコに斬り殺される可能性だってあったというのに、大した度胸である。

「私、ハヤヒコと手合せしてみたいのですけど」

「好きにすればいいだろう。止めはせん」

「ならば、兵をお借りできますか?」

 どうやら本気で行きたいらしい。タケハヤはぎょっとして、まじまじとアヤネの顔を見た。相変わらず可愛らしい顔立ちをしているというのに、その内心は男顔負けの猛々しさだ。

「夜目が利く者を数名」

「まぁ待て。こちらから行かずとも、そのうちに向こうから攻めてくるだろう。ハヤヒコとてこのままでは終われまい」

「ええ。あの男、なかなか出来るかと思います。側近の者といい、ちっとも隙がありませんでしたもの。もし油断を見せてくれれば、その場で私が打ち取ったのですけど」

 アヤネは悔しそうにというよりは、嬉しげにそう言った。彼女はどうも秀でた人間が好きらしい。姉を慕っているのもそのためである。

「それは禁じたはずだろう。奴は吾の獲物だ」

「ナホ、の取り合いですか?」

 くつくつという乾いた笑みが耳に障る。

「あの娘の何がいいのやら。私にはさっぱりわかりません」

 自分にもわからない。そう言いそうになったのを飲み込んだ。

「わざわざあんな頑丈な垣まで築いて護るだけの価値があるのですか?ま、気の強さは認めますけどね」

 そう言ってちろっと舌を出した彼女を、タケハヤは軽く睨み付けた。最後の会話を盗み聞きしていたらしい。まったく、油断も隙も無いやつだ。

「彼女を手に入れてどうするつもりです?とてもじゃないですが、素直に側女に納まるようには思えませんけど。自分の愛する男を奪った男なんて、力づくでそばに置いたところで、いつ寝首をかかれるかわかりませんよ」

「お前に言われる筋合いはない」

 核心を突かれて、タケハヤは思わず声を荒げた。アヤネはそれを面白がるように、可愛らしく片目を瞑る。

「気の強さは似ているかもしれませんね。姉君様に」

「うるさいぞ。人をからかうのも大概にしておけ」

 はぁい、と間延びした返事が返ってきたが、タケハヤはもう口を閉じることにした。これ以上、彼女の話に付き合っているとイライラしてくるだけだ。

 ふっと姉の顔が思い出されて、タケハヤは余計にむっとした。人の良さそうな、心根の穏やかそうな顔をしているくせに、その性格はまるで違う。自分にだけ見せる、あの高飛車な態度。思い出すだけでむかっ腹が立ってくる。一時は鬼の化身なのではないかと本気で疑ったものだ。

 女だてらに父の跡を取り、それなりに苦労している点は認めてもいい。だがそれを健気に頑張っていると評価するのは全くのお門違いだ。そういう風に装っているのは計算ずくのことで、その方が身動きしやすいからというだけなのである。時には群衆に涙も見せ、それでも負けじと頑張っている芯の強い女性という姿を演じているだけだ。

 彼女の本性を見抜いているのは、亡き父と自分くらいのものだろう。彼女の為政者としての怖ろしいほどの才覚を見抜いていたからこそ、父はためらいもなく跡目に据えた。タケハヤも自分にだって能力はあると自負しているが、彼女には勝てる気がしなかった。決断力にせよ、冷徹さにせよ、彼女ほど国を束ねるにふさわしい人材はいないだろう。

「お前の顔は見たくない。この国から出ていってもらおうか」

 突然そう告げられたのは半年ほど前のことだ。もっとも、前触れもなくそんな話になったのではない。タケハヤが豊穣祝の宴の席で、酒を呑み過ぎたことが原因である。

 一年に一度の大祭で、タケハヤはつい調子に乗り過ぎた。仲間を引き連れて呑めや唄えやの大騒ぎを巻き起こし、彼らと共に暴れ回ってしまったのである。神殿の戸を破壊して中に押し入ったばかりか、供え物の神酒まで飲み尽くし、その勢いで姉の侍女達に悪絡みをしたり、斎庭で相撲を取ってはしゃいだりした。

 最初のうちこそ、姉はオロオロとうろたえる素振りを見せていたが、そのうちに怒りを堪えられなくなったらしい。彼女は屈強な警護兵にタケハヤ達を捕えさせ、全員を牢に押し込めた。その時の記憶は定かではないが、抵抗する者には手段を選ばなかったようで、後で見てみるとタケハヤの体中には縄目の痕がくっきりと付いていた。

「起きろ」

 上から降ってきた声と背中を蹴られた痛みで目覚めると、枕元には姉がいた。ぞっとすることに、その手には鋭利な小刀が握られていて、その視線も手中の刃物同様に鋭い。暴れ疲れて寝てしまったためにあまり寝起きは良くなかったのだが、あまりの恐怖に一瞬で目が覚めた。

「寝首をかいてやろうかと思ったが、止めてやった。お前には正式な場で相応の罰を与える」

「あぁ、あの、その、すまなかったです…」

 タケハヤが体を起こして謝罪を口にした途端、姉の瞳に強い怒りが湧き上がる。が、あくまでも彼女は冷静だった。静かに膝を折って姿勢を屈め、タケハヤと目線を合わせた。そしてふっと笑んだかと思うと、瞬時に首元に刃先を当てる。

