第4話 来訪者

 高志側から正式に話が来たのは、夏の終わりかけの頃だった。

 ナホのことを考えてのことなのか、ハヤヒコは時期が来るまでこの類の話は一切しなかった。ナホの方も自分から切り出す勇気もないままだったから、国中の人々にとっては寝耳に水の話だったようだ。

 ある日、ナホが畑から戻ると、神妙な顔つきの国長とユヅ、そして両親が待ち構えていた。

「いらっしゃい。どうかしたんですか?」

 家の中の空気はこれ以上になく重苦しい。

 ナホの問いかけに、ユヅはちらと夫を見た。それを受けた彼は、これまた意を窺うように両親へと顔を向けた。だが父は苦虫を潰した様な顔で床を睨み付けていて、母はがっくりとした表情で篝火を眺めるばかりだ。ナホは急に不安になってきた。

「何かあったんですか?」

 恐るおそる問い掛けるも、誰も答えをくれない。仕方なく、ナホも一緒に黙り込むことにした。

 パチパチと火がはぜる音だけが、夕闇の静けさの中に消えていく。しばらくして誰しもが沈黙を苦痛に感じ出した頃、ようやく父が口を開いた。

「ナホ、お前に話がある」

「話?」

 訝しげにそう聞き返すと、今度は母が盛大な溜息を漏らした。父は彼女を気遣うように肩を叩くと、こう続けた。

「今年のオロチの人柱の件だ。お前が選ばれた」

 ついに来たか。ナホは心がざわつくのを感じたが、どうにか平静を装う。

「どうだろう。どうか穏便に受け止めてはくれんか?こう言ってはなんだが、なるべくしてなった事だろうよ。時が来たと言った方が正しいのかもしれんな。噂が現実となったとあれば、またお前たちには風当たりが強くなるかもしれんが、その辺りは儂も気を配ろう。とにかくナホにとっては良い話だ。そんなに悪く捉えんでくれ」

 言い訳がましくつらつらと述べる長の話を、ナホはどぎまぎしながら聞いていた。もし、何も知らない状況だったら、自分はどう思ったろう。そんな余計なことまで考えだ。

「とにかくだ、ハヤヒコ様が直々にお話を下さったのだ。どうしたって受け入れる他はない」

 やけっぱちのように長が告げた名を聞いた瞬間だけ、ナホはぴくりと反応してしまった。が、すぐに自分を落ち着かせる。

「大丈夫。わかっています」

「何が大丈夫なものか。こんな形で村を出すのはすまないとは思うが、その、なんだ、お前はあの方と昔から縁があるしな。悪いことはあるまいよ。ん、わかっている?」

 あらかじめ台詞を決めてきていたようで、それを言い終えた後でようやくナホの冷静さに気付いたようである。

「ええ。直接、話をいただいておりますから」

 ナホは静かにそう告げた。だが、誰も口を開く者はない。面々は口を真一文字に引き絞ったままだ。

「何か問題でも?」

「ない。駄々をこねられるよりはマシだ」

「なら、」長の言葉に同調しようとしたナホを、横から父が制する。

「お前にはこの国の民としての誇りがないのか?貢物のように差し出されるのだぞ?生まれた地に根ざし、繁栄させていくのが当然の道だ。それなのに他国へ行くことをすんなり受け入れるなど、恥ずかしいことだとは思わんのか」

 そういうことか。興奮気味になってきた父とは反対に、ナホはあくまでも落ち着いて返答をした。

「逆らえば酷い目に遭うだけじゃない。だったら素直に従うべきでしょ」

「わかっているのか、オロチの人柱だぞ。お前が、お前が、そんな目に遭うなんて」

 父は涙目になりながらそう怒鳴った。

 言いたいことはわかる。他の娘たちのように、ナホにその責を負わせることを心底嫌がってくれているのだ。出雲の娘が高志に行ったところで、おそらくは楽な暮らしとはいかないはずだ。それこそ権力者の気分次第で意に沿わぬ行き方を強いられることだろう。娘にそんな苦しみを味わわせたくないという親心は、ナホにだって十分伝わっている。

