第5話 決意

 日取りが決まった。そう告げる長の声は、あからさまに震えていた。

「同日に決行だ」

 同行してきていたタケハヤは、長とは反対に落ち着き払っている。

 彼は先日とは打って変わった姿をしていた。真っ黒な髪はきっちり角髪にしており、衣服は真白でぱりっとしている。見慣れぬ飾りや宝玉を首にかけているその姿は、どきりとするほど立派なものだった。

「お前が賢い娘で良かった」

 タケハヤは軽い口調でそう言ったのだったが、ナホにはそれが嘲笑を含んでいるように感じられた。

 愛する男を平然と裏切れる女。そう烙印を押されているような気がしたのだ。

 あの日以来、ナホは極端に外出を控えて人に会うのを避けてきた。着物の仕立が忙しいことや、大事な日の前に肌が荒れてはいけないことなどを言い訳にして畑にも出ていない。事情を知らない村人たちからはたっぷり嫌味を込めた憎まれ口を叩かれたが、ナホにとってはそんなことはどうでも良かった。

 これからの決断を思うと、気が狂いそうになる。

 ハヤヒコが既にこの国にいないことは人伝に聞いている。諸々の準備のために自国に戻っているそうだ。けれど、万が一ということもある。彼に会ったら最後、きっとナホは全てを話してしまうだろう。

「去年のこともあるだろうから警護は万全だろう。当然、奴の手勢も多くなる。だが、そこが狙い目になるのだ。ただ一人でぼけっと歩いている奴を斬ったところで、国政が変わるようなことはないからな。できるだけ派手に戦を引き起こしてこそ、この策は成功する」

 タケハヤは自信たっぷりにそう言った。そこには一分たりとも弱気な部分は見られなかった。彼が自分の力を疑うことなく信じているのが見て取れる。どことなくとらえどころのないようなハヤヒコとは違って、彼は真っ直ぐな一本道を突き進む性質のようだ。

「当日、お前は用意した場所に隠れてもらう。全てが終わったら迎えにいってやるよ」

 彼は爽やかにそう言うと、にっかりと笑った。人懐っこそうなその表情は、今まで見たもののうちで一番若々しい。堂々たる素振りと相反するその顔に、ナホはついつい見入ってしまった。

 悪びれもなく告げられると、これが正しかったという錯覚に陥りそうになる。高志という悪者に囚われそうになるのを一人の青年によって救われる、そんな物語にさえ思えてくる。

 実際にそういう心持ちになれたらどれだけ楽だろう。ハヤヒコをきっぱりと諦められて、この国を救うために一役買っているんだという自負が湧いてでもくれれば、少しは気が晴れるのかもしれない。が、到底そうは思えなかった。ナホの気持ちが未だにハヤヒコにあるままだからだ。

「どうして私が信じられるのですか?」

 ナホは思い切ってそう問いかけた。

「直前になってハヤヒコ様を選ぶかもしれないのに」

 心臓がばくばくとうるさい。『その時』のことを考えると、頭の中は恐怖でいっぱいになった。タケハヤは小刻みに震えるナホを見て、くすりと笑んだ。

「お前はそんなことしないさ。私が保証しよう」

 彼はそう言って、不意にナホの髪を撫でた。触れられた瞬間ばかりは、かぁっと熱くなってしまったけれど、髪に指を絡められたとき、体中が違和感にぞわりと泡立った。

 チガウ。ハヤヒコジャナイ。

「やめて」

 ナホは力任せに彼の腕を振り払った。何かがぷつりと切れた。

「あなたに私がわかるはずがない。あなたはハヤヒコ様じゃないから」

 タケハヤははねのけられた腕を引っ込めると、鋭い目でこちらを見た。思わず負けそうになってしまったけれど、ナホは精一杯の勇気を振り絞る。

「私の大事なものを人質にとって逃げられないようにするなんて卑怯です」

「ナホ、落ち着きなさい」

 長が横槍を入れてきたが、止まらなかった。ハヤヒコとの思い出のいくつもが瞬時に脳裏を駆け巡る。笑顔の彼がこちらを向いて、ナホを勇気づけた。

「戦略と名付ければ何でも許されるのですか?男なら正面からぶつかるべきでしょう。陰でこそこそしてみっともない」

 あまりに興奮しすぎたせいか、言い終えた直後は息が乱れた。ただひたすらにタケハヤだけを真っ直ぐに睨み付けていたせいで、周りの者達が青ざめていることになんてちっとも気付かなかった。当の彼はと言うと、さすがに気を悪くしたらしく、眉間にはかなり深い縦皺が寄っている。

