現代語訳「葛ノ葉物語」

春見悠

「葛ノ葉物語」

 昔、村上天皇の世、摂津の国に安部保名あべのやすなといった人が住んでいました。

 保名は人々とは異なるものを好み、あまりそれを披瀝ひれきすることもしません。彼、保名は可愛いものが好きでした。可愛らしい少女や、動物を愛でることに大層執心しておりました。可愛らしい少女を愛でる者は、都でときめく光源氏がもっぱら名を馳せているが、動物を愛でるということは、あまりなく、あって貴族の女性が猫を飼うといっただけでした。

 彼は特に動物の耳や尻尾に注目し、可愛らしい女子に耳や尻尾が付いてたら、という詮無き夢想することもありました。彼は殊更、狐に関心を強く寄せていました。


 ある日、信太大明神に参詣し、禊をするために池のほとりにいくと、狩人に追われ傷ついた狐が逃げていきました。

 保名は思います。あんなに可愛く、さわり心地の良さそうなふさふさとした尻尾の狐を襲うとは、なんたる不徳。今の自分に野太刀があれば、狩人など一太刀に切り下げるのに。

 このように保名はふさふさと可愛げのあるものが好きでした。

 しかし、何も持たず、狩人と相対することもできず、保名は狐を匿い、見つかる前に逃がしてやりました。追ってきた狩人は、逃がした姿を見て、保名を責め立てました。文句を言い募る粗野な狩人に対して何を言っても、如何に狐が美的感覚において情緒ある生き物であるか語ったとしても、無駄であることは明白でした。保名は無言に、理解のない人間をじっと見つめてやりすごしていました。しかし苛立ちの消えない狩人は口上だけではなく、乱暴によって怒りを表現しました。逃げる間も無く、保名は身体に傷を負い、命辛々逃げ帰りました。内心、おまえみたいなやつは狐の災い『えきのこっくす』にかかってしまえと思いました。

 いくら恨めしく思えども、傷は治りが悪く、数日後も引き攣るような痛みに悶え過ごしていました。もちろん、彼に後悔の二文字はなく、狐を守った満足感で飯が食える、といった気の持ちようでした。


 そうしていると、保名のもとへ、若い女が訪ねて来ました。

 彼女は葛ノ葉といい、甲斐甲斐しく保名の傷の手当をしました。保名はなんら持つものではない自分になぜこんなにも美しい女性が、突然やってきたのか、不思議に思いました。そして、それが自然であるかのように、美しい葛ノ葉にも耳と尻尾を生やすといった夢想を保名はしていました。そうして保名は思うのです。ああ、葛ノ葉に耳と尻尾があればな、と。金色に輝くふさふさとした尾をさわりたい、と。

 ふと、魔が差したように、葛ノ葉にこのように言ったこともありました。

「ああ、葛ノ葉、おまえに狐のふさふさとした耳と尻尾があればな」

 えっ、と振り返る黒髪の美人の頬は若干引き攣っているように目に映りました。保名は、いかんいかんと、自分の非常識さを反省するとともに、やはりそのことを惜しく思うのでした。なんでもない、忘れてくれ、と言うと、葛ノ葉は穏やかに微笑しました。

 やがて保名の傷も癒え、情が深くなった二人は仲睦まじく年月を過ごし、可愛らしい子供も設けました。


 六年目のある秋の、晴れ晴れとした陽気のいい日、葛ノ葉は、庭に咲く美しい菊に心を奪われ、己が狐であることをつい忘れ、うっかり正体のしっぽを出してしまいました。彼女が我を忘れるということは珍しいのですが、このときの菊のありようには、大変あわれに感じたのです。

「なんと!」

 その姿を見てしまった保名は驚嘆しました。やはり、理想はこんなにも近くにあったのではないかと、思ったのです。それは見てしまった、というより、やっと見ることのできたという気持ちでした。そんな風に思うことから、やはり保名は異端な人物だったのでしょう。しかし、そんな彼の内心に係わらず、葛ノ葉にとってそれは大変に困ったことでした。物の怪は人の世では嫌われるもの、存在が認められるものではありません。

 葛ノ葉は、自分が狐であることが判明しては、このまま暮らせないと思い、一つ、歌を残して信太の森へと去っていきました。


 恋しくば たずね来てみよ 和泉なる

     信太の森の うらみ葛ノ葉


 不幸であったのは、彼女が狐の身であったことでもなく、ふとしたときに尻尾が出てきてしまったことでもありません。この世が人の例を尊び、例外から目を背けるという、哀れな集団によって形成されていることが不幸であったと言えます。例に漏れれば、揶揄や忌避の対象とし、それから何がもたらされるのかも理解しようとしない。彼彼女には自覚が足りなすぎる。そういった無自覚さから、保名や葛ノ葉は不幸を甘受しなければいけませんでした。


 保名と子供は葛ノ葉を求めて信太の森へと行き、彼女の姿を捜し歩きました。

 日の光も細々とし、しん、と静まった森の奥深くまで来たとき、保名がふと振り向くと、一匹、木立の前に、そっと佇む狐の姿があった。すぐにその狐が葛ノ葉であることに気づいた保名は狐に声を掛けました。

「葛ノ葉、そうなんだろう。そうなら、耳と尻尾はそのままで、もとの姿になってくれ」

 保名の声に、静かに応じるように、じっと動かなかった狐は、さっと木立の裏をくぐると、出てきた姿は一匹の狐ではなく、一人の女、保名がよく知っている葛ノ葉でした。耳と尻尾はありませんでした。内心悲願の成就に失敗を覚えつつ、そうした葛ノ葉の真面目さを喜びながら、二人は相対しました。

 保名と葛ノ葉は視線を絡ませ、お互いの気持ちになんら変わりないことを無言のうちに理解します。

 葛ノ葉は二人に近づくことなく、袖で頬を伝う涙を拭うと、今まで言うことのなかった己の事実を滔々と語りました。

「わたしは、この森に住む狐です。保名様のやさしい心に惹かれ、あなたと一緒に居たいと思い、今まで暮らして来ました。一度、わたしが物の怪であることが知られてしまった以上、人の世には居られません」

 保名はそれは弁明の利くことではないことを、すでに葛ノ葉が決意してしまったことを悟ります。それでも、彼女と過ごした日々を思うと、諦めようにも諦められるものではありません。耳と尻尾、狐そのものも諦められるものではありません、断じて。子供も堰を切ったように、葛ノ葉に寄りすがります。葛ノ葉は仕方がないと言いながら、少し前と変わりない仕草で子供の頭を撫で、抱きしめます。ですが、落ち着いてきた子供をしゃんと立たせ、そっと肩を押して一歩下がらせると、保名を一目見て、さっと翻り、気づいたら狐の姿で、森の奥に駆けていきました。

 保名は人生で唯一の理想の女性であり、狐である葛ノ葉を目に焼き付けました。


 この子供こそ、陰陽道の始祖であり、至高の陰陽師として名を馳せた安部晴明だと語られています。そして、人ならざるものがもつ耳や尻尾を持つ子供が後の世に極稀にいたとかなんとか。科学によって物の怪が排された世でも、耳や尻尾を持つ女子が描かれる世である。いてもおかしくはないでしょう。

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現代語訳「葛ノ葉物語」 春見悠 @koharu

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