「別に、高志に行くことを望んでいるわけじゃないよ。でも従わなきゃならない、そうでしょう」

 ナホは話しながら、胃の底が冷たくなっていくのを感じだ。喉の奥にまでせり上がってきた吐き気を消すように、大きく唾を飲み込んだ。

「私、相手がハヤヒコ様なら喜んで行ける。だから、大丈夫」

 実際、事実だ。もし彼でなかったら、素直に承服するわけがない。泣き叫んで嫌がり、感情に任せてこの場を飛び出して、舘にいるハヤヒコの元に駆け込んでいただろう。

 きっぱりそう告げたナホを、長はちらりと見たが、さっと視線を外して壁に向かって話し始めた。

「それほど期待を持つものではない。彼は三男だが、国長が大層目をかけていると聞いている。だからこそ余計な紛争を引き起こさないために、わざわざ他国から名もなき娘を嫁として呼び寄せるそうだ。既に兄二人が鎬を削りあっている舞台に、負けをわかっていながら引っ張り出されるようなものだぞ。とても安穏な暮らしが送れるとは思わん」

「長は、私に断わってほしいのですか?」

 だらだらと続く不平に、ナホは思わず語気を荒げた。

 結局は承諾をさせに来たくせに、素直に応じると文句の嵐。きっと反対していたら、ハヤヒコがいかに優れているかを熱弁するのだろう。どちらにしても話が長くなることに変わりはなかったようだ。

「そんなことは言っておらん。お前があまりにも素直だから、心配になっただけだ」

 だったら余計なことは言わなきゃいいのに。その一言はぐっと腹の中に堪えた。

「わかりました。お気遣いありがとうございます。とにかく、私はその話をお受けいたします。いかようにもお進めください」

 ナホはそう言って両手をつくと、長達に向かって綺麗にお辞儀をした。

 

 彼らが去って、親子三人が取り残された空間には何とも言えない気まずさが漂っていた。今まで一言も口をきかなかった母の様子を窺い見ると、彼女は既に泣きはらした後のようで、目が腫れぼったくなっていた。年を重ね、もう若くはないその姿を見ていると、遠く離れていくのが大罪のように思えてきた。

「母さん、私」

「あんたまでオロチの犠牲になるとはね」

 彼女はそこまで言うと、ふうっと大きく溜息を吐いた。

「相手がハヤヒコ様だったのが唯一の救いかね。あんたはずっとあの方を慕っていたんだろう?顔も知らない高志の者に嫌々仕えさせられるよりかは、幾万倍もマシだろうよ。そりゃあ近くにいられるに越したことはないけど、こればっかりは仕方ないことだからね」

 母はそう言って穏やかに微笑んだ。いつもと同じ、その優しい顔にナホはぎゅうっと心が締め付けられる。手には深い皺、髪には幾筋もの白い部分が見て取れる。ここ数年で一気に老け込んでしまった。原因は間違いなく自分だ。

 ナホがハヤヒコと親しいことで、両親も村人たちからかなりの嫌がらせを受けていた。嫌味を言われるくらいはかわいいもので、酷い時は集団で家に怒鳴り込まれることもあった。けれど母も父も、どんな時だって自分の味方でいてくれた。いつもいつも大事にしてくれた。それなのに、自分は二人を悲しませてばかりいる。

「高志に行ったら、会うことも出来なくなっちまうんだろうな」

 父にぽつりと呟かれ、ナホは目頭が熱くなってくるのを感じだ。

この大切な二人と、永遠に別れなければならないのだ。そう考えたら、急激に心が寒くなってきた。ナホは思わず母に抱き付いた。

「ごめんなさい」

 母の胸に飛び込んだのは、何年ぶりだろう。ナホは彼女の両腕をぎゅっと掴むと、小さな声でそう告げた。

 かの国からの命に逆らうわけにはいかない。それは両親も痛いほどわかりきっていることだろう。どんなに辛いことであろうと、逆らえばそれ以上の仕打ちが待ち受けている。そんな中で、たとえ人柱に選ばれたにせよ、相手がハヤヒコであるというだけでもかなりの幸福だ。だが、それでもこうして両親と向き合えば抑えきれない感情が溢れだしてくる。