「言いたいことはそれだけか」

 地を這うような低い声が返ってきた。ナホはびくりとしたが、気を取り直して背筋を伸ばした。

 もうこうなったら何があっても構うものか。どうせ大切なものを失うことには変わりないならば、命を投げ打つ覚悟で堂々と戦ってやる。ナホはキっと相手を見返した。

「私はハヤヒコ様を裏切らない」

 背筋を正して、きっぱりとそう告げる。

 結局、これがナホの真実だった。どんな犠牲があろうと、決して偽ることは出来ない。

 無言の睨み合いはどのくらい続いたろうか。タケハヤは怒りに満ちた眼差しでしばらくナホを見つめていたが、やがて重々しく口を開いた。

「よかろう。お前がその道を選ぶと言うなら止めはしない」

「タケハヤ様」

 かつてない重圧感を醸し出す彼の横で、長がおろおろと取り成そうとした。それはそうだろう。ここでの決定によっては、ナホの両親や自分達の運命が決まるのはおろか、今後の戦況へも影響を及ぼしてしまうのだ。彼にしてみれば、ナホを引っ叩いて土下座させてでも、先の言葉を撤回させたいところだろう。

 タケハヤはそんな彼は眼中にも無いようで、ナホに向かってこう言った。

「奴の元へ行け。行って、吾からの宣戦布告をして来い」

「命令される覚えはありません。私は自分の意志で彼のところに向かいます」

 そう言いながら、ナホは自分が不思議に思えてきた。いつからここまで気が強くなったのだろう。こんなに怖ろしい相手に対して物怖じしないでいられる自分に驚いた。

「ごめんなさい。父さん、母さん、長様、ユヅ様。私は悪い娘です」

 ナホはそう言って深々と頭を下げると、くるりと向きを変え、一目散に家から飛び出した。


 がたん。戸口が勢いよく閉じられて、風が家の中を駆け抜ける。ただでさえピリピリしていた空気はさらに重苦しくなった。

 止める間もなくナホに逃げられた長は、がっくりと肩を落とした。そんな彼にタケハヤはからかうように声をかけた。

「さて、と。長よ、ナホはお前たちを見捨てたらしい。煮ようが焼こうが吾の意のままということになるな」

…。長は恐怖で何も言えない。ナホの父であるアシナは深く頭を垂れた。

「申し訳ございません。娘の失態は親の責。どうぞ儂らを罰してください」

 夫に倣って、テナも深々と頭を下げる。するとタケハヤは、からからと笑いだした。

「冗談だ」

 彼はたった今ナホが荒々しく閉じた戸を開くと、表に人の気配がないことを確認する。彼の思惑など到底考えも及ばないアシナ達は、ただじっと彼が次の句を告げるのを待った。

「ナホは本当に飛び出していったようだな。幸い、今日ならばたたら場にハヤヒコがいるはずだ。当てもなくさまようことはないだろう」

「ハヤヒコ様に会わせてよいのですか?」

 アシナがおずおずとたずねる。

「先も言ったが、別に構わない。そうなった場合のことも想定済だ」

 タケハヤは何でもない風にそう言ったが、横目にちらと映ったテナが気にかかった。彼女は浮かぬ顔、と言うよりも不満げな顔をしていたのである。

「何か言いたげだな」

 タケハヤの言葉に、テナはすぐさま表情を取り繕い、そして首をぶんぶんと左右に振った。彼女は、何でもありませんと囁く様な声で返答を告げる。だが、その言い分はタケハヤにも予測が付いた。

「ハヤヒコに会わせることに問題がないのであれば、さっさとナホを行かせてやれば良かったとでも言いたいのだろう。確かにその通りだ。あれはただの試しだからな。ナホが、ハヤヒコが選んだ娘が、どの程度のものなのかを確かめるためにやったことよ。こちらとしては正面切って戦に持ち込んだ方が、後々に都合がいいからな」

 つらつらとそう告げると、テナは今度はあからさまに顔を曇らせた。娘が無駄に苦しめられたことが悔しいのだろう。彼女としては、ナホを高志に出したくないのはやまやまでも、その想いは尊重してやりたい気持ちもあったのかもしれない。タケハヤは余計なことは言わずに、今後の流れのみを話すことにした。

「話を聞いたハヤヒコが実際に動き出すまでには数日はあるだろう。こちらと戦を交えるには援軍が必要だからな。使者を出して、自身も支度をするとなると当然時間がかかる。もし仮にそれを待たずに手勢だけで戦うとすれば、当然出雲側に出兵の要請をしてくるだろう。そうなればこちらのものだ。出雲兵は寝返り、奴は周りを敵に囲まれることになる。援軍がどれだけ遣わされるかにもよるが、大軍であればあるほど指揮は困難、経験の浅いハヤヒコに十分な采配が出来るとは思えん。厄介なのは大将軍たちがこぞってでてくることだが、その際は水際で食い止めて陸には上がらせない。その間にこちらがハヤヒコの部隊を徹底的に潰してしまえば、将軍たちも無理に上陸してはこまい」

