後編

 立っていたのは、日比野さんだった。廊下側の窓から射し込む光のせいで、黒髪がうっすら栗色に染まっているように見える。

 謝らなきゃ。危機感とは裏腹に、孝助の視線は日比野さんの全身のある一点にくぎづけになっていた。

 ……また、みじかくなっている!

 日比野さんのスカートは、さらに目に見えで裾があがっていた。いままでは見えていなかったはずの膝小僧がはっきりと露出し、それどころか色白の太ももがかなり上の部分までのぞいている。これはもう、ちらりと見えるレベルの話じゃない。

 孝助ははっきりと、自分のなかに居座っていたもやもやとしたものの正体に気がついた。

 心の底から、日比野さんのスカートのなかを見てみたい。

 結局は、ただそれだけだった。あのスカートの奥は、どうなっているんだろう。日比野さんのイメージ通り、やっぱりそれも白なのだろうか。いや、清純そうに見えて意外に小悪魔の黒だったりして。もしや、もっと大胆にTバック?

 あと何日か待てば、日比野さんのスカートはさらにみじかくなり、もっときわどい部分まで見えるようになるかもしれない。けれど、それじゃダメなのだ。できることなら今すぐに、スカートの奥に秘められた部分をのぞいてみたい。許されることなら今この場で、優等生の裏の部分を教えてほしい。

「沖本君」

 日比野さんが一歩、孝助のほうに近づいてくる。

 ヤバい、今度こそビンタだ。恐怖のあまり、孝助は目をつぶる。

 だが何秒たっても、日比野さんの鉄拳がとんでくる気配はなかった。壁掛け時計の神経質な秒針だけがかろうじて沈黙を埋める。

 ゆっくりと目をあけると、日比野さんはいつものおっとりした、少しこまったような表情でこっちを見つめているだけだった。

「沖本君……」

 日比野さんはスカートの裾をつまみあげるような仕草をして、そして、いたずらっぽく笑いかけた。

「スカートの中、見てみる?」


 まぶたの外に光を感じる。意識はあるけれど、何となく体がふわふわしているみたいだ。

「大丈夫?」

 ぼんやりと聞こえるのは、日比野さんの声だろうか。遠くのほうからうっすら聞こえているような気もするし、すぐ近くから聞こえるような気もする。

 ゆっくり目を開けると、目の前に、孝助を心配げにのぞきこむ日比野さんの顔があった。優等生女子の何とも言えない香りが鼻腔をくすぐる。

「わあっ!」

 反射的に、孝助は飛び起きた。床の感触がおかしい。それもそのはず。孝助の寝ている下には、キャンプで使うような薄いブルーの防水シートが敷かれていた。

「床にそのまま寝るのはかわいそうだと思って。運動部から借りてきちゃった」

 記憶がとぎれたという記憶は、かろうじて残っている。日比野さんと二人きりになって、それで……。その先は、幻なのだろうか。

 孝助はそれとなく、鼻の下あたりをてのひらでさわってみる。……よし、どうやら鼻血は出てないみたいだ。

「勝手に入ってごめんなさい。もう帰りますから」

 早口に言って、孝助はまだふらつく足で立ちあがった。これ以上日比野さんとこんな密室で二人きりになるのは、男としてたえられない。

「待って!」

 ドアを開ける孝助の背中に、日比野さんの声が届いた。

 振り返ると、日比野さんがまっすぐに、何かを訴えたげな眼差しでこっちを見つめていた。

「スカートの中、見たいんでしょ?」

 落ち着いた声で、日比野さんはたずねた。からかっている風でもなく、ただ、心にうかんだ純粋な疑問をぶつけているかのようだった。あまりにもストレートに聞かれたものだから、孝助は思わず、(はい)とこたえそうになった。

「沖本君には、すべてを知っておいてほしいの」

 日比野さんはおもむろにスカートの裾をつまむと、そのまま上にぐいっと持ち上げはじめた。

「いや、あの、日比野さん……」

 マジか、と孝助は思った。確かに、この瞬間のために今まで人知れず胸をおどらせてきたわけではあるけれども、しかし、こんなかたちの(ご対面)は孝助の想像の範囲ではない。できることならもっとこっそり、日比野さんに知られないかたちで……。

 だが、孝助は日比野さんから、いや、日比野さんのスカートから目をそらすことができなかった。それは決していやらしい気持ちではなく(それも多少はあったかもしれないが……)、スカートから目をそらさせない何かが今の日比野さんには漂っていた。

 日比野さんはスカートを、太もものかなり上のほう、下着が見えるぎりぎりのラインまでまくりあげた。それまでスカートで隠されていたその部分には、細くてギザギザな線が太ももの曲線に沿うようにかなり長く走っていた。タトゥーかと一瞬思ったが、それにしてはデザインが地味で、素っ気なさすぎる。