「ごめんね」

 泣きじゃくるナホが、もう一度そう言った時だった。戸口を叩く音が聞こえ、知らぬ男の声が闇夜に静かに響いた。

「こんばんは。どなたかいらっしゃいますか?」

 若々しい青年の声である。思わぬことにナホがびくっと体を震わせると、母が抱く力を強めてくれた。

「こんな夜分にどなたですかな?」

 父が戸越に問い返す。彼もまた訝しげな表情をしていた。

「旅の者ですが、この辺りで迷ってしまいました。どうか一晩、宿を乞えないでしょうか」

 いかにも怪しい輩である。三人は顔を見合わせると、全員で頷いた。

「申し訳ない。我が家が狭く、とても人様をお泊めできる場所はありません。この先を進むと長の家です。どうぞそちらを御頼りください」

「わかりました。どうもありがとう」

 男は意外にもあっさりと引き下がった。足音が奥へと向かっていったところから察するに、長の家に向かったのだろう。

「知らない人が来るのなんて初めてだね」

 ナホは小声で母にそう言った。彼女もまた不安げな顔で頷いて見せる。二人が身を寄せ合って警戒していると、父がわずかに戸を開けて外の様子を窺った。

「大丈夫だ。行っちまった」

 それを聞いた瞬間、ナホは体中からがくりと力が抜けるのを感じた。ほっとしたのか、泣き疲れたのか。すぐに襲ってきた睡魔に襲われ、ナホはそのまま眠ってしまった。


「残念でしたね」

 遠くから首尾を見守っていた女は、自らの主にそう告げた。男は多少の残念さを滲ませながらも、にやりと笑った。

「なに、機会はいくらでもある」

「で、どうするんです?」

「とりあえず、言われたとおりにしてみるか。長をこちらの手中に入れるのは計のうち。多少順が変わったとて、影響はない」

 男は自信たっぷりにそう言うと、女を残したまま先へと進んで行った。


 嫁入りの支度金として驚くばかりの品々が長のもとに贈られてきたのは、それから数日後のことだった。肌触りのいい布地に、色とりどりの玉。さらには国長直々の書簡まで託されていた。こんな待遇は前代未聞だ。彼らはこちらから盗っていくばかりで、与えることはしないのだから。

 話を聞きつけた村人たちの中には、工作が上手く行って良かっただのと文句を言いに来た度胸ある者もいたが、大方は高志からの報復を恐れて表立っての行動は控えたようだった。とは言っても、皆黙っていたわけじゃない。陰では相当悪しざまに言われていたし、誰とわからないようにそっと耳元で嫌味を投げかけられるのは日常茶飯事だ。

 今さら何を言ったところで彼らの気を静めることは難しい。ナホだって立場が違えば同じことをしたかもしれないのだ。

 人柱に選ばれることは、表面上は栄誉と称えられる。が、現実はそれとはかけ離れたものであって、不運という言葉では片づけられないほどに不幸なことだ。自らの意思ではどうすることも出来ないことに、泣く泣くその身を犠牲にするのである。

 ナホだって形の上ではそれに違わないのだが、今度ばかりは相手が違った。無理やり連れ出されて、単なる豪族や役人の妾になるのではないのだ。内情はどうであれ、高志の国長の子息に嫁ぐのである。しかも、自分が心を寄せる男に望まれて。

「裏切り者って言われても仕方ないか」

 ナホは上質な宝玉を手にしながら、深く息を吐いた。

 こんなものは望んだわけじゃない。かの国へ連れられて行くことを良しとしたわけじゃない。大声でそう言って回りたかったけれど、ハヤヒコの元にいくことを幸せと感じている以上は、そんな言い訳をしても無意味だった。

「もう気に病むのはおやめなさい。あんたは選ばれただけなんだから」

ユヅはそう言ってナホの肩をぽんと叩いた。

「オロチには人柱を立てなきゃならない。これは決まりだからね。他の娘が無理強いされて不幸になるより、どれほどいいことか」

「わかってます。けど、気になっちゃって」

「…やっぱり、あんたもこの国の人間なんだね。いくら慕わしい相手の元だろうと、かの国に行くのは嫌かい?」

 彼女の問いに、ナホはこくんと小さく頷いた。

 ちゃんと気持ちの整理は付けたはずだった。それなのに、いざとなると怖くなる。

 もし相手がハヤヒコじゃなければ、こんな複雑な気持ちにはならないだろう。もし彼以外との話であったなら、泣き、喚き、落ちるだけ落ちて、最後には姉やのように心が壊れるのかもしれない。それはそれで辛いだろうが、喜びと悲しみが混ざり合った感情を消化することもまた難しいのだ。

