第2話 人柱

 季は初夏。みずみずしい若草が辺り一帯を美しい緑に染め、斐川の水面はそれらと陽の光を反射してキラキラと光っている。弾ける様な若さがいたるところに溢れかえるこの季節が、ナホは一番好きだった。

「あなたの恋人は鉄ですか?」

数か月ぶりにハヤヒコに会ったナホは、思わずそう口にした。畑仕事をさっさと終えて、息せき切って彼の元に走ってきたというのに、ちっとも相手にされないのだ。文句の一つを言っても罰は当たるまい。

 たった今打ち終えたばかりの鉄剣が、彼の手の内で宝玉のように輝いている。それを振りかざしながら、ああでもない、こうでもないと、ぶつぶつ試している姿は、まるで玩具を手に入れた子どもだ。

「かもしれないな」

 ああ、そうですか。いつものことにナホは呆れて溜息をついた。

 あれから数年。頻繁に出雲に出入りしていたハヤヒコとは、いつしか兄と妹のような仲になっていた。

 他国の者同士、さらには互いの身分も格段に異なっているというのに気心知れる間柄になれたのは、なんとなくウマがあったからだろう。二人きりでいる時は、ハヤヒコもナホに気楽に過ごすことを求めた。

 だからといって恋愛関係にあるのかというとそういうわけでもない。ナホの方では恋心を抱いているが、彼からはちっともそんな対象には見られていないのだ。彼にしてみれば、気の置けない妹のような存在でしかないらしい。それはそれで寂しくはあるけれど、想いが叶うはずもないことは重々承知しているからか、妙に割り切れている部分もあった。こうして二人で過ごせる時間があるだけで幸せなのだ。

ナホがそんなぽかぽかした想いに浸っていたにもかかわらず、ハヤヒコは大して興味も無さそうにこう聞いてきた。

「お前は?そろそろ嫁に行く年だろう?」

 …こいつは。

思わず、睨み付けてしまった。人の気持ちは十分に知っているはずだろうに、よくもぬけぬけとそう言えるものだ。

「今のところ、何も」

「ほう。当てがないというやつか」

 刀身をまじまじと見つめながら、ハヤヒコは戯れを口にする。

「どうしてもと言うなら、引き取ってやろうか?」

「ええ。そうしてもらえたらありがたい、って悪い冗談は止めてください」

「そうだな」

 思わず赤面した顔が、今度は白くなったに違いない。今は、まぁいつもだが、彼の興味はまったくナホになかった。こっちは飛び上がるほど嬉しい話だったのに、彼にとっては鉄剣の微調整の方が格段に上の大事らしい。

「ハヤヒコ様は、どうして妻をもたないのですか?」

 ナホは多少どぎまぎしながらそう問いかけた。

 彼にこんなことを尋ねたのは、実はこれが初めてだった。何となく今まで口に出すことをためらっていたのである。

 女と男の違いはあれど、ナホが適齢期であるなら、ハヤヒコはとっくにそれを過ぎている。ましてや彼は高志の国長の直系だ。幼いうちから相手が決まっていたとしてもおかしくない。それなのに、いつまでもふらふらしているのには何か理由があるとしか思えなかった。もっともその理由如何では、ナホはかなりの痛手を被ることになるのであるが。

 この状況でまともな返事がくることはあるまいと、そう高を括っていたが、彼の答えは予想外にきちんとしたものだった。

「父上から特に言われていないからな。何か言われたら従うよ」

 平然とそう言ってのけたハヤヒコに、ナホは後頭部を思い切り殴られたような衝撃を受けた。こめかみに手を当てながら、恐るおそる次の問いを口にする。

「…じゃあ、国長様がお話を出せば?」

「従うまでだ。おっと、ここに刃毀れがある」

 やはりハヤヒコにとってこの話は大した問題ではないようだ。彼は問題となっているらしい一点をそっと手でなぞりながら、陽の光でその部分を照らし出した。

「ここが弱いと連打は無理だ。もう少し強度を増さないと」

 泣きたい気分だったのは、ほんの一瞬。ハヤヒコのあっけらかんとした態度に、すぐに涙はどこかに行ってしまった。無邪気にも見える様子で剣をいじっている彼に、恋の駆け引きを持ち出すのはばかばかしく思えた。それに相手はナホの気持ちを十二分に知っているのだ。今更、何かが劇的に変わるわけがない。

