シュレディンガーの箱庭 8

 ゆっくり体を起こした。ぐるりとあたりを見渡す。五木、武庫川、七尾の姿も消えていた。

「お目覚めになりましたな」

 唯一残っていた二宮が手を差し出した。その手を取り、立ち上がる。

「記憶の方は、どうです?」

「ああ、うん。大丈夫。思い出してきた」

「それは何より」

「僕はあなたの能力で『同期』していたんだね。過去の僕と」

 二宮が頷く。二宮の同期は、同じ場所に、同じ曜日の同じ日時で同じ姿勢を取ること。条件は厳しいが、クリアできれば過去の人物と同期することも可能なのだ。

「最後の宴が行われた日から、同じ日で同じ曜日が来るのは十一年後でした。ですので、十一年後の今日、同じ場所で宴を再現し、今のあなたの記憶を過去のあなたに同期させる必要がありました。唯一魔王と面識のある、あなたを」

 魔王と呼ばれる能力者が誕生し、世界は激変し、人類は絶滅の危機に瀕していた。救うには、魔王を倒さなければならない。しかし、恐ろしい能力以上に、魔王の正体を誰も知らない。知らないものは倒すことすらできない。

 ならば、唯一正体を知っている愚者に、魔王として覚醒する前の能力者を殺させればいい。それが、生き残った人間の唯一の方法だった。

「同期した瞬間、あなたは当時の記憶のまま目覚める。当然ながら今は宴をしているわけではない。当時の記憶のまま現在にあなたが存在すると、魔王の正体を知らないただの人間となってしまい、更なる状況の悪化を招く恐れがあった。ゆえに、同期の前に我々はあなたから当時の記憶を出来る限り引き出し、偽物の宴を再現させた。その中で、あなたが本来持つ記憶と齟齬が出るように行動していれば、今と過去の差によって混乱し、記憶の蓋が開くと考えた」

「十一年後の未来ですよ、と、すぐに答えを僕に教えなかったのは? そうすれば、同期はもっと早くに行われていたのではないのかな。わざわざこんな手の込んだことをしなくても良かったんじゃないのか?」

「同期でもっとも大事なことは、記憶を残す側が強く認識している記憶の方が残りやすいという事です。普段の記憶でも、印象深い記憶の方が残っているものでしょう?」

「つまり、宴に巻き込まれていた記憶を確実に残すために、宴を開いたという事?」

「その通りです。重要なのはあなたが宴の記憶を確実に持ったまま過去の自分と同期する事でした」

 それで、と二宮は伺うように言った。

「計画は、上手くいきましたか?」

 計画、そう、過去に戻った僕が、魔王を討つ。それがこの計画の目的だ。

「ああ、間違いなく、魔王は殺したよ」

 だからこそ、僕たち以外の人間が消えているのだ。

 僕はゆっくりと扉の前に近づく。扉につけられたタブレットの、ロック解除の文章を見る。

 ロックを解除できるのは特殊な人種だけ

 その人物はそのことに気づいていない

 全員が部屋を出るまである能力の影響下にある

「誰だっけ、この文言作ったの」

 苦笑しながら、後ろにいる二宮に問いかける。

「あなたですよ。その方が『能力者がロック解除できると勘違いさせられる』とか言って」

「そうか、結局、僕を一番騙していたのは、僕だという事か」

 タブレットを操作する。指紋認証画面を表示し、自分の手のひらを押し当てる。

「箇条書きってなんでこんなに勘違いしやすいんだろうね。解除できる人間と、能力者の影響下にあることは、まったく別の人間の事を示しているのに」

 気づいてない人物は僕のことで、全員がいたのは二宮の能力の影響下だ。嘘はついてはいないが、勘違いを誘発するように文章を並べている。

 ぷしゅうと空気音がして、ドアが開く。三日ぶりの外気が流れ込んでくる。光の眩さに顔をしかめながら外に出ると、かつて見た灰色の世界が一変していた。積み重なった屍も、崩壊した文明も存在しない。

 僕たちが出てきたのは、美しく整備された公園のような場所だった。

 声を失っていた。僕だけじゃない、二宮もだ。確かに、確かに僕たちがこの場所に入った時は、世界は崩壊していたはずだ。だが、出てきたら全てが変わっていた。違う世界に飛ばされたのだと言われても信じてしまうほどだ。

 動けずにいる僕たちに、近づく七つの人影があった。気配を感じて振り向くと、そこにいたのは。

「お久しぶりです。社さん」

 真ん中にいた男が、声をかけてきた。立派に成長しているが、間違いない。

「七尾、君、なのか」

 ええ、そうです。七尾は穏やかに微笑んだ。魔王と呼ばれた男とは思えないほどの柔らかな物腰だ。では隣にいる七尾によく似た女性は武庫川か。市川と、彼女が体を支えている年配の男性が本物の二宮だろう。後ろにいるのが実川に五木、米澤だ。

「社さん、どういうことですか。魔王を殺したというのは、嘘だったのですか?」

 二宮が、いや、同期能力を持つ男が尋ねた。

「いいえ。間違いなく、社さんは魔王を殺したんですよ」

 武庫川が言った。

「え、だって、確か、七尾という男が魔王だときいていたのですが」

 男の言葉尻が徐々に小さくなっていく。

「社さんは、宴に集められた私たち全員を救出し、宴を破綻させたんです。宴を開いていたのは当時の社会的地位のある権力者たちです。彼らの地位をはく奪し、私たちが乗っ取りました。後は簡単です。芋づる式に宴参加者をあぶりだし、同じように地位をはく奪していきました。結局のところ、彼らが能力者の排斥を意図的に広めていたので、彼らがいなくなり、能力者の数が徐々に増えていくにつれ排斥の声は自然に消えていきました。つまり、魔王という存在と、魔王が存在した時間軸の世界を殺したってわけです」

 僕たちが生きていた最初の世界は、宴で姉を失った七尾が、怒りから能力を覚醒させ、世界を滅ぼす魔王と化した。

 けれどその未来の記憶を持ったまま過去に戻った僕が彼らを宴から脱出させたから、進むはずだった最初の世界が消え、彼ら全員が生きている世界に切り替わったということだ。その世界は、人類と能力者が上手く共存できている。

「と、偉そうに語りましたが、本当なんですか? この虫も殺せないような弟が、人類を破滅させようとしたって」

 武庫川が七尾を小突く。やめてよ、と気弱な抵抗を見せる七尾に、魔王の片鱗はない。過去が切り替わったから、現在に影響が出ているのだ。彼らには当然、魔王の世界の記憶はない。それでいい。あんな苦しい記憶など、認識できないならそれに越したことはない。

 シュレディンガーの箱庭から出た僕たちの記憶も、この幸せな未来を観測した瞬間から塗り替えられていくことだろう。

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カルネアデスの天秤 叶 遼太郎 @20_kano_16

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