「まあねぇ。あんたの気持ちは痛いほどわかるよ」

 そう言ってユヅは遠い目をした。過去の、自らの経験を思い出したのだろう。

「私もね、当時はそれなりに苦しんだよ。なにしろ、裏切者と誹られる一家へ嫁いだわけだからね。しかも向こうから見初められて」

「母さんから少しだけ聞きました。私と同じだって」

彼女はふうっと長い息をつくと、今度はくつくつと自嘲気味に笑った。

「仲間内だというのに嫌われているってのも厄介なんだよ。あんたは知らないかもしれないけど、長の父君はね、高志の腰ぎんちゃくそのものだった。彼らを立てるためにはどんなことだろうと厭わない。どんなに理不尽な要求にだって応えようとして、民を苦しめてきたものでね。それはそれは評判の悪い方だったよ。そんな家に誰が行きたいものかって何度も話を断ったけれど、あの人は諦めなくてさ。結局は根負けしたというわけ。それなのに裏切者の仲間入りだとか悪評を立てられて、たまったもんじゃなかったね。こっちから頼み込んだわけでもないのに、迷惑な話だよ」

「でも、今はそんなに不幸せそうには見えませんけど」

 ナホはおそるおそるそう言った。そのさばけた性格からか、彼女への信頼は厚く、男女問わずに人気も高いのだ。とてもそんな悩みを抱えていたなんて思えなかった。

「父君はともかく、あの人は、長はそう悪い人じゃなかったからね。あの一門にあっても、『考えるべきはこの国が第一』って言い切ってくれるなかなか頼もしい人だよ」

 ユヅは素っ気なく言った風を装っていたが、にじみ出てくる照れは隠しきれていなかった。おしどり夫婦と呼ばれる由縁を垣間見て、ナホの方でも笑みが零れてくる。

「だからね、ナホ。あんただって大丈夫だよ」

「少し、安心しました。でもまさか自分が人柱になるとは思ってもみなかったな」

 ナホの言葉に、ユヅは人の悪そうな笑みを浮かべた。

「噂じゃ、あんたが頼み込んだことになっているけどね」

「私、そんな」

「わかってるよ。あんたが打算で生きていくような娘じゃないことは百も承知さ」

「けど、私はこうなったことを不幸だとは思えないんです。嬉しいって思うときもある。それって、皆に対しての裏切りなんじゃないかなって」

「なんでよ。ここで素直にならないでどうするのさ」

 ユヅはあっけらかんとそう言って、けらけらと笑いだした。

「決まってしまったものは仕方ない。従うしかないんだから、自分の良い様に思っていた方がいい」

 そう言って彼女はナホをぎゅっと抱きしめた。母に似た柔らかい感触がじんわりと伝わってくる。

「あんたにとっては試練かもしれない。でもね、相手には恵まれたんだ。こうなったからには前を向いて頑張りな」

「その話はなかったことにしてもらうぞ」

 突然話に割り込んできた長に、二人はぎくりと反応した。

「あなた、いつからそこに?」

 ユヅは立ち聞きしていたことを咎めるような口ぶりでそう言った。が、彼はそんなことは意にも介さずにこう言った。

「来るんだ。話がある」

 連れていかれたその場には、なぜかナホの両親もいた。そしてもう一人。当然のように長よりも上座にどかりと腰を下ろしていたのは、見たことのない若い男だった。座っているだけでもかなりの長身であろうことがうかがえる。風貌からするとこの辺りの者ではないようだ。

「お前がナホか」

 男はひどく無遠慮にそう言った。あからさまに上から見下す物言いだ。けれど、それでも誰も彼を咎めない。何となくだが、ただならぬ空気を感じてナホは警戒心を強めた。

「そうですけど」

 視線を落としつつ、だが、しっかりと相手を観察する。年の頃はハヤヒコと同じくらいか、もしくは少し上だろうか。目は二重ではっきりしていて、鼻筋は高く通っている。いわゆる彫が深い顔立ちだ。けれど癖のない黒髪を無造作に垂らしており、服も薄汚れてよれよれであまり清潔感がなかった。とても誰もが頭を低くするような相手には見えない。