「元の鉄が弱いのか。それとも叩きが甘いのか。これだけじゃ判別がつかないな」

「あなた様は本当に鉄がお好きなのですね。そうしているときはとっても幸せそう」

 完全に注意が鉄剣に向いたハヤヒコに、ナホもそちらの話に乗ることにした。せっかくこうして会えているのだ。無駄な話をして機嫌を損ねてしまうよりも、楽しい時を共有したかった。

「この輝きを見てみろ。美しいだろう。それにこの切れ味だ」

 ハヤヒコはそう言いながら、鉄剣で手近な草を薙いだ。ざくっという鋭い音を立てて、緑の葉っぱが宙に舞い上がる。はらはらと落ちるそれを見ながら、彼はこう続けた。

「木刀や青銅などとは強度が違う。これなら十分実戦でも役に立つだろうな」

「すぐにでも戦があるかもしれませんしね」

 ナホは少しばかり皮肉を込めてそう言ったが、すぐさま後悔した。もし戦になるとすれば、この国が反乱を起こす時である。高志の人間である彼にそんなことを言うのは、どう考えても間抜けだった。

 おそるおそるハヤヒコを覗き見ると、案の定、鋭い視線の彼と目が合ってしまった。

 まずい。そう思ってびくびくしていたが、彼はナホの発言には深く突っ込まずにこう返してきた。

「今すぐにどうのという話ではない。いつ、いかなる時にでもすぐに戦えるように準備は整えておくものだ。いざとなって武器も兵糧も将も足りないとなったら、勝てるものも落とすことになるからな」

「そういうものですか」

 これ以上藪蛇にならないように曖昧に言葉を濁したのだったが、ハヤヒコは探るような眼でこちらを見てきた。そこにはもう、仲の良い兄貴分としての彼は見えない。ナホと向かい合っているのは、支配者としてのハヤヒコだった。そうなれば、どんなに小さな火種でも消しておきたいと考えるのは当然のこと。今のようなたわいもない会話の中の発言であっても敏感に反応してくる。

 ナホは自分がいかに危険な行動をしているのかを改めて実感した。国の仇を相手に恋をすることは、周囲の批判を受けるだけのことはある、とてつもなく馬鹿げたことなのかもしれない。下手をすれば自分の迂闊な一言で、この国が窮地に立たされることにもなりかねないのだ。

 高志に対する負の感情が顔全体に現れていそうな気がして、ナホは思わず顔を背けた。

 地面には、さっき斬られた草の葉先がばらばらになって散らばっていた。どれもこれも切り口は見事なまでに平らだ。彼の手にする剣の鋭い切れ味が、高志の冷酷さを表しているように思えてきて、背筋がうすら寒くなった。

 支配する者とされる者、それが自分達の現実の関係だ。どんなに親しくなろうと、ハヤヒコとの間にある巨大な溝が埋まることはない。

「…その痣、どうしたんだ?」

「えっ」

 ハヤヒコは不意にそう言った。思いがけない問いかけに、ナホの声は変に高くなる。反射的に左腕を引っ込めたが遅かった。彼の視線はナホの肘の少し下にどっぷりと注がれていた。

「まだ新しいだろう。転んだわけではなさそうだが、まさか」

「いいえ。これは兵のやつらにやられたものじゃなくて」

 ナホはそこで、はっと口を閉じた。

 またやってしまった。ハヤヒコに対して口にするべきではない言葉だ。どんなに横暴な奴らであろうと、彼の部下には違いない。

「ごめんなさい、私、失礼を」

「誰にやられた?」

 ハヤヒコはナホの失言も謝罪もあっさり無視すると、責める様な口調でそう言った。

「何でもないんです。気にしないでください」

 ナホはわざとらしいほど明るい声を出した。

 推察通り、この痣はついさっき出来たばかりのものだ。けれど本当のことなんて言えやしない。言ってしまえば、こうして彼と過ごす時間はきっと失われてしまう。

『高志の男に媚を売る裏切り者。恥を知れ』

 村の女達にこぞってそう罵られるのは、今に始まったことじゃなかった。ちょっとした間違いを装って危害を加えられるのも、一度や二度じゃない。自分達を苦しめてやまない高志の人間を憎むどころか、親しさを求めて近づくことは、仲間内から見れば裏切り行為でしかないのだ。たとえそれが純粋な恋心からであったとしても、である。