 熱っぽく語るタケハヤだったが、一同はぽかんとして聞いていた。戦術を聞かされたところでぴんとこないのだ。

「いいか、大事なのは出雲側が己の意志で立ち上がることだ。国を自らで守る、そう決意することで道が開ける。吾はその手伝いをするまでだ」

 最後に彼がこう付け加えたことで、ようやく皆も理解できたようである。全員の気持ちはぎゅっと引き締まり、これから起こる戦に対しての緊張感が湧いてきた。

 高志がいなくなったからといって、高国に取って代わられたのでは何の意味もない。実際、タケハヤの登場にそう懸念した者も少なくなかった。高国と高志が海路を巡って争いを行っているのは確かだが、そこにわざわざ巻き込まれに行くことはないのだ。それにいくら口では都合の良さそうなこと、出雲には手を出さないということを述べていても、真実は確かめようがない。しかし、そうまでしても高志を追い出したいと思う者は圧倒的に多かったのである。もし、高国が第二の高志として出雲を支配するようなことがあれば、今度は彼らを相手に一線を交える。長は内心でそこまでの覚悟を決めていた。

「わかりました。儂らは黙ってあなた方の命令を聞き入れましょう。必要とあれば儂自身も剣を手に戦場へ出る覚悟はございます」

「長よ、その心意気だ。戦の主導こそ吾が執るが、実際に動くのはこの国の民たちなのだからな」

 タケハヤはそう告げると、今後の展望を頭の中で描き始めた。

 彼が手配している手勢は既に出雲入りしており、貸し出される予定の兵と併せてここから少し離れた場所に滞在している。こちら側の準備は万全だ。奇襲するのであれば、あっという間にハヤヒコを討ち取れるだろう。けれど、タケハヤはそれをするつもりはなかった。堂々と正面からぶつかって倒したいのだ。

 万全の対策は施すものの、いざ戦うなら真正面から。それがタケハヤの信条である。だからナホに卑怯と言われた時には、相当むかっ腹が立ったものだ。

 自国であれば、道の端で額づいて顔をあげることも許されないような身分の娘である。彼女たちならば、タケハヤが声をかけようものなら震えて言葉もでてこないであろう。それと同類の小娘に言いたい放題ぽんぽん言われ、挙げ句、自分ではない男の元に走られてしまったのだから面白いわけがない。ナホと恋仲であったわけもないし、そんな対象としても見ていなかったのに、自分を選ばなかったという点では嫉妬に近い思いを感じていた。

 タケハヤは実際、娘たちには人気があった。自国はもちろん、他国に行ってもそれなりにはもてはやされてきた。だから、ナホも自分に気持ちを動かすかもしれないとは思っていたのだ。それがどうだ。彼女は散々悪態をついて、さっさと去って行った。その事実は少なからず、彼の自尊心を傷つけた。

 タケハヤ自身、ハヤヒコに特段の恨みはない。彼については、『相当な切れ者で、かつ行動力に溢れた若者』という評判くらいしかわからないが、実際に出雲の支配を事実上委ねられていることを鑑みれば、高志の国長が相当に期待していることがわかるし、それに見合った実力を備えているのだろうとも思う。彼が真に優れた為政者となるならば、出雲の状況も大きく変わるのかもしれないが、この国にはもうそれを待つだけの余力は残されていないようである。運が悪かったとしか言い様がないのかもしれない。

 ある意味でハヤヒコに同情心を抱いていたタケハヤであったが、ここにきて政治とは別の思いが沸々と湧いてきた。原因はもちろんナホである。

 別に彼女が欲しいわけじゃない。ただ、自分に興味を示さないことへの苛立ちだった。

 戦で負ける気はしないし、こうなったらハヤヒコを徹底的に潰したくなった。そしてナホに、どうだと言ってやりたくなったのである。


 家を飛び出したナホは、しばらくして冷静さを取り戻した。勢いで出てきてしまったけれど、ハヤヒコは今は自国にいるということを思い出したのである。彼に会えなければ、この事実も伝えられない。でも誰かに伝えてもらうには事が重大すぎた。どうしたものかと悩んでいるうちに、自然と足はたたら場に向かっていた。