 こちらから問い掛けたわけでもないのに、男は自らの経歴をつらつらと話し始めた。

「吾はタケハヤ。西の高国よりやって来た。吾らは海を越えて渡ってきた技術で国力を高め、大きく発展してきた。今ではここより西に、高国と並ぶ力のある国はない。出雲は高志の侵略に長年悩まされているはずだ。吾らにとっても奴らは敵。共に力を合わせ、この国から高志の勢力を一掃しようではないか」

 演技がかった話しぶりが、妙に癇に障った。内容もあまりにばかばかしい。その感情が察されたのか、男の眉がピクリと動いた。

「お前に縁談があるそうだが、その話は無くなる。むしろ、相手がいなくなると言った方が正しいな」

「いなくなる?」

 今度はナホの眉間に皺が寄った。彼は悠然とした態度で愉しげにこう言った。

「ああ。私がその男を倒すからな」

 冗談にも程がある。これ以上は本当に聞く気にもなれず、白けた態度を表面に出した。すると彼は急に真顔になって、口調を真剣なそれに改めた。

「過酷な労働を強いられ、重い貢を課せられたせいで、この国は奴らへの怨嗟で満ちている。誰もが奴らを排除したいと思っているはずだ。お前だってそうだろう?ならば、私に力を貸すのが筋だ」

「昔はともかく、今は違います。ハヤヒコ様は全てを正そうとしてくれているのですから」

 少し考えた後、ナホはきっぱりとそう言いきった。だが、タケハヤは冷笑を浮かべただけだった。その余裕に溢れた様がやたらと腹立たしい。加えて、誰も彼の言葉に異議を唱えないこともナホの神経を逆撫でた。

「長、どうしてこんな男がここにいるんですか?何を考えているんです?」

 ナホは歯ぎしりをする勢いで詰め寄ったが、彼はうろたえるだけで何も言わない。代わって、タケハヤが答えを告げた。

「戦になるのさ。積年の時を経て、出雲はようやく高志から解かれる。吾が力を貸してやる」

 彼の言葉には重みと説得力があった。少しでも気を抜けば、あっという間に言い負かされてしまいそうだ。ナホは彼の迫力に負けないように、低い声で言い返した。

「戦う意味がわかりません」

「どうしてだ?圧政から逃れる好機なのだぞ。私が旗揚げをすれば必ず勝てる」

 自信たっぷりな言い分からすると、既に話の大筋は立っているのかもしれない。というより、長が言い包められていると言った方が正しいのだろう。

「で、お前はどうしたい?ハヤヒコにこの話を伝えて策を妨害するか。それとも我らに与して高志と争うか。二つに一つだ」

「前者を選んだら?」

「今、この計略が相手方に漏れたとしてもこちらに痛みは無い。事前策は完璧だからな。ただ、実質の相手が高国とわかれば奴らも必死になろう。そうなれば被害は両軍で拡大する。そうなったときにお前が内通者であるとわかれば、両親はもちろん血縁者までもが国中から責められる立場になる。その場合の責任の取り方はわかるよな」

 平然とした表情でそう告げた彼に、ナホの全身の毛は総毛立った。感じたことのない恐怖だ。高志の者達に対するそれとはまた違う種類のもので、彼という存在そのものが異質で畏怖すべきものに思えた。そんなナホの思いを透けて見たかのように、タケハヤはこう言った。

「お前は吾を恐れているようだが、なぜハヤヒコは恐れない?奴とて、吾と立場は変わらんだろう」

「それは」ナホが答えるより先に、タケハヤが自論を述べる。

「答えは簡単だ。ハヤヒコがまだ未熟だからだよ。力を持つものは常に冷静で的確な判断をしなければいけない。たとえそれがどんなに非情と思われることでもな。奴はまだその域に達していないに過ぎん。だがいずれはそうなる立場だ。単純な優しさに惹かれているだけならやめておけ。仮の話だが、もし相手が吾らを打ち負かしたとしよう。そうなればハヤヒコの地位は確固たるものになる。お前も一時は手柄を讃えられるやもしれないが、騒動が落ち着けば余所者として罵られ、その後には故郷を裏切った者として糾弾されるぞ。ハヤヒコも馬鹿ではないだろうからな。自国を傾かせてまで女を守ろうとはしない」