 高志の属に貶められてから数十年。長い年月の間に、この国は疲弊しきっていた。働けど働けど、重い貢のせいで暮らし向きが楽になることはない。小難しい政のことなんかわからない者達であっても、それが何のせいなのかは知っていた。

 山間に位置するこの国では、平野が少ないために畑作はなかなか難しい。だが、狩猟や漁労だけでは安定した暮らしが送れない。村人たちは力を合わせてどうにか畑を作っているが、斐川が氾濫すればそれまでだ。苦労は一瞬で水の泡になり、あっという間に流されてしまう。そんな暮らしぶりに目を付けたのが、高志だった。彼らは巧みな話術で国長に取り入ると、川上に鬼の棲み処を造り上げた。

 日がな巨大な炎を吹き上げる怖ろしい場所。『それ』は、初めは間違いなく希望の星だった。村人たちはこぞってその地に集い、意気揚々と職にありついた。教えられる最先端の技や知識に感激し、それらを得た自分らを高く評価し、畑を肥すよりもずっと割がいいと信じ込んだ。そして耐えかねる様な熱さの中で倒れる寸前まで働いた。

 が、そうまでして手にしたのは、とても見合う報酬ではなかった。高志の者達は何だかんだと理由をくっつけては、のらりくらりと話を交わし、成果物だけを自分らの手中に収めていたのである。

 話が違うと国長が気が付いたときには、すでに後の祭りだった。いつしか大量に移り住んできていたかの国の者達に圧倒され、手も足も出なくなってしまっていた。力づくで追い出そうとした時もあったが、相手は名うての強国、高志。農具や狩猟具しか持ったことのない者たちに勝つ術などあるわけがない。こてんぱんに叩き潰されたばかりか、更にはそれを契機に一段と支配力を増されてしまったのである。

 結局、当時の国長一族は処刑され、反逆の意思はないといち早く表明した男が長として据えられた。それが今の長の祖だった。彼らが媚びへつらうために貢は年々重みを増し、今では日々の暮らしは昔にも増して貧困に喘いでいる。度重なる横暴に怨嗟の声は国中に満ちているが、成す術は何もなかった。

 ナホだって高志に対する気持ちは皆と同じだ。ハヤヒコ以外は大嫌いだし、支配から逃れる日を心待ちにしている。けれど行動が伴っていない以上、何を言ってもただの言い訳にしかならない。結果、反感を買ってこのざまだ。畑を耕している最中に手元が狂ったらしい女の鍬が、ナホの左腕を直撃したのである。

『あの男に尻尾振って近づいて、自分たちだけ良い暮らしをするつもりなんだろう。さすがは腐った一族の娘だね』

 一人がそう言えば、全員が同調する。反論したって誰も聞く耳なんか持ちやしない。むしろ火に油を注ぐようなことにもなりかねないから、そんな時はじっと耐えることにしている。余計なことはしないし、言わない。そのうちに文句を言い飽きた者から去って行くし、怪我だって放っておけば治るのだ。そうすれば、すべてがなかったことに出来る。

 だから大丈夫。ナホは心の中でそう呟くと、無理やり作った笑顔を彼に向けた。

「大したことないし、大丈夫です」

「…今までもそういう傷があったろう」

 ハヤヒコは苦々しげにそう言った。それを聞くなり、ナホの笑みは顔に張り付く。さあっと血の気が引いていくのがわかった。

 気付かれていた…。まさか、理由も…?