「いるわけないか」

 そう呟きながらそっと中を覗いてみると、いた。カアンという鈍い音を立てながら、ハヤヒコは数人の男たちと鉄剣を打ち合わせていたのである。

「なんで?」

 ナホは目をぱちくりさせた。祝言までは自国に戻っていたはずなのに、なぜかここで汗だくになっている。会いに来たはずなのに、姿を見つけたことに戸惑ってしまった。

 ぼけっとしていると、イチタがナホを見つけ、ハヤヒコに告げてくれた。彼もまたナホと同じような顔で驚いており、珍しくすぐに剣を置くと、急ぎ足でそばに寄ってきてくれた。

「こんな時分に何をしている」

 若干怒り混じりにそう言われ、ナホはつい口ごもった。

「あの、だから、その、ちょっと会いたくて」

 我ながら下手な言い訳である。当然、彼は納得せずに疑惑の目を向けてきた。視線に耐えられなくて俯いたナホに、ハヤヒコは一度大きく息を吐いた。

「とりあえず話を聞こうか。あっちへ」

 外へ出ると、ハヤヒコは自室にナホを連れてきた。彼が警護兵に一声かけると、兵達は一礼してその場を離れて行く。とは言っても、彼が声を上げればすぐに飛んで来られるような場所には陣取っていた。

「人払いはした。これでいいだろう。何の用だ?」

 ハヤヒコに真っ直ぐに見つめられ、ナホの胸はきゅうっと熱くなる。とっさの言い訳だったが、会いたかったという言葉に嘘はない。思わずその体に飛び込んでしまいたくなったが、本来の目的を思い出してぐっと堪えた。

「信じてもらえないかもしれないけど…近いうちに、戦になると思います」

そう告げると、彼の表情が一気に険しくなった。緊張で声が喉に張り付きそうである。

「戦?誰と誰が?」

「出雲と、高志です」

 一瞬、ハヤヒコの動きが止まった。彼はまさかという顔でナホを見る。ナホは唇を噛むと、怖々話を続けた。

「決行は祭の日。出雲側には西の高国がついています。タケハヤという男が将です」

「…事実か?」

 ナホは小さく頷いた。ハヤヒコは額に手を当てると、そのまま黙り込んだ。視線は二人の間にある篝火に向いている。しばらくした後、彼は疑うような声でこう問いかけてきた。

「何故、お前がそれを?」

 それをきっかけに、ナホは今までの話を余すことなく打ち明けた。だが、全てを聞き終えた彼は再び考え込んでしまった。今度は信じるべきか否かを思案しているようである。黙りこくる彼に不安になったナホは、今の素直な思いを打ち明けた。

「私はどうしたらいいのですか?」

 もう家には帰れない。村にも戻れない。頼るべきはハヤヒコ一人なのだ。ここにいろ、そう言って欲しかったが、彼の口から出てきたのは違う言葉だった。

「宣戦布告か、随分なことをしてくれるものだ。仮に今の話が全部本当だとしても、お前が既に敵方の手に落ちていることも考えられる。もしくは、お前が嘘を吹き込まれていることもあるだろう。そうなれば今更早馬を出して、部隊の手配をしても間に合わない」

「私は敵方ではありません。現にこうしてここにいるじゃないですか」

「ここにいるから、不思議なのだ。わざわざ戦の情報を漏らして状況を不利にする必要はないだろう。それなのにお前を逃してベラベラ話をさせるなど、考えられない」

 ハヤヒコはそう言うと、ナホを試すかのようにじいっと見つめた。

 あからさまに疑惑の目を向けられると、さすがに居心地が悪い。ナホは唇を一文字に引き結んで対抗を試みたものの、あっさり負けた。どこと言う当ても無しに視線を逸らすと、彼はふうっと溜息を漏らした。

「話だけは本当のようだな」

 彼はそう言って自嘲的な笑みを浮かべる。

「もっとも、タケハヤという男の真意はわからないがな」

 試されたことにムッとしたナホは、ぶすっとむくれた。

「だから、そう言ったでしょう。私は自分が知っていることは全部お話ししました。そもそも、そのために来たんだから」

「…出雲を裏切るつもりか?」

 ハヤヒコは低い声で問う。

 何て答えるべきだろう。自分のために故郷を捨てる覚悟をした女を、彼はどう判断するのだろうか。声色からでは、その心中は推し量れない。

 ナホはごくりと唾を飲み込むと、正直な想いを告げた。

「あなたを裏切ることは出来ませんから」

 そうか、とハヤヒコは微かに言った。ほんのわずかだが、その目尻が下がったのは気のせいだろうか。

「親も故郷も私にとってかけがえのないものです。けど、それでも…」

「わかった。もういい」

 途中で泣き出したナホを、ハヤヒコはぎゅっと抱きしめてくれた。うえっ、うえっとしゃくりあげるたびに、彼は背をそっと撫でてくれる。その温かさに母親のそれが重なって、ますます涙が止まらなくなってきた。