「今ここでこの首を裂くことは容易いこと、そしてお前を公の場で刑に処することも容易いこと。けれどそれでは何の成果も得られない、ただの無駄骨になろう。私は結果を伴わない行動はしない」

「…と言うと、何か良い案でも思いつきましたか?」

 屈強な体格の男が情けないが、そう問いかけるタケハヤの声は少し震えていた。姉はそんな弟に優しい表情を向けた。

「ああ。お前を存分に利用させてもらう」

 そうして、事件の数日後に開かれた裁きでの場で、タケハヤは姉から件の言葉を投げつけられたのである。国の重臣や彼女の側近、それから各部族の長達が集まったその場で、私財全ての没収と国からの永久追放を命じられたのだ。十分重い罰に思えたのだが、処刑にならないだけでも姉弟の温情が加わっていたというのが大方の意見で誰も同情者はいなかった。国政者たちからのタケハヤへの人気がいかになかったかがよくわかる出来事だった。

 だが、あくまでもこれは表立っての処分であり、姉からその前に言われていたのは別の申し出だった。

「小部隊をくれてやる。それで高志の領土を落とせ。場所はどこでも構わないし、奪った土地をこちらに属す必要はない。お前がそこを支配すればいい。こちらからの条件は二つだ。二度と国には帰ってこないこと、我が国に反旗を翻さないこと。もしこの二つを破れば、容赦はしない」

 内々に下されたこの命令に、逆らうことなど出来なかった。もし受け入れなければ、彼女は間違いなく裁きでの罪状を最大限重いものにしていただろう。少しでも命を長らえるためには従うほかなかったが、皆の言う通り、姉が見せた温情と言えばそうかもしれなかった。身一つで放り出されたわけじゃなく、元々タケハヤが従えていた手勢を連れていくことを命じられたのだから。

 今になって思えば、何だかんだ言っても仲の良い姉弟だったのだろう。何かあれば彼女なりに庇ってくれたし、自分を信頼してくれてもいた。今回のことだってそうだ。裏切られるリスクだって存分にあるというのに、部隊を引き連れて出国させてくれたのである。打算も大いにあるだろうし、いざという時の防衛策も存分にとってあるからだろうが、それでも弟を信じてくれているから成せる業だと思う。

「出雲を手中にすれば、だいぶ高志の力を削ぐことになりましょう。そして、あなた様はこの地の娘を娶って永住することになる。姉君様のお望み通りの結末になりますね」

 アヤネはそう言ってにこりと笑った。

「そう上手くいくとは思ってなさそうな言い方だな」

「あら。わかってしまいました?」

彼女はタケハヤをからかうようにこう続けた。

「ナホに固執するのは、いかがなものかと。この地の娘であれば誰でもいいのでしょう?何も一番面倒な相手を選ばなくてもいいじゃないですか。それに、ハヤヒコの息の根を止めるのでしたら、彼女も一緒に葬ってあげることが優しさだと思いますけど」

 アヤネの言い分はもっともだ。彼女は話しながら、戦仕様に一つに束ねた髪の端をくるくると回した。言い辛いことを口にする時の癖である。タケハヤはその真意を測りかねた。

「ずいぶんと心優しい女になったものだな。勝者には、敗者の持ち分をすべて奪う権利がある。それが戦の常だろう」

そうですねと囁くような声で答えると、アヤネはそれきり黙り込んだ。

「申し上げます。主だった敵将はすべて討ち取りました」

 伝令の報告を受けたタケハヤは、ふうっと息を吐いた。

 高志の大軍と言えど、酔って動けなければこんなものか。あまりの楽勝さに肩透かしをくらったような気もするが、まずはほぼほぼ片が付いたついたことに安堵すべきだろう。あとは総大将であるハヤヒコだけだ。

「ハヤヒコは見つかったか?」

「いえ、まだです。これから夜を徹して捜索致します」

「やめておけ。相手に比べて我らは地理に疎い。下手に突っついて藪蛇になるのも馬鹿馬鹿しいし、朝になれば向こうから現れるだろう。それまでは見張りを立てて交代で体を休めておけ」

 はっ。伝令は勢いよくそう返事をすると、滑るようにして櫓を降りていった。息つく間もなく、下で指揮を執っている各将達に伝えて回る様がよく見える。

「お前も休んだらどうだ?」

 タケハヤは無言のまま隣にいたアヤネにそう告げた。彼女は素直に首を縦に振ったものの、またこちらの予想外の言葉を口にする。

「今宵は例の垣の内で休みます。見張りも兼ねて」

「お前が見張らずとも、警護は十分なはずだ」

「それは外からに対してでしょう?内に何があっても男では気付けませんよ」

 まるでこちらを睨み付けるようにそう言ってのけたアヤネに、タケハヤは目を丸くした。

「夜明けになりましたら、また戻ってまいります。もし私が戻らなかったら…垣に何かがあったとお考えください」

 アヤネはこちらに口を挟む隙を与えないで一方的にそう告げると、さっさと櫓を降りてしまった。残されたタケハヤは、彼女が獣のような速さで駆けていくのを呆然と見守るしかなかった。

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