 そう危惧していた矢先に、彼はナホが一番恐れていたことを口にした。

「こうやって会うのは止めるか。なにも傷だらけになってまで、話をすることもないだろう」

「あの、でも」

 とっさに言葉が出てこなかった。知って欲しくないと思っていた事だったのに、ハヤヒコは何もかもお見通しだったのである。何を言えばいいのかがわからなくなったナホは、今にも泣き出しそうな顔で彼を見上げた。

 彼は無表情で水面を眺めていた。すっと長い切れ長の目、形の良い鼻、薄い唇。まるで作り物のように出来の良い顔立ちだ。その上、細身ですらりとした身に纏うのは、上等な布で織った仕立ての良い着物である。ナホの浅黒く日に焼けた肌とも、ぼろきれのような着古した野良着とも雲泥の差だ。

 目に見えてわかる違いだけでも、彼がどれほど遠い世界の人間なのかを思い知らされる。住む世界が根本的に違うのだ。そんなことは誰に言われなくても、ナホが人一倍痛感していた。

 まるで天上人のようなハヤヒコに憧れがないとは言わない。けれど、決して彼の身分に惹かれたわけじゃない。今の生活から抜け出したいから彼に近づいているわけじゃない。ハヤヒコだから好きになった。好きだから、一緒にいたいだけなのだ。

 でも、そんなことを声を大にして言えるわけもなかった。どんなに想いを募らせようと、彼が高志の、ナホが出雲の者である限り、願いが叶うことはきっとない。

「会えなくなるのは嫌です」

 ナホは消え入りそうな声でなんとかそう告げたが、彼はそれには無言で応じた。そしてそのまま立ち上がると、何事もなかったようにこの場を去って行ってしまったのだった。


「そんなに泣きべそかいてどうしたの?」

 ぼけっとしたまま河川敷に座り込んでいると、不意に横から声をかけられた。姉やだった。彼女は近所に住む少し年上の娘で、一人っ子のナホが実の姉のように慕う存在だ。

「またいじめられた?」

 姉やはそう言いながら、ナホの頬に流れた涙を指で拭った。くりくりした瞳には困ったような色が浮かんでいた。

「ううん。違うよ」

「なら、あの方のこと?」

「…うん」

「何かあったの?」

 そこでもう一度堰が切れた。ナホは子どものように泣きながら彼女の胸に飛び込む。

「あのね、もうね、会わないって」

 ぐすんぐすんと鼻を鳴らしながら、途切れ途切れにそう告げるのがやっとだった。姉やはそんなナホの背中をトントンと優しくさすってくれる。よしよしと赤子をあやすように抱きしめてくれていた手が、すうっと場所を変えた。

「これ、見つけられちゃったのか」

 姉やの声に呆れが混じる。ナホはこくりと頷くと、涙を弾くためにぎゅっと目を瞑った。

「昨日はなかった。今日の畑だね」

「でも、ちょっとぶつかっちゃっただけだから」

「ちょっと、ねぇ」

 いかにも嘘だと言わんばかりの言い方だ。彼女は痣の部分にちょっと触れると、大きくため息をついた。

「ごめんね。今日は一緒に行ってやれなかったから」

「姉やが謝ることじゃないよ」

 ナホはぶんぶんと頭を振った。全員に啖呵を切って文句を言うようなことはなかったが、姉やは出来る範囲でナホを守ってくれていた。殴られる前に転ばしてくれたり、突き飛ばされたときにはその先にいて倒れるのを防いでくれたりと、荒っぽい方法ではあるが、痛みは最小限に留められる。彼女がそうしてくれることで、どれだけ救われてきたかわからない。

「あんたの気持ちもわかるけど、私はハヤヒコ様の言う通りだと思うよ。こんなになってまで」

「やだよ。だって好きなんだもん」

 ナホは泣き声のままそう怒鳴った。八つ当たりだ。こんなの姉やにしてみればいい迷惑でしかない。

「…ごめんなさい」

 少し冷静さを取り戻したところで、ナホはしゅんとしてそう言った。

「いいよ」姉やはくつくつと笑った。

「私もね、あんたの初恋は応援したいよ。でも相手が悪いからねぇ」

 確かに最悪だ。叶う見込みなんてひとつもない。

「いつかは、ちゃんと諦められるかな」

「どうだろうね。一度好きになったら、そうそうは気持ちが離れないもんだと思うから」

「それってミナヒコ兄のこと?」

 恋人の名を出すと姉やの表情はぱっと明るくなった。それを受けて、ナホにもようやく笑顔が戻る。

「もうすぐだもんね、祝言。楽しみだなぁ」

「ありがとう。ほら、そろそろ帰るよ」

 先に立ち上がった姉やに促され、ナホもようやく地面にぺたりと貼りついてしまっていた腰を引き上げた。


「ただいま」

 二人が集落に着いたとき、辺りはまるで葬式のようにどんよりと沈んでいた。ただごとではなさそうな雰囲気だが、その中心は他ならぬ姉やの家だった。戸口には大勢の人が集まっていて、中からはすすり泣きが聞こえてくる。