「これが、スカートをみじかくする理由」

「このギザギザが?」

「って言っても、わかってもらえないよね」

 日比野さんはなぜか楽しそうにクスッと笑って、

「私の脚には、ボルトが入ってるの」

「ボル……?」

 思わず声が裏返り、孝助は手で口をおさえた。声が外まで聞こえなかったかと、廊下のほうを気にしてしまう。

 けれど、日比野さんは冷静だ。

「ここで説明してあげたいけど、もうすぐみんなきちゃうし……」

 と、日比野さんはちらっと時計に目をやって、

「とりあえず、場所変えようか」


 昼過ぎから吹奏楽部のメンバーが部室にあつまるということで、中庭で話すことになった。

 文化祭の時には外ステージとして使われる石段に、日比野さんとならんで腰かける。植え込みのアジサイがやけに目につく。中庭をまともに気にしたのは、これがはじめてかもしれない。

「さっきは、ごめんね」

 風になびく長い髪をかきあげながら、唐突に日比野さんは切り出した。

「びっくりしたでしょ?」

「いや、べつに……」

 と言いかけて、孝助はその先の言葉を飲み込んだ。日比野さんはただただまっすぐにこっちを見つめている。やわらかだけれど芯のある、おだやかだけれど力のこもった、何もかもを見抜いているような眼差し。中途半端なウソは、許されそうにない。

「うん、スッゲエ驚いた」

 賭けだった。この一言で日比野さんを決定的に怒らせて、もう二度と口をきいてくれなくなるかもしれない。

 けれど、そう言うしかなかった。だって、驚いたものは驚いたのだから。それに、敬語というハードルを取り払うチャンスはここ以外にない気がしていた。

「そうだよね。いきなりあんなの見せられたら、誰だってびっくりするよね」

 日比野さんはまたクスッと笑って、

「ってか、私のほうが驚いたよ。沖本君、目の前でいきなり気絶しちゃうんだもん。救急車を呼んだほうがいいかって、本気で迷ったんだからね」

「ごめん、ごめん」

 孝助は安心した。とりあえず、嫌われてはいないらしい。そして、少しだけ意外だった。日比野さんって、こんなにくだけた話し方をする人だったんだ。今まで思い描いていたイメージががらがらとくずれていく。でも、がっかりした感じは少しもない。

 それからしばらく、日比野さんは何も言わなかった。空白を埋めるべき言葉をさがしているような、それでいて、黙り込んでいることそのものを楽しんでいるような、ぎこちない沈黙。

 この時間がずっとつづけばいいと、孝助は思った。このままスカートの秘密を知ることなく終わったとしても、それはそれでいい。

「小学校の頃、車にはねられたの」

 ひとり言のように、日比野さんはさらりと言った。自分のなかできちんとタイミングをはかっていたような、きっぱりした口調だった。

「4年生の時にね。公園であそんだ帰りに、信号無視の軽自動車にはねられたの。けっこうまともにぶつかったから、左脚の骨が変形しちゃってね」

「それでボルトを……」

「軽自動車だからまだよかったけど、大型トラックとかだったら命があぶなかったみたい。一生歩けなくなるかもしれないって、病院の先生からは言われたし」

 日比野さんのふわふわした歩き方の理由が、やっとわかった。あれは、ボルトのせいだったんだ。体育の授業を必ず欠席するのも、ボルトのせいではげしい運動ができないから。

 ……待てよ。日比野さんについていろいろわかってきたけど、肝心の疑問はまだ残っている。日比野さんはどうして、スカートをみじかくするのか。それと脚のボルトとがどうしてもつながらない。

「去年までは、ボルトがコンプレックスだった。太ももに傷のある女子ってカッコ悪いでしょ。だから、スカートで傷が見えないようにして、ボルトのことは誰にも話さないようにしてきた。だけど、2年になって変わったの。おもしろい作戦を思いついちゃったんだよね」

「作戦?」

「スカートを毎日少しずつみじかくしていったら、先生たちからいつ気づかれるのか。ごめんね、こんな話で。くだらないと思ってるでしょ?」

「いや、全然。むしろ、つづきが気になるよ」

「聞き上手なんだね、沖本君って」

 また、日比野さんが笑ってくれた。孝助としては正直な気持ちをこたえただけだったのだが、ともかく結果オーライってやつだ。

「もちろんただの遊びだから、先生から怒られればすぐにやめるつもりだった。ミニスカートにこだわる趣味もないしね。でも、でも……」

 テンポのよかった日比野さんが、急に言葉をつまらせた。足もとの一点をじっと見つめて、唇をきゅっと噛みしめている。

「でも、私の想像通りにはいかなかった」

 そこから先は、孝助にも何となく想像できた。スカートをみじかくしたことに、誰も気づいてくれない。ゲームを終わりにするわけにはいかないから、もっとスカートをみじかくする。けれど、それでも誰も注意しない。そして、スカートはどんどんみじかくなっていく……きっと、そういうことなのだろう。

「誰にも気づかれなかったんだね」

「はじめは私もそう思った。毎日少しずつみじかくしてるから、先生もなかなか気づかないのかなって。でも、違った。スカートをみじかくしていっても、先生たちは誰も注意してくれなかった。どうしてだかわかる?」

