第3話 約束

 例の一件から幾月か経ったある日のことである。いつものごとく他の女達に置いて行かれたナホは、一人でとぼとぼと畦道を帰っていた。

 最近では怪我をすることはない。無視されることも少なくなった。理由は簡単だ。ハヤヒコに対する皆の意識が、少なからずいい方向に見直されたからである。

 そのことが後押ししているのかはわからないけれど、ハヤヒコもまた、あれ以来劇的に変わった。こちらの国情への理解をはっきりと表に示すようになったのだ。これまでの酷すぎた扱いを改めてくれたり、自国の者達が我が物顔で振る舞う事のないように言い渡してくれたりと、かなり出雲寄りの政を行っているようだった。もちろんそれが全て功を奏しているわけではないけれど、それでも出雲のことを思っての彼の行動には、大多数の者が素直に感謝していた。

 それなのに何となく気分が沈んでいるのは、あの日から当の姿は見ていないからだろう。彼は本格的に政務に力を入れ始めたらしく、忙しい身ということもあって、以前のように自由に行動することはなくなった。そんな中でナホと無駄話をする暇なんてあるわけがない。

 次に会えるのはいつだろう。もう本当に二人で会うことはないんだろうか?思い悩めば悩むほど、彼への想いはどんどん募る。四六時中と言ってもいいほど、ハヤヒコのことばかりを考えていた。

 だから、前から厄介事がやってくるのに全く気付かなかったのだ。

 ナホは男達の太い笑い声を耳にしてようやく頭をあげた。既に高志の兵達は目の前近くまで進んできている。絡まれるのだけは避けたいが、こんなところじゃ逃げ隠れする場所もない。仕方なくナホは道から外れ、土手の中腹にひざまずいて礼を取った。

 腰を低めて、じっと息を潜める。彼らにとってはナホなど道端の石ころにも等しい存在のはずだ。

『このまま気付かずに去ってくれれば』

 そう願ったのもむなしく、彼らはわざわざ足を止めた。そして若い娘であることを確かめると、格好の獲物を見つけたかのように愉しげに笑った。

「こんなところで何をしているのかね?」

 二人の男がナホのうしろに回り込んできた。ガタイの良い彼らに見下ろされる形になり、身体は知らずに震えだす。声も上手く出せずに、固まったまま上を眺めた。

「娘が一人で往来を歩くのには危険がつきものだ。俺らが安全な場所まで送ってやろう」

 一人が猫撫で声でそう言ったのを合図に、ナホは両脇を抱えられて元いた道まで運ばれた。

「嫌っ、放してください」

 抵抗して体勢を崩したせいで派手に地面に転がる。だが、それを起こしてくれたのも相手のうちの一人だった。彼はにやにやしながら、ナホの体に手を回してきた。

「大丈夫かぁ」

 ちっとも心配などしていない声でそう問われても、嫌悪感が増すばかりだ。相手の顔を見るのも嫌で俯いていたが、顎をぐっと引上げられる。目の前には脂汗の光る四角い顔。その気持ち悪さにナホの顔は歪んだが、それを見た男も当然に気分を害したようである。

「何だよ、その表情」

 気持ち悪いんだよ。ナホは心の中で思い切りそう叫んだが、表面上は無言を貫いた。

 こいつらには何を言ったってムダだ。どんな言葉でも非を見つけて、言いがかりをつけてくる。それにナホにはお世辞を言う技術は無かった。

「そんな目で睨み付けてくるとは、いい度胸だな」

 男はそう言ったけれども、実際のところは怖さでいっぱいだった。強気な態度を取ってみせたものの、どんどん恐怖が勝ってくる。目をいっぱいに見開いていたせいもあって、涙も浮かんできそうだった。

「あんまり舐めた真似をするようなら」ドスのきいた声でそう言った男は、腰に下がる剣に手をかける。

「お前達が精魂込めて踏んだ鉄で斬られる気分を味わうか?」

 恐怖が湧いてきて、ナホの体は震えだした。脅しだとはわかっていても、怖くて仕方がない。それを面白がるように、兵はにやりと下卑た笑みを浮かべた。

「怯えた顔もなかなか」

「何をしている」

 突然、聞き慣れた声が響いた。バネ仕掛けの人形のようにぱっと声の主を振り返ると、そこには期待していた姿があった。ナホはほとんど泣きながら彼の名を呼ぶ。

「ハヤヒコ様」

 彼はそれには反応せず、部下達を一瞥した。

 ハヤヒコとその側近が不意に登場したことで、誰しもが動揺したようだ。彼らは今まで偉ぶっていたのが嘘のように、へこへこし始める。急に放り捨てられたナホはまた地面に倒れ込んだ。