「何だろう」

 姉やは顔色を変えて人だかりの中に飛び込んで行く。ナホもそれを追おうとしたが、後ろから肩を掴まれてがくっと止まってしまった。

「お帰り」

 国長の妻、ユヅだった。彼女はナホの母の縁者だ。そういう関係もあってたびたび家を訪れているから気心が知れている。ただ、ナホとハヤヒコの仲については村の人々同様に良く思っていなく、暴力こそは振るわないが事あるごとに苦言を呈してきた。それが鬱陶しくはあったが、基本的にはさばさばした性格の姉御肌であり、何かにつけて頼りにしている人物である。

「どうかしたんですか?」

「あんたにはあんまり関係ないことだよ。さ、中へ」

 促されるままに家に入ると、あからさまに動揺した国長が真ん中に陣取っていた。ユヅがちらと視線をやると、彼は決まり悪そうに視線を泳がせる。

「一体何の騒ぎです。姉やの家に不幸でも?」

「不幸、といえばそうかもしれないな。娘が今年の人柱だ」

「姉やが?嘘でしょ」

 ナホは自分でも驚くほどの大声を出した。

 人柱とは、物騒な呼び名だが、扱いはその名の通りである。我が身を犠牲に国の繁栄を願うこと、それが役目だ。

 古来のしきたりであれば、豊年祈願のために選ばれた一人の娘がその身を水神であるオロチに捧げる、つまりは贄となって斐川に身を投げるというものらしい。属国に落ちて以来、そのおぞましいやり方がなくなったのは幸いだが、結局は犠牲が出ることに変わりはなかった。娘が身を捧げる先が、冷たい水中から異国の高志へと変わっただけなのだ。どちらにせよ、本人にとっては不幸でしかない。

 まじまじと国長を見つめると、彼は面倒そうに息を吐いて、言い訳がましくこう言った。

「もう儂だって人柱を立てるのは止めにしたい。だがな、どうしようもなかったんだ」

 肩を落とした長をユヅがそっと支える。憔悴しているのは、あちらとこちらの板挟みにあったからだろう。

 長年忌み嫌われてきた長一族だが、彼自身の評価はそこそこのものだ。あまりに理不尽な言い分については相手に物申すことではねのけたり、こちらの要求を述べたりと、この苦境を救うべく尽力はしているからである。幸いハヤヒコがそれに応じようとしてくれることもあって、少しずつではあるが状況も良くなっていた。その成果を受けて、長にはだいぶ人心が集まっている。

 が、そうは言っても積年の恨みがそう簡単に晴らされるわけはない。それゆえにナホのように親しくなる者は皆無だし、攻撃の標的になってしまうのだ。

「姉やはもうすぐ祝言なのに。酷すぎます」

「仕方ないだろう。かの国の臣が直々にその娘を、と求めてきたのだ。断れるわけがない」

 長はやけっぱちにそう言うと、父が用意した酒をあおった。

「これまでにもあまたの若い娘たちが、国の安泰を守るために泣く泣く身を捧げてきた。本来であればこの国で一生を終えるべきところを、その身を犠牲にして、他者の幸せを願う。言うなれば人身御供だ。誰が自らの民にそんなことさせたい?だがな、それをさせねばならないほど我が国は脆弱なのだ。力の無さがいかに悔しくて情けないかがお前にわかってたまるか」

 酔いが回ってきたのか、長は更に愚痴っぽくなってきた。おそらくだが、彼にやれることはもうやりつくしたのだろう。けれど結果はこの通り。向こうの要求に折れるしかなかった。

 強引な手段は、奴らの常のやり口だ。自分たちはころころ意見を変えるくせに、こちらの都合では絶対に動かない。こちらが下手である限りは、この悪習は途切れることはないのだろう。沸々と怒りが湧いてきて、ナホはギリギリと奥歯を噛んだ。これ以上内輪でああだこうだ言っても仕方ない。ナホは相手方に頼み込むことを考えた。