「私は、私は」

「大丈夫だ。私を信じろ」

 びっくりするほど優しくそう告げると、ハヤヒコはナホを抱く力を強めた。何とも言えない安心感に心も体もほっと休まる。目を閉じたままその心地良さを存分に味わっているうちに、ナホはいつしか眠りに落ちていた。

 目覚めると既に日が高くなっていた。隣には誰もいない。一人分の温もりしかないところをみると、だいぶ前から一人でいたらしい。ナホはさっと身繕いすると、戸口へ向かった。

 出ようとして戸に手をかけた時、いきなり外の景色が目に飛び込んできた。

「きゃあ」

 姿勢を崩したナホはそのまま転がり落ちる、はずだったが、抱き止められた。そうすることに慣れている腕の主は呆れたように息を吐く。

「危ないぞ」

 顔を見るなりそう叱られたナホは、しゅんとして謝った。そそっかしい性格ゆえに、こうして彼に助けられたのは一度や二度じゃない。もっとも、出会った時ほどに強烈な場面はないけれど。

 ハヤヒコは既に一仕事終えてきたようだった。作業着に染みついた鉄の臭いがつんと鼻をつく。

「起こしてくれればよかったのに」

「良く寝ていたからな。そのままにしておいてやった」

「あ、そうですか」

 昨夜は話も途中のままだった。わざとではないにしろ、やっぱりあんな状況で寝入ってしまったのはまずいかもしれない。ナホは機嫌を窺うように上目遣いで彼を見た。

「たたら場に行ってらっしゃったのですか?」

「ああ。ほら、そこへ座れ」

 こちらの問いに適当に返事をすると、彼はナホにそう促した。

「話の続きだ。もう寝るなよ」

 さすがにもう眠くはなかった。昨夜の失態が気まずくて、ナホはもじもじと俯きながらこくりと頷く。ハヤヒコは表情を改めると、高志方の大将としての態度で話をし始めた。

「タケハヤという男、長の元にいると言ったな?今朝方調べたが、その姿はなかった」

 でも、と反論しようとしたところを制される。

「わかっている。お前がこちらに来たことで、さっさと身を隠したのだろう。念のために探りを入れたが、簡単には見つけることは出来なかった」

「それで、みんなは?」

「無事だ、長夫婦もお前の両親も。何も案ずることはない」

 それを聞いて、ナホの体からへなへなと力が抜けた。あんな去り方をしてしまった以上、彼らに危害がなかったとは思えなかったから、本当に安心した。

「と、こちらとしても手は打った。今回は我が手勢だけでなく、本国の将軍たちも集まることになる。そんな中で西国の男が戦い抜けるとは思えない」

「あなた様はずっとこちらに?」

「そうするつもりだ」

 良かった。ナホはそう呟くと、ふうっと息を吐いた。これで当面の心配はなくなった。そう思ったのも束の間、彼は意外な言葉を告げた。

「お前は戻れ」

「へ?」

「長の様子からしても、お前が戻ることに異存はないらしい。祝言までもうすぐだ。残りの日は親元で過ごした方が良いだろう」

 ハヤヒコはつらつらとそう言うと、さっさとナホの手を取った。

「途中まで送ってやる」

「…やだ。ここにいる」

 ナホはぶすっとした顔で、ハヤヒコを見上げた。素直に従わないナホに、彼もまたムッとして見返してくる。ナホは差し出された彼の手を両手で抱え込むと、真剣な眼差しで訴えた。

「だって、タケハヤは戦になると言ったのですよ?確実に自分達が勝つ、とまで。彼を甘く見ない方がいいと思います」

「なるほど。よほどその男に言い包められたようだな。だが、我らの力はそれほど脆弱なものじゃない。西国と全面的にぶつかり合うと言うのであれば、こちらも相応の覚悟で臨むが、たかが一人の大将とその手勢であれば恐るるに足らん」

「けど、当日は私を隠してしまうって」

 不安を隠さずに打ち明けたナホに、彼はしばらく間をおいてこう告げる。

「…お前のことなら、どこにいたって見つけるよ」

 さっきまでとは打って変わった小声だった。顔がほんのり赤らんでいるのは、決して日が射しているからではないと思う。

「ハヤヒコ様」

「とにかく、私を信じろ。お前が私を選び、信じてくれて嬉しかった。その想いは決して無駄にしない」

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