「おい、そこの娘。ハヤヒコ様の御前だぞ」

 体勢を整える間もなく、イチタにそう窘められた。ナホは慌てて頭を下げたが、ハヤヒコも特にそれを止めない。

 これがハヤヒコとナホとの『差』だ。いくら個人的に親しかったとは言っても、その身分は天と地ほども違う。

「つい先ごろ軍規を見直したばかりのはずだが?」

 ハヤヒコは低い声でそれだけを告げると、傍らの側近に手で合図をした。それを受けたイチタ達は兵を一人ずつ立たせ、その手に縄をかける。そうして囚人を護送するときのように列を成すと、側近たちが乱暴に引き連れていってしまった。

「大丈夫だったか?」

「…はい」

 そう答えるのがやっとだった。久しぶりの再会がこんな形だとは思わなかった。

「悪かった。軍の乱れは私の力不足だ」

「いえ…いつもの、ことだし」

 そう告げるなり、ハヤヒコの顔がさっとこわばった。一瞬まずかったとは思ったが、もう遅い。

 確かに彼のおかげで暮らしは上向いてきた。けれど、残念なことにその反動もあるのだ。彼が自分達を律するほど、はみ出し者も多くなる。そしてそのはけ口になるのは、やっぱりこちら側なのだ。

「いつも、か。これでも、ある程度は罰しているつもりだがな」

 あなたが知らないことは山程ある。そう出かかったが、こちらはぐっと留めた。助けてもらったのに更に文句を言うのは、あまりよろしくないだろう。

 ふと目をやると、また斐川が赤かった。夕焼けが映っているだけではなく、上流で出た鉄のカスのせいだ。真っ赤なその色は、高志の人間に虐げられ続けているこの国の民の血に思えた。

 何を話せばいいんだろう。会いたかったはずなのに、気持ちの整理がつかない。それに顔を見たら、ますます言葉が出てこなくなった。

「…その剣、前に会った時の?」

 ナホはあえて話題を変えることにした。ハヤヒコもナホの意を察してくれたらしく、わずかの間はあったけれど、素直に問いに答えてくれた。

「ああ。欠陥の原因を探っているところだ」

 ハヤヒコはそう言うと、腰に下がった剣をそっと撫でた。

「これまでの方法では限界があるのかもしれない。より強いものを求めるならば、抜本的な改良が必要だ」

「でも、もうこれ以上は…」

 思わず反論してしまったが、ナホはすぐに口をつぐんだ。せっかく切り替えようとしたのに、これじゃまた同じ話に戻ってしまう。言い澱んだナホの気持ちを汲むように、ハヤヒコは柔らかくこう言った。

「わかっている。多方面でこの国には大分負荷をかけているからな。製鉄で儲かる者は一部だ。あとの大勢は苦役を課されて苦しんでいるのだろう。けれど残念なことに、高志側から見ればそれは些事に過ぎない。誰かが立ち上がってどうにかしない限り、決して救われない」

「だから、あなた様が立ち上がってくれた」

 ナホは率直な意見を述べた。こちらを射抜く様なきりりとした黒目で見つめられて、思わずたじろぎそうになったが、ナホはそれをしっかり受け止める。

 築かれてしまったモノを切り崩すということが、どれほど大変なことなのかはわからない。けれど何かの痛みを耐えなければ、新しいものは生まれないのだ。どんな形でも構わない。誰かにこの国を救って欲しかった。

「出来ることはするつもりだ。だが、今の私に出来ることは非常に少ない」

 ナホの言葉を自分への当てつけと感じたらしいハヤヒコは、自嘲気味にそう言った。その横顔からは苛立ちのような色が見て取れる。

「ごめんなさい」

「なぜ謝る?」

「あなた様は力を尽くしてくれている。まずはそれに感謝すべきでした」

「…この国の疲弊はすぐに見て取れるほどだ。他の者からも不平不満はごまんと聞いている。父達ももちろんその件は十分に承知しているが、結局は何の対処もない。本国に問題が起こらない限りは静観するつもりだろう。そんな中で、まだ身の振り方も決まっていない私がいくら執政に取り組もうと、思うようには進まない。すまないな」