 夜が明けるやいなや、ナホは家から飛び出した。行く先はもちろん、ハヤヒコの舘である。

「おはようございます。お願いです。ハヤヒコ様に会わせてください」

無茶な要望だということは重々承知だ。当然のごとく、門兵はナホを一瞥しただけで応じようともしない。それでもしつこく食い下がった。

「私は川上のナホです。少しでいいんです。ハヤヒコ様にお目通りを」

「去れ」

 早朝であることもあってか、無駄な騒ぎすら起こしたくないようである。ようやく口を開いたと思えば、その一言だ。危険なことはわかっていたが、奥まで届く様にとナホは声を張り上げた。

「ハヤヒコ様。ナホです。どうか」

「おい。やめろ」「捕えるぞ」

 捕えられるなら、こちらのものだ。たとえ縛られたままの姿であっても、彼の前に出ていけることは確かなのだから。

「騒々しい、何の騒ぎだ」

 そう言いながら奥から姿を現したのは、ハヤヒコの側近の一人だった。ナホも多少なら面識がある。好機とばかりに再度大声でこう言った。

「ニタ様、川上のナホです。ハヤヒコ様に会わせてください」

「何の用だ」

「人ば、いえ、今年の采女のことでございます」

 人柱と呼ぶのはあくまでもこちらの国だけである。彼らにとっては、毎年捧げられる娘は采女という扱いで受け取るものらしい。

「その件ならばハヤヒコ様には無関係だ。何を言われようと、どうすることもない」

 ニタは淡々とそう告げると、くるりとこちらに背を向けた。それ以上の発言は許さないとばかりにそうされると、ナホの勢いも急激に萎んでしまったが、引き下がるわけにはいかなかった。

「彼女には祝言を約した相手がいるんです。だから」

「…いずれにせよ、ハヤヒコ様の管轄外のこと。こちらではどうにもならない。余計なことであの方を煩わせるな。それに、そこからどんなに叫んでも声は届くまい。あの方は昨日のうちに高志に発たれている。わかったらさっさと立ち去れ。そこの男もだ」

 ニタの言葉で後ろを向いたナホは、そこにミナヒコの姿を見つけた。彼もまた、ナホと同じ発想をしてきたようである。彼は悔しそうに俯いたまま、駆け去って行ってしまった。

 それからひと月あまりが経ち、ついに当日を迎えた。

 天の恵みに感謝し、これからの五穀豊穣を願う祝宴である。大昔は飲めや謳えやの喜ばしい一日だったらしい。が、今はどうだ。高志の属に堕ちてからというもの、かの国へ大量の貢を納める行事にすり替わっていた。だからナホの記憶にある限りでは、この日は一年で一番忌まわしい日だ。

 ガタン、ゴトンと何十台もの荷車が嫌な音を立てながらやって来ては社に並ぶ。荷台は今は空だが、朝になれば満載となっていることだろう。ずらりと並べられた品々は、国中から無理やり集められたものだ。それらは船に載せられて、海を越えていってしまう。

 出雲に授かった恵みを根こそぎ丸飲みしていくその様は、まるでオロチだ。

「次の人柱はどれかなぁ?」

 酔いの回った高志の兵の一人が酒筒を抱えながら、酌をすることを命じられた娘たちを見て回る。彼女たちは目を合わせないように一斉に俯いた。もし、目が合えば運のつき。面倒事に巻き込まれるのは必至だ。

「なかなか美人じゃないか。次はお前かな」

 隣村の若い娘が絡まれているのを見ながら、ナホはハヤヒコの傍に侍ることの出来た幸運を心の底から感謝した。

 人柱に選ばれるのはそれなりの器量良しだが、それを誇る者はいない。出雲の娘達にとって、オロチに捧げられることは屈辱であり、最大の不幸である。意思なんてそっちのけで、誰ともわからない相手の元にモノとして運ばれる。それを喜べる者がいるなら、会ってみたいものだ。

 何とかして姉やをそんな境遇から救い出したかったが、結局ナホは何の手も打てないままだった。何度かハヤヒコの元を訪ねてみたけれど、彼はまったく戻ってこなかったようで会えずじまい。長の方はというと、会うたびに己の非力を愚痴るだけで時間の無駄でしかなかった。ミナヒコとは何度か顔を合わせたが、彼の方がナホを避けているようで話すことも出来なかった。