 まあ、有り得る話ではないが。冗談のような軽い口調でそう続いたが、その部分はどうでもよかった。問題なのはタケハヤの言葉のせいでナホの中に、決して抱いてはいけない感情、『不信感』が生まれてしまったことの方だ。

 タケハヤはハヤヒコを直接知ってはいない。それなのにナホの知らないハヤヒコを、彼は知っているようだった。会ったこともない相手のことだから、あくまでも勝手な解釈をした上で話したことだろう。だが、さも見てきたかのように言われると妙に真実性に溢れていた。

「たくましい想像力をお持ちなんですね。けど、そんな確証もないような宙ぶらりんの説得なんかじゃ、私の気持ちは揺らぎませんから」

 淡々と告げたつもりだったのに、必要以上に熱が籠ってしまっていた。これじゃまるで自分に言い聞かせているよう、必死にハヤヒコを信じ込もうとしているようだ。胸中でこんなせめぎ合いが起きている時点で、彼への一途な想いというものなんて持っていない証拠だ。まさかこんな形でその事実を突きつけられるとは思いもしなかった。彼への罪悪感なのか、それとも単なる自己嫌悪のせいなのかはわからないけれど、胃の中が焼けただれたかのように痛みだした。

「さっきまでの勢いは消えたようだな」

 タケハヤはからかうようにそう言うと、父が用意してきたらしい酒に口を付けた。そして一口飲むや否や、眉間に皺を寄せて文句を言った。

「これでは甘いな。もっと辛いものはできるか?」

「あ、はい。これは飲み口が甘いものですので。辛い方がよろしいですか」

 父の言葉を受けて母が立ち上がろうとすると、タケハヤはそれを制した。

「いや。今じゃなくていい」

後でな。そう続けると、彼は再びナホに向き直った。

「お前はたたら場に行ったことがあるか?」

「そりゃ、ありますけど」

「ならば、なぜ高志の肩を持つような真似が出来る?あれほど過酷な労を強いられているのが、自分たちの仲間だということを知っているだろう。彼らがどれほど働こうとそれに見合う対価を手にすることはない。病や怪我に倒れても、ろくに休むことすら許されず、十分な報酬を手にすることもない。ひたすらに酷使されるばかりだ」

「ハヤヒコ様だってそんなことはわかってます。どうにかすると言ってくれましたし、実際に少しずつは改善されていますけど」

「お前はそれであっさり信じるのか?」

 小馬鹿にするようにそう言われて、ナホは唇を噛んで俯いた。

 だめだ。格が違う。彼と言い争ったところで、どうしたって勝てる気がしなかった。何を言ったって倍以上の正論で返されてしまうのがオチだ。彼は強国の為政者であり、本物の武人だった。先の先までも見通し、あたかもそれが事実であるかのように語る相手を、言い負かせるはずがない。タケハヤを前にしていると、自分がいかに無力で世を知らないかが悔しいくらいによくわかる。

何も言えずにいたナホに、タケハヤは微笑を浮かべながらこう告げた。

「もう日暮れだ。今日はこの辺りで引き揚げよう。だがナホ、お前の行動は全て把握しているからな。これからすぐにハヤヒコの元に走っていこうと一向に構わないが、そうなったときにお前が失うものを忘れるな。軽はずみな行動が命取りになるのは、何も戦場に限ったことではない」

 軽い口調だったが、圧し掛かる重みは尋常ではなかった。ナホにとってかけがえのない人達が人質に取られているということだ。もしナホがハヤヒコを選べば、考えたくもない事態が起きることだろう。

 

 長の館から戻った後、父母は無言のまますぐに床についてしまった。けれど寝息はどちらからも聞こえてこない。暗闇の中、ナホは口を開きかけたが途中で止めた。

 高志には行かない。そう告げれば二人は心底安心するだろう。無事に勝利できれば、ナホは遠い高志に嫁がなくて済むのだ。そうすればずっと近くで親孝行をしてやることもできる。

「でも…出来ないよ」

 ナホは押し殺した声で独り言を呟いた。

 互いに心を交わしたハヤヒコをそう簡単には裏切れない。彼への想いを断ち切ることなんて出来やしない。共に生きたいと願う相手なのだ。

 もうすぐ夏だというのに板壁の隙間から漏れてくる風は妙に冷たい。それが体の中にも吹き込んで来るようで、全身がうら寒くなった。

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