 いつにない態度のハヤヒコに、ナホは目を丸くして驚いた。いつも飄々としている彼が、こんな風に弱音を吐くなど思ってもみなかった。

「どうした?情けない男で失望したか?」

 そう問われて、ナホはふるふると首を横に振った。

 逆だ。むしろ彼の内面に触れられた気がして嬉しかった。

「安心しました。そんなあなた様だから、私は」

お慕いしているのです。面と向かってそう告げるのは気恥ずかしくて、後半はごにょごにょとごまかしてしまった。

 ナホは自分では気付かないうちに、大人びた表情で彼を見ていた。ハヤヒコはそんな彼女に一瞬見惚れたのだったが、すぐさま元に戻した。無論、ナホはそんなことにちっとも気付いていない。

「兵に関してはより規律を強めよう。見かねた振る舞いはこれまで以上に取り締まる」

 ハヤヒコは今度は事務的にそう告げると、また視線を剣へと移した。けれど、ナホの心はとてもぽかぽかしていた。二人の間にいつもとは違った何かが現れたような気がしたからである。

「帰るのだろう。近くまで送る」

 ハヤヒコは多少ぶっきらぼうにそう言うと、ナホの答えを待たずにさっさと歩き始めた。

 こうして並んで歩くなんて、いつ振りのことだろう。彼は歩幅を縮めて、ナホに合わせてくれていた。あまり表面にはださないが、そういう気遣いをしてくれる人だ。

 二人の前に伸びる影は、実際よりもずっと近づいて見えた。それが現実の距離であったら、どれほど嬉しいことだろう。そう思っていたときだ。影は更に近づき、ナホの身体は彼にぴたりと寄り添った。

「ハヤヒコ様?」

「私の元に来ないか?」

「え?」

「采女、いや、妃として傍にいてはくれないか?」

 妃として? 告げられている言葉の意味を取りかねて、ナホは彼を見上げた。陽に照らされているせいで表情がよく見えない。けれど、からかわれているような素振りはなかった。

「お前さえよければ、次の『人柱』に立てるつもりだ」

 数秒間、文字通り息が止まった。まるで全身の力が抜けきってしまったようで、グラグラと揺れる。支えきれずにそのまま彼の胸にもたれかかった。

「私が、高志に、行く?」

 ナホは消え入るような声でそう問いかけた。だが、それすら無意識だった。

「ああ、そうだ。私の妃として」

「あなた様の妃…」

 そう呟きながら、まじまじとハヤヒコを見た。すると真剣な眼差しでこちらを見つめていた彼は、ふっと苦笑を浮かべた。

「泣きそうな顔をしているな。嫌ならそう言ってくれて構わない」

「嫌なわけがないでしょう」

 やっとの思いで出てきたのは、自分でも驚くほどの震え声だった。

 ナホは心底戸惑っていた。まさか自分が人柱に立つなんて考えてもみなかったのだ。そしてその相手はハヤヒコだという。彼に恋する娘としては飛び上がりたいほど嬉しい話だった。けれどその一方で、人柱に対しての嫌悪感を抱く出雲の娘としての矜持もあった。相反する感情がせめぎ合って、自分の中で話をうまく飲み込むことが出来なかったのである。

 ナホが急に黙り込んだせいか、ハヤヒコは寂しそうに微笑んだ。

「私には敵が多い。本国の現政権における反対派、それぞれの兄達の側近、そしてこの国での私の執政を快く思わぬ者。あまりに数があって、誰が味方なのかも正直よくわからない。心を許して話せる者などほんのわずかだ。だから、」

 ハヤヒコはそこで言葉を切ると、何かを念じるかのように目を閉じた。そしてそのまま天を仰ぐと、こう言ったのだった。

「お前には傍にいて欲しい」

 心臓が止まる思いとはこういうことを言うのだろう。ナホは全身にビリビリと電流が走るのを感じた。

 何よりも、何を引き換えにしても、一番に欲しい言葉だった。

 彼の口からそう告げられる夢は何度見たかわからない。けれど、それはあくまでも夢で、ナホの妄想でしかなかった。だから目覚めた時には、とてつもない虚しさに襲われるのだ。想いを断ち切れない辛さに、涙したことだって少なくない。