 当の姉やとは会っていたけれど、会話らしい会話はしていない。知らせを受けて以来、別人のように変わってしまったのだ。誰が何を話しても笑いもしなければ、悲しみもしない。美しかった顔は人形のように無表情になり、声にも生気は感じられなくなった。まるで心そのものが凍ってしまったかのようだった。

「姉やには恋人がいるのに…酷い話」

 高床の桟敷に特別に設えられた席に座らされている彼女を見ながら、ナホはそう呟いた。そこにいる姉やは美しく着飾ってはいたが、まるで蝋人形のような風体だ。

「諦めろ。それが決まり事なんだろう」

 かすかな音量だったのに、隣にいるハヤヒコはしっかり聞いていたらしい。彼は興味が無さそうにそっけなくそう言った。

「そんなのなくしてしまえばいいじゃないですか」

 ナホは彼にだけ聞こえるように、苛立ち混じりで囁く。

「あなた様ならどうにか出来るでしょう」

「今日だけで何度言わせるつもりだ?今の私にそんな権限はない」 

「でも、せめて姉やを救うことくらいなら」

「政敵に頭を下げろと?」

 ハヤヒコに苦々しげにそう言われ、ナホは口をつぐんだ。

 村娘一人の人生と自らの政的な地位。彼がどちらを選ぶかなど、考えるまでもない。ナホにしても、ハヤヒコに犠牲を払わせてまで姉やを助けたいかと問われると心はぐらついた。 

「自らに降りかかった火の粉でもあるまい。お前がそれほど気に病むほどのことか?」

「たしかに自分じゃないけど…でも、仲が良かったから」

「同情するなら代わってやれ。それくらいの口利きならしてやってもいいぞ」

 …。ナホは何も言えずに黙りこくった。すると、ほらみたことかと言わんばかりの顔でハヤヒコが畳みかける。

「誰だって我が身が一番かわいいもの。他者を心底思いやれる者などそうはいまいよ」

 その一言は、ぐさりとナホの胸に突き刺さった。

 所詮、彼女を思う気持ちなんてその程度のもの。自分の中にあった冷たい部分を目の当たりにして、ナホの気分はぐんと落ち込んだ。

 その時だった。ガッシャーンと音を立てて篝火が倒れた。何事かと思う間もなく、視界が暗くなる。息苦しさを感じるのと同時に気が付いたのは、ここがハヤヒコの胸の中だということだった。どうやらとっさに彼が庇ってくれたようである。

「なに?どうしたんですか?」

「わからない」

 隙間からちらっと覗いてみると、一人の男が剣を振り上げながら桟敷に向かっていくのが見えた。ミナヒコだ。それからすぐに彼の仲間と思しき男達が叫び声を上げながらそこらじゅうを駆け巡り、次々に篝火を倒していく。飛び散った火は枯草や木に燃え移り、あっという間に辺り一面に広がった。

「きゃあ」

 娘たちの悲鳴が響いた。逃げ惑うものでごった返し、至る所で人同士がぶつかる。そんな混乱の最中、高志の兵達が取り押さえようとするのを巧みにかわし、ミナヒコは姉やのところに辿り着いた。

「逃げよう」

 彼は姉やの手を取った。彼女は小さく頷いて、即座に腰を上げて走り出した。

 上座にいたナホは偶然その場面を目撃できた。口をあんぐりと開けた格好でぼうっと見入っていたのだが、頭を小突かれて我に返る。

「ぼけっとするな、焼け死ぬぞ」

 既に準備万端なハヤヒコに無理やり引き上げられて、ナホはつまづきながらも立ち上がる。ハヤヒコめがけて襲いかかってくる者達もいるようで、彼の側近たちが盾となって立ちふさがった。

「お逃げください」

 一の側近であるイチタはそう言ったが、ハヤヒコは武器を取って攻撃に応じるつもりのようだ。

「バカを言うな。そんなことが出来るか」

「この程度、我らで十分です」

「だったら尚のこと、私が片をつける」

「その娘を巻き込むつもりですか。ニタを護衛につけます。早く行ってください」

 半ば脅しのように言われて、ハヤヒコはナホを見た。その顔には迷いが浮かんでいたけれど、数秒の後にはその言葉に従った。彼はナホの肩を抱くと、自分の体で守るようにしてその場を後にする。