「他の子もみんな、スカートをみじかくしてるから」

「違う。そんなんじゃないわ」

 日比野さんはゆらゆらと首を振って、スカートを少しだけまくりあげた。真っ白な太ももがのぞいて、孝助は視線をそらしそうになる。

「……この、ボルトのせいよ」

 日比野さんは、スカートに隠れている脚の傷をなでる仕草をした。

「この脚にボルトが入ってるから、私が障害者だから、先生たちは私のことを注意できないのよ。たとえそれがれっきとした校則違反であってもね」

「日比野さん……」

 そんなことはないと、言ってあげたかった。うちの高校はそこまでバカじゃない。日比野さんが注意されないのは脚のケガのせいではなくて、他のところで地道に努力を積み重ねてきたからだ。だいたい、スカートのことでいちいち注意していたら、毎日のように謹慎者が続出してしまう。

 でも、言えなかった。どんな言葉も、日比野さんのかたくなさの前では力をうしなってしまうように思えた。今はただ、彼女のくやしさを受けとめてあげることしかできない。

「スカートのことだけじゃない。授業に遅刻しても、やる気がなくて部活を休んでも、全校集会でまわりの子とうるさくしゃべってても、私だけは絶対に注意されないの。脚にボルトが入ってるっていう、ただそれだけの理由でね」

「スッゲエうらやましい気もするけどな。先生に怒られるのは、ふつうに考えればウザイことなんだし」

「それは、沖本君が今までふつうに怒られてきたからだよ。関心をもたれてきたからだよ」

 きっぱり言い返されてしまった。(ふつうに怒られる)ことがどういう意味かよくわからないけれど、まあ、子どもの頃からそれなりに怒られてきたような気がする。親、先生、時には近所のオッサンから。怒られることは、関心をもたれること。なるほど。そういう見方もあるわけか。

「……私、どうすればいいかなあ」

 日比野さんの声は、ふるえていた。切れ長の瞳には、うっすらと光るものがうかんでいる。

「日比野さんの思った通りにすればいいんじゃないのかな。よくわかんないけど」

 逃げているわけではなかった。ただ、となりのクラスのニキビ面男子が言えることは、どう考えてもそれぐらいしかなかった。

「本当に、それでいいのかな」

「オレはそう思うよ。だって、もう気づいてるんでしょ」

 そう。日比野さんは何もかもわかってるんだ。自分ではじめたゲームは自分自身でいつか終わりにしなきゃならないってことも。もちろん孝助としては、日比野さんのスカートがこのままどんどんみじかくなっていくほうがありがたいのだが。

「……ありがとう。沖本君のおかげで、何だかふっきれた」

 日比野さんが笑った。でも、いつもの笑顔じゃない。心のなかのもやもやをきれいさっぱり洗い流したような、くもりのない笑顔。

 校舎のほうから、トランペットの音が聞こえてきた。

「部活、はじまってるみたい」

 スカートの汚れを払いながら、日比野さんは立ちあがった。

「じゃあ、そろそろ行くね。話を聞いてくれて、本当にありがとう」

「ひとつだけ聞いてもいいかな」

「えっ、何?」

「どうして、オレだったの?」

「ああ、なんでわざわざ沖本君に話したのかってこと? それはね……」

 と、日比野さんはいたずらっぽくもったいをつけて、

「私のこと、ずっと見てたから」

「あっ、バレてたの?」

「バレるにきまってるじゃん!」

「うまくやったと思ったのに……」

「でも、うれしかった」

 日比野さんは目尻のあたりを指でぬぐって、

「どんな理由にせよ、この人は私に関心をもってくれてるんだなって。だから、話してみようと思ったの」

「あの、日比野さん……」

 誰もいない中庭に、日比野さんとふたりきり。これは、願ってもない大チャンスだ。しかも、日比野さんの気持ちは確実にこっちに動きかけている……。

「オレは今までずっと、日比野さんのことを見てきた。そしてこれからも、日比野さんだけを見ていたいと思ってる。だからつまり……」

「それってもしかして、(付き合ってください!)的なこと?」

「まあ、そう受け取ってもらって構わない」

「うーん……」

 日比野さんはうつむき、何かを考えている。それは恥じらいの表情か。あるいは……。

 日比野さんが顔をあげる。

「それはやっぱり、お断り!」

 あっさりフラれてしまった。

 まあ、そりゃそうだよな。


 月曜日。朝。

 予鈴が鳴る前に、日比野さんは廊下を通った。

 スカートの長さは、もとに戻っている。ゲームは、終わりにしたんだな。日比野さんの出したこたえに、孝助は安心した。

 ……んっ?

 遠ざかる日比野さんの姿に、ぼんやりとした違和感があった。スカートは基準通りだ。ピアスもつけていないし、化粧だってしていない。だが、今まで見慣れた日比野さんとは違う。確実にどこかが、何かが変わっている。

 孝助はもう一度、注意深く日比野さんを観察した。そして、かろうじてセンサーに引っかかった違和感……。

 日比野さん……髪、染めてる?

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日比野さんのスカートが日に日にみじかくなっていく件 @yocchan-555

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