 それなのに、今まさに現実になっている。とても信じられなかった。

「本当に?」

 怖々とそう問いかけたナホに、ハヤヒコはこくりと頷いて見せた。だが、その表情はどこか暗い。彼は一呼吸着くと、真剣な眼差しをナホに向けた。

「もちろん本気だ。そうでなければ、こんなことを話したりはしない。ただ、先も言ったとおりの状況だからな。お前に拒絶されても仕方のないことだと思っている」

 諦めが入ったような彼の声を聞いて、ナホの胸はずきんと痛んだ。

 拒絶なんてするわけがない。けれど、心が迷っているのは事実だった。そのせいなのか、言葉に詰まってしまって、うまく返答が出来ない。ハヤヒコには偽りや飾り立てた言葉を告げたくはなかった。けれどそうは言っても、やはり彼は高志の人間で、この申し出は単純な結婚の申し込みといった類の話ではない。出雲の娘としては、どこまで本音をさらけ出していいのかもわからなかったのだ。

「お前は本当にわかりやすいな」

 ナホの浮かない顔色を読んだのだろう。ハヤヒコはくっくっと小さく笑った。

「言いたいことがあるんなら、言えばいい。お前の気持ちを聞かせて欲しい」

 それを聞いて、ふっと心が軽くなった。少し考えれば、こんなことで迷った自分がバカバカしかった。ナホが想いを告げる相手は、この世でただ一人。当のハヤヒコにそうせずに、誰に自分の真実を伝えるというのだ。

 全て話そう。ハヤヒコならきっとわかってくれる。ナホは大きく息を吸い込むと、それを一気に吐き出した。

「とっくにお気づきだと思いますけど、私は子どもの頃からずっとあなた様をお慕いしております。だから、今はとっても嬉しい。でも…高志には行きたくないんです」

「それはまた随分と大きなわがままだな」

 ハヤヒコは軽く笑ったが、目は真剣だった。ナホは勇気を出して、次の句を繋げる。

「今まで何人もの女達が連れていかれていく姿を見てきました。皆、泣き叫んで抵抗していたけれど、構わず引っ張って行かれた。だから、私には怖ろしいところのようにしか思えないのです」

「…なるほど、わかった。この話はなかったことにしよう」

「えっ?でも」ナホは驚いて目を見開く。するとハヤヒコは視線を逸らすように、くるりとナホから向きを変えた。

「お前に無理強いさせるのは本意ではない」

 彼はそう言うと、遠くを睨むような顔つきをした。単なる偶然かもしれないが、奇しくもその方向には彼の本国がある。ハヤヒコは寂しげな微笑を浮かべながらこう続けた。

「すまなかったな。もう会うのはこれきりにするよ」

 会うのはこれきり…。彼が告げたその言葉が、脳裏をぐるぐると巡る。

「心配するな。これからも政にはきちんと取り組む。この国が少しでも良くなるよう」

 為政者として態度を改めたハヤヒコは今後の話をしていたようだが、ほとんど耳に入ってこなかった。彼としては、今回のことで出雲側に何か悪い影響が働くのではとナホが案じていると思ったのだろう。

 だが実際のところ、ナホの思考を占拠していたのは、彼を失うことの恐怖だけだった。他のことなんてどうでも良い。国がどうなってしまおうと知った事ではなかった。ただただ、もう少しで手に入るところだった幸福が去って行くことに焦りを感じていたのである。

「いやだ」

 気づいたときにはナホはそう叫んで、ハヤヒコに抱き付いていた。声の大きさに驚いた鳥たちが一斉に飛び立った。

「私はあなたが好きです。それがどんな形であれ、一緒にいたい」

 余計なことは何もない。ただ自分の想いだけに身を任せた行動だった。

「好きだから、離したくないから、だから」

一緒にいさせて欲しい。今度は感情が暴走したせいで声が出てこない。

 色んなしがらみや、この国の民としての誇り、そして失われるであろう大切な存在。考えなければならないことは山ほどあった。けれど自分に素直になった時、それらは全部はじき出された。

 ナホにとって大事な点は一つだけ。ハヤヒコと添い遂げることが最上の幸福だということだ。他の何を犠牲にしても、これだけは譲れない。一番欲しい物を得るのだから、対価を必要とするのは当然だろう。

 ハヤヒコは嗚咽を漏らしながらしゃくりあげるナホの頭をポンポンと叩く。その仕草はいつもと変わりなかったけれど、感じられる体温はずっと温かかった。

「私で、私なんかで良いなら、傍にいたい」

「それはこちらの台詞だ。願わくば最期の時まで、私を支えていてほしい」

 ナホを包む腕に力が込められた。ハヤヒコの想いが直接的に伝わってくるようで、ナホの感情もまた昂った。彼の胸に顔を埋めながら、夢のような幸せに酔いしれる。

「もちろん。ナホはずっとあなた様のお傍にいます」

 ありがとう。ハヤヒコはナホの耳元でそっとそう囁いた。

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