 ニタを含む数名の兵の護衛を受けながら、ナホは騒動の渦中からようやくのことで逃げ出した。途中、後ろが気になって振り返ってみると、大量の矢が火の海を飛んでいく様が見えた。それは異常にゆっくりで、まるで静止画のようだった。

「しばらくこちらに留まっていましょう」

 ニタに連れられてきたのは、高志の部隊が勢ぞろいする本陣であった。中心地からは多少離れたものの、それでも叫び声や鉄を打ち合う音は聞こえてくる。だが、確かにここなら安全なのだろう。戦支度に身を包んだ彼らを相手に戦うだけの力は、今の自国にはない。

 とは言え、ナホの胸中は複雑だった。ここはあくまでも敵陣。たまたまハヤヒコのそばにいたおかげでこんなところにまで着いてきてしまったが、自分の居場所はここじゃないはずである。

「様子を見てくる。ここにいろ」

「やだ。行かないで」ナホはそう言ってハヤヒコの袖に縋った。

 恐怖で体が震えてくる。ただでさえ初めて体験する戦まがいの出来事に怯えていたというのに、たった一つの頼りがなくなるなんて冗談じゃなかった。ナホは恥も外聞もなく、泣きじゃくる。

「こんなところで一人にしないで」

 ハヤヒコは困った顔をしながら、現場の方角とナホを交互に見やった。するとニタが助け舟を出してくれた。

「騒ぎが収束すれば、イチタから遣いが参ります。もうしばらく辛抱してください」

「けれど、将が真っ先に逃げるなど恥だ」

「それは戦の場合でございましょう。このような『単なる騒ぎ』であれば、まずは御身の安全を確保することが第一ですよ」

 ニタとしては、ハヤヒコをこの場に留め置くことを役目としているらしい。そのこともあって、ハヤヒコは結局ナホを見捨てないでいてくれた。嗚咽を漏らすナホの頭をそっと撫でると、わかったと言って隣に腰を下ろす。そして辺りが静まり返るまで、泣いて震えるナホをそっと抱きしめていてくれたのだった。

 結局、ニタの言う『単なる騒ぎ』はその言葉通りのものでしかなかった。数刻もかからぬうちに鎮圧の報が届き、首謀者たちはその場で全員捕えられた。ただ、ミナヒコと姉やだけはどこを探しても見当たらなかったようで、そのまま捨て置かれることになった。

だがこの一件では、その後で誰しもが度肝を抜かれることが起きたのだった。

「処罰無し?」

 長は、告げられた言葉を聞いて腰を抜かした。彼ばかりでない。国中の者達が驚いたに違いない。もちろん、ナホもその一人だ。

 ハヤヒコはこの件について、一切の処罰を禁じたのだ。

「采女が一人逃げただけだろう。被害は大したことがない」

「しかし、叛逆の企てがあったことは事実でありまして」

「お前は自らの民を罰したいのか?」

「い、いえ。そんなことはございません」

「だったらもういいだろう。ただし、許すのはこれきりだ。次は無い」

 予想だにしていない結論にしどろもどろになる長に、ハヤヒコはきっぱりとそう告げた。その隣で、姉やを欲していた高志の臣が殺意に近い視線を彼に注いでいた。あからさまに敵意をむき出しにしてはいたが、ハヤヒコの沙汰とあれば従わざるを得ないのだろう。

「寛大な御心を頂き、誠に、誠に有難く存じます」

 長は地面に額を擦りつけんばかりにして額づく。民たちはこぞって喝采を上げた。

 全くもって、こんなことは異例中の異例だった。皆のハヤヒコを見る目が変わったのは確かだろう。けれど悲しいかな、長年虐げられてきただけあって、当然その事実を素直に受け取れない者もいた。彼らは、もっと怖ろしいことが起こる前触れかもしれないと疑心暗鬼になってしまったのである。その結果、国内でのハヤヒコへの感情が二分されることとなった。

 また彼の側としても、こうした決定を独断で下してしまったことで、高志内部での彼の立場を危うくし、孤立していく原因にもなってしまったのである。

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